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  • 226
  •  
  • 2012/02/15(水) 11:32:16
私も、ぽぽぽぽ〜んを聞くと、当時の異様な雰囲気を思い出します。

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  • 227
  • RareBear77
  • 2012/02/15(水) 12:36:51
ぽぽん"だけ"のネタはこの辺にしてください。

(続けますと趣旨違いの勘違いさんがお見えになっちゃいます)

体験スレですから、それを絡めたご自身の体験を語っていただけると幸いです。

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  • 228
  •  
  • 2012/02/15(水) 16:58:10
@東京足立区
移住先の広野町から前日の10日に6号海岸線沿いを通って
一旦、東京にもどっていました。
さあ残りの荷物を運んでしまおうって感じで…。

地震の時は国会中継を見てました。(今も見て怒りに燃えてます。)
12階のマンションは信じられない揺れで…
両隣の住民もあわてて廊下にでてきて久しぶりにご挨拶しました(笑

その後はテレビの津波の映像に固まって…
でも福島県浜通り、いわき方面の事が全く報じられず…
あげく、原発事故…ず〜っと起きてた気がします。

家は大丈夫か…隣のおばあちゃん大丈夫か…
心配で心配でたまりませんでした。
約1月後、常磐道が四倉まで開通した日に
やっと様子を見に行くことができました。

マスクにレインコートに帽子の完全武装、
車の窓なんてぜったい開けない…
自宅に行くのに水や食料かかえて…それも日帰りだけど(笑)
開通したとはいえ、あちこちガタガタしていて
ジェットコースターっぽい常磐道を降りると警察の検問があった。
他県の警察で地震被害の状況、岩とか落ちて通行止めなってないか聞いたけど
あんまりわかってなかった…地理がわかんないから、仕方ないね…

それから月一で日帰り重ねてますけど
田植えの季節に涸れた田んぼ、
だれも取らない柿の実
関連企業の事務所になったスーパー
作業員の町になってる…

広野は避難解除になったから帰れるというけど
原発は本当に…もうこれ以上暴れない?
余震があったら…壊滅しない???
温度が上がったってニュースや、浜通りに地震があるたび
ものすごく不安で泣きたくなります。

命の犠牲にくらべたら、どーって事ないって自分に言い聞かせてるけど…

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  • 229
  •  
  • 2012/02/15(水) 19:57:06
岩手一関に住んでます。一関も地震の多い所で、30年以内に宮城県沖地震が来ると
いうのは常に頭にありました。
あの日は国会中継中にTVの緊急地震速報が出て、「あ、地震来るんだ・・・。」と
思ってるうちに揺れがきて、その辺で携帯(au)の地震メールが鳴っていたと
記憶してます。
家は一関ICにわりと近いのでひっきりなしにパトカーや消防車などのサイレンが
聞こえてきて「この先どうなっちゃうんだろう」と不安になったりもしました。
一関ICからは気仙沼や陸前高田に向かう緊急車両がたくさんあったでしょうから
ガソリンスタンドでなかなかガソリンが入れられませんでしたが県外ナンバーの
緊急車両や警視庁の車、自衛隊の車などをみると「ホントに遠くから来てくれて
ありがとうございます(涙)」って感じでした。
停電して余震が酷いので車中泊が3日続きました。車の中で寝ていると窓が凍ってきて
寒かったです。でも月がきれいでしたね・・・。
14日だかに電気が通った時は泣きたいくらい嬉しかったですね。

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  • 230
  • 青鹿φ
  • 2012/02/15(水) 20:13:01
>>208 (>>162,186 のつづき)
HCの臨機応変な計らいで揃えることができた、、役所も見習って欲しいところ。
「家に寄って」と声をかけてくれた方は神様だね。
ガソリンまだ心配なかったのかな?

>>209
tvやラジオの震災関連から一時期逃れたい気持ちがあったが、
(あれは興味をそそるような番組制作側が悪い)
続けてもらいたいと思っています。

>>212
1年で一番川の水が少ない時期らしいし、3月からは釣り解禁にも、、、。

>>213
訓練高揚のためにも避けては通れぬ疑問であろうけれども、、。
「忘れた頃の災害」に遭って逃げ遅れた人に非はないと考える。

>>216
家に帰ってきて後片付け、灯り・暖房の準備、夕飯、、
家族それぞれの出来事を聞いたりして、それからラジオに耳傾けるといい時間、。
自分も重大さを知るまでは時間がかかりました。

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  • 231
  •  
  • 2012/02/15(水) 20:19:52
>>229
おととしまで一関に住んでいました。

2008年の岩手宮城内陸地震もそちらで体験して、人生で体験した中で最大の揺れだと当時は思いましたが、
東日本大震災はまるで比べものにはなりませんでした。

去年の五月に一関を通って気仙沼に行きましたが、
普段なら軽トラやトラクターがのんびり走る国道284号線を
自衛隊の車輪が次々と通る光景は頼もしくもあり悲しくもあり…。
気仙沼や陸前高田の知り合いも何人か亡くなりました。
新聞に名前を見つけた時の衝撃は、一生忘れられないと思います。

