【3.11あの日】〜東日本大震災〜体験記録Vol.1【絆の足跡】 [machi](★0)
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- 2012/01/24(火) 21:37:50
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@大船渡市
震災の日は市内の職場にいて、揺れがおさまってから職場の人と車で避難開始。その頃にはもう渋滞が始まってて車が全く進まなくて、目指してた高台の病院を諦めて脇道から近場の少し高い場所に避難しました。
着いて車から降りると下の方から叫び声がして見ると瓦礫と煙みたいな物が坂を登って来るのが見えて走ってもう少し高い場所にある公園に避難し、下を見ると町の中を音をたてて水や家が流れてました。
波は自分のいた場所から30m位手前で止まったので今となっては大袈裟な気もしますが、登って来る津波を見た時は恐怖だったし初めて自分の死を意識しました。
その後最初の目的地である病院に避難して一晩過ごし、翌日自宅のある高田に帰りました。
当日の夜は一睡もできず、慌ただしい病院の中でラジオから流れてくるニュースを聞いてただ絶望的な気持ちでした。
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- 2012/01/24(火) 22:49:05
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@秋田市
小さい頃は停電は結構あったけどあんなに長い停電は初めてでさすがに危機感が強かった。
ガスと水道が生きてたからまっとうなメシにありつけたけど、その後の品不足は予想以上だったな。
携帯の電池が不安ですワンセグ見ようという考えは浮かんですらなくただただラジオだけが頼りだった。
3.11が誕生日なんだけど忘れられない誕生日だな。蝋燭が立ってるんだけど吹き消せないっていうw
まるで悪魔の産まれた日のような言われようだが篠田麻里子と大隈重信とカツオと俺の誕生日だ。悼むだけでなくちょっとだけ祝ってくれよ。
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- 2012/01/24(火) 23:15:41
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43さん 私も誕生日だったよ
今年、去年の分もケーキ食おうぜ
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- 2012/01/24(火) 23:19:35
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@名古屋市
実家が気仙沼。火事や津波で大変だった地域。実家は2階も津波きたけど
なんとか残っている。身内や知り合いも大丈夫だったので良かった。
ちなみに名古屋でもあの時、仕事場が10階だったけど一分近くゆれが続いて
怖かった。震源地を調べて更に怖くなった。津波の映像みてもっと怖くなった。
それから3日間両親と連絡取れないことがもっともっと怖かった。
あの時ほど実家に戻りたいと思ったことはないです。
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- 2012/01/25(水) 14:56:21
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669 名前:名無しさん@お腹いっぱい。(福島県)[] 投稿日:2011/05/03(火) 21:07:41.10 ID:1pmkGVVt0
郡山のモールってSCの3階駐車場に停めた車の中でひと眠り。
揺れに気が付いて起きた時は、普通の揺れだと思ってた。
「寝過ぎたかな?何時だ?」と携帯の時計を見ようとしたら徐々に大きくなり、普通に座っていられない。
ドアの内張りに肩をぶつけながら、軽の社用車が横転するんじゃないかと思う程の、横方向からの揺れに恐ろしくなってきた。
ここで、駐車場の吹き抜けから白い物が舞ってるのに気が付いた。雪。しかも前が見えない程の凄い量。
しかし当初は、寝起きで少々寝ぼけてて、安達太良山(福島県のほぼ中央に位置する山)が噴火したと思ってた。雪が火山灰に見えたw
大きな地震と突然の吹雪に、天変地異を描いた映画が重なりプチパニックに。
揺さぶられた車がピョコピョコ横に移動して、隣の車との間隔が極狭になってるのに気が付き、
車を動かそうとした頃にやや揺れが収まってきた。その隙にエンジン掛けて少し移動…した時に最大の揺れが襲ってきた。
目の前のコンクリ壁が上下からの強い入力で、壊れるというよりもバンッ!と弾け飛んで車に当たる。
駐車場の天井にあるケーブルを纏めたハシゴのような器具が隣の車に落下。思わず首を引っ込めた。照明が消えた中で、ビルの警報音が鳴り響く。
やっと揺れが収まった頃には「早くここを出ないと潰れるかも」と出口に向かうも、
先の器具やケーブルがアチコチで落下していて経路がない。何人かでケーブルの束を持ち上げて、なんとか駐車場から脱出。
直接家に向かうも大渋滞。裏道沿いの塀という塀はのきなみ崩れ、電線も垂れ下がっている。家に着いたのが一時間後。普段なら10分足らずの距離。
その頃には既に大津波が来ていたのを後で知った。
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- 2012/01/25(水) 15:09:06
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あ、↑は別スレに俺が書いたやつのコピペです。ヘッダ消すの忘っちゃ!
