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 「スイフ」「アンゼン」はここ10年のうちに相次いで無くなりましたよね。
 「イバコウ」は憶えていないのですが茨城交通系?以前浜田にあった茨交ストアに入っていたホームセンターでしょうか?

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  • 26
  •  
  • 2010/06/12(土) 01:14:55
浜田の茨交エブリーでは?

ここまで見た
  • 27
  • ハクジー
  • 2010/06/12(土) 21:03:09
いや、いや驚きました!やはり、昭和一桁族は、もうボケに入ったか?・・・・・な〜んて
云うと、昭和一桁族に叱られてしまいますが、実は、一生懸命前スレに書き込んでいて、あっ、
そうだ、300で終わりだっけ、どうりで、5月25日でストップしてしまっていたんだ。
何と、「水戸の歴史」Part7も既に26スレ。ごめんなさい!
>>296
ぜひお逢いしましょう。いつになるかまだ日程がたちませんが、近いうちに必ず帰水いたします。
もしかしたら、皆さんも集まってしまったりして・・・・・!そうだったら、楽しいですねェ〜!

それにしても、懐かしいお話が沢山書き込まれておりますね。水郡線の踏切のこと・・・
前々スレで私は、踏切を渡ってすぐの倉庫の悲惨な話を書きましたが、そんな暗い話は出て
おりませんので安心しました。後日私の知っている水郡線の踏切から水浜電車の鉄橋をくぐる
辺りまでのこと書きましょうか?水浜電車が今の一高下をカーブして、常磐線を跨ぎ、大きく
カーブして坂を下り、また、大きくカーブして、東柵町へと行くのですが、あの辺には
私の三の丸国民学校の学友達がおりました。

いずれにしても、「水戸の歴史」Part7オープンおめでとう御座います。

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  • 28
  • ハクジー
  • 2010/06/12(土) 21:28:40
>>5
「じゃらんけっほい」とか「じゃんけんほい」・・・・・これを聞いて、
私も「じゃらんけれんぽろん」と云った事を思い出しました。

本来は「あんしょーえし」でしたけど (^O^)

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  • 29
  •  
  • 2010/06/12(土) 22:24:44
>>26
そうです茨交エブリーのことです。
家では、いばこうのほーむせんたーってよんでたもので。
ところで、初期のホットスパーにはヤマザキのケーキと
ディップアイスがショーケースにならんでいたものでしたが最近のコンビニ
ではとんとみかけなくなってしまいましたね。

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  • 30
  •  
  • 2010/06/13(日) 08:22:28
茨交エブリーと茨交デーリー。今はカワチになっている。
あの辺にホームセンター、非常に便利だった。
昔は城東にもアンゼンがあったな。

>>28
こんなのもあった。
「じゃっけっほい!」「あいいっしょ!」「しょ!」「しょ!」

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  • 31
  •  
  • 2010/06/14(月) 23:02:58
城東のアンゼン最後のころは、ほとんどゲーム屋のようになってたような。

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  • 32
  •  
  • 2010/06/15(火) 13:09:45
>>31
思い出した。
最後の頃はツタヤになってたね。

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>>21
水郡線のSLは鉄道100年記念で走ったときですね。昭和47年だったと思います。
私も父にせがんで水戸まで連れて行ってもらい、水戸一高の本城橋から買って
もらったばかりのカメラ(リコーオートハーフ)で撮影したのを憶えています。

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  • 34
  •  
  • 2010/06/15(火) 21:44:18
>>32
あのころだとブックエースなのではないかとおもいますが
思い違いかもしれません。

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  • 35
  •  
  • 2010/06/16(水) 02:59:25
鉄道100年記念ドラマ「大いなる旅路」分かる人いるかな

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  • 36
  •  
  • 2010/06/16(水) 16:50:10
>>34
朧げな記憶ながら・・・
ブックエースとツタヤ両方の看板があったような・・・?

確か、最後の頃はアンゼンは撤退してましたよね・・?

