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  • 276
  •  
  • 2012/02/22(水) 16:54:14
>>275
人が減った体育館では、なんとなくリーダー、副リーダー、炊き出し班、水汲み班ができた。

お互い会話もするようになった。


ある家族は海に近い場所で働いていた父親に連絡がつかず、あるカップルの女性は南三陸町に住むいとこと連絡がつかず不安らしかった。

旦那も実家が気仙沼にあり、旦那の前の奥さんの実家も女川にあるらしく、子供の心配をしていた。

夕方、ボロボロの男性が体育館にやってきた。
連絡がつかなかった家族の父親だった。

津波で逃げたが携帯は水没し
近くでコンビナートが爆発、炎上したので、みんなで離れたビルに泳いで難を逃れたが油まみれ。

水が引くのを待って、多賀城まで歩いてヒッチハイクで仙台駅へついたが、市内は何事もなさそうなのに自分はボロボロ…

なにがあったんだって言って座り込んでいた。


一週間くらいすると、物資も豊富になり、電気が復活し、テレビが見れるようになったり、不明者を検索するためのインターネットがひかれた。

パソコンを打てる人があまりいなかったので、頼まれて私が代わりに検索したりして過ごしていた。

ここまで見た
  • 277
  •  
  • 2012/02/22(水) 17:01:26
>>276
自衛隊の方も入るようになり、物流もよくなった。
運んできてもらった支援物資の中には、送ってくれた人からのメッセージが書いてあった。

「一人じゃない。頑張れ!」
みんなで集まってメッセージを読んだ。みんな笑顔になっていた。


情報も入ってくるようになった。
旦那の実家は海からかなり離れてたのに水没。けどみんな逃げて無事だった。車に乗っていたら危なかったらしい。

旦那の前の結婚の時の子供さんの行方は分からなかった…友達からは死亡者リストに同姓同名があると言われて、「こんなに大きな震災だったから、仕方ない」となかば諦めていた。

けど、色んな方向性を探って検索かけたところ、義理のお父さんの経営してた旅館名から、家族全員の無事が分かった。

旦那は「そっか…」とそっけなかったけど、隠れて友達に報告してたから、嬉しかったに違いない。

よかったよかった。
と、思っていたら、カップルの女の子の携帯が鳴った。

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  • 278
  •  
  • 2012/02/22(水) 17:05:25
>>277

体育館の外に出て、
しばらく帰ってこなかった。

帰ってきた女の子は目が腫れていた。
みんな何もいわず寄り添った。



テレビからは、判明した人の名前が淡々と読み上げられていた。

中には0歳…1歳…息子と同じくらいの子がたくさんいて、胸が痛んだ。

ただただ読まれる名前だけれど、一人一人に人生があり、家族がいるのだ…。

みんながしんみりしていると、見知らぬ若者が入ってきた。

体育館内、避難民をパシャパシャ写真を撮っている。
声をかけたら、「ネットに載せるため」だそうだ。

もちろんデータは消してもらい、帰っていただいた。

「こんな事よりあなたは大丈夫なの?」
「はい俺は…」
「よかった。気をつけて帰りなよ」

青年、声が震えてたけどゴメンね。


震災一週間を超えると、ガソリンも並べば1〜2時間で買えるようになっていた。

私の実家が県南にあるので、4号バイパスを南に向かって走った。

ここまで見た
  • 279
  •  
  • 2012/02/22(水) 17:13:53
>>278
市内から抜けるとき、大阪ガス、四国ガスさんのトラックとすれ違った。

遠くから来てくれたんだな〜
ここまで来るのに何時間かかったのだろうか…
トラックの向こうに、たくさんの人が見えた。

頑張れ!頑張れ!一人じゃない!
大丈夫だ!

