facebook twitter hatena line google mixi email
★お気に入り追加


  • 68
  • 青鹿φ
  • 2012/01/27(金) 22:00:16
>>30
管損壊がない自然流下の水道は大丈夫だったようです。
風呂が使えなかったので使用量が少なく、ポンプアップでも貯水槽分はもったと思う。

>>31>>27 の続き)
沿岸の学校の頃少し強い地震あって、早下校の時がありました。
今から思うと海方面へ帰るのは危険だった。

>>32
職権を乱用?した給油の様子はこちらでも、、、。
中にはそのような行為を却下したというGSマンの話を聞きましたった。

ここまで見た
  • 69
  •  
  • 2012/01/27(金) 22:38:55
戸棚から食器が盛大に落ちたのはあの2回だけ

窓が丸くなって柱が斜めに見えた時は、このまま押しつぶされて死ぬんだなと本気で思った

ここまで見た
  • 70
  •  
  • 2012/01/27(金) 23:34:20
>>68
ああ、そうだったんだ・・・・うちは自然流下だったのかw
でも、地震から3日後くらいに止まった記憶があります。
その前日から、「止まってない水道も止まるらしい」という話を聞いていたので、
水を溜めておいた。

そういえば、一週間近く風呂に入ってなかったんだなぁ。
周りも同じだったので、気にならなかったが。
普段は客入りもボチボチのワゴン焼き鳥屋なんかには、行列出来てましたね。

ここまで見た
  • 71
  •  
  • 2012/01/28(土) 11:27:29
北海道十勝地方在住の者です。陸前高田に知人がいます。

震災の11日には知人とは全く連絡がつきませんでした。陸前高田の様子もこの時点では全くの不明でした。
12日の朝になって陸前高田が壊滅状態と知りました。知人の安否が全く不明なので、陸前高田に行って見ることにしました。

水と食料と衣料と毛布などを車に積んで午前中に十勝を出発しました。
苫小牧東港が津波で浸水したので苫小牧東港は利用できないのですが、臨時で小樽から出航するとの情報があったので新日本海フェリーに電話をしたけれど話し中で全く繋がりません。
仕方が無いので函館から青森に渡って行くことにして函館へ向かいました。

函館についてガソリンを入れようとスタンドに行くと、20リットルまでしか入れられないと告げられました。
これはちょっとまずいと思い、ホームセンターでガソリン携行缶を購入しました。ガソリン携行缶は売り切れ寸前でした。
とりあえずガソリン携行缶にもガソリンを入れて、フェリーターミナルへ向かいました。

フェリーは津波警報が出ている間は出航しないとのことでした。
夜の12時頃になって津波警報が注意報に変わり、青森へ向けて出航しました。
早朝のまだ暗いうちに青森へ着いて青森市郊外のコンビニ寄ってみると、食料品等がかなり品薄になっていて通常の状態でないことが感じ取れました。

4号線で盛岡方面に向けて走っていて明るくなってくると、スタンドで車の行列ができています。ただならぬ雰囲気です。
どこのスタンドも行列ができていました。盛岡市の到着してガソリンを入れようとスタンドの行列に並びました。
3時間並んでガソリンを入れました。だけど10リットルまでの給油制限。ガソリンを入れ終わったら昼過ぎでした。
盛岡市周辺の信号機の多くは点灯していませんでした。

ラジオでは被災地域へは通行制限をしていると放送されていたので、陸前高田へ向かうの躊躇し盛岡付近の道の駅で車中泊。
道の駅は停電していました。トイレの水も断水してました。
翌14日早朝の真っ暗な時間に、道の駅の自販機の明かりがいきなり点きました。電気が回復したようです。

被災地域への通行制限は相変わらず続いているようでしたが、とりあえず陸前高田へ向かうことにしました。
花巻あたりから海の方へ向かいます。
東和で検問っぽいのが遠くに見えたので、検問を迂回するルートをナビで探して進みました。難なく検問をパス。