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- 2012/01/25(水) 18:05:38
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@南相馬
震災当日まだ揺れが収まらないなか、
車を貸してほしいという人が来た。
その人は客で家は浜にあり、たぶん自宅付近は壊滅状態。
暗くなってきたから、今は行かないほうがいいといったけど
だめかもしれないけどどうしても家族を探したいといわれ車を貸した。
自分の命のほうが大事なんだからいざとなったら逃げろ
と満タンの車を貸してやった社長。
その後、原発事故で貸した相手は行方不明。
ガソリン不足になりあの車さえあればとうなだれていたのは
秘密っす。
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- 2012/01/25(水) 19:13:06
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@北上市 長くなるけどごめんなさい。あの日のことについて他人に断片的には話したことがあるけど、まとめたことはないから…。
自分の整理をさせるためにも書かせてください。
奥州市の職場の会議室で会議をしていた。
その時たまたま目にした広報誌に、海外でも津波はTUNAMIと表記するという記事があり「へぇ〜」と思っているところに揺れがやってきた。
長い揺れでロックをかけてあるはずの机が、かかっていないかのように動いた。部活をしている生徒のことが気になり、室外に出ようとしたが、
揺れがひどくて動くことができなかった。揺れが少しおさまったころ、会議室の外にでると壁にひびが入ったり、天井の資材がポロポロと床に
落ちていた。そして生徒の一人が過呼吸を起こしながら階段を下りてきた。ビニール袋を取りに事務室に飛び込むと、書類が散乱して足の
踏み場もない状態だった。目的のものを手に入れて過呼吸の生徒の手当て?にあたる。校舎にいた生徒達が大勢階段を下りてきたので
外に誘導し、自分たちも外に脱出した。(後で聞いた話だが、この生徒は部活中なんとなく嫌な感じがしていたらしく、移動しようとエレベーター
に乗っていたところエレベーターが止まり、携帯からは緊急地震速報の音がしてエレベーターには地震?だったか緊急?だったかのランプが
点灯したため、まずいのではと思ってエレベーターを降りた直後に地震がきてパニックになったらしい)
駐車場に集合し、人数確認をして全員避難することができたことがわかり、保護者と連絡を取らせながら帰宅させることに。私は過呼吸になった
生徒を車で家に送り届けることになった。いきなり吹雪になって「こんな時に雪まで」と思った。自分の荷物を取りに校舎に戻った時に、
壁にたくさんヒビが入っているのが目に入り、涙が出そうになった。職員室も足の踏み場がないほどものが散乱したり、書棚が倒れたりしていた。
もしあの時間にここにいたら…と今でも思うとぞっとする。会議室という机しかない部屋だったからこそ、誰もけがをしなくて済んだなぁ。
信号は消え、道路は大混雑。みんな出来る限りゆずりあって通行していた。いつもなら30分で着く距離を一時間かけて移動した。
車内で奥州FMを聞きながら運転していたが、緊急時のため、奥州FMは7分?ごとに信号を切り替えながら放送していた。
生徒を無事送り届けた帰り道、四号線のひどい渋滞にはまってしまった。その時にラジオをIBCに切り替えた。
津波が到達した後で、神山アナウンサーの悲鳴のような中継を忘れることができない(神山アナウンサーはたまたま釜石にいたらしい)。
職場に向かって来た道を戻っていると、生徒が一人歩いているのを発見した。車を停めて話を聞くと「連絡したが迎えに来れる状況ではない」とのこと。
そこから歩いても一時間はかかりそうなところだったので、送っていくことにした。途中、ブロック塀が崩れている家が目に入る。
その生徒を送り届けて職場へ。まだ生徒が帰れないでいたらどうしようと駐車場に行ってみると誰もいない。
しかし、校舎の事務室には誰かいるのが見えたので顔を出してみると、事務職員が残って処理をしていた。「生徒は全て学校からは帰りました。
様子を見て月曜日に出勤してください」と言われたので、実家に寄ってから帰ることにした。
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- 2012/01/25(水) 19:33:05
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@北上市
実家に向かったのは17時頃だったと思う。今更ながら母に安否確認のメールを送ると「無事だけど、もう少ししないと職場から家に戻れない。
一人で家にいるおばあちゃんが心配だ」ということだったので、急いで実家に戻る。
道路が陥没したりしているので迂回しながら実家に戻る途中、目の前を母の車も走っていた。
同時に家に着き、母は牛舎に向かい私は祖母のところへ!!