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>>33 水浜電車さん
 私は現在の三の丸歯科の辺りで見たのですが、一高の橋でしたら意外に近くに居られたのですね。

 水浜電車さんの愛した「水浜電車」ですが、残念ながら私の生まれたときには既に廃止になっていました。
 茨城鉄道は残っていましたがこれも残念ながら物心つく前に廃線。
 ただ小学生時代、現在の上水戸ストッカーの場所にバスの廃車置場があり一度だけ入りこんで遊んだことがありました。
 その時バスの中に放置されていた水浜電車だか茨城鉄道だかの切符を拾った覚えがあるのですが、残念ながら深く興味を持つことも無くいつの間にか失くしてしまいました。
 今にして思えば不法侵入なんでしょう。威張れた話ではありませんが。

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  • 38
  •  
  • 2010/06/17(木) 00:05:43
アンゼンさいごのころは、経営元がブックエースと同じところ
になってましたから撤退というより営業形態の変更にあたるんでしょうね。
書籍は、ブックエースでレンタルはツタヤのフランチャイズ
だったのかもしれませんね。

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  • 39
  •  
  • 2010/06/17(木) 01:21:32
>>35

憶えちゃいるが、流れと関係ありや?

小椋佳が主題歌 歌ってたが、
当初謎の歌手扱い。

また、人力車の引き手の子孫が
国鉄一家に…なんてのだったが、
あれのモデルになるとしたら
島(秀雄)さん家くらいしかないかも…
なんて思ったもんだが。

ここまで見た
  • 40
  • 昭和33年生れ
  • 2010/06/17(木) 10:49:00
私は新荘小学校だったのですぐ裏を水浜電車が走っており、2年生の遠足では
すぐ裏の停車場から乗り込んで大洗に行きました。まもなく廃線になりました
が、電車道(今でもこう呼ぶひとはいるようです)は私の道草通学路となりま
した。小学校から砂久保遊園地あたりまでは思い出いっぱいの道です。

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  • 41
  •  
  • 2010/06/17(木) 12:46:31
ずーずーべん

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  • 42
  • 昭和33年生れ
  • 2010/06/17(木) 17:50:50
訂正 砂久保遊園地 → 砂久保公園

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>>40
 新荘小の裏にあった電停は一中前ですね。この停留所は水浜線末期に少しでも
乗客を増やそうと新設されたと土地の人に聞きました。砂久保電停は電車の
交換をしていたところですね。近くの間宮商店ではかつて水浜線の列車交換の仕事を
委託されていたと数年前の新聞で呼んだことがあります。間宮商店のおばさんは
昔の電車の話をしてくれたものですが、残念ながら数年前に閉店してしまいました。

ここまで見た
  • 44
  •  
  • 2010/06/18(金) 08:09:05
>>39
「大いなる旅路」覚えている方がいらっしゃったんですね。
 >>33で鉄道100年の話題が揚って何気に思い出しました。
 この頃一緒に明治100年などの記念の行事もありましたね。

 本当にお聞きしたかったのは
 日立キドカラーポンパ号のお話しです。

 幼い頃から日本テレビの日立提供「すぱらしい世界旅行」をいつも見ていて、
 SLポンパ号や飛行船のキドカラー号のコマーシャルが流れていたことを覚えています。
 しかし肝心のポンパ号が水戸駅に来たかどうか覚えていません。
 どなたかご存知の方は居られますか?
もし来ていたのならどのような催物があったか教えてください。

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  • 45
  • ハクジー
  • 2010/06/18(金) 22:08:33
ごめんなさいm(_ _)m 日立キドカラーボンバ号の事とは、全く違うんですが、
日立提供の「すばらしい世界旅行」は、私も観てました。私の場合は、かなり前の
番組ですが、結構長く放映されていたんですね?その中の、「素晴らしいスイス」
を観たんですが、その頃は、日立のコマーシャルの中で、インターネットとか
インターフェイスなどの説明をしてましたね。あの番組ビデオに撮ってありますよ。

話が、とんでもない所へ、飛んで行ってしまって、申し訳御座いません。

「大いなる旅路」は以前のこのスレでも話題になったことありますね。
してましたね。

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  • 46
  • ハクジー
  • 2010/06/18(金) 22:10:33
↑してましたね。・・・・・削除

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  • 47
  •  
  • 2010/06/20(日) 05:24:38
>>38
なるほど!すっきりしました。

>>27
「帰水」って初めて聞きました。
なんかイイですね!使おう。

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  • 48
  •  
  • 2010/06/21(月) 14:01:54
「帰水」の類似で「来水」ってのもありましたね
また、同じように「帰洗」、「来洗」って使っているのも目にしたことがある。

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  • 49
  •  
  • 2010/06/22(火) 18:15:00
帰水と来水という言葉、
私は水戸生まれの水戸育ちですが茨大に入って初めて知りました

ところで、現在の栄町(の一部)って昔は信願寺町と言われてたのですね
信願寺、いつごろ、どの辺にあったのでしょう?