途中の小さなスタンドで行列に並んでガソリンを補給し大船渡経由で三陸道を通って広田半島に行きました。
広田半島に入って広田町方面に向かう途中に津波警報とかで通行止め。消防団の方々が交通整理をしていました。
通行止めの間、小高いその場所から見えた景色は見たこともないような瓦礫の景色。
待つ間、開通を待つ自衛隊の若い人と雑談。その人は半分私用のような形で広田町の実家へ行くということでした。

津波警報が解除され、広田町方面へ向かいます。瓦礫の中の応急的に片付けられてなんとか通行できるようになった道を進みます。
なんとか知人宅の付近まで行きましたが、電柱が倒れて道を塞ぎ、そこから進めません。
そのへんにいた人に知人のことを聞くと、その人は偶然にも知人の従兄弟でした。そして、先ほど会った自衛隊の若い人は、その人の息子のようです。
その人に連れられて山道を歩いて知人宅へ到着。家は無事で、そこには被害にあった親戚の方が10人近く居ました。水は井戸水を利用していました。食料も何とか足りているようでした。石油ファンヒーターしかなかったので暖房に困っていました。反射式石油ストーブを持って来なかったことを少し後悔しました。
少し知人とお話をして広田町を出発。

15日朝に秋田からフェリー乗ろうと思ったら、その日は夜に秋田発だったのでフェリーターミナルで夜まで待って乗船。16日早朝に苫小牧東港到着。午前中に十勝に到着しました。

ここまで見た
  • 72
  •  
  • 2012/01/28(土) 15:20:18
>>71
外からの様子というか、臨場感があって興味深いです。
直後は函館すらガソリンだめだったんだ・・・。

ちなみに私は17日の山形〜新潟〜岐阜で、新潟のはずれ辺り〜新潟市内一部でやっとガソリン満タンOKだった。
そこから西日本の親戚宅へ。

また仙台にすぐ戻ったけれど、名古屋の町並みの「普通さ」と東北の惨事とのギャップでしばらく苦しんだ。

ここまで見た
  • 73
  •  
  • 2012/01/28(土) 15:35:25
緊急地震速報はドコモもauも届いた@盛岡
携帯が大騒ぎして、5〜7秒くらい後に揺れ始めたね。
はっきり覚えてるから間違いない。

ここまで見た
  • 74
  • 萌きゅん89φ
  • 2012/01/28(土) 16:10:29
私は関東在住ですが、本震の時はドコモのエリアメール(緊急地震警報)は来なかった気がします。
色々ありすぎて忘れてしまっただけかもしれないですけど。

余震で何回もエリアメールが来たのは覚えてます。
夜中に来ることが多かった気がします。

ここまで見た
  • 75
  • RareBear77
  • 2012/01/28(土) 16:45:42
>>74
乙っす。

#1を更新したので、業務書き込みー。

ここまで見た
  • 76
  •  
  • 2012/01/28(土) 18:58:31
ラジオは災害時に役経つね。
携帯やネットは停電や回線パンクして使えないだろうし。
あと、テレビだとスポーツの中継など放送時間超えると
打ち切られるし。
皆してスマートフォンとかって馬鹿らしい。
通信障害が多いらしいな。
便利すぎるものもどうかなと・・。
思考力衰えているらしいとか。

ここまで見た
  • 77
  •  
  • 2012/01/28(土) 19:53:05
地震時には車使うよなっていうのが、肌でしみた。
その当時から、車手放していたので、ガソリンネタは関係ないが、
道路は大渋滞。
あのような状況・・・・ガソリン待ちしている時間あるなら、
チャリで職場に逝った方が早いって。

ここまで見た
  • 78
  •  
  • 2012/01/28(土) 20:31:40
あのガソリン渋滞は、アイドリングした分を給油すんのか?って感じだったなw

ここまで見た
  • 79
  •  
  • 2012/01/28(土) 20:52:07
ラジオ福島で「どんぐりころころ」を聞いた時は泣いた。

ここまで見た
  • 80
  • 青鹿φ
  • 2012/01/28(土) 20:58:30
>>36
実状と正反対な報道は困ります。
それにしても片道200kを車通勤!?、、、実害が続いてますね。