「大丈夫だった?!」とドアを開けると「おら怖かった〜」と言いながら近所のおばあちゃんとお茶を飲んでる祖母を発見(笑)
やっぱり、戦争時代を生き抜いている人は違うなと改めて思いました。
停電で薄暗い中、家の中の被害状況を点検。グラスが二つ割れていたのでそれを処理し、無事を確認したし仏壇も拝んだし帰ることに。
(その頃、父は千葉に旅行中でバスの中で地震に遭遇し、二・三日かけて帰ってきたらしい)
実家に泊まることも考えたが、やはり自分のアパートの様子が心配になり、戻ることにした。
母から「食料だ!持ってけ」とバナナやおにぎりをもらって実家を出発。
北上に向かう途中、火災の消火活動をおこなっているところがあった。
信号は消えているし、あたりは暗いし、本当に怖かった。
展勝地からいつもなら見える北上の灯りがなくて、悲しくて涙があふれた。
アパートに着くと花瓶が一つ割れていた。その程度であまり被害はなかった。
懐中電灯がなく、借りてくれば良かったと後悔しながら携帯の灯りを頼りにアロマローソクを探し出して火をつけた。
何度も余震がきて、一人の夜が怖かった。実家にいればよかったと思った。
母からもらった食料を食べ、妹や友達にメールして安否確認をする。
ラジオもないし、停電もすぐ直りそうもないと思ったので「寝るしかない」と思い、早々に眠りについた。
眠るものの寒さと余震で何度か目が覚めた。その度に外に出て車で暖をとりながらラジオを聞いた。
灯りがないため、星がきれいに見える。ラジオからは津波の悲惨な状況が流れてきて、
あまりの甚大な被害に悪寒が止まらなかった。同じように車で暖をとりながらカーナビでテレビを見ている人がいた。
その時ワンセグでテレビを見るということに気付いてなかったなぁ。
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- 2012/01/25(水) 20:10:47
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@北上市
「とにかく早く明るくなれ!早く夜が明けて欲しい」と思いながら眠りについた。
時々2ちゃんも見たよ。閲覧だけだったけど、誰かと繋がってる気がしてすごく心強かったよ。
朝の4時くらいに目が覚め、そとも少しずつ明るくなってきていたので早い朝食をとることにした。
幸いなことに水とガスは使えたので、「まずは温かい料理を作って気持ちを強くしよう!」と
冷蔵庫を開けてみると解凍したエビと生クリームを発見!
