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  • 2007/09/21(金) 01:33:12
さらに引き続きマターリと・・・。

過去スレ
Part1 http://kyusyu.machi.to/bbs/read.pl?BBS=kyusyu&KEY=1030375172
Part2 http://kyusyu.machi.to/bbs/read.pl?BBS=kyusyu&KEY=1084285792
Part3 http://kyusyu.machi.to/bbs/read.pl?BBS=kyusyu&KEY=1094649671
Part4 http://kyusyu.machi.to/bbs/read.pl?BBS=kyusyu&KEY=1111407229
Part5 http://kyusyu.machi.to/bbs/read.pl?BBS=kyusyu&KEY=1134131812
Part6 http://kyusyu.machi.to/bbs/read.pl?BBS=kyusyu&KEY=1161001315


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  • 2010/05/05(水) 07:18:37
大分県玖珠町は県北西部に位置して面積286平方km、300m〜1,200mと標高差があり、内陸性気候で冬は九州で珍しく雪が降り厳しい寒さとなり盆地特有の底霧が発生します。

地形は伐株山に代表されるように、溶岩台地からなるメサ(卓状台地)が特徴的で盆地の周りを取り囲んでいます。 湧水、温泉は豊かな量をほこり、日本の滝百選の西椎屋の滝、清水瀑園、三日月の滝等の清流が多く、自然の宝庫です。

また、童話の里玖珠町として、日本童話祭などを開催しています。

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  • 2010/05/05(水) 07:19:01
下駄履き浴衣で温泉街を散策しながら河川敷沿いの共同露天風呂のハシゴ湯は天ヶ瀬温泉郷を満喫する楽しみ方です。温泉街を言う時は、『天ケ瀬=あまがせ』と表し、町全体を言う時は、『天瀬=あまがせ』と区別していると言われています。豊後三大温泉のひとつとして、昔から愛されている温泉です。


温泉の歴史は古く、1300年ほど前の天武天皇の時代、この地方に大地震がおき、熱湯が湧き出した、これが天ヶ瀬温泉の始まりと伝えられています。また、奈良朝時代すでに温湯(いかり湯 間けつ泉)と言われ、遠く奈良の都に豊後の三大温泉(別府温泉、湯布院温泉、天ケ瀬温泉)として知られていたと、豊後国風土記に記されています。

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  • 2010/05/05(水) 07:19:15
天ヶ瀬温泉は、緑豊かな山々に囲まれた、素朴で静かな温泉郷です。温泉街の真ん中を流れる玖珠川沿いに露天風呂があり、この露天風呂は"代官湯"と言われ、江戸時代、天領地だった日田地方に郡代や代官が巡察の際、"代官湯"に浸り旅の疲れを癒したと言われています。(代官湯は旧久壽屋の前にある露天風呂ですが、昭和時の大洪水で源泉を破壊され古来の代官湯の源泉を堪能することはできません。その後、成天閣から引き湯していましたが久壽屋が廃業した現在は自由に入浴できないようです)

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  • 2010/05/05(水) 07:19:28
また、成天閣の隣にある本陣は、松竹映画の第43作男はつらいよ寅次郎の休日の撮影で使われた温泉として、映画ファンからも注目されている温泉旅館です。本陣の隣にある天龍荘は口演童話の父、久留島武彦先生が日田玖珠地域で講演を終えた後、湯治のための常宿とした温泉旅館です、久留島先生以外の多くの文化人にも愛された温泉として有名です。


天ケ瀬温泉郷には、玖珠川沿いにある天ケ瀬温泉街、その温泉街の上流にある湯ノ釣温泉、熊本県との境にある杖立温泉、さらに、近年掘削され名湯と温泉愛好家の評判となっている塚田温泉、ゆうやけの湯等、大分県西部地区随一の温泉地となっています。