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  • 232
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  • 236
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  • 2012/02/16(木) 20:32:00
@仙台市
地震後の数日間は?生きるための行動?が続いたなぁ。
停電断水情報ナシのうえ余震多発で寝る気にもなれず、
早朝の薄暗いうちから自転車で給水所やスーパーやホームセンター回り、
飲食物得るためにとりあえず並ぶ。
一箇所に並んだら物資を得られるまで半日かかり、
待ち時間は前後にいる人たちと情報交換、どこのスーパーは自由に買える、
どこのコンビには入れ替え制で10品制限、納豆があった豆腐があっただの、
そのうち店員が出てきて「トイレットペーパー乾電池は売り切れました!
水はお一人2本まで!次の入荷は未定です!」とメガホンで言い出す。
それでもみんな、何か買えるならと並び続けてた。
書いていたら、ついこの前のように思い出されてきた。
3月11日は点検の意味もこめて、非常用のライトと食料で過ごそうと思う。

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  • 237
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  • 2012/02/16(木) 21:02:35
21世紀の日本で、食い物やガソリンを手に入れるために行列が出来るとは思わなかった。
今になって思うと、
「ホントにガソリンは足りなかったのか?」
「食料はどこに行ったのか?」
という検証は必要かもしれない。
供給が滞ったのは事実だと思うが、需要は適正だったのだろうか。
ないない、ということに煽られて、不必要な需要を生んでなかったのか。
今後、このような事態になった時、この経験は活かされるのだろうか。

なんてことを考えてみる。

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  • 239
  •  
  • 2012/02/17(金) 00:51:04
宮城県仙台市若林区荒浜から数十キロ。

うちの家では少しでも揺れを感じたら外に出る習慣を付けていた。
あの日は早朝勤務だけして家でくつろいでたんだ。
少しの揺れを感知し、母と婆さんに声を掛け家を出た。
出て間もなく激しく歪む地面。
アパートが崩れるんじゃないかと思った。

!!

母と婆さんが家から出て来ない。
まだ揺れる中アパートへまた戻ると、母は廊下に座っていた。
婆さんは家具に挟まれていた。
必死の思いで助けおんぶして外へ連れ出した。

ヘリが飛んでいる。
「津波が来ます。」
逃げる手段がないうちら。
知らない人にマンションに招かれる。
助かる。

徐々に家を元通りにし、普段の生活に戻ったのもつかの間。
婆さんは震災の疲れで亡くなった。

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  • 240
  •  
  • 2012/02/17(金) 00:56:50
>>237
必要だったよ。次の予震に備える為にも。

水を汲むにしても、食料を確保しに行くにしても車が必須だったから。
水は1ヶ月出なかったし、給水所は何人家族だろうがならんだ人の分しかくれなかった(6L/人)
買物も一人5点とか、とにかく一家総出で動かなきゃなかった。
先が見えない中で、移動手段を確保する為に必死だったよ。
避難所は飽和状態で頼れそうもなかったし。
TVで放送された仙台や女川石巻にどんどん物資が届く中、町の半分が浸水した
うちの町は町民に物資提供を何回も呼び掛けていたよ。
報道から漏れた知名度低い町では何もかもが足りてなかった。

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  • 241
  •  
  • 2012/02/17(金) 02:19:21
>>237
地震やそのあとの津波で住むところを失って、着のみ着のまま避難所へたどりついた
被災者の方々が一番大変だった、というのは大前提として、ですが…

避難するほどの直接的な被害がなくて、自宅にとどまった人たちというのも、
最初の一週間くらいはかなり大変だったんですよね
ほとんどのところでガスが停まったし、停電も回復までに数日かかったし、さらに
水まで停まって完全に詰んだところもあったし
あっちこっちのスーパーやコンビニ、ホームセンターなどを駆け回って、なんとか
食料や燃料などを確保することで頭がいっぱいになってましたっけ
スーパーはどこも長蛇の列、買えるものは数量制限あり…状況が状況だから、
火を使わずに食べられるものが欲しかったけれど、選択の余地はほとんどなく…

うちはすぐ近くに小学校があって、そこが避難所になっていたので、町内で開いてる
店を探して自転車で走り回りつつ、避難所近隣の住人にも食料配布があれば
とても助かるんだけど、と(ないものねだりとわかってはいますが)思ったこともありましたよ

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  • 242
  •  
  • 2012/02/17(金) 12:34:39
ライフラインに関しては地域によって激しく温度差がありますね。
大震災後、奥山仙台市長が唯一やったのが「ガスの復旧に1ヶ月かかる宣言」
うちは、キャンプ用ガスコンロや食料の備蓄で温かい食べ物にははさほど不自由しなかった。

でも電気と電話が復旧するまで1ヶ月、水道が復旧するまで2ヶ月。
ガソリン、灯油が通常の値に戻り、生活物資が手に入るようになるまで3ヶ月かかった。
つまり6月、凍死する心配がなくなるまでは、灯油は10l2000円のままだった。
石油の供給が安定するまでは半年かかったかな?