「地震に負けてられるか!」とエビのクリームパスタを作成。高カロリーの食事をして元気が出てきた。
食事をして元気もでたし、明るくなったので食料や備品のチェック。
家にいても何もすることがないので、また実家に行くことに。
明るくなってから運転してみると、改めてその被害の大きさに驚いた。
紳士服の店の大きなガラスが粉々に割れていたり、道路が陥没していたり…。
「ちょっとスーパーに寄って食料調達しようかな」と思って立ち寄ってみたら、
朝7時だというのにすごい行列だった。携帯の予備電池を手に入れようとドコモショップにも行ったが
(奇跡的に店員がいた)補助充電しかないと言われ、その意味がわからなかったけど
実家に帰る途中で、嫁にいった妹の家に行ってみると、妹は仕事にいったらしく不在で旦那もいない。
せっかく来たのにな〜なんて独り言を言いながら車に乗ると、妹の旦那が坂を上ってきた。
近所の見回りに行ってきたらしい。私が実家に行く旨を伝えると、一緒に行きたいということだったので
車に乗せて一緒に行くことにした。
実家に戻ると、一見いつもどおりの生活をしているように見えた。たぶん薪ストーブがあるからだと思う。
ご飯を炊くのもガス釜なので、食生活に不自由はしていなかった。農家だから自給自足だしね。
ラジオも3個以上あるし、懐中電灯も5個か6個ある。自分用に電灯付きラジオをゲットした。
母が妹の旦那に「墓の雪が地震のせいでえらいことになっているので、雪よけに行こう」と言い出し、
「こんな時に墓の雪よけしなくても!」という言葉も聞かず、妹の旦那のを連れて寺に出発した。
残された私はこのサバイバル生活を生き抜くための食料やグッズを実家で探しながら祖母の相手をし、
昼食を作った。雪よけから帰ってきた二人と合わせて4人で昼食を食べ、北上に帰った。
「一人じゃないって素敵なことなんだな」と感じた瞬間だった。
帰り道、107号線で赤十字のバス何台かとすれ違った。
その度に車の中で「来てくれてありがとう!がんばれ!がんばれ!」と泣き叫んでた。
妹は仕事帰りに電柱に登っている東北電力の人に「頑張ってください!!」と声をかけて
「はい!(電気がくるまで)待っててください!」と言われたらしい。
他にもたくさんの他県からの消防車や救急車とすれ違った。本当にありがたかった。
北上に戻るとまだ停電が続いていて、「今日もまた寒くて暗い夜か」と思いながら手に入れたラジオを
聞きながら靴下をはいて布団の中で丸くなっていると電気がついた。
テレビをつけると、津波の映像が飛び込んできて、予想以上の悲惨さに言葉がでなかった。
そこからはガソリン難民になったり、食料を手に入れるためにスーパーに並ぶ2週間を過ごしたなぁ。
そして募金活動をしたんだけど、その時外で活動している私たちにおばあさんが貴重な牛乳を差し入れて
くれたり、沿岸から来ましたと言って募金をしてくれた老夫婦にその牛乳をあげたりした。
皮肉だけれど、本当に絆というものを感じたり考えたりした体験になった。
長々とスレ汚しごめんなさい。貴重な場所をありがとうございました。
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- まいね
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まいね
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- まいね
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まいね
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- RareBear77
- 2012/01/26(木) 09:36:59
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>>ALL
えーと、サブタイトルは2つあります。
【3.11あの日】&【絆の足跡】
あの日の出来事だけではなく、「絆の足跡」に関する体験談も歓迎します。
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- 稀熊77
- 2012/01/26(木) 11:24:40
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おらのあの日も書いてみるか。@箱庭
>>9さんとそんなに離れていないところに居た。
爺さんを眼科医に連れて行って、待合の時間中に買い物を、、って時だったよ。
交差点の真ん中、これから右折しようってときだった。
きゃー、なんじゃーー、って感じだったわ。
大きな揺れの中、そろそろと交差点を抜けだし、路肩に寄せたんだけどさ。
この電柱倒れたら、一発だな、、、とか思ったわ。
で、一息ついた後、爺さんを迎えに眼科医へ直行。
爺さんは看護師さん方の誘導で無事、駐車場へ避難していた。
診断の途中だったようだが、了承を経て帰宅することにしたわ。
この辺で、おらの消防団スイッチが入った。
家族には不便をかけてしまったとは、後から気がつく。
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- 稀熊77
- 2012/01/26(木) 11:35:16
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家路、瓦が落ちた家、半壊の家、、、普段と違う風景が一瞬にして、、。
もう、このときから次の行動の準備ができてしまった。
途中、所属部のポンプ車とすれ違う。
大声で「爺さん家に連れて行ったらスグ行く。」。
築50年を越える古家はあの地震にも持ちこたえていた。
おもわず、「よし、がんばったな。」と声が出た。