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  • 2010/05/05(水) 07:19:47
玖珠地域には、早くから周辺との文化交流があり、玖珠川周辺地域を中心に各時代の遺産が点在しています。特に中世では「玖珠群衆」といわれる豪族の力が強く、歴史の上でも重要な地域でした。筑後・豊後・豊前・肥後の交通網の分岐点であり、文化圏の分岐点でもありました。また、史跡には、国東半島・六郷満山文化の特徴があるものも多く残されています。ぜひ、くす・ここのえ地域に残る、史跡・歴史・文化に触れに来てください。

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  • 2010/05/05(水) 07:20:10
旧国鉄久大線を走る蒸気機関車(SL)の点検、格納庫として1934年に完成。鉄筋コンクリート造りで、SLの向きを変える円形の転車台を中心に扇を広げた形をしており、当時最高の技術を用いて建築された。


車庫は久大線が全線開通とともに業務を始め、広さは1734平方メートル。最盛期の23年には蒸気機関車25両の修理が行われ、250人の職員がいた。機関車は60―70キロごとに石炭や水の補給基地が必要で、久大線では豊後森が補給基地の機関区に選ばれた。戦時中は軍事輸送の拠点となったため、米軍の攻撃目標にされ、壁面には機銃掃射の弾痕が残っている。


原形のまま残る機関庫としては九州唯一、全国的にも14年に造られた京都の梅小路機関庫とここのみで、その規模から鉄道遺産としてあらためて注目されている。老朽化のため車庫の内部は立ち入り禁止。

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  • 2010/05/05(水) 07:20:26
久留島記念館のある森町は江戸時代も末期の天保12年8月2日(1841年)と明治16年(1883,年)森町の大半を消失するという大火を二度も経験しているため、防火の見地から水路とともに蔵造の家が現在もあちこちで見られます。

この建物は荒木家本家(醸造業)の住家であったものを久留島武彦並びに森藩関係資料の展示のために借り受けたものです.
当館の厚い土壁、窓、屋根瓦、幾何学もようの海鼠(なまこ)かべなどに、重厚さとどっしりした安定感を感じられます。

この久留島記念館には、徳川三百年を生きぬいてきた久留島藩に残された多くの資料と「日本のアンデルセン」とたたえられ童話を日本中の子どもたちにかたりつづけた久留島武彦先生(1874-1960)の遺品及び関係資料などを2200点を展示してあります。

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  • 2010/05/05(水) 07:20:43
日本のアンデルセンといわれた久留島武彦の貴重な遺品や、日本童話祭の資料、森藩時代の近世資料、旧森町の商家の絵ビラなどが展示されています

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  • 2010/05/05(水) 07:20:55
静かなたたずまいを持つ、旧森町のほぼ中央部に位置する、ここ記念館は幕末(1883年)と明治初期(1883年)の2度にわたっての大火のため、半永久的な土蔵と赤煉瓦の衣装蔵を兼備した建造物として、築後百年を越した重厚な外観を醸し出しています。この建物は『かね十』の屋号を持つ荒木本家の住家を久留島藩及び久留島武彦翁関係の資料展示のために借り受けたものです。外観的には、二階部分の厚い土壁・重い窓・幾何学模様の『なまこ壁』などにその特徴を有しています。

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  • 2010/05/05(水) 07:21:07
全国的にも珍しい地形としての『メーサ』を有する、ここ豊後森で産声を上げた武彦の業績・久留島藩の遺品等2000余点が、1.2階を通じて展示されています。武彦は『日本のアンデルセン』とも言われ、『子供の心を豊かに』・『子供に夢を』を終生の信念のもとに61年間、日本国中を口演童話(今日で言う語り部)活動に精魂を傾けたとされ、1950年には彼の業績を記念して、生誕の地に童話碑が建立され。第1回の日本童話祭が開催され、今年で54回目を迎えた事などの記録や彼に関する資料が豊富に取り揃えられています。

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  • 2010/05/05(水) 07:21:29
神社の境内には、大木で覆われた鎮守の森がある。