いまだにテント暮らしのハイチの苦労を思えば、半年で2chできるまで復旧しただけでも十分。

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  • 243
  • まいね
まいね

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  • 244
  •  
  • 2012/02/17(金) 18:31:06
下着姿で非難する女性がかわいそうだった
仙台のアーケード前でゴルフボール程度の
大きさのおにぎりを3個で1000円で売ってたヤクザ
人間のクズだと思った

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  • 245
  • 青鹿φ
  • 2012/02/17(金) 19:27:55
>>224-226
携帯からの緊急地震速報が苦手。
tv・ラジオからのアラームにも弱いです。

>>228
12Fならば揺れがより強かったでしょう。
地元沿岸のニュースだけ見ていたもので、深刻な原発を知ったのは1週間近くなってからでした。
家畜ばかりか手塩にかけた田畑まで荒れてしまって、、、せつないですね。

>>229
せいぜい2、3時間はあっても、日単位の停電は近頃ありませんでした。
電気に全部頼らないよう、他エネルギーへ分散しておくか、代替え発電を備えたいですね。
(とその時思うのですが… orz)

>>231
>岩手宮城内陸地震
2008年6月に落橋した祭畤大橋が再建開通したのは2010年12月とあります。
今回の大震災で失った莫大なものを取り戻す時間、、、長い道のりですね。

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  • 246
  •  
  • 2012/02/18(土) 06:39:58
地震当日はトラックの運転手をしてました
地震のとき塩釜で荷卸の最中で激しい揺れにあいました
揺れがおさまり急いで多賀城の会社に戻ろうとしたが渋滞で進まず
いつもなら10分程度で着くはずが1時間近くかかった記憶が
その時ラジオは聞いていたがあまりの揺れのため頭がパニックになってて
あまり憶えてなかった ただ憶えてたのは大津波警報が出てた事くらい
やっとの思い会社の目の前に来たところ目の前から真っ黒い津波が来ました
ヤバイと思い急いでUタウンして逃げたがすぐにトラックは津波に飲まれた
運転席まですぐに浸かり窓を開けて荷台に上がりそのまま流された
そこから見た景色は地獄絵図でした 流されてる人々 あちらこちらで助けを求める人々
本当に地獄でした 夜になって近くのコンビナートの爆発の炎が凄まじい物でした
夜が明けてから歩いて太白区の自宅に戻った
本当にこの様な震災はもう来ないでほしい沢山です
今でも揺れると心臓がドキドキして焦ります

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  • 247
  •  
  • 2012/02/18(土) 09:52:23
>>246
太白区って仙台の人か。流される人々を見たんだね。すごいな。

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  • 248
  •  
  • 2012/02/18(土) 17:10:29
私は宮城野区の高砂橋の上で地震に合いました。
高砂橋は、仙台で一番海よりの橋です。「どん、どん、どん」と
なんども橋の上なので、バウンドして、車ごと転倒するかと思いました。
しかしどうにか持ちこたえ、橋から降りることが出来ました。
しかし、橋の上だから異様に揺れたのだろうとあまい考えをしていました。
そして最初にいつもいくカワチに行きました。
カワチの人が、「津波がくるから45号線を越えなければいけない」といいます。
そう聞いても信じられません。川沿いには子供がいっている学校もあります。
そこで東京インテリアとスポーツデポの間の道で様子を見ることにしました。
45号線に向かう道は渋滞していて、私がいたところには6台ほどの普通車と
大型トラックが様子見をしていました。
そしてなんども来る余震を感じながら、知らないおじさんと
大丈夫だろうかと話し合ってました。
おじさんの娘さんは新港でフェリーに乗ることになっていたそうで心配していました。
そして、おじさんが、「ちょっと見てくると」車を海の方へ走らせました。
そして慌てて戻ってきて「津波きたよ」といいました。
そしておじさんは何故か45号線のほうに進んだのです。娘さんを気にしたのでしょうか?
その時、私はいつも給油している太陽石油にパシャっと水が当たるのが見えました。
高さ50cmくらいに見えました。慌てて車に乗ると
さっきまで渋滞していた産業道路を逆行して岩切に抜ける45号線を超える大きな
橋を登りました。それを超えたとき私は生き残ったと思いました。
そのあと、そこから近い小学校に避難し子供の学校に電話しました。
非常時でも学校同士はつながるんですね。
そして津波が来ているので今は迎えにこないようにと言われました。
そこで実家に戻り次の日の昼頃子供を迎えにいきました。
すると学校には避難した人、慌てて迎えていった人のたくさんの車が累々と
浸水した状態でありました。
そして子供を探し出し、車で実家に連れて行きました。
家は床上20cmの浸水でした。

ここまで見た
  • 249
  • 248
  • 2012/02/18(土) 17:42:14
>>そしておじさんは何故か45号線のほうに進んだのです。
自己レスですが、産業道路を海よりのほうへの間違えです。
どう考えても津波の来る方へ曲がったのでえっと思ったのを覚えています。

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  • 250
  • 青鹿
  • 2012/02/18(土) 17:42:54
>>236
飲料以外にも水は不可欠ですね。
毎年雨水をタンクに貯めて使おう、と構想するのですがまだとりかかっていません。