>>37
安全と強調されるたびに不安が増したあの頃から今に続いて、、、。

>>38
そうですね、1年を機に身近な方法で今を表現できればいい。

>>40
仮面ライダーを歌う子供さんがミラーとなって40さんの心意気を伺えました。


>>70
自然流下でも浄水池でろ過したり殺菌する時電源が必要なのかも、、、。

ここまで見た
  • 81
  •  
  • 2012/01/28(土) 21:05:04
ベタだがサイモン&ガーファンクルの明日にかける橋には泣かされると同時に励まされた。

ここまで見た
  • 82
  •  
  • 2012/01/28(土) 21:19:34
俺は「You Raise Me Up」を聴いて号泣したよ・・・


When I am down and, oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be
Then, I am still and wait here in the silence
Until you come and sit a while with me

You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, to walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up...to more than I can be

ここまで見た
  • 83
  •  
  • 2012/01/28(土) 21:22:17
三日目くらいにラジオから流れてきた「震災後初めて聞いた歌詞のある曲」が「100%勇気」だった。
これかアンパンマンのマーチだろうなと思ってたから、あまりのベタさに笑ってしまいそのあと涙が出た。
まぁがんばるかーと思えた瞬間でした

ここまで見た
  • 84
  • 稀熊77
  • 2012/01/28(土) 21:37:18
こそ・・・こそ・・。


おらは・・

「フラガール〜虹を〜」だったわ。
♪大地に光をぉ〜〜、で涙が出た。

ここまで見た
  • 85
  • 青鹿
  • 2012/01/28(土) 21:54:36
>>82
「You Raise Me Up」の日本語訳を上げときますね。

落ち込んで そして Oh 魂が とても疲れた時
トラブルが来て ハートに 重荷を背負った時
その時は じっとし そしてここで待とう 静かに
そうすればあなたが来て しばらく座ってくれる 一緒に

あなたが立ち上がらせてくれる そうすれば山の上に立つことができる
あなたが立ち上がらせてくれる 荒れた海の上を歩くために
強くなれるよ あなたの肩につかまれば
あなたが立ち上がらせてくれる... 自分で出来る以上に
:

曲を聴きたい時は http://www.youtube.com/watch?v=aJxrX42WcjQ


ここまで見た
  • 86
  •  
  • 2012/01/29(日) 02:36:32
あの日、4才と1才の娘達を乗せて車を運転中にラジオと携帯同時に緊急地震速報が鳴った。@仙台市泉区
ハザードをつけて路肩に停めようとした瞬間、地震が来た。なぜかパーキングに入れずブレーキを力いっぱい踏んで
「大丈夫だよ〜すぐおさまるよ〜」と妙に明るい声で子達をなだめました。
揺れがおさまり、後部座席に移った瞬間、最強クラスの地震。
泣き叫ぶ4才の娘に、大丈夫だよ、お母さんがそばにいるから絶対大丈夫、と何度も叫んでいたのを覚えています。
目の前の図書館からは、泣きながら飛び出してきた学生さんや、利用客の人が沢山出てきた。

自分は震災後ラジオで流れていて初めて元気付けられた曲は、
はっぱ隊のYATTAでした。
「生きているからラッキーだ」って本当にそうだよな、と思った。涙が止まらなかった。
明日はワンダホー、に勇気を貰えた。
それを聴いてから暫くは、心が不安で押しつぶされそうになると、「水飲んだらうめ〜!」と言って家族に「YATTAー!」と返して貰ったり、自分が返したり。
ネットが繋がるようになった頃YoutubeでPV観て、笑いながら泣いてた。

ここまで見た
  • 87
  • 萌きゅん89φ
  • 2012/01/29(日) 08:57:00
私は震災からまだ日が浅い頃は、バラエティー番組が再開されても、すぐには楽しむ気持ちになれなくて、音楽番組をよく見て元気をもらっていました。

