水戸の歴史 Part 7 [machi](★0)
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- 2010/07/02(金) 09:51:35
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>>67
水浜電車さん、おはようございます。
私の叔父が、この様な文章で手紙を書いたのは、もう、私が小中学生時代
ですから、そんなに昔ではありません。ですから現代言葉の中に、何故か?
「候」言葉が入っていたり、巻紙で毛筆、この時代では、かなり自分では
「格好良い」と思っていたのではないでしょうか?
きっと、時代劇に出てくるような言葉で、巻紙毛筆で手紙を書いたら、受けた
人は、すごいなァ〜って思うんでしょうね。それとも、もう今では、「なにこれ?」
って感じるんでしょうかね。
話は変わりますが、夕べテレビのデジタル10(こちらではテレビ愛知」)で放映
していた「空から日本を見てみよう」を観ました。千波湖畔の、「桜田門外の変」の
オープンセットは凄いですね。それに、どこもかしこも、私が在水していた頃よりは
はるかに何処も彼処も変わったと、つくづく思いました。田圃と畑ばかりの茨城では
なくなりましたね。
>>66 >>68
今は上市、下市とは余り使わないんですか? 東京で云う下町と山の手とは又違うん
でしょうね。でも、そんな感じしないもんでもない。どちらかと云うと、下市は
商工業地帯、上市は屋敷町(昔の)と遊び所。特に備前堀の辺りの、紺屋町は
染め物やさんの町だし、その他、昔からあるような商店の町並みでしたから・・・・。
何だか子供の頃を思い出してしまいました。私の場合、私は、三の丸小学校、でも、
千波の学区外でも、沢山の子供達が「付属」へ通ってました。そして、その親達は
武家といった感じだった。その子の家には、「暴れん坊将軍」で吉宗が、弓を射る
場面がありますが、その纏である麦わらを丸く束ねたのがありましたよ。
「付属」に通っていた子は、東京では「学習院」に通っているといった感じでした。
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