ここまで見た
  • 50
  •  
  • 2010/06/22(火) 18:17:23
水戸は岡田さんの街。あの人は良いね。

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  • 51
  •  
  • 2010/06/23(水) 16:56:29
岡田さんって、どこ誰のお葬式にも来てる人かしら?

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  • 52
  •  
  • 2010/06/24(木) 02:56:13
岡田氏は何者ですか?

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  • 53
  •  
  • 2010/06/24(木) 17:43:09
>>52
今日から始まったのは何?
この時期に岡田といったらあの岡田しかいないだろう。




…サッカーじゃないよ。

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  • 54
  •  
  • 2010/06/25(金) 12:23:48
仙波湖畔にSLあんだろ
俺の爺ちゃんあれの機関士だったんだぜw

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  • 55
  • ハクジー
  • 2010/06/25(金) 21:20:44
>>54
千波湖畔にある、多分D−51だと思ったけど、D51515 じゃなかったかな?
それとも D51651 だったかな・・・・・?
もしそうだとすれば、結構当時有名な機関車だったんですよ。

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  • 56
  •  
  • 2010/06/25(金) 23:23:45
>>54
それは凄い!自慢のお爺さんですね。

>>55
そうですデゴイチです。

ここまで見た
  • 57
  •  
  • 2010/06/26(土) 04:14:44
千波湖のD−51には保存会があって、定期的に整備・清掃をしている。

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  • 58
  • ハクジー
  • 2010/06/26(土) 09:02:22
千波湖に展示してあるD51は、もしかして全く関係のない機関車かもしれませんが、
D51651は昭和24年(1949年)に常磐線と東武線の交差する綾瀬近くの、そして、
東京拘置所近辺で、当時米軍占領下にあった日本の初代の国鉄総裁下山定則氏の自殺死体?
が発見され、その下山国鉄総裁を轢死させた機関車が、このD51651でした。その頃、
私は、学制改革により新制中学(現在の中学校)の2年生の時でした。
D51515は、年代は忘れましたが、長い貨物列車を牽き、水戸を出発、偕楽園下の急カーブ
を赤塚方面に向かっていた時、機関車が赤塚近辺に差し掛かった頃、何故か?機関車と貨物列車が
自然に切り離され、あの急勾配を水戸駅へと逆戻りしてしまいました。今では全く見当たりませんが、
当時は上りホームと下りホームへ荷物を移動させる為に、クレーンが赤塚よりのホームにありました
が、逆戻りした長い貨物車は、こクレーンに激突し折り重なりました。機関車は、赤塚駅近くに
取り残されました。その時運転していたのは、私の叔父でした。54番さんのオジーさんと私の叔父は
案外知り合いだったかもしれませんね。
ちなみに、水戸博物館で発行された「激動の昭和鉄道史」の47ページに写真が載ってますね。
あの踏切が私が毎日の様に渡った、ちょっとばかり「開かずの踏切」です。

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>>44
 当時、SL列車とは別にポンパ君の飛行船が飛んでいて、昭和45年か46年ごろ日立市上空を
飛んでいるのを学校の校庭で見たことがあります。
 肝心のSL列車が水戸に来たかどうかは資料らしい資料もないため判然としません。
当時、私が通っていた日立市の小学校では飛行船の話題で持ちきりでしたが、SLはまったく
話が無く、こういう列車があったことを知ったのさえここ十数年の間にインターネットが普及した
おかげです。全国2万キロを走ったということなので日立製作所のお膝元の常磐線を
通らなかったということもないのでしょうが、当時でさえ水戸や日立で鉄道が好きな人は
ごく少数であり地元に記録が無いのも仕方ないことだと思います。
 ちなみに、このSLポンパ号は廃車になったC11と客車を飾り立て、実際には他の機関車が
引いて走ったというキワモノ的な列車で余り人気はなかったそうです。

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>>37
 昭和仮面さん、上水戸で拾った切符なくされてしまったそうで、今にして思えば勿体ない気も・・・
こないだヤフーオークションをのぞいたら昔の水浜電車の切符が出品されてて1万円以上の値段が
付いてました。ものにもよるでしょうが。
 地元ではまったく省みられることのないようなモノが、全国規模では愛好者やマニアに
大変ありがたがられる場合が結構あるみたいです。

