【3.11あの日】〜東日本大震災〜体験記録Vol.1【絆の足跡】 [machi](★0)
-
- 194
- 青鹿
- 2012/02/12(日) 22:02:35
-
前半少し良くも、再び週末に向かって寒くなりそうな週間天気です。
>>177
青森県、縁がないと被害規模を知らない人が多いと思います。
報道側も疎く、どこかの局では岩手沿岸部地図に釜石が入ってなかった頃がありました。
腹が減る、トイレに行けない、寒い、、、はできれば避けたい。
皆さんの話を聞くと、新聞は(号外と)翌朝まで届いたようですね。
遠くの話より、地元で起こった話を優先的に残すべきでは、。
>>179
レコーダーやカメラがなくても情景・心の中を描けるからね。
>>180
このまま読んでいったらとんでもない結末になるのかと、、、
ご家族無事でなにより。
>なーーんにもなかった
そのせいなのか、片づけが他の地区よりも早かったと聞いてます。
>>181
場面は違いますが、「基本的に」「多々」「癒し」が流行ってましたね。
-
- 195
- ゆきんこ
- 2012/02/13(月) 00:50:45
-
他県民の者ですがお邪魔させて頂きます。
地震板の方に書こうと思ったのですがあちらはなんか心ない人が荒らしているようで・・。
くだらないチラ裏なので余計に書きにくいのですが。
私と子供が歌手の趣味が似ていて、大体いつも
Acid Black Cherry(元Janne Da ArcのヴォーカリストでYasuという人のソロプロジェクト)
の曲を聴いているのですが、今日なにげなく車の中でこのグループの「シャングリラ」
という曲を流していました。
この曲はあの日の大災害以降にYasuが書いたものですが、特に大々的に宣伝もしてなくて、
(所属がavaxなのでかの国の売り出しに全力なので国内の歌手はほっとかれてますしね)
押し付けでもなく、被災地のファンの人がたまたま聴いてくれたらいいな・・と思って作ったそうです。
いかにも被災地の為に!みたいなのはウザいとご本人も十分認識してるみたいで。
それを聴いてた時に子供が突然「分かった!」と。 何の事?と聞いてみると、この歌詞の中の
『シャングリラ 輝いて 奇跡の風が吹く島へ』の部分は=奇跡の風が福島へ
『シャングリラ 目を閉じて 願いは空に愛は手に』の部分は=願いは空に岩手に、という事じゃない?と。
それを聞いた途端なんだか分からないけど涙がぶわっと出てきました。
ほんとなんだか理屈ではなくダラダラ涙が出てきました。
他県の名称も盛り込みたかったけど歌詞的に難しかったのかなと思うのですけど。
もし、機会があれば聴いてみて頂けたら・・・と思いました。
長い上に皆さんの苦労も知らない他県民のくせに書きにきてすみません。
気に障った方がいましたらごめんなさい。
-
- 196
-
まいね
-
- 197
-
まいね
-
- 198
-
まいね
-
- 199
- 萌きゅん89φ
- 2012/02/13(月) 03:10:18
-
震災後に励まされた歌については、ほかにも書き込みされてましたし、問題ないんではないかと思います。
-
- 200
- 萌きゅん89φ
- 2012/02/13(月) 03:17:42
-
体験も、励まされた歌も十人十色だからね。
-
- 201
- ゆきんこ
- 2012/02/13(月) 07:16:38
-
@岩手釜石
釜石小学校校歌
いきいき生きる いきいき生きる
ひとりで立って まっすぐ生きる
困ったときは 目をあげて
星を目あてに まっすぐ生きる
息あるうちは いきいき生きる
状況と歌詞がそのまま。
4月の卒業式に立ち会ったけど、子供達の合唱に泣けた。
親と離れて、避難所で夜を明かしたんだものな。
無論親を亡くした子もいた。
子供達、生きていてくれてありがとうと思ったよ。
-
- 202
-
まいね
-
- 203
- ゆきんこ
- 2012/02/13(月) 12:03:25
-
>>201
朝、歌詞読んで泣きそうになりました。以前からこの歌詞なんですよね。
海と製鉄で生きるまちの子供にぴったりのまっすぐな歌ですね。
-
- 204
-
まいね
-
- 205
-
まいね
-
- 206
-
まいね
-
- 208
- 恋するゆきんこちゃん
- 2012/02/13(月) 23:25:58
-
186続き
どこにいってもコンビニは人の列 30分程並んで買えた食料はお菓子類のみ、その日はそれをたべて
16時くらいには車のなかで寝た 13日朝もっと遠くにと思い大崎市方面に、停電で作動していない
信号機がほとんどで走行には、かなり注意した 大崎市内も店は、ほとんどあいていない
途中ホームセンターに人の列をみつけ、ここなら生活用品も食料品も買えるかな、と並んだが入口に置いて
ある食料品の販売だけだった 停電で真っ暗で棚は崩れ危険という事だったが、店長さんに訳を言うと
店員にライト持たせて中に入って必要なもの何でもどうぞと言ってくれた さらに支払の時には大変だからと
値引きまでしてくれた 店長さんをはじめ、お店の方々あの時はほんとうにありがとうございました
店から出ると、列の前にいたご婦人が家に寄ってくださいと待っていてくれた
お茶をごちそうになり、衣類や野菜などたくさんいただいた こちらのご家族とは時々連絡を取り合い
親交が続いています この後、山形県は電気が復旧したとの情報があり新庄市に向かった