そこのは広葉樹が茂り、野鳥たちが集まって楽しい合唱を繰り広げている。
かつて小学校唱歌として歌われた「村祭り」に登場した神社は、その地域の住民や氏子の
楽しい社交場でもあった。
鎮守の森とその社は、それぞれの土地の中心ともなっていた。

時代とともに神社も変わっているが、自然に親しみ、その地域の歴史や文化、伝説、民俗行事や
祭りにも触れていただきたい。

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  • 2010/05/05(水) 07:22:04
今日、私たちの社会には「文明の使者」たちが続々と現れ、或いは居ついたり、或いは通り過ぎたり、目まぐるしい科学の時代に入りました。まさに物質文明の浸透は「人間の心」の支えさえはずしかねない勢いです。こんな時勢にはまず、まだ汚れを知らない子どもたちに現代社会が持つ最高にして最良の環境を用意することが大人たちの責任であり任務であろうと思われます。次世代の担い手である子どもたちに、心あたたまる伝統行事をきちんと受けついでもらう手立てを講じておくことは大事なことと言わねばなりません。

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  • 2010/05/05(水) 07:22:21
日本童話祭」は玖珠の里から日本中の子どもたちに発信するインフォメーションであり、古くて新しい「文化の使者」でもあります。

これまで童話祭は多くの子どもたちに「夢」と「希望」を与えてきました。しかし祭は肥大化し、組織の硬直化と行事のマンネリ化、交通事情の問題、さらには担い手の問題、地元の子どもの参加の減少などの多くの問題を抱えながらも、童話祭を魅力あるイベントとして模索しながらこれらの問題点の改善に努めてきました。

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  • 2010/05/05(水) 07:22:33
童話祭が永続して盛大に行われることに限りない誇りを持っています。童話祭が単なる観光祭や、記念碑的な祭に終わらず、あくまでも「子どもの夢」と「子どもの文化」のさらなる高揚を願い、大人が童心にかえる祭でもあります。そこには子どもの夢を育むボランティアとしての喜びがあります。そして同じ目的に向かって行動することで連帯感が深まり、回を追うごとに伝統の重みも改めて認識するものです。

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  • 2010/05/05(水) 07:22:58
日本童話祭は、子どもの心を持ち続ける大人たちが、子どもたちと一緒につくりあげる祭であり、大人から子どもへの文化の伝承の場であるとともに、子ども自身が本来持っている遊びの文化の発現の場でもあります。そして子どもと大人が一緒になってこそ日本童話祭は「子どもの祭」となるものです。

「子どもに夢を」から「子どもと夢を」のテーマに取り組んできた日本童話祭も今年で半世紀を迎えます。

久留島武彦の精神を継承し、「町民総参加」で「参加して楽しい」日本童話祭を目ざしながら祭を担う子どもたち、そして21世紀の童話の里の町づくりを担う子どもたちが健やかに成長をし、大きな夢の花を咲かせてくれることを期待しています

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  • 2010/05/05(水) 07:23:15
玖珠町の温泉の歴史は新しい。近年温泉掘削が盛んとなり、玖珠川沿いに多く掘削されている。
平成九年二月十四日玖珠町観光協会の中に「玖珠町観光温泉施設協議会」を設立し、一般公募して決定した「メルヘンの里くす温泉郷」と冠して観光的な浮揚を目指して動き始め、各方面から大きな期待が寄せられています。

メルヘンの里くす温泉郷は 玖珠町内に広く点在しております。それぞれ敷地内に自家源泉を持っており、40℃前後の植物ミネラルを含んだモール泉と呼ばれる単純泉系と50℃前後の弱アルカリ性単純温泉系の二系統の温泉が湧いてます。有名な温泉地ではありませんが、新鮮な湯を掛け流している湯の扱い方と低価格な入湯料の影響からか近年メルヘンの里くす温泉郷のファンなる方々が急増しています。

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  • 2010/05/05(水) 07:23:31
北乃園温泉
玖珠温泉群で唯一の炭酸水素ナトリゥム塩化物泉です、200円で入浴できます

