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★お気に入り追加


  • 7
  •  
  • 2010/06/03(木) 22:25:36
俺んとこは「グ〜、パ〜、な〜りきり」という掛け声だった。

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>>6
 「すけながし」私も使ってました。意味はわからないのですが何がすけで何が流しなんでしょう?

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  • 9
  •  
  • 2010/06/03(木) 23:26:44
ああ、うちも「すけながし」だった・そして俺も意味はわからない・・・

あと、「ぐっぱーぐっぱーぐっぱっぱー」

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  • 10
  •  
  • 2010/06/05(土) 22:20:59
とりあえず、すけながしはある程度普及した言葉だったとは
判明したけど、意味はやっぱりわからないまま。

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  • 11
  • 昭和仮面
  • 2010/06/07(月) 21:52:27
 過疎ってしまったことでもありますし昭和42年の住宅図上で水戸駅から柵町方向に歩いてみることにします。
以前書いた内容を住宅図で補足していく感じなので既出があるのは御容赦下さい。
 当時の水戸駅改札は1階にあり、2階は観光デパートでしたね。向って一番左に床屋さんがあり子供時分に
お世話になっていました。水飲み鳥の置物がコックリコックリお辞儀をしていたのを憶えています。右へ行くと
お土産屋さんと食堂があったように思います。

 観光デパートを出ると右側に「昼夜食堂」、「喫茶さん?」、「大黒パチンコ」が続いていますが私の記憶には
ありません。「毎日新聞」に並んで「茨交ストアー」。テナントは「ストアー食堂」や「パチンコ丸愛」。パチンコ屋さんは
憶えていますが食堂の記憶はあやふやです。思い出深いのは3階の「喫茶ぷらむ」。小学生位の頃ですから
昭和50年代前半に親に連れられて何回か行ったことがあります。その際にお店の方がベルマークをくれたことが
記憶に残っています。水戸市街で放送している公衆放送でも宣伝していたと思います。大人になってからも
平成の始め頃1度だけ行きました。
 実はぷらむのマスターとはそれから随分後になって縁あってお近づきになり、店名は新聞で公募して決めた
んだとお話をうかがいました。お年を召してもダンディーといいますかお洒落な頭の回転の速い素敵な方でした。

 茨交ストアの角を曲がり狭い道に入ると右側に国鉄関係の建物が続き、子供の頃の記憶では左側に「本陣」
という飯屋さんか飲み屋さんがあったように記憶しますが手元の住宅図には記載されていません。実は数日前に
丸井に行ったのですがこの本陣がテナントで入っているらしいことに気付きました。(店は確認していないが看板あり)

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  • 12
  • 昭和仮面
  • 2010/06/07(月) 21:54:28
 細い道に曲がらず「茨城日産日野ヂーゼル」に沿って表通りに出て道沿いに右に回ると「喫茶ふじたや」。
入り口に猿のぬいぐるみが置いてある喫茶店で子供の頃一度だけ連れて行ってもらいました。珈琲が美味しい
そうで、ぷらむのマスターもあそこは美味いと言っておられましたっけ。

 並びに何件か食堂と理容店が続きお弁当の「鈴木屋」。駅弁で有名だったお店ですが店頭でも買えたように思います。
鳥そぼろの弁当が好物でした。

 ガソリンスタンドを過ぎると燃料屋さんや食堂が続き、ここで本陣の通りの細い道が表通りに出てきます。
私の記憶では昭和50年代前半には燃料屋さんや食堂2軒は無くなってガソリンスタンドが大きくなっていたような気がします。
 続いて照山食料品店。お酒屋さんではなかったでしょうか。丸井が大きくなるまではありましたよね。
 保険会社を挟んで中村屋食料品店。当時は小売りもされていましたね。現在ここには店舗はありませんが水府町
あたりに移転され卸しとして手広く活躍されているようです。ここのお兄さんには良く遊んでもらったので記憶に
残っています。続いて旅館を挟んで白銀堂時計店。10年位前までは営業されていたと思います。
 お菓子屋さんや化粧品店が続いて床屋さんを最後に水郡線の踏切です。この床屋さんにも何度かお世話になったことがあります。