散らかった部屋を簡単に片づけ、暖をとり、爺さんの居場所を作る。
ここで、ふと、、まちびを思い出し・・・。
スマホで「ナマズ板をあげろ」と書き込んでみた。
その足で屯所に向かう。。。
この時点で、子供たちや妻のことは頭にない。
後に、ちょっと自己嫌悪。
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- 稀熊77
- 2012/01/26(木) 12:02:52
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遠くに聞こえる緊急車両のサイレン、南の方にあり得ない土埃が舞い上がってる。
(後、それはR4に崩れた土砂のものと思った)
火事と思える煙も見える。
屯所には、それぞれ色々な災害情報をもって次々と団員が集まってくる。
例えば○○は液状化現象か水道管か解らないが冠水して通行できない。とか。
4月に引退を予定していた先輩方も集まる、、。
指示があるまで、この場で待機となった。
ここで、小学生の倅が屯所に来たんだわ。
ここまで子供たちのことを考えていなかったことを、、恥じた。
5000円を握らせ、簡単に家の状況を教える。
「何か買って喰え、部屋は自分でかたずけろ。」
心の中で「すまん」といった。
それから、妻や娘と連絡しようとしたが、、もうケータイは繋がりにくい状況だった。
消防団の活動が一旦解除された夕方、、食料を求めて店を回ったが、、もう何もなかった。
こういうときは、出遅れが、、なんですわな。
なぜか、焼き海苔と明太子が売れ残っていたから購入。
しばらくは、メンタイおにぎり定食となる。
娘はコンジョーで徒歩で帰宅していた。
「腹減った」とわめいていたが、、ピザなんてねーよ。
妻は仕事柄、、、帰宅したのは深夜となった。
無事であっただけ、それでいい。
食料や物資が、燃料が、、まあ、家族に迷惑をかけてしまったです。
蝋燭とラジオの夜、思い出したようにスマホでまちびを眺める。
ぁ、バッテリーが・・・・。
残りのバッテリーを使って、全国の管理人さん方に応援を要請した。
明日の消防団は午後からだから、、、午前中になんとか物資を、、
と思いながら毛布にくるまってみたが、、なんとも目が覚めて、、うん。
そんな午後でしたわ。
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- まいね
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まいね
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- 2012/01/26(木) 22:34:42
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>>29
>携帯の地震速報 3.11に入りましたか?
私の(au)は来なくて 3.20 3.22 3.23 と入った
@東京だけど
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- 2012/01/27(金) 00:23:39
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仙台市宮城野区。
地震当日の夜、停電で辺りは真っ暗。
見上げた夜空は皮肉なほど星がきれいだった。
遠くの県庁市役所あたりだけ微かに明かりが。
夜が明けて、あちこちの離れた場所からまだ黒煙が上がっていて
自衛隊やマスコミの大型小型のヘリが海のほうに沢山飛んでいく。
その時やっと「本当に大変なことが起きた」と実感がわいた。
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- 2012/01/27(金) 00:46:07
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>>>62
揺れてる最中に鳴ったはず。R48で信号待ちしてて、本格的に揺れはじめたときだった。ハンドル握りしめながら聞いたの覚えてる。
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- 2012/01/27(金) 01:21:44
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>>64
それが ケータイの記録にも残っていないんですよ
揺れ始めてからずっと手に握っていて
強くなりかけた瞬間から 子供に連絡をとろうと何度もプッシュし続けていたせいで
Cメールを受信できなかったのかな
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- 2012/01/27(金) 01:30:13
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29です
揺れを体感する前に着信し、一緒に作業してた人に「地震くるみたいですよ」と言いつつ談笑してました
それから、暫くして揺れ始めて「当たりましたね」と言ってる間に揺れが大きくなり、目の前のパーティションが倒れたら危ないなと作業中断して押さえてました
震度6弱の地域ですけど、職場だと作業中は震度3でも気付かない事がある位で、当時は震度5位かなと思ってました
因みにキャリアはドコモです
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- 2012/01/27(金) 01:42:03
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そういえば、横浜の友達は鳴らなかったと言ってたような?