特に印象深かった歌は、フジテレビのチャリティー特番みたいなやつで森山直太朗さんがアカペラで歌った「さくら」です。ものすごく力を感じました。

ここまで見た
  • 88
  •  
  • 2012/01/29(日) 09:58:00

ACの「あいさつの魔法」を聞くと今でも当時を思い出して悲しくなる。

ここまで見た
  • 89
  •  
  • 2012/01/29(日) 13:33:18
停電にならなかった地域の人達は、津波が民家道路車を飲み込む映像に人々が流されるところも映り、なんという事態がおこったんだ…
と、絶句したらしい
停電で見てないあたしはそんな惨事がおころうとする危機感もなかった

ここまで見た
  • 90
  •  
  • 2012/01/29(日) 13:34:29
鋭意、遠距離恋愛中なのでaveの曲は効きました

あのACの曲、言われるまで忘れてたけど、思い出したら原発爆発の瞬間とかヘリでの水投下とかフラッシュバックして気分悪くなった
軽くトラウマ化してるかも

ここまで見た
  • 91
  •  
  • 2012/01/29(日) 14:06:01
当日のラジオで浜に数百人の遺体が〜ってのを聞いて想像しただけでガクブルだったな。

ここまで見た
  • 92
  •  
  • 2012/01/29(日) 14:21:40
津波は到達しなかった方面の若林区在住です

地震の瞬間はコンビニにいて、携帯から(その後何度も聴くことになる)緊急地震速報の
音が鳴るのと、ほぼ同時にコンビニの窓が「カタカタカタ」と鳴ったのがはっきり記憶に残ってます
で、「あ、地震かな」と思って外に出た瞬間に大きいのがグラグラっと…

自分で体験した大地震では、'83年の日本海中部地震に弘前市で、'94年の三陸はるか沖地震に
八戸市で遭遇してるのですが、いずれも地震のときは屋内にいたので、一応「外」で揺れを
体験したのは初めてでした
この時は、バス待ちの時間つぶしにコンビニにいたので自宅からそんなに離れておらず、
とにかく家に戻ろうと、揺れに足を取られながら必死で歩いてました

うちの中は家具などがひっくり返って無惨な状態になってましたが、とりあえず家族に人的被害はなし
すぐ近くに住んでいた親族も無事でした

とは言え、ひっきりなしに来る余震に落ちつかず、片付けも進まない中、周囲が暗くなってきたのに
停電は回復せず…(結局、停電は4日くらい続きました)
震災当日の夜、自宅の布団で寝ることができたのだから、他の被災した方々に比べたら贅沢なんて
ものじゃなかったと思いますが、この夜はいくら布団をかぶっても体が温まらない感じで、余震も
激しいし、ほとんど眠れなかったことは覚えています

確かこの時点では、津波で大惨事が起きていることはわかりませんでした
携帯は警報や防災通知メールであっと言う間に電池切れになり、普段使っていないラジオは、この日は
とても探し出せる状態ではなかったし…

ここまで見た
  • 93
  •  
  • 2012/01/29(日) 14:26:37
で、翌日からは、とにかく片付け三昧と食糧確保のために走り回っていました
10時開店予定のスーパーに8時ごろから並んだり(それでも買えるものは一家族様10点限定、とかでした)

うちはアパートで、ガスはプロパン方式、断水はなかったので、なんとか震災翌日から煮炊きは
できてました
近所の親族のところが都市ガスだったので1ヶ月ガスが使えず、そっちの食事も差し入れしたりして
いたので、とにかく震災からしばらくの間、食糧問題が差し迫った悩みで…あと、ガスは使えては
いるけれどボンベ内の残量がわからないのが不安で仕方がなかったです
この時期は、つくづく反射式ストーブの有り難みを実感してました(引っ越しのたびに処分を検討しては
保留して押し入れに押し込んでいたのですが、ほんとに処分しなくてよかった)