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  • 13
  • 昭和仮面
  • 2010/06/07(月) 21:56:43
 今日は踏み切りは越えずに茨城日産日野ヂーゼルから大通りを渡って反対側を歩いてみましょう。
 日野ヂーゼルの建物は昭和50年代中頃に一時ゲームセンターになっていたような気がしますが果たして
確かな記憶かどうか。大通りを渡るには歩道橋があったように思いますが手元住宅図にはそれらしい記載はありません。

 通りを反対側に渡り終えると「東屋旅館」があります。現在の三の丸ホテルの所です。本当に小さい頃の散歩の記憶では
確かに旅館があったことを憶えています。住宅図によると東屋旅館は食堂や魚屋さんも併設していたようです。

 続いて2軒ほどの会社と駐車場。その先が「リッカーミシン」。続いて1軒挟んで「茨城交通車庫・観光課」。
 私の記憶が残っている昭和40年代後半には既にこのあたりは既に三高下〜一高下〜下市方面のバイパスが通っているのですが
昭和42年にはまだだったようです。茨城交通の土地を中心に付近の土地を買収してバイパスを通したのでしょう。

 その先が「石岡屋タバコ店」「ラッキーボール千滝園」。ラッキーボールって何なのでしょう。
 前スレでどなたかがこの場所が後に「三の丸インベーダーハウス」になったと教えてくださいましたが、確かに私の記憶でも
昭和50年代中頃ここにゲームセンターがあったことを憶えています。

 続いて「十銭屋支店」「ひらのや食堂」(現在でも建物はある)「正鮨」「福島相互銀行」。銀行の建物は色々転用されて現在でも
残っていると思います。十銭屋支店も10年位前まではまだ営業されていた筈です。

 そしてまたしても「茨城交通車庫」が現れます。さらに「国民金融公庫」「香取屋旅館」旅館は今でも営業されていますね。
 「荒木釣具店」から細い道を越えて塗料屋さんがあり「そば新月」「照山酒店」。反対側の照山さんとは別の店です。子供の頃ここのお店の方にもとてもよくしていただきました。
 最後に「小林歯科」で水郡線の踏み切り。左側の坂を上ると一高方面となります。

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  • 14
  •  
  • 2010/06/08(火) 07:06:15
凄い記憶力ですね・・
マルアイって当時は漢字表記だったんですね。

水戸の歴史や歴史的写真を綴った本とかありますけど、編集に携わってはいかがです?
公表の場がネット上だけなんて、非常に勿体ないですよ。

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  • 15
  •  
  • 2010/06/09(水) 22:40:18
>>13
 高校時代、三の丸インベーダーハウスに毎日通い詰めていました。
ここはもともと焼肉千滝というお店でしたが、昭和53年ごろテレビゲームが
ブームになった時にゲームセンターに衣替えしたようです。やがてブームも過ぎ去って
昭和50年代の終わりごろ再び焼肉千滝に戻りましたが、人通りもまばらなあの場所では
流行るはずもなくほどなく閉店し、今は更地になってます。
 水浜電車が走っていた時代はもちろん今の三高下の51号線はまだ無くて、当時の柵町
二丁目から三丁目までは商店がひしめくように軒を並べ、行き交う人も多く今では
考えられない賑やかさだったことでしょう。
 時代はやや下って私が高校生の頃、昭和50年代半ば毎日ここを通りましたが
昭和仮面さんが紹介したお店は大体残っていたものの、既に往年の面影はなく、
場末感が漂っていました。あれから早いもので30年近く、あの辺の佇まいは
茨交が経営破綻して創業の地を手放した跡にマンションが建ち、はす向かいに
丸井が出来た以外は余り変わらないですね。

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  • 16
  •  
  • 2010/06/10(木) 19:41:26
 ちなみに昭和仮面さんが参照された昭和42年の住宅地図はちょうど上市で住居
表示が行われた直後なので、柵町の常磐線より北側のエリアは三の丸2丁目から
3丁目になっていると思います。
 この地区でも昭和50年代は民家の表札などに古い町名が書かれたままの所が
結構ありました。住居表示はいいけど歴史ある町名まで大量に葬り去ったのは、
かえすがえすも残念です。

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  • 17
  • 昭和仮面
  • 2010/06/10(木) 20:23:26
>>14
 長文すみません。
 憶えているのは子供時代の狭い行動範囲内だからで、他の地域のことはよくわかりませんよ。
 ただ水戸市内で何回も引越しをしているので一般の方よりは知っているポイントは多いかもしれません。