なんだかそう言われてるみたいで涙が出た。


夜になり、仙台へ帰宅するとき、昔行ったことがある空港ボウルが遺体安置所になってることに気づいた。

薄暗い灯りが灯り、入り口には警備員、駐車場にあったコンビニには一面に遺体の顔写真が貼り出されていた。

ハッキリは見えなかったけど、透けてなんとなく分かった。

ふと…友達が勤めていた仙台空港が気になり、近くまで行ってみた。

途中から通行止めだから、そこまで車を走らせる…しかしかなり手前の田んぼが、月明かりで溜まった海水がキラキラしていた。

空港にいた友達の話だと、一旦みんな外に避難したが、津波が来るという声が聞こえて二階に避難して助かった。けど空港はもうダメだ…と言っていた。

だからあんなに早く空港が復活した時は驚いたけど、見捨てずに復旧に尽力してくれたアメリカの方たちと自衛隊に感謝だった。

それからは格段に復旧が進み…

ガスが復旧した時は、温かいお湯が出る!と感動したのを覚えている。

ここまで見た
  • 280
  •  
  • 2012/02/22(水) 17:23:44
>>279
生後1ヶ月の息子を、心配しながらも、入れないよりはいいからと、垢だらけの温泉に入れたのもいい思い出。

あの時はシャワーのお湯が沸かせずどこの温泉も水しか出なくて大変でしたね。

首が据わってなくて、寝てばかりいた息子も今月13日に無事1歳をむかえ、大人と同じようなご飯を食べ、一人で歩けるまでに成長しました。

ちょっと最近我が強いけど元気です。
苦労したんだぞ!と、いつか見せようと避難所のみんなの写真と避難所で配られてた新聞は宝物にしてます。

なんだかまだ昨日のことのように思い出せる…あっという間の一年でした。

たくさんの人のおかげで今がある。

本当に本当に、
ありがとうございました。

3月11日は、避難所で初めて食べた温かい食べ物…思い出深いどん兵衛(うどん)を食べようと思ってます。
いつまでも感謝の気持ちは忘れません。

ぽぽぽぽーんは、辛い気持ちを思い出すからもう少し時間が経ったら見てみようかな…笑

長々失礼しました。
お付き合いしてくれてありがとうございました!

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  • 281
  •  
  • 2012/02/22(水) 17:36:02
>>268-280
おー、なんか溜りに溜ってた思いの丈を一気に吐き出した感じだねぇ
それで少しでも気持ちが軽くなったなら、ここは良スレだね

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  • 282
  •  
  • 2012/02/22(水) 18:08:11
>>281
長いのに読んでくれてありがとうございました。

ブログに書こう書こうと思ってたのに、何故か書けずに一年、胸にしまっていた思い出です。

簡単に書こうと始めたら、すべて溢れ出てしまいました。

書いていたら、空港で被災した友達の話や、新港あたりで被災して遺体がたくさんある中でサンダルにビニール袋巻いて歩いて帰宅した友達の話…津波に流されて助かった知り合いや、避難所にいた観光客の話を思い出してしまいました。

いつか同じような内容でブログに書くかもしれませんw


気仙沼に行った時見た、車より高い位置にある水位の跡や、南三陸町に帰ったカップルの女の子に差し入れに行った時見た、山の方まである津波の跡…。
左右から挟む形で高台までのぼった津波の跡など…

後世に見て感じたことを伝えたいと思いました。

あれからもうすぐ一年。
いいきっかけを与えてくれてありがとうございました。

ここまで見た
  • 283
  •  
  • 2012/02/22(水) 18:24:36
もうすぐ一年、初めはただただ頑張ろうと必死で震災時の事を振り返ろうともしなかったけど、今になって色んな事を思い出す。

色々ありすぎてまとめられない…

そのうち書き込ませてもらいます。

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  • 284
  • 青鹿φ
  • 2012/02/22(水) 19:33:45
もうすぐかっつぐ、と思ってたら離されました。

>>256
広範囲に信号機が停電したし暗くなってきては、送電線の鉄塔が倒れたか
変電所がやられたのか、と思いましたね。

腹が減っては不安も増すのでしょうか、、食べることによって気持ちが落ち着きます。

あの頃は普段の暮らしがもう少し不便でも、十分生活できるんだなと思いました。

>>258
直後は携帯も固定も電話できました。
避難所の受容量が超えて二次災害を憂慮したからなんでしょうか?
まあ自宅でなんとか凌ぐことができて良かったと思います。