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>>49
 今の信願寺は緑町ですが、江戸時代の初め頃は今の栄町の南東付近にあったそうです。
元の信願寺は天和元年(1681年)の火事で移転しましたが、地名は変わることなく、
信願寺町(しんがんじちょう)の町名は1967年の住居表示で廃止になるまで三百年以上使われて
いました。信願寺町の場所は他の旧町名と同じく石碑があるのですぐ解りますが、今の山口楼の
通りと言えば解りやすいでしょうか。栄町通りと大成女子高の前の通りの間で、夜になると
飲み屋の客や代行の車でごった返すことろです。信願寺町は住居表示の結果、バラバラにされて
栄町と大工町と泉町と五軒町に分断されました。
 ちなみに裡信願寺町(うらしんがんじちょう)というのもありましたが、これは山口楼の
南側のやや細い通りで鰻亭、ぬり屋、中川楼などのおいしいウナギを食べさせる料亭が
軒を並べるあの界隈です。

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>>58
 ハクジーさん、ちょっとしたツッコミですが・・・
>学制改革により新制中学(現在の中学校)の2年生の時
 これは新制高校(現在の高等学校)の2年の時ではないでしょうか?でないと
時代が合いません。
 下山事件は私が子供の頃(昭和40〜50年代)もたびたびニュースで取り上げ
られましたが、どういう状況なのかがわかったのはずっと後のことでした。
 千波湖畔のD51は日立のハチロクなき今、貴重な保存SLとなりましたね。
昨今の役所の財政難で、こういう産業遺産の維持管理には行政も及び腰な中、
ボランティアで整備を行っている方々は本当に尊敬してしまいます。

ここまで見た
  • 63
  • ハクジー
  • 2010/06/27(日) 11:56:38
>>62 水浜電車さん
有り難う御座いました。やはりだんだんと記憶が薄れていくのでしょうか?悲しくなります(/_;)
その通りです。学制改革は、昭和23年、未だ私が旧制茨城中学校3年生、あと一年で終わりと云う
ところで新制中学3年になり、旧制中学の最後の卒業生でした。ですから、下山事件は、私が
新制茨高の2年の時でした。あの下山事件の木製で出来た碑は上野に向かって右側の東武線の下に
建ててありました。現在は、全く違う所にあるそうですけど・・・・。

ここまで見た
  • 64
  • 49
  • 2010/06/29(火) 00:45:17
>>61
水浜電車さん、丁寧なご説明ありがとうございます。
とてもよくわかりました。信願寺があったのはずいぶん昔だったのですね。
町名が廃止された67年はちょうど私の生年です、しみじみ。
最近天保年間の古地図をネットで見かけて、それを頭の中に描きながら散歩などしています。
ブラタモリ流にお堀の跡の高低差を楽しんだり。大通りの起伏はまさにそのまんまですね。
歳を経るごとに郷土愛みたいなものが芽生えてくる不思議。

ここまで見た
  • 65
  • ハクジー
  • 2010/06/29(火) 12:11:11
>>48
>>49
私の叔父は、こんな手紙を書いていたのを覚えております。
「御来水の折は、是非拙宅にお立ち寄り願い上げ度候」
それも巻紙に筆書きでした。でも、私の母親の弟ですから、まだそんな昔では
ないですよね。

ここまで見た
  • 66
  •  
  • 2010/07/01(木) 17:56:44
手紙で思い出した・・・

水戸の歴史関連本に、(誰宛だったかは忘れたけど)昭和初期だかの葉書の写真が載ってて、
住所が「水戸市上市○○(町名)×ー××」って書いてあったんですよね。(「下市」だったかもしれない)
記憶が曖昧で申し訳ないんですが・・・

昔は町名の前に「上市・下市」って書いたんだなーと感動した。

ここまで見た
  • 67
  • 水浜電車
  • 2010/07/02(金) 02:25:33
>>65
 ハクジーさん、こういう文章は奥ゆかしい感じがしていいですね。
 今の学校では文語体の文章は古典しか教えませんから、昭和以降の比較的新しい
文語文は却ってなじみがない人が多いと思います。