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  • 2010/05/05(水) 07:23:43
万年山温泉 美人湯
玖珠の名湯として、有名な温泉です。天然記念物である万年山の中腹にある一軒宿で泉質は強アルカリ泉です。

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  • 2010/05/05(水) 07:23:57
玖珠温泉 望山荘
玖珠温泉群の中で一番歴史の古い老舗です。主にパーティーや宴会、会議などでの利用が多いです。宿泊もできます。泉質は弱アルカリ単純泉です。

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  • 2010/05/05(水) 07:24:14
豊後の里
玖珠川とJR九大線を望みながら入れる露天風呂があります。弱アルカリの単純温泉です

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  • 2010/05/05(水) 07:24:28
九日一温泉 万年の湯
玖珠の100円風呂として、一番入湯客が多い温泉です。朝7:00〜夜11:00の長時間、いつでも入浴するとができ、とても愛されている温泉です。泉質は単純温泉です。

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  • 2010/05/05(水) 07:24:43
鶴川温泉
県道43号線沿いにある玖珠の名湯です。モール泉と呼ばれる植物ミネラルが温泉成分に含まれた特殊な泉質で100%掛け流し、加水、加熱なし・・しかも、お湯は極新鮮のため、気泡が体中に付着します

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  • 2010/05/05(水) 07:24:56
野田温泉
温泉成分表にラドンが測定されている玖珠というか、大分県で唯一の弱ラドン泉です。家族湯形式なので、ゆっくりとお湯を満喫することできます

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  • 2010/05/05(水) 07:25:07
みしま温泉
天気によって湯の華舞う温泉です。森藩の城下町にある温泉で情緒と気品を感じる美湯です。泉質は単純温泉です

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  • 2010/05/05(水) 07:25:19
七福温泉 宇戸の庄
名勝耶馬溪国立公園内にある温泉で、奇岩連なる美しい景観を望みながら入る露天風呂があります。泉質はモール泉と呼ばれる植物ミネラル系の単純温泉で湯が琥珀色に輝いてます

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  • 2010/05/05(水) 07:25:30
下河内温泉
自噴している玖珠温泉群唯一の名湯です。名勝耶馬渓の裏耶馬溪の景沿いにある温泉で湯治客の多い温泉です。泉質はモール系の単純温泉です

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  • 2010/05/05(水) 07:25:42
三日月の滝公園温泉
夕日に照らされて浸かる露天風呂は格別です

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  • 2010/05/05(水) 07:25:54
椿温泉
茶房 花椿にある温泉です、200円で入浴することができます

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  • 2010/05/05(水) 07:26:09
大鶴温泉 夢想乃湯
温泉付き団地の温泉を有効利用してできた共同浴場です。入浴料は100円です。

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  • 2010/05/05(水) 07:26:21
山田温泉
深夜までしている200円の大浴場と家族湯があります

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  • 2010/05/05(水) 07:26:32
シャインホテル 春日
泊まった方のみ入浴できます

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  • 2010/05/05(水) 07:26:44
アサダ温泉
アパートの横にある温泉です

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  • 2010/05/05(水) 07:27:08
ホテル清流で「新たな公」によるコミュニティ創生支援モデル事業の町づくりシンポジウムが開催されました。シンポジウムは第一部として大分大学教育学福祉科学部の豊田寛三教授に「豊後森藩〜久留島氏の時代〜」との特別講演いただきました。

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  • 2010/05/05(水) 07:27:22
第二部はパネルディスカッションとして、コーディネーターに大分大学の佐藤誠治副学長、アドバイザーに同じく豊田寛三教授、パネラーとして同大学教育福祉科学科学部の山崎栄一准教授、同大学工学部の小林祐司准教授、つのむれ会の小西保喜会長、くす旅サービスの穴井和典代表が参加しました。