>>15-16
 15さんは私より7〜10歳くらいお兄さんのようですね。私では詳しくわからないお話を興味深く読ませていただきました。
 特に千滝。焼肉屋さんだったのですね。そう言われれば微かにそんな気もします。インベーダーハウスが数年で店を畳んだのは知っていましたがまた焼肉屋さんに戻っていたのはわかりませんでした。
 ただ確かにあの場所は店がコロコロ変わって場所が悪いと当時大人達が話していたのは憶えています。
 ところで42年の住宅図にもラッキーボール千滝園とありますが、字も同じですし同じ方が何等かの遊戯系の御商売をされていたのでしょうか。
 地名については確かにあのあたりは確かに三の丸になっています。

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 町名の変更については昭和30年代末〜40年代始め頃の常陽新聞の記事に地元民が反対運動をしているとあります。
 これについて記事では万事保守的、オカミからの押し付けを嫌うと若干冷めた目で見ているようです。

 話を変えてやはり常陽新聞の記事なのですが、駅前の茨交ビル、多分ストアと同じ建物のことだと思いますが、この
3階に「サッポロ銘酒コーナー」という自動販売機の飲み屋が開店したとあります。
 入り口で50円硬貨に両替し、二級酒から特級酒、ウイスキーを自動販売機で購入して飲むそうです。
 ビールもありますがこれは自動販売ではなく、ツマミはピーナッツや焼き鳥。焼き鳥は串を買って部屋にある炭火で自分で焼いて食べるとか。
 最近ひょんなことからオートスナックといわれた自動販売機コーナーへの興味が再燃して、数少ない生き残り店に食べに行ってきた
ばかりですが、このサッポロ銘酒コーナーを当時利用した方が居られれば是非お話をうかがいたいものです。

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 文章が遂行不足で同じ言葉を繰り返す部分があり読みにくくて申し訳ありません。コピーとペーストでいじっているうちに変なことになってしまいがちで。今後気をつけます。
 
 やはりあの界隈の話なのですが、三高下〜下市のバイパスの途中左側に鳩小屋があります。最近取り壊しもしているようですが。
 私の3〜4歳位の記憶だと、今回取り壊した建物はお菓子やジュースなどを売っている普通の食料品店だったように思います。
 15さんならそこで何かお買いになった記憶などお持ちなのではないでしょうか?

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 昭和仮面さん、レスありがとうございます。ハクジイさんのプロバイダは書込み制限の
ようですので、当面は我々でこのスレを維持していきましょう。HNが無いとレスが
付け辛いと思うので、試しに私が愛した「水浜電車」をHNにしてみます。
>>19
 三高と附属小の南側崖下にあった鳩小屋は確かに昔は食料品店でした。
ただ、私が高校に入学した昭和54年時点で既に閉店しており、ここのバイパスが
昭和47年に開通したことを考えると、食料品店(というかお弁当屋さん)として
営業したのは何年でもなかったようです。後年レース鳩の施設になったようですが
電磁波の影響で伝書鳩が機能しなくなった近年、ついに用途廃止となったみたいです。
この近辺を通る高校生たちに食料を提供していたのは専ら照山商店でした。
 前にも書きましたが、私は踏切を越えて日の丸食堂で空腹を満たす毎日でした。

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>>20 水浜電車さん
 了解しました。宜しくお願いいたします。
 いずれ他の方もハンドルを名乗っていただけるようになればハクジーさんを中心にちょっとした交流の機会も持てるようになるかもしれませんね。