>3月11日は点検の意味もこめて、非常用のライトと食料で過ごそう
これ、わが家でも採用したいと思います。

>>237,240
会合でも、「(飲み食いする物が)こんなにあるからね」というとゆっくりするが、
「これだけだから」と云うと我先に飲んでる人がいて、、、報道側も難しいと思う。
そして、食べ物が公平に回らない事実は人災だと思います。

>>238
どうりで、、井上ひさしさんでしたか。
乙です。

>>239
私は帰ったら婆さんが外にいて「こわくて(家に)入れない」と言っていました。
助かったけれども心体が摩耗していて、、、。
お力落としのなきようお祈りします。

>>241
食料物資配布のことなんですが、避難所に泊まらず自宅避難していた方々への待遇、
避難所暮らしの人と同じ
避難所とは多少ならずとも差別された
ここいら辺の状況を掴んでいません。
二度と起こっていけない災害ですが、対応ははっきりしておくべきですね。

ここまで見た
  • 251
  •  
  • 2012/02/18(土) 20:26:20
>>250
俺も雨水を貯めようと思っていたけど、
考えてみると雨樋をガイガーカウンターで測るとものすごい数字が出るよね。
雨水は危険。濾過、除染しなければトイレにも使えない。
放射性廃棄物となった濾過材の処分にも困る。

ここまで見た
  • 252
  •  
  • 2012/02/18(土) 22:51:47
>>249
おじさんと娘さんの無事を祈りたいです。
報道ステーションでだったか、震災後初めてのフェリー入港を見ました。
地震後、大津波から逃れるためにフェリーは沖に出て、そのまま苫小牧へ。仙台港が再開されて北海道から物資を運んで来たそうです。
復旧後第1便目の船長は津波の時にも船に乗っていた方。お互いの安全を気遣い別れた仙台支店長との涙ながらの再会にテレビを見ているこちらも泣きそうになりました。

ここまで見た
  • 253
  • 青鹿φ
  • 2012/02/19(日) 19:05:27
>>242
うちはプロパンなのでガスはokでした。
灯油が10リットルで2,000円だったということですか?
こちらでは確かリッター100円でしたね。

>>244
夜までに毛布とか支給されたか気になりました。
>ゴルフボール程度のおにぎり3個で1000円
お布施並みの値段だね。

>>246-247
内陸でラジオによると、最初は津波3mと、、大津波警報に変わったのは直前だったと思います。
あの初動が気象庁をオオカミ少年化したとしか思えません。
速報のアラーム音が嫌ですね。
助かって良かった。

ここまで見た
  • 254
  •  
  • 2012/02/19(日) 21:20:19
>>253
最初の警報は、NHKを見返してみると14時50分過ぎくらいで、大津波警報が岩手(3m)宮城(6m)福島(3m)ですね。
10m以上に変更になったのは、15時15分過ぎくらいみたいだけど、画面上だけの表示でアナウンサーは話してないので、NHKラジオを聴いてる人には情報が伝わるのが遅れたとは思います。

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  • 255
  •  
  • 2012/02/19(日) 22:05:21
私は東京で勤務している山形県出身者です。

当日は出張で午前中に札幌から飛行機で仙台へ入りました。
会社は泉中央にあり、地震直後は会社の会議室で会議中でした。
地震が起き、それが長くなるにつれて揺れが大きくなり立っているのも、
やっとだったと記憶しています。

その後は情報がまったくない状況で、とりあえず地下鉄の駅まで行きましたが、
地下鉄は当然動いておらず仙台駅まで歩くことにしました。
台原の労災病院でトイレに入ったところ、TVで津波などの情報を得ました。
それから東北電力本店ビルがロビーを開放してくれてて、
そこで休憩をしていたら会社の先輩から、区役所で避難するから迎えに行くと連絡がありました。
区役所でもらったワカメご飯がおいしかったです。
区役所のロビーで寝ていたところ、夜中に寒さで目が覚め震えが止まらず、
ストーブの前で震えが収まるまで温まりました。

翌日は仙台市内に住むいとこと連絡がつき、山形に戻るから迎えに行くと連絡があり、
いとこの車で実家に帰り、翌日は新潟経由で東京に戻りました。

今でも長いタイプの地震があると、3月11日の地震を思い出し身構えてしまいます。

ここまで見た
  • 256
  •  
  • 2012/02/20(月) 11:40:41
山形市。子供たちを幼稚園から連れて帰って来た後でした。
持ち帰ってきたクッキーをテーブルを囲んで楽しく食べていたときに揺れ。
ちょっとやそっとの地震では揺れない山形が揺れてる=やばいとそのままテーブル下に。
揺れる中、玄関に掛けたジャンパーからかすかに携帯のアラームが鳴り響いていた。
収まってきたころに急いでテレビをオン。震源は宮城県沖と聞こえたとたんに停電。
終わったと思った。