テーマは「歴史を活かした町づくり・物づくり・人づくり〜地域コミュニティ再構築の方向に向けて」です。

森町は歴史の色濃い町であるということをしっかり認識し、歴史的遺産の角牟礼城や久留島公園等を顕在化させることの重要性や、情報発信の必要性が再認識されました。また行政ではできない地域づくりの確立が必要と締めくくりました。本事業の方向性が示されました。

3月10日、森コミュニティセンターにて、「新たな公」によるコミュニティ創生支援モデル事業の報告会が、行政、本会の役員、また関係団体の方々、約30人の出席のもと行われました。

大分大学の小林先生のアンケートによる地域資源等の調査結果報告がなされ、それに対して積極的な意見が交わされました。行政もこの事業に対する期待は大きく財政企画課長より激励の言葉がありました。

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  • 2010/05/05(水) 07:27:36
森地区は人口1,807名が生活し高齢化率34.7%と、江戸時代に久留島氏が開いた城下町であり、明治・大正・昭和・平成と続く地区です。時代とともに衰退し、地域の活力がなくなりつつあります。
中世以降の史跡、町並み(街並み環境整備)や豊かな自然環境に恵まれた地区であり、大分県央に位置し農林業を中心とした産業構造で少子高齢化が進む中、 城下町・日本一小さい城下町・の再生と活力を取り戻して伝統芸能・文化の伝承と農商連携の新たな枠組みと過去の伝統産業の復活による街並み再生を地域住民 と共同で行う。

玖珠町が推進している、平成15年度森地区街並み環境整備事業を逐次平成25年度まで実施する中、ハード整備については順調に推移している中、今後総合的イノベーションが必要であり、地域資源の活用による交流・定住人口の拡大を図り地域活性化を行う。

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  • 2010/05/05(水) 07:27:48
森地区街並みづくり協議会と協働し、地域諸団体と協力による街並みの活用による、伝統文化(日本童話祭・森祇園・森盆踊り)の活性化や人材育成による伝統芸能保存の体得を行い地域プログラムの構築と運営システムの検討を行う。

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  • 2010/05/05(水) 07:28:01
観光資源化による来街者に対する、体験プログラムの作成を行い、スローリズム観光による周辺を含めたウォーキングコースやサイクリングコースを設定し周辺観光を行い、自然保護や環境保護に対する啓発を行う

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  • 2010/05/05(水) 07:28:17
森町は口演童話作家久留島武彦翁の生誕地であり、・子供に未来を・夢を・テーマにわらべの館を中心に多くの語り部や地域の歴史を紹介する人材の高齢化は死活問題であり、観光面からも又地域伝承面からも後継者育成をプログラム化して行う。

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  • 2010/05/05(水) 07:28:29
商店街の活力を増すために、現在の・軒先市・を更に発展させ農商連携を模索し、地元の物産販売の試行を行う。

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  • 2010/05/05(水) 07:28:41
新たな城下町形成の中、旧来のあるべき業種の参加を検討する。例として、酒屋・豆腐屋・味噌屋・醤油屋・古着屋・古本屋・呉服屋・うどん屋・そば屋等の街並みの商店街形成を検討する。

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  • 2010/05/05(水) 07:29:14
久留島武彦は、明治7年、豊後森藩12代藩主久留島通靖(みちやす)の孫として現在の玖珠町森に誕生しました。本来なら14代後継者として子爵(ししゃく)家を継ぐ身でしたが、これは実現せず、彼は児童文化の世界で大輪の花を咲かせることになります。

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  • 2010/05/05(水) 07:29:28
彼を称する言葉に「口演(こうえん)童話の父」や「日本のアンデルセン」があります。巌谷小波(いわやさざなみ)とともに、わが国の近代児童文化の礎を築いたことで知られ、口演童話や児童劇の開拓者でもあります。明治末期に、児童の社会教育機関としてお伽(とぎ)倶楽部を創設し、この全国普及にも努めました。童話ラジオ第1号も武彦の声によるもので、彼は書く童話作家よりも、話す童話作家の道を選びました。

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  • 2010/05/05(水) 07:29:39
こどもの膝の前の友達になりたいと考え、大正期から亡くなる昭和30年代まで、盛んに全国を口演行脚しています。昭和35年没(享年86歳)。