津波その他、各所の被害については、ラジオではやはり概要くらいしかわからず、停電が回復して、
テレビを見られるようになってからようやく、尋常ではないことが実感できた、という感じです
「ぽぽぽーん」を始めとするACのアレは、1日もしないうちに聴くのも目にするのも苦痛な状態に
なったので、かなり長い間、NHK以外のチャンネルは見てなかったと思います
あと、ニュースなどでは「若林区」全体が津波で壊滅した、的な報道が多かったので、県外の知人からは
かなり安否を心配するメールや電話が来ました
バイパスの内側までは津波は来なかった、という話をしてもいまひとつピンとこなかったようで…

これは心情的なものですが、最初の震災は突然のことだったので、ショックを受けつつもわりと冷静に
対応できていたような気がします
どっちかというと、4月に起きた大きな余震の方で、気持ち的に落ち込んだ感じが…
またあのクラスの余震が来るのでは、という恐怖感とか、その他もろもろ

ここまで見た
  • 94
  •  
  • 2012/01/29(日) 17:05:14
地震当日は子供達二人を迎えに行くのが精一杯@青葉区。
下の子は15分程度で到着出来たからクラスでも一番乗りで引き渡してもらえた。
帰り道の生協が屋外販売してたので電池や水、菓子パン等を買い込んだ。
ところが上の子を迎えに行くバイパスが大渋滞で地割れもしてるし結局3時間30分もかかった。
カーラジオからは大津波が沿岸を襲うニュースが続々入り、息子の学校も宮城野区だったので
生きた心地がしなかった。20時を過ぎてやっと引き渡しが済み、幸いにも学校までは津波は
到達してなかったのでとにかく急いでその場を離れた。
帰りはバイパスの下り線はスイスイで自宅までは20分足らずで到着。家に入って散乱した食器や
本が危険なのでその夜は毛布を持ち込んで車中泊。死ぬ程寒かったし余震も頻発して絶望感が
ひしひしと感じられた。その夜の満天の星空は一生忘れないと思う。
深夜遅くダンナが帰宅して窓をゴンゴン叩かれたのには腰抜かした。

ここまで見た
  • 95
  •  
  • 2012/01/29(日) 17:28:56
@ひたちなか市
職場にいた。
揺れが長いのでプロパンガスの元栓を閉めようと外へ出たところで地響きがして大きな揺れへと変わった。
漫画や映画で見るように地面が裂けるのでは、と恐怖でいっぱいだった。

周りの家々の瓦が崩れるのが見え、職場に目をやると砂埃が立ち上がっている。
職場は全壊。あの光景は忘れられない。復旧は無理とのことで、結局二ヶ月半無職状態に。

一番苦労したのは断水で、配給の水をもらう列に並ぶのが日課になり、
10日目にようやく通水して入った自宅の風呂の温かさに涙が出そうになったよ。

停電も長かったので、津波や原発事故の映像を見たのも震災後かなり経ってからだった。

ここまで見た
  • 96
  •  
  • 2012/01/29(日) 17:45:04
いわき在住ですが
被害もそこまでひどくもなくて、とりあえず普通に生活できていますが
母の言った 

なんで福島ばかりこんな目に合わなければならないの

と言う言葉がずっと頭に残っています

ここまで見た
  • 97
  • まいね
まいね

ここまで見た
  • 98
  • 青鹿φ
  • 2012/01/29(日) 21:02:20
>>42
ググってみると目標は県立病院、30m手前まで迫った公園は北小の近くでしょうか?
(違っていたらごめんなさい)

>>43-44
去年の悲しい日が誕生日、、、今年は穏やかな気持ちで迎えてくださいませ。
「2011年は平成23年、その時自分は○○才」、が焼き付いてしまいました。

>>45
オラも連絡とれない沿岸の姉家族がいて、、、
すぐに行って何か手伝いたい気持ちを抑えたのが、約2週間の交通規制(通行止め)でした。

>>47
立体駐車場からの脱出が目に浮かびます。
信号の消えた交差点渡るのが怖かったですね。

>>49
やめろと止めたけれど、、、どうせ貸すなら油の心配ない車を、、、
社長さん自分を責めないでね。

ここまで見た
  • 99
  • 青鹿
  • 2012/01/29(日) 21:12:35
連投失礼。

>>97
その種のレスは
東北大震災スレ http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1311125296/l50
原発スレ http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/3
がいいんじゃないか?