友達のキャリアはAUですね
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- 2012/01/27(金) 22:38:55
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戸棚から食器が盛大に落ちたのはあの2回だけ
窓が丸くなって柱が斜めに見えた時は、このまま押しつぶされて死ぬんだなと本気で思った
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- 2012/01/27(金) 23:34:20
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>>68
ああ、そうだったんだ・・・・うちは自然流下だったのかw
でも、地震から3日後くらいに止まった記憶があります。
その前日から、「止まってない水道も止まるらしい」という話を聞いていたので、
水を溜めておいた。
そういえば、一週間近く風呂に入ってなかったんだなぁ。
周りも同じだったので、気にならなかったが。
普段は客入りもボチボチのワゴン焼き鳥屋なんかには、行列出来てましたね。
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- 2012/01/28(土) 11:27:29
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北海道十勝地方在住の者です。陸前高田に知人がいます。
震災の11日には知人とは全く連絡がつきませんでした。陸前高田の様子もこの時点では全くの不明でした。
12日の朝になって陸前高田が壊滅状態と知りました。知人の安否が全く不明なので、陸前高田に行って見ることにしました。
水と食料と衣料と毛布などを車に積んで午前中に十勝を出発しました。
苫小牧東港が津波で浸水したので苫小牧東港は利用できないのですが、臨時で小樽から出航するとの情報があったので新日本海フェリーに電話をしたけれど話し中で全く繋がりません。
仕方が無いので函館から青森に渡って行くことにして函館へ向かいました。
函館についてガソリンを入れようとスタンドに行くと、20リットルまでしか入れられないと告げられました。
これはちょっとまずいと思い、ホームセンターでガソリン携行缶を購入しました。ガソリン携行缶は売り切れ寸前でした。
とりあえずガソリン携行缶にもガソリンを入れて、フェリーターミナルへ向かいました。
フェリーは津波警報が出ている間は出航しないとのことでした。
夜の12時頃になって津波警報が注意報に変わり、青森へ向けて出航しました。
早朝のまだ暗いうちに青森へ着いて青森市郊外のコンビニ寄ってみると、食料品等がかなり品薄になっていて通常の状態でないことが感じ取れました。
4号線で盛岡方面に向けて走っていて明るくなってくると、スタンドで車の行列ができています。ただならぬ雰囲気です。
どこのスタンドも行列ができていました。盛岡市の到着してガソリンを入れようとスタンドの行列に並びました。
3時間並んでガソリンを入れました。だけど10リットルまでの給油制限。ガソリンを入れ終わったら昼過ぎでした。
盛岡市周辺の信号機の多くは点灯していませんでした。
ラジオでは被災地域へは通行制限をしていると放送されていたので、陸前高田へ向かうの躊躇し盛岡付近の道の駅で車中泊。
道の駅は停電していました。トイレの水も断水してました。
翌14日早朝の真っ暗な時間に、道の駅の自販機の明かりがいきなり点きました。電気が回復したようです。
被災地域への通行制限は相変わらず続いているようでしたが、とりあえず陸前高田へ向かうことにしました。
花巻あたりから海の方へ向かいます。
東和で検問っぽいのが遠くに見えたので、検問を迂回するルートをナビで探して進みました。難なく検問をパス。
途中の小さなスタンドで行列に並んでガソリンを補給し大船渡経由で三陸道を通って広田半島に行きました。
広田半島に入って広田町方面に向かう途中に津波警報とかで通行止め。消防団の方々が交通整理をしていました。
通行止めの間、小高いその場所から見えた景色は見たこともないような瓦礫の景色。
待つ間、開通を待つ自衛隊の若い人と雑談。その人は半分私用のような形で広田町の実家へ行くということでした。
津波警報が解除され、広田町方面へ向かいます。瓦礫の中の応急的に片付けられてなんとか通行できるようになった道を進みます。
なんとか知人宅の付近まで行きましたが、電柱が倒れて道を塞ぎ、そこから進めません。
そのへんにいた人に知人のことを聞くと、その人は偶然にも知人の従兄弟でした。そして、先ほど会った自衛隊の若い人は、その人の息子のようです。
その人に連れられて山道を歩いて知人宅へ到着。家は無事で、そこには被害にあった親戚の方が10人近く居ました。水は井戸水を利用していました。食料も何とか足りているようでした。石油ファンヒーターしかなかったので暖房に困っていました。反射式石油ストーブを持って来なかったことを少し後悔しました。
少し知人とお話をして広田町を出発。
15日朝に秋田からフェリー乗ろうと思ったら、その日は夜に秋田発だったのでフェリーターミナルで夜まで待って乗船。16日早朝に苫小牧東港到着。午前中に十勝に到着しました。
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- 2012/01/28(土) 15:20:18
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>>71
外からの様子というか、臨場感があって興味深いです。
直後は函館すらガソリンだめだったんだ・・・。
ちなみに私は17日の山形〜新潟〜岐阜で、新潟のはずれ辺り〜新潟市内一部でやっとガソリン満タンOKだった。
そこから西日本の親戚宅へ。
また仙台にすぐ戻ったけれど、名古屋の町並みの「普通さ」と東北の惨事とのギャップでしばらく苦しんだ。
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- 73
- 2012/01/28(土) 15:35:25
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緊急地震速報はドコモもauも届いた@盛岡
