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  • 268
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  • 2012/02/22(水) 13:47:24
南部鉄器が欲しくて情報を得ようとまちBBSに来たらたまたま目にしたので書いていきます。
長いけどお付き合いください。

あの日は…息子を出産してあと2日で1ヶ月。何を作ってお祝いしよう…と、夕飯用の炊き込みご飯の元を作って冷やしていた時だった。

ご飯、旦那が帰ってきてから炊こうかな?今炊いて少し食べようかな?……息子が寝てるうちに炊いちゃおう(笑)

なんて、腰を上げた時、カタカタカタカタカタっと揺れが来た。

地震には慣れてるけど、最近大きい地震が続いてたし、あまり遠くない未来、宮城県沖がくると思ってたから、一瞬体が固まった。

窓の外からガタガタガタという、今まで聞いたことがない音が大きくなりながら近づいてきた。今思えば家鳴りってやつだったと思う。

テレビで音が鳴り、強い揺れに注意してくださいという表示が出て、携帯の地震警報が鳴った。

とともに、強い揺れに襲われた。
「これだ!」瞬間的に宮城県沖地震だと思った。

強い縦揺れと横揺れ。
どっちに揺られてるか分からず必死だった。

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  • 269
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  • 2012/02/22(水) 13:50:45
>>268

その時頭をよぎったのは、
こうやって、人はあっという間に死んじゃうんだ…
床が崩れて落ちて死ぬのかな…天井が落ちてきて死ぬのかな…
一瞬、神戸の震災の映像がよぎった。

どっちにしろ、自分がクッションになれるようにと、ベッドの上で息子を抱いて丸まった。

体ごと揺さぶられる中、台所からは皿が落ちて割れる音が聞こえる。

部屋に取り付けられてるクローゼットは扉が開き、服や荷物が外に飛び出してきた。

テレビは後ろに倒れ、電気が消えた。

揺れが少しおさまってきて頭をあげる…長くも、短くも感じた時間だった。

しばし呆然とする。

部屋を見渡すと、小さい頃から学校や家庭で地震が絶対来ると言われてたので高さのある家具は置いて無かったから、テレビの被害とクローゼットの雪崩れだけで済んでいた。

シーンとした部屋に時おり余震がきて何度も揺れた。

家にいた方が安全かな…崩れないかな?火事になるかな?
外に出た方が安全?
…でもお婆ちゃんが昔の宮城県沖で塀や電信柱が倒れて人がたくさん亡くなったって言ってたし…

…余震が少しおさまるまでは家にいよう…それまでに、避難経路を確保しよう。

そう決心して、玄関までの通路にある台所に行こうとクローゼットの雪崩を掘り掘り……だけどドアが開かない…

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  • 270
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  • 2012/02/22(水) 13:53:44
>>269

正確に言うと、ドアの向こうにあるクローゼットが開いて、その奥にある冷蔵庫の中身が飛び出し、冷蔵庫本体も前に飛び出し、クローゼットの扉を向こうから押さえてる状態になっていた。


とにかく隙間から荷物を押したりして少しずつスペースを広げる。

隙間からなんとか向こう側に行くも、電気がない廊下は真っ暗…

手探りの状態で冷蔵庫を元の位置に戻して、足元に散らばったものをよける。
時おり足にグニャって感触や冷たい感触があり、なんだか分からなくて怖かった。

クローゼットの扉を閉めたら、少し光が差し込んできた。
それでも暗いので携帯で照らしてみた。

変な感触だったのは、冷蔵庫から飛び出したブルガリアヨーグルトと、肉だった。

冷やしてた炊き込みご飯の元も水に浸してた米も散らばっていた。
最後に隠し味でバターを入れるんじゃなかったーと、ギタギタになった床を見てうなだれる。

皿は、私は地震を意識して100円ショップのプラスチックの皿をメインにしてたから無事だった。
が、捨てろって言ったのに、旦那が一人暮らしの時に使ってた皿を取っており、足元に割れて散らばって全滅して危険な状態に…
正直「アイツめ…!」と思ったのは内緒。