 鳩小屋の件、情報ありがとうございます。
 私の記憶でも店として営業していたのを見たのはほんの僅か。多分親に連れられて散歩をしたときに見たのでしょう。

 今夜は水郡線の踏切を渡ってみます。小学校入学前はこの踏み切りは子供だけで渡ってはいけないと注意されていたので思い出が多いわけではありません。
 はっきり時期は特定できないのですが恐らくは4歳くらいの頃、この水郡線の踏み切りをSLが走ったのを見た記憶があります。
 親から見るように勧められて見たのですからたぶん特別列車だったのでしょう。当時既に普段は普通の列車が走っていました。
 住宅図上ではこの踏切を越えると右側に「馬鹿盛食堂」親や伯父は憶えているのですが私はこの店名には記憶がありません。後年、昭和50年代中盤以降はここに中華料理屋さんがあり(のんちゃんという店名だったような)弟の同級生のお宅でもありました。
 続いて「富士家具センター」「今川焼き 岩瀬屋」そして自転車屋さん。小さい頃はひのまる食堂の他にもう1軒今川焼きのお店があったことを憶えているのでそれが岩瀬屋さんなのでしょう。自転車屋さんも下市に自転車通勤していた頃パンクでお世話になりましたが今では閉店されていますね。
 紙袋店を挟んで本命「今川焼き ひのまるや」水浜電車さんが行きつけだったお店ですね。住宅図ではひのまるやとなっていますが記憶ではひのまる食堂になっています。
私もやはり昭和53〜55年位の頃よくナポリタン焼きそばを食べに連れて行ってもらっていました。老夫婦がやっていた小さなお店ですが、大人になってから平成の始め頃?久しぶりに食べに行くと御主人は既に無くナポリタン焼きそばもやっていませんでした。今では閉店して更地になっていると思います。

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  • 22
  • 昭和仮面
  • 2010/06/11(金) 23:18:17
 隣が「きらく酒場」床屋さんとクリーニング店を挟んで「てがる食堂」「食堂磯の家」、理容室や美容室など6軒挟んで「助六寿し」。助六寿しはあの界隈では大きな建物だったと思います。
 親によるとこのあたりは国鉄職員向けの飯屋さんが多かったとの話です。

 寿司屋さんの隣が「港屋食品店」。前スレで記憶で書いた小さなスーパーのようなお店とはここのことです。住宅図を見て思い出しました。色々な食料品が揃っていたのではないかと思いますがなにしろ本当に小さな頃の記憶なので曖昧です。夕方によく母親に連れられて買い物に行っていました。あの頃は母親も自動車免許を持っていなかったので買い物は手近で済ませることが多かったのでしょう。駅前の「西友」もさほど遠くは無い筈ですが昭和40年代後半の時点で我が家では特別な買い物の時だけだったようです。私はとても楽しみにしていました。小さな子供だった私にとって「伊勢甚」や「島津」へ行くのは今で言うところの上京するような感覚でした。
 
 更に何軒か挟んで「初福」「たぬきや菓子店」。両方とも同級生のお宅でしたが「初福」は他の年度の住宅図だと「バー トワン」。子供の頃の記憶だと「入船」。飲み屋さん系のお店がしばしば店名を変えて営業していたのかもしれません。菓子店は住宅図では本当は個人の苗字で出ていますがプライバシー保護の為。子供の頃の記憶だと「たぬきや」だった筈なんですが。
 この「たぬきや」さんか前述の「港屋」さんのどちらかでクリスマス頃母親に長靴型のプラスチック容器に入ったお菓子の詰め合わせを買ってもらい大喜びしたものです。但し中身のお菓子より長靴型容器を喜んでいたような。
 「たぬきや」の隣を越えると右へ入る道がありますが子供には用の無い通り。
 
 曲がらず真っ直ぐ行くと肉屋さん、薬局、帽子屋さん。帽子屋さんは小売ではなく製造所です。通りから作業が見えるようになっていたので小学校時代何回か覗き込んだことがあります。1軒挟んで鉄工所。ここは弟の同級生のお宅でした。ここから先は同級生のお宅もちらほらありますがあまり縁の無い地域となります。

ここまで見た
  • 23
  • 昭和仮面
  • 2010/06/11(金) 23:30:44
 長くなって申し訳ありません。
 水郡線の踏み切りを渡って今度は左側を歩きます。
 踏み切りの直ぐ次にあったのが「酒の店 ひろみ」。他の年度の住宅図だと個人の苗字が出ているので住居兼住宅だったのか?
 私の記憶だと昭和50年頃には空き家になっていたか、或いは少なくとも商売は止めていてここの建物が取り壊しになる云々と大人達から聞いた覚えがあり確かにその後ほど無く取り壊されました。
 現在では三の丸歯科の駐車場になっていますね。