とりあえずこの後はどうする?と自問自答。
旦那の実家には反射式ストーブがあるから暖がとれる。でもオール電化。
ここはプロパンなので、電気以外は生きている。どっちを取る?
悩みながらも部屋を片付け、避難する準備。
帰ってくる旦那のために懐中電灯などを用意。
結婚式に使ったキャンドルサービスのろうそくを発掘。
動いている間にも何度も余震。そのたびに子供たちがおびえる。
二男は頭にクッションを乗せ、テーブルの下から1時間は出てこなかった。
ちびちゃんは怖がって私の足につかまったまま。
それを引きずりながらもくもくと準備。
幸い暖かいまま残っていた羽釜のご飯をおにぎりにして分ける。

悩んだ結果、旦那の実家へ避難することに決定。
玄関に「実家に行きます。」と張り紙して出発。
車の中で初めてテレビを見る。そこは津波と火災の地獄。
信号の止まった道路を慎重に譲り合いながら進む。
大きな交差点では警察官が交通整理。心から感謝。

暗くなり始めたころに実家へ到着。
持参したおにぎりとおばあちゃんが日中に作っていた煮物で意外と豪華な食事。
暗くなると長男が再び発熱。ストーブのあるところに来て良かった。
24時間経っても熱が下がらず、市民病院へ。結果インフルエンザ。
診察が終わって車を出すころに電気再開。

山を越えただけのすぐ隣で、ほんのちょっとの不便だけで済んでいることに
申し訳無く思いながら過ごしていました。
今は地震直後に無駄に買い込まないように普段からゆっくり備蓄&使用しています。
シーチキンは普段もよく使えるので重宝しています。

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  • 257
  • まいね
まいね

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  • 258
  •  
  • 2012/02/20(月) 14:54:11
あの日地震直後に七ヶ浜の母と携帯で連絡が取れた@青葉区
両親宅は七ヶ浜でも高台にあるので津波の事は念頭になく取りあえず無事を確認してTELを切る。
そうこうしてるうちに私も息子二人を迎えに行ったり買い出しに行ったりして帰宅は20時過ぎ。
まさか沿岸部があんな悲惨な事になっているなんて思いもよらなかった。
夫が深夜帰宅して『ママはTV見てないかもしれないけど本当に酷い事になってるから
電気ついたら覚悟して見て。』と真剣な顔で言われたので正直動揺した。

携帯もあれっきり繋がらないし連絡もつかないのでひたすら心配するのみだったけど
3日ほどしてやっと母と2度目の安否確認が出来た。
あの日の夜実家までは津波は到達しなかったけど仙台新港の石油コンビナート火災で
避難勧告が出て近所の避難所を回ったけど何処も満杯で断られ、結局自宅に戻って
父と二人でまんじりもしないで夜を明かしたらしい。
でも両親揃って楽天家なので避難所の土手に生えてたふきのとうを摘んで天ぷらにして
食べたそうだw

ガソリンが確保出来てから何度も差し入れに行ったけど母校の小学校の前の田んぼが一面瓦礫の
山となって海岸線の松林がパラパラとまばらになり、海から母校が見えるようになったのは
本当にショックだった。海水浴場にはコンテナが打ち上げられ、セブンイレブンが看板を残して
跡形も無くなり、友人宅は門柱のみ残っていた。
東北有数の海水浴場とサーフスポットが無惨な姿になったのを見て故郷を離れて初めて泣いた。

ここまで見た
  • 259
  •  
  • 2012/02/20(月) 17:10:45
良スレ

あとで私も書き込みます

ここまで見た
  • 260
  •  
  • 2012/02/20(月) 17:47:16
>>258
私も七ヶ浜在住です。
あの日は、娘の中学校の卒業式から帰って一息ついたところでした。
その後の生活は皆さんが書かれている通りですが、一つだけ嬉しいことがあったので書き込ませて下さい。
それは、卒業式が終わった娘と中1の娘が友達同士で毎日ボランティア活動に頑張っていたことです。
最初は給水の列整理から始まり、写真や位牌の掃除、お年寄りへのマッサージ等々毎日頑張っていました。
いつの間にか、親が気付かない位成長していたんだな!と嬉しく思ったものでした。
大変な時だからこそ、子供たちの行動に勇気をもらったような気がします。

ここまで見た
  • 261
  •  
  • 2012/02/20(月) 18:04:19
>>260
258です。本当に大変でしたね。報道では南三陸や石巻、気仙沼等が流れていたけど
七ヶ浜や塩釜の情報はほとんど無く、実際地元に行って余りの惨状に信じられない
思いで一杯でした。主人と町内一周してみたけど菖蒲田海岸は勿論、他の浜も酷い
状態で復興するにはいったい何年掛かるのか見当もつきませんでした。
でもお嬢さんを始め地元の若い子達が頑張っていてくれたのは本当に勇気つけられます。

最近帰ったら小豆浜もサーファーが戻り、汐見台の瓦礫もすっかり無くなって思ったより
ずっと早く昔の姿を取り戻せるような気がして嬉しくなりました。

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  • 262
  • 青鹿
  • 2012/02/20(月) 20:03:20
>>248-249,252
おじさんが見に行かなければ危ういところ。
おじさんは娘さんのこと、248さんはお子さんが気になってる様子を感じます。
まさか海水が床上まで浸るとは思わなかったでしょうね。