つづく
-
- 209
- 恋するゆきんこちゃん
- 2012/02/13(月) 23:28:26
-
八戸の新聞社も同じような募集してるね。
人それぞれ311には思うところあるからなぁ。
ttp://cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/form/sinsaiepi/sinsaiepi.htm
-
- 210
-
まいね
-
- 211
- 恋するゆきんこちゃん
- 2012/02/14(火) 09:11:00
-
>>203
おう、自分も涙がでた。
ありがとう。
-
- 212
- 恋するゆきんこちゃん
- 2012/02/14(火) 13:35:18
-
石巻大川小学校のことを、思うと、言葉にならない。あと5名…教員、子供たちが早く見つかりますように、祈っています。
-
- 213
- 恋するゆきんこちゃん
- 2012/02/14(火) 13:48:09
-
岩手県内陸
異常な縦揺れに立っていられず、普段なら机の下に入るところだが外へ出た。
いつもの横揺れではなく突き上げる揺れに怖くなり、2時間は家に入れなかった。
こんな強く異常な揺れなのに、どうして沿岸部では逃げてくれなかったのか、と暗澹たる気持ちになる。
だが、震源地から離れたところのほうが瓦が落ちたりものが崩れたりと「見える異常」があるので、
案外沿岸のほうは地震だけなら被害は少なかったのか?とも思う。
沿岸の人はあまり異常さを感じなかったのだろうか?
震災前の非難訓練で半数近くが参加してなかったという記事を見ていたから嫌な予感はしていたが
当たって欲しくなかった。逃げて欲しかった。
-
- 214
-
まいね
-
- 215
-
まいね
-
- 216
- 恋するゆきんこちゃん
- 2012/02/14(火) 21:22:52
-
宮城県岩沼市
地震の時はだだっ広い駐車場にいたので、物が落ちたり倒れたりの室内よりは恐怖感は薄かった。
それどころか、一種の興奮状態になり、知らない人に話し掛けたりした。そして何故かラジオを聴くとかワンセグを見る事に気が廻らなかった。
母と家に帰り、余震の恐怖の中、明るい今のうちにと家内外の片付け、そして買い出しに忙しく動く。
暗くなり、もうする事も無い中ようやく落ち着いてラジオを聴く。
各地の津波被害に初めて触れ、ようやく妙なテンションが醒め、事の重大さに気付くのはこの頃。
そして、この頃既に山元町の叔父と従兄弟は津波で亡くなっていた。
後日、夫と息子の死を知らせに来た叔母を前に母と私もぼろぼろ泣いた。
-
- 218
-
まいね
-
- 219
-
まいね
-
- 220
-
まいね
-
- 221
-
まいね
-
- 222
-
まいね
-
- 223
-
まいね
-
- 224
- ゆきんこ
- 2012/02/15(水) 08:49:57
-
歌っていえば、ぽぽぽ〜んをたまに聞くと
当時を思い出してうつになるのは俺だけ?
-
- 225
- ゆきんこ
- 2012/02/15(水) 09:57:24
-
私は地震があって、テレビにL字情報が出るとウツになります。
5月頃まででしたっけ?テレビに出続けていたのを思い出す。
ポポポはアニメだったせいかあまりに奇妙な感じのせいか、トラウマにはなってないみたい。
雑談スマソ
-
- 226
- ゆきんこ
- 2012/02/15(水) 11:32:16
-
私も、ぽぽぽぽ〜んを聞くと、当時の異様な雰囲気を思い出します。
-
- 227
- RareBear77
- 2012/02/15(水) 12:36:51
-
ぽぽん"だけ"のネタはこの辺にしてください。
(続けますと趣旨違いの勘違いさんがお見えになっちゃいます)
体験スレですから、それを絡めたご自身の体験を語っていただけると幸いです。
-
- 228
- ゆきんこ
- 2012/02/15(水) 16:58:10
-
@東京足立区
移住先の広野町から前日の10日に6号海岸線沿いを通って
一旦、東京にもどっていました。
さあ残りの荷物を運んでしまおうって感じで…。
地震の時は国会中継を見てました。(今も見て怒りに燃えてます。)
12階のマンションは信じられない揺れで…
両隣の住民もあわてて廊下にでてきて久しぶりにご挨拶しました(笑
その後はテレビの津波の映像に固まって…
でも福島県浜通り、いわき方面の事が全く報じられず…
あげく、原発事故…ず〜っと起きてた気がします。
家は大丈夫か…隣のおばあちゃん大丈夫か…
心配で心配でたまりませんでした。
約1月後、常磐道が四倉まで開通した日に
やっと様子を見に行くことができました。
マスクにレインコートに帽子の完全武装、
車の窓なんてぜったい開けない…
自宅に行くのに水や食料かかえて…それも日帰りだけど(笑)
開通したとはいえ、あちこちガタガタしていて
ジェットコースターっぽい常磐道を降りると警察の検問があった。
他県の警察で地震被害の状況、岩とか落ちて通行止めなってないか聞いたけど
あんまりわかってなかった…地理がわかんないから、仕方ないね…
それから月一で日帰り重ねてますけど
田植えの季節に涸れた田んぼ、
だれも取らない柿の実
関連企業の事務所になったスーパー
作業員の町になってる…
広野は避難解除になったから帰れるというけど
原発は本当に…もうこれ以上暴れない?