 続いて「常磐倉庫」が広大な土地を占めています。冷凍倉庫だったと思います。
 倉庫間の間隔は駐車場として貸し出されていたようで、うちの父親はここに車を止めていました。後に自動車免許を取得した母親も一時ここに駐車場を借りていました。現在では完全に貸し駐車場と化しています。
 幼かった弟がここで止める間もなく石を投げ子蛇を殺したのが昭和50年代中頃。その後どうも我が家の家運が思わしくないのはまさか…
 
 ここから先はタイヤ屋さんや「笹沼五郎商店」があった以外記憶が残っていませんがやはり同級生のお宅が何軒かありました。
 では今夜はここまでに。

ここまで見た
  • 24
  •  
  • 2010/06/11(金) 23:38:23
ところで子供のころに有って今ないものでスイフ.アンゼン.イバコウ
のホームセンターって妙に特色ある品揃えでしたね。
だから倒産したのかもしれないけど、なくなって不便になりました。

ここまで見た
 「スイフ」「アンゼン」はここ10年のうちに相次いで無くなりましたよね。
 「イバコウ」は憶えていないのですが茨城交通系?以前浜田にあった茨交ストアに入っていたホームセンターでしょうか?

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  • 26
  •  
  • 2010/06/12(土) 01:14:55
浜田の茨交エブリーでは?

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  • 27
  • ハクジー
  • 2010/06/12(土) 21:03:09
いや、いや驚きました!やはり、昭和一桁族は、もうボケに入ったか?・・・・・な〜んて
云うと、昭和一桁族に叱られてしまいますが、実は、一生懸命前スレに書き込んでいて、あっ、
そうだ、300で終わりだっけ、どうりで、5月25日でストップしてしまっていたんだ。
何と、「水戸の歴史」Part7も既に26スレ。ごめんなさい!
>>296
ぜひお逢いしましょう。いつになるかまだ日程がたちませんが、近いうちに必ず帰水いたします。
もしかしたら、皆さんも集まってしまったりして・・・・・!そうだったら、楽しいですねェ〜!

それにしても、懐かしいお話が沢山書き込まれておりますね。水郡線の踏切のこと・・・
前々スレで私は、踏切を渡ってすぐの倉庫の悲惨な話を書きましたが、そんな暗い話は出て
おりませんので安心しました。後日私の知っている水郡線の踏切から水浜電車の鉄橋をくぐる
辺りまでのこと書きましょうか?水浜電車が今の一高下をカーブして、常磐線を跨ぎ、大きく
カーブして坂を下り、また、大きくカーブして、東柵町へと行くのですが、あの辺には
私の三の丸国民学校の学友達がおりました。

いずれにしても、「水戸の歴史」Part7オープンおめでとう御座います。

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  • 28
  • ハクジー
  • 2010/06/12(土) 21:28:40
>>5
「じゃらんけっほい」とか「じゃんけんほい」・・・・・これを聞いて、
私も「じゃらんけれんぽろん」と云った事を思い出しました。

本来は「あんしょーえし」でしたけど (^O^)

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  • 29
  •  
  • 2010/06/12(土) 22:24:44
>>26
そうです茨交エブリーのことです。
家では、いばこうのほーむせんたーってよんでたもので。
ところで、初期のホットスパーにはヤマザキのケーキと
ディップアイスがショーケースにならんでいたものでしたが最近のコンビニ
ではとんとみかけなくなってしまいましたね。

ここまで見た
  • 30
  •  
  • 2010/06/13(日) 08:22:28
茨交エブリーと茨交デーリー。今はカワチになっている。
あの辺にホームセンター、非常に便利だった。
昔は城東にもアンゼンがあったな。

>>28
こんなのもあった。
「じゃっけっほい!」「あいいっしょ!」「しょ!」「しょ!」

ここまで見た
  • 31
  •  
  • 2010/06/14(月) 23:02:58
城東のアンゼン最後のころは、ほとんどゲーム屋のようになってたような。

ここまで見た
  • 32
  •  
  • 2010/06/15(火) 13:09:45
>>31
思い出した。
最後の頃はツタヤになってたね。

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>>21
水郡線のSLは鉄道100年記念で走ったときですね。昭和47年だったと思います。
私も父にせがんで水戸まで連れて行ってもらい、水戸一高の本城橋から買って
もらったばかりのカメラ(リコーオートハーフ)で撮影したのを憶えています。

ここまで見た
  • 34
  •  
  • 2010/06/15(火) 21:44:18
>>32
あのころだとブックエースなのではないかとおもいますが
思い違いかもしれません。

ここまで見た
  • 35
  •  
  • 2010/06/16(水) 02:59:25
鉄道100年記念ドラマ「大いなる旅路」分かる人いるかな

ここまで見た
  • 36
  •  
  • 2010/06/16(水) 16:50:10
>>34
朧げな記憶ながら・・・
ブックエースとツタヤ両方の看板があったような・・・?