ここまで見た
  • 68
  • 水浜電車
  • 2010/07/02(金) 02:31:15
>>66
 以前にここで紹介された「常男の住所録」URL→http://www.katogi.com/history/tsuneo01.htm
を見ると水戸市上市○○町、水戸市下市○○町などの表記が目に付きます。
水戸も昭和の中ごろまでは無数に町名があったので、おおまかに上市と下市で分けた方が
住所を認識しやすかったってこともあるかもしれません。

ここまで見た
  • 69
  • ハクジー
  • 2010/07/02(金) 09:51:35
>>67
水浜電車さん、おはようございます。
私の叔父が、この様な文章で手紙を書いたのは、もう、私が小中学生時代
ですから、そんなに昔ではありません。ですから現代言葉の中に、何故か?
「候」言葉が入っていたり、巻紙で毛筆、この時代では、かなり自分では
「格好良い」と思っていたのではないでしょうか?
きっと、時代劇に出てくるような言葉で、巻紙毛筆で手紙を書いたら、受けた
人は、すごいなァ〜って思うんでしょうね。それとも、もう今では、「なにこれ?」
って感じるんでしょうかね。

話は変わりますが、夕べテレビのデジタル10(こちらではテレビ愛知」)で放映
していた「空から日本を見てみよう」を観ました。千波湖畔の、「桜田門外の変」の
オープンセットは凄いですね。それに、どこもかしこも、私が在水していた頃よりは
はるかに何処も彼処も変わったと、つくづく思いました。田圃と畑ばかりの茨城では
なくなりましたね。

>>66 >>68
今は上市、下市とは余り使わないんですか? 東京で云う下町と山の手とは又違うん 
でしょうね。でも、そんな感じしないもんでもない。どちらかと云うと、下市は
商工業地帯、上市は屋敷町(昔の)と遊び所。特に備前堀の辺りの、紺屋町は
染め物やさんの町だし、その他、昔からあるような商店の町並みでしたから・・・・。

何だか子供の頃を思い出してしまいました。私の場合、私は、三の丸小学校、でも、
千波の学区外でも、沢山の子供達が「付属」へ通ってました。そして、その親達は
武家といった感じだった。その子の家には、「暴れん坊将軍」で吉宗が、弓を射る
場面がありますが、その纏である麦わらを丸く束ねたのがありましたよ。
「付属」に通っていた子は、東京では「学習院」に通っているといった感じでした。

ここまで見た
  • 70
  •  
  • 2010/07/02(金) 18:58:13
>>69
「上市・下市」
今でも一応使いますが・・・。

ただ、一番栄えているのが「駅前」と「大工町」となってしまったもので、「上市」はあまり一般的な言い方では無くなってしまいました。
一般的には、「駅北」とか「北口」「銀杏坂」「泉町」「南町」「大工町」・・・って感じですかね。大通り沿いに。
「上市」の定義が曖昧というか・・・

「下市」は、「下市商店街」「ジャスコ下市店」として名前が残っているので、普通に通じます。
ただ、商店街やジャスコ一帯だけが下市であると誤解している人も多く、「備前堀付近は下市じゃない・・・」とか思われてたりします。
また、下市界隈までひっくるめて「駅南」と呼ぶ場合もあります。

ここまで見た
  • 71
  •  
  • 2010/07/02(金) 19:01:44
↑あ、書き忘れました。

年配の方には普通に通じます。
若い世代が一般的に使わなくなってきました。

失礼しました。

ここまで見た
  • 72
  •  
  • 2010/07/02(金) 19:29:46
下市生まれの私の感覚では、下市は柳町、本町、浜田1丁目、瓦谷町、紺屋町、朝日町の一部、辺りってイメージです。
駅南は中央、城南、白梅、桜川辺りの総称かと思われます。

ここまで見た
  • 73
  •  
  • 2010/07/02(金) 22:09:53
「下市」の区画定義
昔図書館で読んだ本に書いてありました。

私の記憶が確かなら、「下市」の区画定義は、
大杉山以東那珂川沿いに若宮との境界まで。大杉山以南で吉田神社付近まで。
西南は上大野村との境界、酒門の坂下まで。中心部は本町で市場がある。となっていました。

古い本だったのですが、これによると、本町界隈は「市場」であり、全域はもっと広い。
「城東全域」「柵町」「浜田全域」「酒門の坂下」なんかも立派な下市だそうです。

これは江戸時代からの呼び方らしく、元来は「上町・下町」と呼ばれていたそうです。
「水戸市」以前の水戸藩の中心地のごく狭い地区を、水戸城を境に丘上と丘下で分けた事に由来するそうです。

加えて「千波湖」の埋め立て地部分は下市に区分されないという事でした。
ですので、旧千波湖沿いまでが該当地域ではないかと思われます。城南は微妙ですね。
「吉田神社」はギリギリ含まれますが、吉田全域ではない・・といったところでしょうか?