携帯が大騒ぎして、5〜7秒くらい後に揺れ始めたね。
はっきり覚えてるから間違いない。
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- 萌きゅん89φ
- 2012/01/28(土) 16:10:29
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私は関東在住ですが、本震の時はドコモのエリアメール(緊急地震警報)は来なかった気がします。
色々ありすぎて忘れてしまっただけかもしれないですけど。
余震で何回もエリアメールが来たのは覚えてます。
夜中に来ることが多かった気がします。
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- RareBear77
- 2012/01/28(土) 16:45:42
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>>74
乙っす。
#1を更新したので、業務書き込みー。
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- 2012/01/28(土) 18:58:31
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ラジオは災害時に役経つね。
携帯やネットは停電や回線パンクして使えないだろうし。
あと、テレビだとスポーツの中継など放送時間超えると
打ち切られるし。
皆してスマートフォンとかって馬鹿らしい。
通信障害が多いらしいな。
便利すぎるものもどうかなと・・。
思考力衰えているらしいとか。
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- 77
- 2012/01/28(土) 19:53:05
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地震時には車使うよなっていうのが、肌でしみた。
その当時から、車手放していたので、ガソリンネタは関係ないが、
道路は大渋滞。
あのような状況・・・・ガソリン待ちしている時間あるなら、
チャリで職場に逝った方が早いって。
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- 2012/01/28(土) 20:31:40
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あのガソリン渋滞は、アイドリングした分を給油すんのか?って感じだったなw
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- 79
- 2012/01/28(土) 20:52:07
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ラジオ福島で「どんぐりころころ」を聞いた時は泣いた。
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- 2012/01/28(土) 21:05:04
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ベタだがサイモン&ガーファンクルの明日にかける橋には泣かされると同時に励まされた。
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- 2012/01/28(土) 21:19:34
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俺は「You Raise Me Up」を聴いて号泣したよ・・・
When I am down and, oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be
Then, I am still and wait here in the silence
Until you come and sit a while with me
You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, to walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up...to more than I can be
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- 83
- 2012/01/28(土) 21:22:17
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三日目くらいにラジオから流れてきた「震災後初めて聞いた歌詞のある曲」が「100%勇気」だった。
これかアンパンマンのマーチだろうなと思ってたから、あまりのベタさに笑ってしまいそのあと涙が出た。
まぁがんばるかーと思えた瞬間でした
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- 稀熊77
- 2012/01/28(土) 21:37:18
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こそ・・・こそ・・。
おらは・・
「フラガール〜虹を〜」だったわ。
♪大地に光をぉ〜〜、で涙が出た。
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- 青鹿
- 2012/01/28(土) 21:54:36
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>>82
「You Raise Me Up」の日本語訳を上げときますね。
落ち込んで そして Oh 魂が とても疲れた時
トラブルが来て ハートに 重荷を背負った時
その時は じっとし そしてここで待とう 静かに
そうすればあなたが来て しばらく座ってくれる 一緒に
あなたが立ち上がらせてくれる そうすれば山の上に立つことができる