とりあえず外に出られる状態にはしたが、暗くて片付けはできないから、汚れた靴下を脱いで、サンダルをはいて室内に戻った。

これからどうしよう…
携帯も、この日に限って充電し忘れてて、残り三本しかなかった。

窓から外を見ると、たくさんの人が外に出ていた。

…情報を得よう。

着込めるだけ着こんで、息子を抱いてマンションの前に出た。
ふわりとガスの臭いがした。


行き交う人はみな、大丈夫?地震大きかったねって声を掛け合っていた。

ふと目線をうつすと、マンションの玄関わきに、妊婦さんがクッションを持って丸まっていた。

「大丈夫?」

声をかけると、怖くて部屋に入れないと泣きそうになっていた。

聞けばうちの2〜3個隣の部屋だった。
うちも入れる状態じゃないし…

…そうだ!

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  • 271
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  • 2012/02/22(水) 13:57:03
>>270

実は震災前から、旦那と車で通るたびに、「地震があったら、この小学校に避難するね!」って言ってた小学校があったから、そこに連れていこう!
旦那には携帯が繋がらないから、メールを何度もトライして「あの小学校にいます。電池あまりなし。」とだけ送信した。

子供の荷物を取りに行きたいけど妊婦さんが無理っぽいし…また取りに戻ってこよう。
と、軽い気持ちで出発したのが失敗でした。

意外と歩いてみると坂もあれば距離もある〜!

ゼーゼー言いながら休み休み小学校へ。
歩いてると時おり、誰かがラジオを大音量で流してて、震度とか津波に注意してとか聞こえてきた。

小学校に着いたが避難所はまた開設されてなかったから、隣の児童館で待機させてもらった。

ラジオからは大きな地震の情報と、津波に気を付けろという放送が流れている。

息子が寝てる間に…
と、妊婦さんと児童館の方に息子を頼んで荷物を取りに戻った。


ミルク、オムツ…おしりふき。
哺乳瓶に消毒容器と消毒液。
寝かせるためのクッション、毛布、肌着に着替えに防寒着。
飲み物、食べ物を持って、電気が切れたポットから保温機能がついた水筒にお湯をありったけ詰めた。

すごい荷物で児童館を目指すも、玄関を出たらすごい雪。

行き交うタクシーはみなお客を乗せていて空車がない。

よくテレビで見る雪の中チマチマ歩くペンギンのような状態で目的地に向かった。

幸か不幸か、目的地直前の心臓破りの坂でタクシーがつかまり、なんとか児童館へ。

ラジオからは「5mの大きい津波が到達したという情報がある」と流れ出した。

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  • 272
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  • 2012/02/22(水) 15:16:50
まいね

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  • 273
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  • 2012/02/22(水) 15:37:31
>>271
「5m!?」
5mの津波なんて想像つかなかった。
大きな地震があるたびに海面の中継されてたけど、変動なんか数?、数十?だったし…

でもお婆ちゃんが、大きな地震が来たら津波がくるから、高いところに逃げるんだってよく言ってたけど…
これは想像つかないよ…

続いてラジオから
「多数の死傷者が出ています。目視しただけで200〜300体の遺体が打ち上げられているとの情報もあります」

と、聞こえてきた。
でもこの規模なら、200〜300人の死傷者は出ておかしくないよな…

なんて、耳に入る情報がまるでドラマのように現実味がなくて…
唖然として聞いていた気がする。

避難所が開設され
私たちは体育館に移動した。
ステージ前には長テーブルが並べられ、民生委員の本部になっていた。
真ん中は運動用のマットとブルーシートが敷かれ、入り口前にはストーブが4つ置かれていた。

ストーブの周りにはすでに人が陣取ってて、マットのあたりはかなり寒かった。

夜になるにつれ、人が溢れかえった…ストーブの灯りだけの暗くなった体育館では、懐中電灯の灯りを頼りに何度もプールからトイレまで一列に並び、バケツリレーをした。

中にはペットを連れてきてる人もいた。

籠に入れてる人や抱いてる人…迷惑になるからとペットと外で過ごす人。
紐でつないで散歩のように体育館内をペットと一緒に歩き回る人…
旦那のような動物アレルギーがある人がいたら大変だな〜と思いました。