確か、最後の頃はアンゼンは撤退してましたよね・・?

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>>33 水浜電車さん
 私は現在の三の丸歯科の辺りで見たのですが、一高の橋でしたら意外に近くに居られたのですね。

 水浜電車さんの愛した「水浜電車」ですが、残念ながら私の生まれたときには既に廃止になっていました。
 茨城鉄道は残っていましたがこれも残念ながら物心つく前に廃線。
 ただ小学生時代、現在の上水戸ストッカーの場所にバスの廃車置場があり一度だけ入りこんで遊んだことがありました。
 その時バスの中に放置されていた水浜電車だか茨城鉄道だかの切符を拾った覚えがあるのですが、残念ながら深く興味を持つことも無くいつの間にか失くしてしまいました。
 今にして思えば不法侵入なんでしょう。威張れた話ではありませんが。

ここまで見た
  • 38
  •  
  • 2010/06/17(木) 00:05:43
アンゼンさいごのころは、経営元がブックエースと同じところ
になってましたから撤退というより営業形態の変更にあたるんでしょうね。
書籍は、ブックエースでレンタルはツタヤのフランチャイズ
だったのかもしれませんね。

ここまで見た
  • 39
  •  
  • 2010/06/17(木) 01:21:32
>>35

憶えちゃいるが、流れと関係ありや?

小椋佳が主題歌 歌ってたが、
当初謎の歌手扱い。

また、人力車の引き手の子孫が
国鉄一家に…なんてのだったが、
あれのモデルになるとしたら
島(秀雄)さん家くらいしかないかも…
なんて思ったもんだが。

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  • 40
  • 昭和33年生れ
  • 2010/06/17(木) 10:49:00
私は新荘小学校だったのですぐ裏を水浜電車が走っており、2年生の遠足では
すぐ裏の停車場から乗り込んで大洗に行きました。まもなく廃線になりました
が、電車道(今でもこう呼ぶひとはいるようです)は私の道草通学路となりま
した。小学校から砂久保遊園地あたりまでは思い出いっぱいの道です。

ここまで見た
  • 41
  •  
  • 2010/06/17(木) 12:46:31
ずーずーべん

ここまで見た
  • 42
  • 昭和33年生れ
  • 2010/06/17(木) 17:50:50
訂正 砂久保遊園地 → 砂久保公園

ここまで見た
>>40
 新荘小の裏にあった電停は一中前ですね。この停留所は水浜線末期に少しでも
乗客を増やそうと新設されたと土地の人に聞きました。砂久保電停は電車の
交換をしていたところですね。近くの間宮商店ではかつて水浜線の列車交換の仕事を
委託されていたと数年前の新聞で呼んだことがあります。間宮商店のおばさんは
昔の電車の話をしてくれたものですが、残念ながら数年前に閉店してしまいました。

ここまで見た
  • 44
  •  
  • 2010/06/18(金) 08:09:05
>>39
「大いなる旅路」覚えている方がいらっしゃったんですね。
 >>33で鉄道100年の話題が揚って何気に思い出しました。
 この頃一緒に明治100年などの記念の行事もありましたね。

 本当にお聞きしたかったのは
 日立キドカラーポンパ号のお話しです。

 幼い頃から日本テレビの日立提供「すぱらしい世界旅行」をいつも見ていて、
 SLポンパ号や飛行船のキドカラー号のコマーシャルが流れていたことを覚えています。
 しかし肝心のポンパ号が水戸駅に来たかどうか覚えていません。
 どなたかご存知の方は居られますか?
もし来ていたのならどのような催物があったか教えてください。

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  • 45
  • ハクジー
  • 2010/06/18(金) 22:08:33
ごめんなさいm(_ _)m 日立キドカラーボンバ号の事とは、全く違うんですが、
日立提供の「すばらしい世界旅行」は、私も観てました。私の場合は、かなり前の
番組ですが、結構長く放映されていたんですね?その中の、「素晴らしいスイス」
を観たんですが、その頃は、日立のコマーシャルの中で、インターネットとか
インターフェイスなどの説明をしてましたね。あの番組ビデオに撮ってありますよ。