>>251
雨水タンクは無理だとして、、、効果的な除染方法が見つかってほしいす。

>>254
レストンです。
3mも10m以上も大津波警報でしたね、勘違いしてました。

>>255
東北電力本店というと二番町でしたか、、そこまで歩いたと。
腹が減ってたんでしょうね。
新潟経由の東京は小1日がかりだったのでは。

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  • 263
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  • 2012/02/20(月) 23:32:27
福島県いわき市の海沿い。
二日前の大きな地震は出張先の仙台で遭遇。
偶然が重なって休みになりいわきに戻った。

最初は二日前の地震の余震かと思ったけど、テレビで速報が流れたんで、
ベッドの下に愛犬と隠れた。
部屋の中のもの全て倒れて、家の外壁も内壁も倒れた。
津波警報とか、サイレンがずっと鳴ってたけど、ベッドの下から出れなくて
愛犬も震えてた

色々省くけど、30分くらいかけてようやくベランダに出たら、もう近所に誰もいない
まさかと思ったけど、津波がきた
あの速さに「これで死ぬ」と諦めたけど、抱いてる愛犬を見て、逃げる決意をして、
無我夢中で山に走った
寒くて震えが止まらなくて、愛犬が本当に温かくて・・・
こんな冷たい手で抱っこしてごめんって思いながら暖まった。
その後雪降って「日本沈没かぁ」と思ったのは覚えてるのに、
あとはあまり覚えてない
とりあえず、愛犬の命を守るために家にいた気がする

沢山のもの、人を亡くし、避難所転々として
それでも頑張ろうと決意し、4月10日にいわきに帰ってきた。
4月11日、12日の余震で、心が折れた。

長くなった、ごめんね

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  • 2012/02/21(火) 22:24:12
>>9の続き
その日は会社に『直帰します』と連絡を入れて深夜に自宅着。
なんとか家にたどり着いたもののマンションの中は家財道具が散乱して滅茶苦茶
着替えをした後、妻と子供達が先に避難していた近所の小学校体育館へ移動して
なんとか家族と合流。
子供達は妻が持ち込んだ毛布にくるまって寝ていたが上の男の子が『どうしても
雑魚寝では寝られない』と訴えるので止むを得ず自宅から自家用車を持ってきて
校庭に停めてエンジンをかけて暖房を入れながらシートを倒して横になる。
カーナビワンセグでNHKを見て凄まじい災害が発生した事を再認識。
次の日は1日かけて自宅の散乱した家具をどけてなんとか寝る場所だけ確保。
(停電中だったので掃除機が使えずガラスの破片を取り除くのに苦労した)
月曜日からはなんとか出社したがしばらくの間は営業としての稼働は不可能で
(配送センターの損壊&燃料欠乏による配送不可能による)
1週間は半ば自宅待機、徐々に仕事ができるようになったのは震災から2週間
程度たってからだった。
近所のコンビニもスーパーもあっという間に品切れとなり、自家用車を使って
遠くの遠くのホームセンターやスーパーに行き、何時間も行列して食料や雑貨
を購入したりの日がしばらく続いて、本当に品不足が完全に解消したのは5月
になってからだった。
自宅と近所のマンションはタイルが剥がれたりエレベーターが故障したりドア
が歪んで開かなくなったりベランダに亀裂が入ったり惨憺たる有様だった。
マンション全般の修理が大体終わったのは12月。

ここまで見た
  • 268
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  • 2012/02/22(水) 13:47:24
南部鉄器が欲しくて情報を得ようとまちBBSに来たらたまたま目にしたので書いていきます。
長いけどお付き合いください。

あの日は…息子を出産してあと2日で1ヶ月。何を作ってお祝いしよう…と、夕飯用の炊き込みご飯の元を作って冷やしていた時だった。

ご飯、旦那が帰ってきてから炊こうかな?今炊いて少し食べようかな?……息子が寝てるうちに炊いちゃおう(笑)

なんて、腰を上げた時、カタカタカタカタカタっと揺れが来た。

地震には慣れてるけど、最近大きい地震が続いてたし、あまり遠くない未来、宮城県沖がくると思ってたから、一瞬体が固まった。

窓の外からガタガタガタという、今まで聞いたことがない音が大きくなりながら近づいてきた。今思えば家鳴りってやつだったと思う。

テレビで音が鳴り、強い揺れに注意してくださいという表示が出て、携帯の地震警報が鳴った。

とともに、強い揺れに襲われた。
「これだ!」瞬間的に宮城県沖地震だと思った。

強い縦揺れと横揺れ。
どっちに揺られてるか分からず必死だった。

ここまで見た
  • 269
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  • 2012/02/22(水) 13:50:45
>>268

その時頭をよぎったのは、
こうやって、人はあっという間に死んじゃうんだ…
床が崩れて落ちて死ぬのかな…天井が落ちてきて死ぬのかな…
一瞬、神戸の震災の映像がよぎった。