その旦那が体育館に着いたのは夜の11時を超えてました。

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  • 274
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  • 2012/02/22(水) 16:39:38
>>273

旦那は市内から車で20分くらいの場所に勤めていたけど、信号がついてなくて渋滞して、所々家が倒壊して引き返したりして…結局到着まで8時間かかり、ガソリンもなくなってしまったとのこと。
送ったメールはさっき届いたが、小学校に行くって前に聞いてたから、ちゃんと向かってきたらしい。

ただ、会社の車でテレビを見たが、大変な事がおきた。
津波で大変なことになってる。

と、青ざめていた。
私は想像がつかなくて…
まだ実感がわかずにいた。

その夜は毛布が足りず、自分達にまわってこなかったから、私が運んできた毛布二枚を、旦那と子供、私と妊婦さんで半分こして眠りについた。

でも寒くてあまり長くは眠れなかった…


朝…
炊き出しで、備蓄されてたアルファ米が出た。

袋に入った乾燥した米に、ワカメと塩を入れて、水を入れて一時間。お湯だと15分くらいで出来る保存食だ。

妊婦さんの旦那さんは朝になってから避難所にきていた。

奥さんと山形の実家に行くらしい。
良かった…と胸をなでおろした。

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  • 275
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  • 2012/02/22(水) 16:44:51
>>274
その日の朝、
避難所には2ページの河北新報が配られた。

【 宮城 震度7 大津波 】

見出しには大きくこう書かれていた。
今新聞を見直してたら、この時点でM8.8と記載されている。

写真を見て、私は最初、なんだか分からなかった…川のゴミ?

よく見たら、今まで見たこともない広い、広い海。
浮かんでいるゴミらしきものをよくよく見ると、小さな小さな家や車たち。

水に浮かんで 燃える家。

言葉にならなかった。

その時も今も思うのは、何故、その時、私は知らなかったのだろう…
なぜ助けられる距離にいて、避難しかできなかったんだろう…
なんて自分がのんきだったか…
同じ県同じ国に住む人たちがこんなに大変な思いして苦しんでたのに…

もっとできる事があったのではないか?
その気持ちは今も変わりません。


それから2日後
民生委員が「自分達でやって。面倒みれません」と避難所を避難民に明け渡し、避難民だけでの管理となった。

その言葉で半分くらいの人が体育館から消えた。

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  • 276
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  • 2012/02/22(水) 16:54:14
>>275
人が減った体育館では、なんとなくリーダー、副リーダー、炊き出し班、水汲み班ができた。

お互い会話もするようになった。


ある家族は海に近い場所で働いていた父親に連絡がつかず、あるカップルの女性は南三陸町に住むいとこと連絡がつかず不安らしかった。

旦那も実家が気仙沼にあり、旦那の前の奥さんの実家も女川にあるらしく、子供の心配をしていた。

夕方、ボロボロの男性が体育館にやってきた。
連絡がつかなかった家族の父親だった。

津波で逃げたが携帯は水没し
近くでコンビナートが爆発、炎上したので、みんなで離れたビルに泳いで難を逃れたが油まみれ。

水が引くのを待って、多賀城まで歩いてヒッチハイクで仙台駅へついたが、市内は何事もなさそうなのに自分はボロボロ…

なにがあったんだって言って座り込んでいた。


一週間くらいすると、物資も豊富になり、電気が復活し、テレビが見れるようになったり、不明者を検索するためのインターネットがひかれた。

パソコンを打てる人があまりいなかったので、頼まれて私が代わりに検索したりして過ごしていた。

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  • 277
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  • 2012/02/22(水) 17:01:26
>>276
自衛隊の方も入るようになり、物流もよくなった。
運んできてもらった支援物資の中には、送ってくれた人からのメッセージが書いてあった。

「一人じゃない。頑張れ!」
みんなで集まってメッセージを読んだ。みんな笑顔になっていた。


情報も入ってくるようになった。
旦那の実家は海からかなり離れてたのに水没。けどみんな逃げて無事だった。車に乗っていたら危なかったらしい。

旦那の前の結婚の時の子供さんの行方は分からなかった…友達からは死亡者リストに同姓同名があると言われて、「こんなに大きな震災だったから、仕方ない」となかば諦めていた。