初めて映像を見た時はその場から動けなかった、、、。

>>260-261
私のボランティアはスポットものでした。
ずーっと続けることで周りに認められ頼りにされるんですよね。
今回、シルバー・シニア世代の底力を発見?した少年少女もいるのではないかと、、。

>>263
「津波てんでんこ」と言われますが、「俺は無事逃げたからね。安心して」と受け取っています。
家族を心配しながらも決断しなくてはなりません。
263さんの愛犬が早く一緒に逃げよう、と促してくれたんでしょうね。

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  • 285
  •  
  • 2012/02/23(木) 01:29:41
>>283
ここでは、まとめる必要はないし思いついた時に思いついた分だけ書いてもいいんじゃないでしょうか。
勿論、ご自身でまとめようと思ったならまとめた方がいい。
一気に書いても良いし細切れで何度にも分けて書いても書いても良いだろうし、後でブログ等に書く為の下書き代わりでもいいと思います。

表現する事や伝える事が重要であり、その方法や体裁につてエネルギーを一切使わない方が伝わり易い場合もあると思う。

ここまで見た
  • 286
  •  
  • 2012/02/23(木) 01:43:36
みなさんの記録を読んで、涙が出そうです。私は、今東京に住んでますが、実家は仙台市内(幸い山沿いなので、実被害はあまりありませんでしたが)で、なかなか連絡が取れず。テレビに映し出される映像、ニュースの内容は時間が経つに連れ、悪くなる一方で。宮城沖地震は実際に体験しましたが、それ以上なんだろうなぁ…と思ってましたが。正直、まさか…という気持ちでした。
東京も近い内に、震度7クラスの直下型地震が来ると言われてますが、半信半疑というか、あまり気にしていない…と言うのが本音じゃないかなと思います。
テレビで見た映像、実家の両親、地元の友達からの情報等、私なりに311をまとめ、後世に伝えていきたいと思っています。
場違いな投稿で、すいません

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  • 287
  •  
  • 2012/02/23(木) 01:53:50
>>278>>279
県南のご実家は無事だったのでしょうか

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  • 288
  •  
  • 2012/02/23(木) 06:43:37
多賀城、地震が来た時は仕事中。

2日前に地震があったから、揺れ始めた時「またか…」と思いながら目の前にあった棚を押さえた。

すぐに、立っていられないくらいの物凄い揺れ。あまりの長さに「もうやめて」と泣きそうになった。

揺れが落ち着いた頃、同僚がワンセグを見て悲鳴。「津波が来る!」

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  • 289
  •  
  • 2012/02/23(木) 07:07:43
よく覚えていないけど、私が見た時は宮城県6メートル、とあったような気がする。

でも、それって三陸の方でしょ?
ここは、大丈夫なんじゃない?
でも、この尋常じゃない揺れ…津波が来るのかも…


よく覚えていない。多分パニックになっていた。
子供を迎えに行かないと、と職場を後にする。
信号は全部止まり、大渋滞。道路も所々陥没していた。

学校に行くのに車は邪魔になるなぁ…渋滞もひどいし、と思い一度自宅に帰り車は置いてきた。

まさか自宅まで津波が来るとは思ってもいなかったから。

しばらくは車を置いてきた事、かなり後悔した。

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  • 290
  •  
  • 2012/02/23(木) 07:44:27
幸い旦那とメールで連絡がつき、旦那は下の子を保育所に迎えに行き、上の子の学校で合流する事に。

学校に着き、全員の無事を確認。


しばらくして、「水が来た!」と叫び声。

高台の学校のすぐ下のあたりまで浸水していた。

これはもう、車もダメだし家にも帰れない…

絶望的になった。

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  • 291
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  • 2012/02/23(木) 13:14:06
その日の夜、本当に寒かった。