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  • 2010/05/05(水) 07:30:17
昭和二十五年(1950)に本町の大部分(盆地中心部と日出生台演習場を除く)が「耶馬・日田・英彦山国定公園」に指定されている。

その中には、大正十二年に国の名勝に指定された「耶馬溪」(県内十一ヶ市町村に散在)があり、昭和十年に標式的な溶岩台地のメサ地形として、国の天然記念物に指定された「大岩扇山」(691m)がある。
そして、我が国でも珍しい「二重(ダブル)メサ」の溶岩台地である万年山(114メートル)が町の南側にどっかりと腰をすえてあり、小岩扇山(711m)・鏡山(675m)・伐株山(686m)・角埋山(576m)・宝山(816m)等、日本では他に例がないほど多くの「メサ・ビュート」と呼ばれる卓上台地(テーブルマウンテンともいう)が、盆地を取りまいてユニークで親しみの沸く景観を築いている。

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  • 2010/05/05(水) 07:30:34

日田市天瀬町と玖珠町の境界に位置する「慈恩の滝」は国道210号線のすぐそば、 万年山(はねやま)に源を発する山浦川が玖珠川と交わる所にあります。




天瀬町との堺にあって国道210号線沿いに位置し、JRの列車からも見えるため、博多発下りの「ゆふいんの森号」では列車のスピードを遅くしてこの滝をガイドしています。
この滝は下段と上段の2段になっており水量も多くトウトウと流れ落ちる滝は迫力満点です。


言い伝えでは「今から千数百年前、この滝に大蛇が住んでおり、まわりの田畑を荒らし農民は困っていました。これを見た旅僧がお経を唱え大蛇の体に寄生していた虫を取ってやったら田畑を荒らすことはなくなった。大蛇は虫で体がかゆくて田畑で体をくねらせていたのである。」という話が残っています。
この僧を奉った慈恩神社があったが、戦国時代に大友宗麟の攻撃により焼失し今はありません。
この滝以外にも近辺には滝が多くあり「山浦川七滝めぐり」という散策ルートがあります。

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  • 2010/05/05(水) 07:30:49
万年山(標高11140.2m)は、東西に三キロメートル南北に500mに及ぶ山頂、東西に5km・南北に1kmの前バネからなる。上下二段の卓上台地をもつ日本で第一級の「メサ」地形である。


玖珠盆地南方にどっしりと横たわる万年山(はねやま)は、全国的にも珍しい上下二段からなる二重メサであり、玖珠町として誇りにしてよい。国指定天然記念物の大岩扇山のメサ地形と比較して、勝るとも劣らない。この二重メサの地形がもっとも良く眺望できるのは、南〜南々東の吉武山から九重山域の日平台方面からであり、玖珠盆地からは残念ながらそれほどはっきりしない。

万年山の下部卓面(テーブル面)は、前期更新世末の下万年山溶岩からなる。その大きさは、西北西から東南東に約9キロメートル、北北東から南南西にかけて約4キロメートルである。高度は東南東端の最高点が940メートルであり、西北西に次第に高度を下げ約580メートルとなる。卓面の上面はゆるやかな起伏をもった平坦面であり、万年山牧場、吉武台牧場、万年山模範牧場などがある高原となっている。

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  • 2010/05/05(水) 07:31:04
万年山上部卓面は中期更新世初期の万年山溶岩からなり、下部卓面の上位に発達する。これが二重メサを形成する地質学的な素因である。万年山本峰(1140.2メートル)を含めた上部卓面は、西北西から東南東に約5キロメートル、北北東から南南西に約1.5キロメートルであり、高度は1140メートルから西北西に高度を下げ1050メートルとなる。上部卓面の山頂部域はゆるやかな起伏をもつ草原となっている。