ここまで見た
  • 100
  • まいね
まいね

ここまで見た
  • 101
  •  
  • 2012/01/29(日) 22:09:32
>>98
42です。
最初に避難した場所は地の森という地区で路上に車を停めて立っていました、波が見えてそこから走って上の小さい公園みたいな場所に逃げました。30mというのは最初に立っていた場所からです。(なかなか上手く書けなくてすみません。)
その後、消防団の方の誘導に従って45号線に出て私道のような少し細い道から県立病院まであがりました。

ここまで見た
  • 102
  •  
  • 2012/01/29(日) 23:53:33
地理的に被害は少なかった青森県上北方面です。

運動施設に勤務。当時はトレーニングルームに3人男性。
温水プールにご年配のご婦人3人と初老の男性2人。

いきなりゆれて、すぐに治まるのかな?考えてる途中から
販売物を入れていたショーケースが尋常じゃない音を立て始めた。
「これはやばい!」と思って急いでプールに行き、大きな声で
「地震が来ています。大きいのであわてずにプールから上がって下さい〜〜!!」
と言っても、入水しているお客様は「???」という顔で私の言っている言葉を
理解していない。

経験してみないと判りにくいのですが、プールを歩いていたり、泳いでいると
地面からの揺れは判らないです。もともと揺れている様な状態で運動している
からです。
「大したことないさ〜」と笑顔のお客様、1秒後と大きくなる揺れ、焦る私。

「とにかく出てください〜〜!!」と言っているとプール施設全体がギシギシと
異音を出し始める。揺れはMAX、私は非常口に走り扉を開け、やっと非常事態に
気がついてプールから上がるおばちゃんたちを誘導。

外は春には未だ早い東北の3月。わずかに雪が残る駐車場に
水着のまま避難する事になりました。
外に出て一番年配のおばさんに抱きつかれながら、大地が大きく揺れる中、
外のピーンと張り詰めた空気を痛いほど頬に感じていました。

大地の怒りって言うのはおかしいのですが、人の力の及ばない
大自然のエネルギーに畏怖を感じた人はこの中にいませんか?

ただ抱きしめあうことしか出来ない駐車場の私達の足元には非常口の
扉の向こうのプールから大揺れによってカクハンされた水が
いつまでもいつまでもいつまでも流れ続けていました。

余震の治まらない中、皆さんを着替えさせ、無事帰宅を確認して一安心。。
職員は通常9時までの勤務でしたが、停電のため5時で営業停止となり自宅待機。

自宅はたいした落下物も無く、ガスはプロパン、ストーブも反射式が3台あり、
食料も蓄えが相当数ありました。
ただガソリンだけは買えず、3月いっぱい自転車や徒歩で通いました。
プール用の重油も被災地優先で買えず、4月までジムだけの営業。
職員も交代で勤務。今でも避難のシュミレーションを毎日脳内でする癖がついた。

こんな感じでした。内海(陸奥湾)側でしたので津波の被害は無かったですが、
テレビを2日見れなかったので初動での映像は全く見れませんでした。
12日、まさか来ないと思っていた朝刊の新聞見開きの津波写真に絶句した事が
昨日の事のように思い出せます。

長くてすいませんでした。
皆さんのご健康を心から祈ります。

ここまで見た
  • 103
  •  
  • 2012/01/30(月) 12:23:24
>>102
スイミングウィング三沢 乙

ここまで見た
  • 104
  • 95
  • 2012/01/30(月) 12:23:55
>>102
被害が少なくてなによりでした。

こちらでは市内のスポーツクラブで一人が亡くなられました。
当時プールに入っていて、天井が落下して犠牲になられたと聞いております。
裸同然の客の誘導は難しいものがありますね。

ここまで見た
  • 105
  • 青鹿φ
  • 2012/01/30(月) 19:32:33
>>50-52
停電になっても、薪ストーブが家族団欒に一役買ったような、、、。
いつも在る所にあると落ちつくんだなーと思いました。

>奥州FMは7分?ごとに信号を切り替えながら放送していた
ラジオから流れる信号音のことかな???