話が、とんでもない所へ、飛んで行ってしまって、申し訳御座いません。

「大いなる旅路」は以前のこのスレでも話題になったことありますね。
してましたね。

ここまで見た
  • 46
  • ハクジー
  • 2010/06/18(金) 22:10:33
↑してましたね。・・・・・削除

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  • 47
  •  
  • 2010/06/20(日) 05:24:38
>>38
なるほど!すっきりしました。

>>27
「帰水」って初めて聞きました。
なんかイイですね!使おう。

ここまで見た
  • 48
  •  
  • 2010/06/21(月) 14:01:54
「帰水」の類似で「来水」ってのもありましたね
また、同じように「帰洗」、「来洗」って使っているのも目にしたことがある。

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  • 49
  •  
  • 2010/06/22(火) 18:15:00
帰水と来水という言葉、
私は水戸生まれの水戸育ちですが茨大に入って初めて知りました

ところで、現在の栄町(の一部)って昔は信願寺町と言われてたのですね
信願寺、いつごろ、どの辺にあったのでしょう?

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  • 50
  •  
  • 2010/06/22(火) 18:17:23
水戸は岡田さんの街。あの人は良いね。

ここまで見た
  • 51
  •  
  • 2010/06/23(水) 16:56:29
岡田さんって、どこ誰のお葬式にも来てる人かしら?

ここまで見た
  • 52
  •  
  • 2010/06/24(木) 02:56:13
岡田氏は何者ですか?

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  • 53
  •  
  • 2010/06/24(木) 17:43:09
>>52
今日から始まったのは何?
この時期に岡田といったらあの岡田しかいないだろう。




…サッカーじゃないよ。

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  • 54
  •  
  • 2010/06/25(金) 12:23:48
仙波湖畔にSLあんだろ
俺の爺ちゃんあれの機関士だったんだぜw

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  • 55
  • ハクジー
  • 2010/06/25(金) 21:20:44
>>54
千波湖畔にある、多分D−51だと思ったけど、D51515 じゃなかったかな?
それとも D51651 だったかな・・・・・?
もしそうだとすれば、結構当時有名な機関車だったんですよ。

ここまで見た
  • 56
  •  
  • 2010/06/25(金) 23:23:45
>>54
それは凄い!自慢のお爺さんですね。

>>55
そうですデゴイチです。

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  • 57
  •  
  • 2010/06/26(土) 04:14:44
千波湖のD−51には保存会があって、定期的に整備・清掃をしている。

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  • 58
  • ハクジー
  • 2010/06/26(土) 09:02:22
千波湖に展示してあるD51は、もしかして全く関係のない機関車かもしれませんが、
D51651は昭和24年(1949年)に常磐線と東武線の交差する綾瀬近くの、そして、
東京拘置所近辺で、当時米軍占領下にあった日本の初代の国鉄総裁下山定則氏の自殺死体?
が発見され、その下山国鉄総裁を轢死させた機関車が、このD51651でした。その頃、
私は、学制改革により新制中学(現在の中学校)の2年生の時でした。
D51515は、年代は忘れましたが、長い貨物列車を牽き、水戸を出発、偕楽園下の急カーブ
を赤塚方面に向かっていた時、機関車が赤塚近辺に差し掛かった頃、何故か?機関車と貨物列車が
自然に切り離され、あの急勾配を水戸駅へと逆戻りしてしまいました。今では全く見当たりませんが、
当時は上りホームと下りホームへ荷物を移動させる為に、クレーンが赤塚よりのホームにありました
が、逆戻りした長い貨物車は、こクレーンに激突し折り重なりました。機関車は、赤塚駅近くに
取り残されました。その時運転していたのは、私の叔父でした。54番さんのオジーさんと私の叔父は
案外知り合いだったかもしれませんね。
ちなみに、水戸博物館で発行された「激動の昭和鉄道史」の47ページに写真が載ってますね。
あの踏切が私が毎日の様に渡った、ちょっとばかり「開かずの踏切」です。

フリックラーニング
フリックゾンビ
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