備蓄の毛布は全然足りなくて子供達と体をくっつけて横になった。


仙台港コンビナートで火災発生。物凄い爆発音。

よくその日の夜は星が綺麗だったと聞くけど、私は真っ赤に染まった空しか覚えていない。


ラジオから流れて来る
「荒浜で200〜300の遺体」「陸前高田は壊滅的」壊滅って何?
そんな言葉、今まで聞いた事がない。
信じられなかった。

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  • 292
  •  
  • 2012/02/23(木) 13:35:07
その日からもうすぐ一年、無我夢中でした。


子供の思い出の品、大事にしていた家具、何もかも駄目になった。
全部、泣きながら捨てた。すごく辛かった。


でも、家が流された人、家族を亡くした人がたくさんいるのにこの位で辛いとは言ってはいけないような気がして…
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせて頑張った。

家の改修は秋に終わり、普通に生活できるようになった。

でも…震災前とは仕事の事など色々状況が変わり、私の心がついていかない。
辛い。すごく辛い。
もう頑張るの、疲れた。

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  • 293
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  • 2012/02/23(木) 13:43:42
ダラダラと長く書いてスミマセンでした。
読んでくれた方はありがとう。

少し、心の整理がついたような気がします。


また何かあったら書き込みます。

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  • 295
  • 青鹿φ
  • 2012/02/23(木) 21:04:57
>>267
あの晩は、避難所でいくらも眠れなかった人が多かったんでしょうね。
停電が身にしみて、翌日店から一番に乾電池がなくなった、、。
盆前までの仮設住宅引き渡し、
これが終わってから一般の建物補修に入ったんだね。

>>268-282
ご自宅を離れる時のガスの臭いが気になったけど、、
避難所での出来事が興味深く読めました。

まあ、避難所といっても校舎とか体育館、施設で最初何もない。
自治会ができたり、逃げてきた人のこと、、、体育館でいろいろな人に出会いましたね。

だんだん、負けないぞっていう気持ちになっていったと思いました。

>>283,285
浮かんできた時にでも、、、どぞ。
285さんトン。

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  • 301
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  • 2012/02/24(金) 18:22:30
地震後、職場から家に戻って、留守番していた高校卒業したばかりの子供と
非難用品をもって外へ出たが、どこへ行けばよいのか分からず途方に
くれたっけ・・・。
何日か名取駅近くのビール工場でお世話になった。
工場の方が飲み物やお菓子を配布してくれたり、トイレの水が出なくなってからは
どこからか大きなケースで水を運んでくれたりしてくれた。
感謝してます。

地震後一番悩んだのは子供のメンタル面。
非難中は食事もほとんど食べないし、毎日出てたお通じ(汚くてすいません)も
ぴたっと出なくなった。
「頼むから食べて」と赤ちゃんに食べさせるようにスプーンで自分が
食べさせた時もあったよ。

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  • 302
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  • 2012/02/24(金) 18:55:03
「がんばろう」は、辛い言葉でしたね。

某アイドルのブログに
「がんばろう」より
「ふんばろう」

とあって、少し楽になったのを覚えています。

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  • 303
  •  
  • 2012/02/24(金) 20:46:08
301だけど「非難」は「避難」の間違いです。

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  • 304
  • 青鹿
  • 2012/02/24(金) 21:09:44
>>286
「可能性」とか言って、地震の確率を述べる研究者は何かを根拠にしてるのでしょうが、、、
一方、地震が来ても大丈夫、という研究者がいるけど、、、共に慎んで欲しいですね。

>>288-293,302
思ってもいなかった自宅まで浸水、、でも
車を使わなかったのは冷静な判断だったと思いました。

思い出の品を片づけ、、家の改修までたどり着き
辛い辛い、の内に強い精神力を感じます。

>>301,303
大地震は誰にも何かしら落ち込ませました。
症状がそれぞれで、一時的なものであれば幸いではないかと、、。

工場を開放してくれてたんですね。

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  • 305
  • まいね
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  • 306
  •  
  • 2012/02/26(日) 08:41:18
岩手県北内陸部
一昨年の大晦日から去年の元旦にかけての大雪で停電の直撃をくらった。
このあとに、LED使用の電池(懐中電灯をこう表現します。)とラジオと
電池をやや多めに購入していた。