>>57-59
大規模停電の中、本部や他分団とのやりとりはどうだったんでしょう?
(発電機とか無線機があるんだね)

>>63
仙台が闇に、、、。
そちらのほうは苦竹・原町近いから自衛隊の動きが見られたのでは。

>>66>>29 の続き)
補足乙です。

>>69
夕方だったら店舗や家庭で火を使ってたでしょうね。


>>101
こちらこそ低読解で、、、ありがとうです。

ここまで見た
  • 106
  • 青鹿
  • 2012/01/30(月) 21:10:43
>>71
北海道から困難気にせず陸前高田市広田町まで12〜16日。
フェリーストップ・給油制限・被災地域への通行制限、、、よく行けましたね。

>>72
いわき市の伯父が同じ事言ってて、山形でだめ(制限)で新潟まで行って満タン入れた・・・と
(伯父は車がハイブリと言いたかったらしい)

>>76-78
TVはこれから変化しそうラジオは生き残る、と思う。
あの時から(原)チャリ移動を考えています。

ここまで見た
  • 107
  • まいね
まいね

ここまで見た
  • 108
  •  
  • 2012/01/30(月) 22:40:14
>>94
…危険なのでその夜は毛布を持ち込んで車中泊。死ぬ程寒かったし余震も頻発して絶望感がひしひしと感じられた。その夜の満天の星空は一生忘れないと思う。
>>102
…大地の怒りって言うのはおかしいのですが、人の力の及ばない大自然のエネルギーに畏怖を感じた人はこの中にいませんか?

私も北関東にて、>>94さんと同じ理由で車中泊しました。
絶対津波が来てるはずの実家と連絡が取れない中、ラジオから流れる情報で途方に暮れました。
それでも大地は容赦なく揺さぶり続ける。
ただうろたえるだけの私達を嘲笑っているかのように思えました。
暗闇の中見た星空も翌朝の太陽も我々とは関係なく輝いていて、人間の小ささを思い知らされました。
以上、>>102さんと似たようなことを思ったのでレスしました。

ここまで見た
  • 109
  •  
  • 2012/01/31(火) 00:09:34
>>108
大自然の脅威は感じたが、毎晩行列をなして家の前を走って行く自衛隊の車両や
電力会社、ガス会社の車列を見ていると、それに負けない日本人の強さも感じた。
震災後、バス停の前で不定期運行のバス待ってると、通り掛かった車が声を掛けて
乗せてくれる事も少なくなかった。

マクロス7の「LIGHT THE LIGHT」聴いて泣いた。

ここまで見た
  • 110
  • まいね
まいね

ここまで見た
  • 111
  • まいね
まいね

ここまで見た
  • 112
  • 青鹿φ
  • 2012/01/31(火) 19:06:13
寒さにまして大雪です。このままでは生活にも影響が出てきそう。
凍結に注意、除雪に安全確保しましょう。
(スレ違い)

>>81-84,87-88,90
メロディもちろん、いつもより歌詞のほうが耳に入りました。
なぜか今の自分にぴったりだ、なんて思ったりして。

>>86
≒10分間に大きいのが3つ来ましたからね。
身近な人がいれば不安解消するような、、、。
自分の場合左折ウィンカー停車したのですが、そのあとパーキングに入れたかどうか、忘れてしまった。

>>89,91
新聞はとってないしラジオだけからでしたので、2日後TVを初めて見た時は声が出なかった。

>>92
若林区?の蒲生海岸でしたかあそこは外海もろの砂浜と記憶。
ライフラインとしてプロパンガスは注目ですね。
(あと反射式ストーブ)
TVを見た時のこと、4月余震の頃の落ち込み、、、92さんと同じ気持ちでした。