どっちにしろ、自分がクッションになれるようにと、ベッドの上で息子を抱いて丸まった。

体ごと揺さぶられる中、台所からは皿が落ちて割れる音が聞こえる。

部屋に取り付けられてるクローゼットは扉が開き、服や荷物が外に飛び出してきた。

テレビは後ろに倒れ、電気が消えた。

揺れが少しおさまってきて頭をあげる…長くも、短くも感じた時間だった。

しばし呆然とする。

部屋を見渡すと、小さい頃から学校や家庭で地震が絶対来ると言われてたので高さのある家具は置いて無かったから、テレビの被害とクローゼットの雪崩れだけで済んでいた。

シーンとした部屋に時おり余震がきて何度も揺れた。

家にいた方が安全かな…崩れないかな?火事になるかな?
外に出た方が安全?
…でもお婆ちゃんが昔の宮城県沖で塀や電信柱が倒れて人がたくさん亡くなったって言ってたし…

…余震が少しおさまるまでは家にいよう…それまでに、避難経路を確保しよう。

そう決心して、玄関までの通路にある台所に行こうとクローゼットの雪崩を掘り掘り……だけどドアが開かない…

ここまで見た
  • 270
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  • 2012/02/22(水) 13:53:44
>>269

正確に言うと、ドアの向こうにあるクローゼットが開いて、その奥にある冷蔵庫の中身が飛び出し、冷蔵庫本体も前に飛び出し、クローゼットの扉を向こうから押さえてる状態になっていた。


とにかく隙間から荷物を押したりして少しずつスペースを広げる。

隙間からなんとか向こう側に行くも、電気がない廊下は真っ暗…

手探りの状態で冷蔵庫を元の位置に戻して、足元に散らばったものをよける。
時おり足にグニャって感触や冷たい感触があり、なんだか分からなくて怖かった。

クローゼットの扉を閉めたら、少し光が差し込んできた。
それでも暗いので携帯で照らしてみた。

変な感触だったのは、冷蔵庫から飛び出したブルガリアヨーグルトと、肉だった。

冷やしてた炊き込みご飯の元も水に浸してた米も散らばっていた。
最後に隠し味でバターを入れるんじゃなかったーと、ギタギタになった床を見てうなだれる。

皿は、私は地震を意識して100円ショップのプラスチックの皿をメインにしてたから無事だった。
が、捨てろって言ったのに、旦那が一人暮らしの時に使ってた皿を取っており、足元に割れて散らばって全滅して危険な状態に…
正直「アイツめ…!」と思ったのは内緒。

とりあえず外に出られる状態にはしたが、暗くて片付けはできないから、汚れた靴下を脱いで、サンダルをはいて室内に戻った。

これからどうしよう…
携帯も、この日に限って充電し忘れてて、残り三本しかなかった。

窓から外を見ると、たくさんの人が外に出ていた。

…情報を得よう。

着込めるだけ着こんで、息子を抱いてマンションの前に出た。
ふわりとガスの臭いがした。


行き交う人はみな、大丈夫?地震大きかったねって声を掛け合っていた。

ふと目線をうつすと、マンションの玄関わきに、妊婦さんがクッションを持って丸まっていた。

「大丈夫?」

声をかけると、怖くて部屋に入れないと泣きそうになっていた。

聞けばうちの2〜3個隣の部屋だった。
うちも入れる状態じゃないし…

…そうだ!

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  • 271
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  • 2012/02/22(水) 13:57:03
>>270

実は震災前から、旦那と車で通るたびに、「地震があったら、この小学校に避難するね!」って言ってた小学校があったから、そこに連れていこう!
旦那には携帯が繋がらないから、メールを何度もトライして「あの小学校にいます。電池あまりなし。」とだけ送信した。

子供の荷物を取りに行きたいけど妊婦さんが無理っぽいし…また取りに戻ってこよう。
と、軽い気持ちで出発したのが失敗でした。

意外と歩いてみると坂もあれば距離もある〜!

ゼーゼー言いながら休み休み小学校へ。
歩いてると時おり、誰かがラジオを大音量で流してて、震度とか津波に注意してとか聞こえてきた。

小学校に着いたが避難所はまた開設されてなかったから、隣の児童館で待機させてもらった。

ラジオからは大きな地震の情報と、津波に気を付けろという放送が流れている。

息子が寝てる間に…
と、妊婦さんと児童館の方に息子を頼んで荷物を取りに戻った。


ミルク、オムツ…おしりふき。
哺乳瓶に消毒容器と消毒液。
寝かせるためのクッション、毛布、肌着に着替えに防寒着。
飲み物、食べ物を持って、電気が切れたポットから保温機能がついた水筒にお湯をありったけ詰めた。

すごい荷物で児童館を目指すも、玄関を出たらすごい雪。

行き交うタクシーはみなお客を乗せていて空車がない。

よくテレビで見る雪の中チマチマ歩くペンギンのような状態で目的地に向かった。

幸か不幸か、目的地直前の心臓破りの坂でタクシーがつかまり、なんとか児童館へ。

ラジオからは「5mの大きい津波が到達したという情報がある」と流れ出した。

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  • 272
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  • 2012/02/22(水) 15:16:50
まいね