地震の時は車で、ちょうどでこぼこ道(減速しないと危険なくらいでこぼこ)を
走行中で地震自体に何の恐怖も感じることはなかった・・・

家から人が飛び出してくるのと電線が無茶苦茶ゆれてるのとラジオの
アナウンサーが怒鳴って?いるので・・・

ん・・・地震か?大きいのか?ってな感じだった・・・

しばらくいくと・・・信号は消えていた・・・停電だな・・・

ド田舎なもんで、汲み取り便所にプロパンガスに反射式ストーブ?に
マキストーブ。水は今回は止まらなかった。

一番苦労がガソリンの入手、あとは他とは比べ物にならないほど
被害無し・・・だろうな。

死んだ婆さんが、何かあったら、米、そして味噌の順番で持ち出すこと・・・
鍋?釜?水?マキ?・・・そんなんはなんとかなる。って言ってたな・・・

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  • 307
  • 青鹿
  • 2012/02/26(日) 08:43:38
14:46分になれば352日経ちます。
あと2週間で1年になりますね。

あっという間でも忘れることのない毎日でした。
私は、当日電気を使わない1日を送ってみようと思っています。
(全部は無理かも知れない…)
星のきれいな夜になればいいですね。

         日  月  火  水  木  金  土
去年3月  6  7  8  9 10 11 12
今年3月 11 12 13 14 15 16 17

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  • 308
  •  
  • 2012/02/26(日) 12:02:12
>>306
んだ。
米、味噌、醤油さえあれば、なんとかなっからな。

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  • 309
  •  
  • 2012/02/26(日) 18:21:56
各自治体 追悼式典関連
http://blog.livedoor.jp/hukkogannen2012/

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  • 310
  •  
  • 2012/02/26(日) 19:15:03
仙台近郊内陸部

会社がメチャクチャで足の踏み場もなくなり、鍵も閉まらない事務所を無理矢理
閉鎖して自宅に向けて出発したものの、普段20分の道が5時間以上かかった。
家についたのは日が変わった頃だったけど、奇跡的に自宅は食器や置物等の
落下も殆どなく、拍子抜けしたのが印象的だった。

ライフラインは全滅だったものの、反射式ストーブで作った鍋で息をついた。
翌日からはとにかく毎日給水と食料確保に走り回った。
幸い翌日から待ち時間最大20分で3日後からは待ち時間・制限なしだった給水所や
ホームタンクで備蓄していた灯油、複数の車にガソリン満タンだったために
GSの行列とは無縁だったり、米や麺も大量に備蓄していたので苦労はしなかった。


しかし4/7の余震で家屋にかなりの被害が出て、帳尻が合ってしまった感が・・・

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  • 311
  •  
  • 2012/02/26(日) 20:56:52
ROMっておりましたが、青鹿さん、いつも乙でありまする!
機微のわかる、お優しい方ですね・・・

そのうち私もあの日を語ってみたいと思います。
そのときはよろしくおながいしますね!!

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  • 312
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  • 314
  • 青鹿φ
  • 2012/02/27(月) 19:52:31
>>305
かたや地震特約ですし、、。
風による高潮ならいいが津波は免責になる、と聞いた覚えが、、、。

>>306,308
>ちょうどでこぼこ道
揺れは感じたけれど恐怖はなかった、、、とすれば未舗装の砂利道だったのかな?