けど、色んな方向性を探って検索かけたところ、義理のお父さんの経営してた旅館名から、家族全員の無事が分かった。

旦那は「そっか…」とそっけなかったけど、隠れて友達に報告してたから、嬉しかったに違いない。

よかったよかった。
と、思っていたら、カップルの女の子の携帯が鳴った。

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  • 278
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  • 2012/02/22(水) 17:05:25
>>277

体育館の外に出て、
しばらく帰ってこなかった。

帰ってきた女の子は目が腫れていた。
みんな何もいわず寄り添った。



テレビからは、判明した人の名前が淡々と読み上げられていた。

中には0歳…1歳…息子と同じくらいの子がたくさんいて、胸が痛んだ。

ただただ読まれる名前だけれど、一人一人に人生があり、家族がいるのだ…。

みんながしんみりしていると、見知らぬ若者が入ってきた。

体育館内、避難民をパシャパシャ写真を撮っている。
声をかけたら、「ネットに載せるため」だそうだ。

もちろんデータは消してもらい、帰っていただいた。

「こんな事よりあなたは大丈夫なの?」
「はい俺は…」
「よかった。気をつけて帰りなよ」

青年、声が震えてたけどゴメンね。


震災一週間を超えると、ガソリンも並べば1〜2時間で買えるようになっていた。

私の実家が県南にあるので、4号バイパスを南に向かって走った。

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  • 279
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  • 2012/02/22(水) 17:13:53
>>278
市内から抜けるとき、大阪ガス、四国ガスさんのトラックとすれ違った。

遠くから来てくれたんだな〜
ここまで来るのに何時間かかったのだろうか…
トラックの向こうに、たくさんの人が見えた。

頑張れ!頑張れ!一人じゃない!
大丈夫だ!

なんだかそう言われてるみたいで涙が出た。


夜になり、仙台へ帰宅するとき、昔行ったことがある空港ボウルが遺体安置所になってることに気づいた。

薄暗い灯りが灯り、入り口には警備員、駐車場にあったコンビニには一面に遺体の顔写真が貼り出されていた。

ハッキリは見えなかったけど、透けてなんとなく分かった。

ふと…友達が勤めていた仙台空港が気になり、近くまで行ってみた。

途中から通行止めだから、そこまで車を走らせる…しかしかなり手前の田んぼが、月明かりで溜まった海水がキラキラしていた。

空港にいた友達の話だと、一旦みんな外に避難したが、津波が来るという声が聞こえて二階に避難して助かった。けど空港はもうダメだ…と言っていた。

だからあんなに早く空港が復活した時は驚いたけど、見捨てずに復旧に尽力してくれたアメリカの方たちと自衛隊に感謝だった。

それからは格段に復旧が進み…

ガスが復旧した時は、温かいお湯が出る!と感動したのを覚えている。

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  • 2012/02/22(水) 17:23:44
>>279
生後1ヶ月の息子を、心配しながらも、入れないよりはいいからと、垢だらけの温泉に入れたのもいい思い出。

あの時はシャワーのお湯が沸かせずどこの温泉も水しか出なくて大変でしたね。

首が据わってなくて、寝てばかりいた息子も今月13日に無事1歳をむかえ、大人と同じようなご飯を食べ、一人で歩けるまでに成長しました。

ちょっと最近我が強いけど元気です。
苦労したんだぞ!と、いつか見せようと避難所のみんなの写真と避難所で配られてた新聞は宝物にしてます。

なんだかまだ昨日のことのように思い出せる…あっという間の一年でした。

たくさんの人のおかげで今がある。

本当に本当に、
ありがとうございました。

3月11日は、避難所で初めて食べた温かい食べ物…思い出深いどん兵衛(うどん)を食べようと思ってます。
いつまでも感謝の気持ちは忘れません。

ぽぽぽぽーんは、辛い気持ちを思い出すからもう少し時間が経ったら見てみようかな…笑

長々失礼しました。
お付き合いしてくれてありがとうございました!

砂時計アラームタイマー
フリックゾンビ
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