残念ながら、ソース的な物見つかりませんでしたので、
気になる方は図書館でお調べになると、はっきりすると思います。

ここまで見た
  • 74
  •  
  • 2010/07/02(金) 23:01:31
思い出しました。補足します。

下市のそもそもの中心は、竹熊町です。理由は徳川氏が入って来る以前から統治していた武隈氏の城があったからです。
その城下として下市が発祥し、当時は水戸で一番の賑わいであったが、徳川が来てから、
武隈城が降格され、武隈町→竹熊町になってしまったという事でした。

そのため、「下市」には古い家が多く、地元意識が強いとありました。

駅南通りが開通し、下市が北と南で分断された事も、区画が分かりにくくなった理由だと思います。
長文駄文失礼しました。

ここまで見た
>>69
 ハクジーさんの叔父さんってことは、おおよそ明治の終わりか大正初め頃の生まれの
方でしょうか。明治以降、言文一致の文章が次第に普及しましたが、まだ江戸時代以来
の候文も戦後しばらくは使われていたと思われ、特に「カッコつけた」という程でも
ないような気がします。
 金曜日の「空から〜」は私も見てました。水戸は内原ジャスコ以外は市街地を中心に
映していて、流行りのコンパクトシティーの逆を行き、今なおスプロール的に市街地が
広がる水戸の様子が強調される見せ方にも映りました。今でも市街地の北側の那珂川沿い
や浜田より先は水田が広がっているので昔とそんなに変わらないエリアもあると思います。

 下市と上市ですが、下市はともかく、上市はもう余り言わないのではないかと思います。
根積町に住む私の叔母は上市と言っていたのを覚えていますが、私が高校に入学して以降、
ここ30数年間、同年代の友人や同僚で上市と言っているのを聞いたことがありません。
若い人の中には「上市」を「うわいち」と読めない人も多いのではないでしょうか。

ここまで見た
>>59
 ところで、先日日立キドカラー・ポンパ号のことを少し書きましたが、
私がポンパ号の飛行船だと思っていたのは、実は別物でした。飛行船の方は
SL列車よりももっと昔の昭和43年ごろだそうで、私がうろ覚えでポンパ号だと
思い込んでいたのは、昭和48年に飛んだ岡本太郎デザインのレインボー号のようです。
webに掲載された写真を見るとレインボー号の独特のデザインには確かに見覚えがあります。
どうも10歳以前の記憶となると自分でもかなりあやしい部分が多くなってきます。

 肝心のSL列車の方は、当時の茨城新聞(昭和46年6月13日と15日号)に簡単な記事が見つかりました。
それによると6月12日朝九時に土浦駅に入線し、市長らの歓待を受けたあと、子供たちに公開されたそうです。
列車はその後、水戸、日立、常陸太田、下館の各駅を廻る、となっています。
 日立にも寄ったようですが、私はまったく記憶に無く、おそらく駅近くの小学校か、特定学年限定だったのでしょう。
あるいは私の小学校が同じ日立でも鉱山の従業員子弟が大多数を占めていたからなのかも知れません。

 この列車は記録がとても少なく謎が多いのですが、webにアップされた当時のルート略図(http://page.freett.com/NonSection/pompa.htm)
から推定して6月10日頃、日製にゆかりの深い千葉県の茂原を通って銚子で折り返し、成田線経由で我孫子から土浦駅に入った模様です。
その後、土浦から水戸、日立を通り、常磐線を原ノ町まで北上、折り返して水戸から
水郡線で常陸太田、再び折り返して友部から水戸線に入り下館の順になると思います。
 小山からは両毛線を少しだけ入り、同じく日立系の工場がある大平下に寄ってから最終目的地の
東京・品川に帰ったものと思われます。以上、ご参考まで。

砂時計アラームタイマー
フリック回転寿司
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