あなたが立ち上がらせてくれる 荒れた海の上を歩くために
強くなれるよ あなたの肩につかまれば
あなたが立ち上がらせてくれる... 自分で出来る以上に
:
曲を聴きたい時は http://www.youtube.com/watch?v=aJxrX42WcjQ
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- 86
- 2012/01/29(日) 02:36:32
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あの日、4才と1才の娘達を乗せて車を運転中にラジオと携帯同時に緊急地震速報が鳴った。@仙台市泉区
ハザードをつけて路肩に停めようとした瞬間、地震が来た。なぜかパーキングに入れずブレーキを力いっぱい踏んで
「大丈夫だよ〜すぐおさまるよ〜」と妙に明るい声で子達をなだめました。
揺れがおさまり、後部座席に移った瞬間、最強クラスの地震。
泣き叫ぶ4才の娘に、大丈夫だよ、お母さんがそばにいるから絶対大丈夫、と何度も叫んでいたのを覚えています。
目の前の図書館からは、泣きながら飛び出してきた学生さんや、利用客の人が沢山出てきた。
自分は震災後ラジオで流れていて初めて元気付けられた曲は、
はっぱ隊のYATTAでした。
「生きているからラッキーだ」って本当にそうだよな、と思った。涙が止まらなかった。
明日はワンダホー、に勇気を貰えた。
それを聴いてから暫くは、心が不安で押しつぶされそうになると、「水飲んだらうめ〜!」と言って家族に「YATTAー!」と返して貰ったり、自分が返したり。
ネットが繋がるようになった頃YoutubeでPV観て、笑いながら泣いてた。
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- 87
- 萌きゅん89φ
- 2012/01/29(日) 08:57:00
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私は震災からまだ日が浅い頃は、バラエティー番組が再開されても、すぐには楽しむ気持ちになれなくて、音楽番組をよく見て元気をもらっていました。
特に印象深かった歌は、フジテレビのチャリティー特番みたいなやつで森山直太朗さんがアカペラで歌った「さくら」です。ものすごく力を感じました。
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- 88
- 2012/01/29(日) 09:58:00
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ACの「あいさつの魔法」を聞くと今でも当時を思い出して悲しくなる。
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- 89
- 2012/01/29(日) 13:33:18
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停電にならなかった地域の人達は、津波が民家道路車を飲み込む映像に人々が流されるところも映り、なんという事態がおこったんだ…
と、絶句したらしい
停電で見てないあたしはそんな惨事がおころうとする危機感もなかった
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- 90
- 2012/01/29(日) 13:34:29
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鋭意、遠距離恋愛中なのでaveの曲は効きました
あのACの曲、言われるまで忘れてたけど、思い出したら原発爆発の瞬間とかヘリでの水投下とかフラッシュバックして気分悪くなった
軽くトラウマ化してるかも
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- 91
- 2012/01/29(日) 14:06:01
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当日のラジオで浜に数百人の遺体が〜ってのを聞いて想像しただけでガクブルだったな。
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- 92
- 2012/01/29(日) 14:21:40
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津波は到達しなかった方面の若林区在住です
地震の瞬間はコンビニにいて、携帯から(その後何度も聴くことになる)緊急地震速報の
音が鳴るのと、ほぼ同時にコンビニの窓が「カタカタカタ」と鳴ったのがはっきり記憶に残ってます
で、「あ、地震かな」と思って外に出た瞬間に大きいのがグラグラっと…
自分で体験した大地震では、'83年の日本海中部地震に弘前市で、'94年の三陸はるか沖地震に
八戸市で遭遇してるのですが、いずれも地震のときは屋内にいたので、一応「外」で揺れを
体験したのは初めてでした
この時は、バス待ちの時間つぶしにコンビニにいたので自宅からそんなに離れておらず、
とにかく家に戻ろうと、揺れに足を取られながら必死で歩いてました
うちの中は家具などがひっくり返って無惨な状態になってましたが、とりあえず家族に人的被害はなし
すぐ近くに住んでいた親族も無事でした
とは言え、ひっきりなしに来る余震に落ちつかず、片付けも進まない中、周囲が暗くなってきたのに
停電は回復せず…(結局、停電は4日くらい続きました)
震災当日の夜、自宅の布団で寝ることができたのだから、他の被災した方々に比べたら贅沢なんて
ものじゃなかったと思いますが、この夜はいくら布団をかぶっても体が温まらない感じで、余震も
激しいし、ほとんど眠れなかったことは覚えています
確かこの時点では、津波で大惨事が起きていることはわかりませんでした
携帯は警報や防災通知メールであっと言う間に電池切れになり、普段使っていないラジオは、この日は
とても探し出せる状態ではなかったし…
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