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  • 273
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  • 2012/02/22(水) 15:37:31
>>271
「5m!?」
5mの津波なんて想像つかなかった。
大きな地震があるたびに海面の中継されてたけど、変動なんか数?、数十?だったし…

でもお婆ちゃんが、大きな地震が来たら津波がくるから、高いところに逃げるんだってよく言ってたけど…
これは想像つかないよ…

続いてラジオから
「多数の死傷者が出ています。目視しただけで200〜300体の遺体が打ち上げられているとの情報もあります」

と、聞こえてきた。
でもこの規模なら、200〜300人の死傷者は出ておかしくないよな…

なんて、耳に入る情報がまるでドラマのように現実味がなくて…
唖然として聞いていた気がする。

避難所が開設され
私たちは体育館に移動した。
ステージ前には長テーブルが並べられ、民生委員の本部になっていた。
真ん中は運動用のマットとブルーシートが敷かれ、入り口前にはストーブが4つ置かれていた。

ストーブの周りにはすでに人が陣取ってて、マットのあたりはかなり寒かった。

夜になるにつれ、人が溢れかえった…ストーブの灯りだけの暗くなった体育館では、懐中電灯の灯りを頼りに何度もプールからトイレまで一列に並び、バケツリレーをした。

中にはペットを連れてきてる人もいた。

籠に入れてる人や抱いてる人…迷惑になるからとペットと外で過ごす人。
紐でつないで散歩のように体育館内をペットと一緒に歩き回る人…
旦那のような動物アレルギーがある人がいたら大変だな〜と思いました。

その旦那が体育館に着いたのは夜の11時を超えてました。

ここまで見た
  • 274
  •  
  • 2012/02/22(水) 16:39:38
>>273

旦那は市内から車で20分くらいの場所に勤めていたけど、信号がついてなくて渋滞して、所々家が倒壊して引き返したりして…結局到着まで8時間かかり、ガソリンもなくなってしまったとのこと。
送ったメールはさっき届いたが、小学校に行くって前に聞いてたから、ちゃんと向かってきたらしい。

ただ、会社の車でテレビを見たが、大変な事がおきた。
津波で大変なことになってる。

と、青ざめていた。
私は想像がつかなくて…
まだ実感がわかずにいた。

その夜は毛布が足りず、自分達にまわってこなかったから、私が運んできた毛布二枚を、旦那と子供、私と妊婦さんで半分こして眠りについた。

でも寒くてあまり長くは眠れなかった…


朝…
炊き出しで、備蓄されてたアルファ米が出た。

袋に入った乾燥した米に、ワカメと塩を入れて、水を入れて一時間。お湯だと15分くらいで出来る保存食だ。

妊婦さんの旦那さんは朝になってから避難所にきていた。

奥さんと山形の実家に行くらしい。
良かった…と胸をなでおろした。

ここまで見た
  • 275
  •  
  • 2012/02/22(水) 16:44:51
>>274
その日の朝、
避難所には2ページの河北新報が配られた。

【 宮城 震度7 大津波 】

見出しには大きくこう書かれていた。
今新聞を見直してたら、この時点でM8.8と記載されている。

写真を見て、私は最初、なんだか分からなかった…川のゴミ?

よく見たら、今まで見たこともない広い、広い海。
浮かんでいるゴミらしきものをよくよく見ると、小さな小さな家や車たち。

水に浮かんで 燃える家。

言葉にならなかった。

その時も今も思うのは、何故、その時、私は知らなかったのだろう…
なぜ助けられる距離にいて、避難しかできなかったんだろう…
なんて自分がのんきだったか…
同じ県同じ国に住む人たちがこんなに大変な思いして苦しんでたのに…

もっとできる事があったのではないか?
その気持ちは今も変わりません。


それから2日後
民生委員が「自分達でやって。面倒みれません」と避難所を避難民に明け渡し、避難民だけでの管理となった。

その言葉で半分くらいの人が体育館から消えた。

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  • 276
  •  
  • 2012/02/22(水) 16:54:14
>>275
人が減った体育館では、なんとなくリーダー、副リーダー、炊き出し班、水汲み班ができた。

お互い会話もするようになった。


ある家族は海に近い場所で働いていた父親に連絡がつかず、あるカップルの女性は南三陸町に住むいとこと連絡がつかず不安らしかった。

旦那も実家が気仙沼にあり、旦那の前の奥さんの実家も女川にあるらしく、子供の心配をしていた。

夕方、ボロボロの男性が体育館にやってきた。
連絡がつかなかった家族の父親だった。

津波で逃げたが携帯は水没し
近くでコンビナートが爆発、炎上したので、みんなで離れたビルに泳いで難を逃れたが油まみれ。

水が引くのを待って、多賀城まで歩いてヒッチハイクで仙台駅へついたが、市内は何事もなさそうなのに自分はボロボロ…

なにがあったんだって言って座り込んでいた。


一週間くらいすると、物資も豊富になり、電気が復活し、テレビが見れるようになったり、不明者を検索するためのインターネットがひかれた。

パソコンを打てる人があまりいなかったので、頼まれて私が代わりに検索したりして過ごしていた。

砂時計アラームタイマー
フリックラーニング
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