普段快適な生活ほど有事に不便を味わうような。
農家やってれば軽油など常備してそうですね。

>>309
参考にさせてもらいます。

>>310
4/7の南より震源のほうが310さん家では強かったんですね。
反射式ストーブは鍋・やかんをかけれるのがいい。
カップ麺もだけど普通の麺類備蓄も大事、と思いました。

>>311
ROM歓迎です。
こちらこそよろしくお願いしますね。

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  • 315
  •  
  • 2012/02/27(月) 21:49:12
岩手、内陸。

その時は会社でした。

地震速報が携帯からなり響き、同僚と話していたところ、いままでにない揺れ。

外に避難したあとは不安がる女性達に対し気丈に振る舞ってはいましたが、
ワンセグで確認した大津波警報に、
沿岸にすむ片想いの子のことで
不安で一杯でした。

停電の中、ラジオから告知される被害者を聞いた数日。
彼女の生存を知らされたとき、初めて涙が止まりました。
本来は逆なのかもしれませんが。
不安で泣くなど初めてでした。

その後、
彼女の一番にはなれず、辛い状況に全然頼りになれませんでしたが、
いまでも大好きです。幸せを祈っています。

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  • 2012/02/27(月) 22:21:20
当時臨月の妊婦で、福島の双葉郡から出産のために
宮城県の実家に里帰り中。
昼寝をしていたらすごい揺れに見舞われる。

実家は屋根瓦が盛大に落ちて壁に亀裂が入り食器が多数割れたものの
水・食料の備蓄があったので避難所には行かずにすみました。

それからラジオ等で情報収集しつつ、
せめて水が出るまでは出産したくない!と寝転んで安静な生活を送ろうと誓う。
寝転んで窓から沿岸方面を眺めていると津波被害の航空写真を
撮影しているであろう飛行機がぐるぐると弧を描きながら飛んでいるのが
印象的でした。

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  • 2012/02/27(月) 22:24:16
しかし5日程経ったら陣痛が。
病院に行ったらまだ水が普通で食事もほんのわずか。
トイレすら使いない状況で、一泊で退院でした。

さらに病院の入り口には
「原子力発電所の方から来た方は放射能汚染の可能性があるため
しかるべき場所で測定して場合によっては除染してから立ち入れ」
的な張り紙が…

これって医療機関なのに風評被害を助長してるよな〜、と
感じつつも、自分の持つ母子手帳の市町村名が周囲の人に
見られないように微妙に気をつかいました。

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  • 2012/02/27(月) 22:28:11
結局水道が使えるようになったのが
出産後1週間近く経ってからだったので
その間赤ちゃんは産湯にも入れられず体をお湯で拭くだけでしたが
かぶれたりすることもなく、元気に育ってくれました。

その後双葉郡の家には戻れず、一時帰宅も乳飲み子がいるからと
夫にだけ行ってもらったのでかなり気になっています…

何よりも連絡先を聞いていなくて散り散りになってしまった人が
たくさんいるのが辛い。。。

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  • 青鹿
  • 2012/02/29(水) 20:17:58
西暦が4で割り切れれば閏年、
しかし、100で割り切れれば平年、さらに400で割り切れれば閏年、、なそうで今年は1日儲かりました。

>>315
気になることがあると落ち着かなく深刻な事を考えてしまう、
のは誰も同じじゃないでしょうか。
うーーん、行動に移した、、、結果なのね。

>>316-318
不自由な状況での出産、、過敏にならざるを得ぬ変化の中で、、
無事の出産、おめでとう!

病院とはいえ独立ライフラインを設けてない所、ほとんど機能しなかったのでは?

住所のことまで気を遣ったんですね。

>>319
日本列島の形成を帰納すればどこでも起きますね。

>>322-324
先がわかってるのに作付けしなければならない、という現実ですか?
後手々々に回る役人かな。

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  • 315
  • 2012/02/29(水) 21:37:52
ここに書くと特定されるから詳しくは書きませんが。

出来ることはいままでにないほどしました。
直後から自負できるほど体に負担かけて。

けど、妥協なくお互いに思いあ
う関係になるのは、
そういった努力だけじゃないんですよ。

ただ、震災後にあった際に約束した、精一杯生きる事、一生忘れません

お絵かきランド
フリック回転寿司
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