万年山上部卓面の南側は、南落ちの断層によって高度を下げるものの、万年山溶岩からなる広い高原が展開する。高原の南方は、中期更新世の亀石山・吉武山溶岩からなるゆるやかな台地へと続く。この高原は、西北西―東南東に11キロメートル、北北東―南南西に7キロメートルもあるが、下万年山の台地を含めると、南東10キロメートルを越す。万年山から吉武山にかけては、東西性の多くの断層が存在し、この方向の尾根や谷の発達が著しい。

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  • 2010/05/05(水) 07:31:16
五月〜六月には、群生するミヤマキリシマ・ドウダンツツジが開花する。山頂付近には、避難小屋・便所・炊飯施設もあり、絶好のハイキングコース及びキャンプ地でもある。山頂からは、九重連山・津江山系・英彦山や阿蘇火山群等、360度の展望が可能である。毎年五月の最終日曜日には、盛大な「山開き」が催される。(

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  • 2010/05/05(水) 07:31:38
夏の滝すべりで有名な龍門の滝は、国指定の名勝地です。筑紫溶岩台地を削ってできた落差20m、幅40mの2段落としの滝で、鎌倉時代に、宋の蘭渓禅師が中国華南の龍門に似ていることから「龍門寺」を建立し、滝を「龍門の滝」と命名したといわれています。


竜門の(りゅうもん)滝(松木)
宝山の東南、竜門地区にある竜門の滝(国名勝)は、豪快な滝すべりの滝としても知られる名瀑である。
滝といえば一般的に寄り付き難い山峡にあるのが普通だが、この滝は交通便利な集落つづきで、しかも竜門寺境内から正面して望見されるという利点がある。


落差20m、幅40mの二段の滝で、中間に滝壷がある。滝水は柱状節理の美しい岩盤上をゆるやかに水晶のスダレをかけたように落下し、中段の 濃い緑の滝壷から溢れて、更に水は広く滑らかな一枚岩の表面を無数の白玉となって落下する。その様は壮観で、周囲をとりまく常緑落葉の広葉樹の林相美と相 俟って、一幅の名画を見る心地がする。耶馬日田英彦山国定公園に含まれている。

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  • 2010/05/05(水) 07:31:51
吉祥山竜門寺は、鎌倉時代に宋から渡来した蘭渓禅師がここを訪れ、自国の竜門の滝に似ているのでその名をつけ、付近に吐月峰、帰雲洞、飛雪庭、金珠湍、眼聴岩、洗耳瀬など12の名所を定め、寺を建てたという。
小滝は、ここから東南に300m入った松木川の支流、松葉川にかかる落差10m、幅5m(目測)の小さい滝だが、杉木立の中から落下する様 は、柱状節理の岩壁とともに美しい環境をつくっている。竜門の滝の上の山には、松木城跡があるといわれる。竜門の滝には駐車場やキャンプ場が開設されてお り、温泉を利用した宿泊施設もある。

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  • 2010/05/05(水) 07:32:20
飯田高原は、九重町の南部に広がる。波状の美しいスロープは、標高800メートルから1200メートル、東西10キロ南北8キロにおよぶ。飯田高原の名付け親が、目本のアンデルセン、久留島武彦翁だとは意外と知られていない。玖珠地方のボーイ・スカウトの指導者でもあった彼は、大正15年8月、高原一帯で開催された日本ジャンボリーの際、玖珠原(くすばる)と呼ばれていたこの高原を「飯田高原」と名付け、全国に紹介した。(西日本新聞 やまなみ登山/九重 日田玖珠 津江山系より抜粋)



飯田高原の南にそびえる九重連山は、父のごとき威厳と慈母のごときやさしさがあり、高原にたえず雨と水流を恵んできた。これを気象的に見れば、 南の久住高原で暖められた上昇気流と、北の飯田高原を渡る涼風とが九重連山の上空で出合って混合するとき、雨雲となり、時には雪となり、その七割が飯田地 区に降りそそぐ。さらにも連山の雨を集めた「坊がつる」の水源までが、北へ流れ下る。名実共に玖珠川の源である

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