ここまで見た
  • 113
  •  
  • 2012/01/31(火) 21:08:09
>>109さん
私も力強さを感じた事があります

こちらは宮城県北ですが、確か12か13日の夜中におびただしい数のサイレンを聞きました
市内の消防車・ポンプ車・救急車かな?と思ったら
秋田から高速降りて沿岸部に向かう車列だったようです。

電気が消え、人の姿も消えた内陸の田舎町です
高速降りて沿岸方面に向かう道があるんだと思います。
がんばれがんばれ、助けてあげて
ここは大丈夫
そう願って見送りました。
沿岸近くにキャンプを張れない自衛隊の方々もたくさんうちの町に来てました。同じ気持ちで見送ってました。


あと、うちの五歳児は自衛隊さんが大好きになりました
車ですれ違う時に
自衛隊さんを書いた絵を見せてました。
疲れてるのに合図してくれるんです
恥ずかしかったんですが手を振ってくれると嬉しかったですね。
彼らが頑張ってたおかげなんだっていつも思ってます。
子供は自衛隊さんになる!と言ってます
女の子ですが、頑張って欲しいもんです。

ここまで見た
  • 114
  •  
  • 2012/01/31(火) 21:32:41
自衛隊、広域消防、警察官の方々には、いくら感謝しても足りないよね。
3日後くらいには、いろいろな地域からの緊急車両が来て頑張ってた。
県が緊急車両用のガソリンを確保してたみたいだけど、それに文句言ってる人が情けなかったよ。
「何であいつらばっかり入れられるんだ!!」
ってね。
「出勤出来ない!!クビになったら責任取れ!!」
とか言ってる奴もいた。
何でこうなのかね・・・

ここまで見た
  • 115
  •  
  • 2012/01/31(火) 22:43:17
@東松島
自衛隊の車列にはサンダーバードのテーマ
警察の車列には西部警察のテーマ
消防の車列にはバックドラフトのテーマがそれぞれ頭の中でながれてそのたび涙した。

ここまで見た
  • 116
  •  
  • 2012/01/31(火) 23:37:50
>>114
逆に考えると、こういう状況になれば誰が誰なのか分かるという事だろう
品性があるのか無いのか・・・・・・・

ガソリンスタンドでの醜い争いは、わりとよくあったらしいな
スーパーなんかでも人数や品数制限して頑張ってたが、万引きも多かった
被災地の火事場泥棒然り、こういう連中に生きている価値はあるのか
万代に忍び込んだ育英野球部なんかも、実害ないだけで無罪放免
あの有名高校にして、この程度の品性だったわけだ

ここまで見た
  • 117
  •  
  • 2012/02/01(水) 00:07:56
毎日ちょっとづつ買い物しても間に合うのに、適当な風評信じてまとめ買いして迷惑かける市民性にはガッカリした。

ここまで見た
  • 118
  •  
  • 2012/02/01(水) 00:15:52
@石巻
記憶違いでなければ12日の午前中には長岡ナンバーの救急車を見た
地元の人間が力なく立ちつくしている道路を
数台連なって静かに走って行ったのを憶えている

救急車を見て感動したのは生まれて初めてだった

ここまで見た
  • 119
  •  
  • 2012/02/01(水) 01:18:11
13日の早朝、食い物も電気もない中、県庁に行ってみた。
そこだけ電気があってTVが見られたし、ホントはダメなんだろうけど携帯の充電が出来た。
そしたら地下の食堂が営業してたのよ。
白飯、漬け物、味噌汁が300円だったかで食えた。
美味かった・・・

食いながら涙が出てきたよ。
悲惨極まる沿岸の様子、現地で何も出来ない情けなさ、自然の恐ろしさ。
何だかわけのわからない感情が溢れて、涙が止まらなくなった。
あの時の飯は、一生忘れないと思う。

お絵かきランド
フリックゾンビ
ここまで見た

★お気に入り追加

このページを共有する
facebook twitter hatena line google mixi email
おすすめワード