余震があったら…壊滅しない???
温度が上がったってニュースや、浜通りに地震があるたび
ものすごく不安で泣きたくなります。
命の犠牲にくらべたら、どーって事ないって自分に言い聞かせてるけど…
-
- 229
- ゆきんこ
- 2012/02/15(水) 19:57:06
-
岩手一関に住んでます。一関も地震の多い所で、30年以内に宮城県沖地震が来ると
いうのは常に頭にありました。
あの日は国会中継中にTVの緊急地震速報が出て、「あ、地震来るんだ・・・。」と
思ってるうちに揺れがきて、その辺で携帯(au)の地震メールが鳴っていたと
記憶してます。
家は一関ICにわりと近いのでひっきりなしにパトカーや消防車などのサイレンが
聞こえてきて「この先どうなっちゃうんだろう」と不安になったりもしました。
一関ICからは気仙沼や陸前高田に向かう緊急車両がたくさんあったでしょうから
ガソリンスタンドでなかなかガソリンが入れられませんでしたが県外ナンバーの
緊急車両や警視庁の車、自衛隊の車などをみると「ホントに遠くから来てくれて
ありがとうございます(涙)」って感じでした。
停電して余震が酷いので車中泊が3日続きました。車の中で寝ていると窓が凍ってきて
寒かったです。でも月がきれいでしたね・・・。
14日だかに電気が通った時は泣きたいくらい嬉しかったですね。
-
- 230
- 青鹿φ
- 2012/02/15(水) 20:13:01
-
>>208 (>>162,186 のつづき)
HCの臨機応変な計らいで揃えることができた、、役所も見習って欲しいところ。
「家に寄って」と声をかけてくれた方は神様だね。
ガソリンまだ心配なかったのかな?
>>209
tvやラジオの震災関連から一時期逃れたい気持ちがあったが、
(あれは興味をそそるような番組制作側が悪い)
続けてもらいたいと思っています。
>>212
1年で一番川の水が少ない時期らしいし、3月からは釣り解禁にも、、、。
>>213
訓練高揚のためにも避けては通れぬ疑問であろうけれども、、。
「忘れた頃の災害」に遭って逃げ遅れた人に非はないと考える。
>>216
家に帰ってきて後片付け、灯り・暖房の準備、夕飯、、
家族それぞれの出来事を聞いたりして、それからラジオに耳傾けるといい時間、。
自分も重大さを知るまでは時間がかかりました。
-
- 231
- ゆきんこ
- 2012/02/15(水) 20:19:52
-
>>229
おととしまで一関に住んでいました。
2008年の岩手宮城内陸地震もそちらで体験して、人生で体験した中で最大の揺れだと当時は思いましたが、
東日本大震災はまるで比べものにはなりませんでした。
去年の五月に一関を通って気仙沼に行きましたが、
普段なら軽トラやトラクターがのんびり走る国道284号線を
自衛隊の車輪が次々と通る光景は頼もしくもあり悲しくもあり…。
気仙沼や陸前高田の知り合いも何人か亡くなりました。
新聞に名前を見つけた時の衝撃は、一生忘れられないと思います。
-
- 232
-
まいね
-
- 233
-
まいね
-
- 234
-
まいね
-
- 235
-
まいね
-
- 236
- ゆきんこ
- 2012/02/16(木) 20:32:00
-
@仙台市
地震後の数日間は?生きるための行動?が続いたなぁ。
停電断水情報ナシのうえ余震多発で寝る気にもなれず、
早朝の薄暗いうちから自転車で給水所やスーパーやホームセンター回り、
飲食物得るためにとりあえず並ぶ。
一箇所に並んだら物資を得られるまで半日かかり、
待ち時間は前後にいる人たちと情報交換、どこのスーパーは自由に買える、
どこのコンビには入れ替え制で10品制限、納豆があった豆腐があっただの、
そのうち店員が出てきて「トイレットペーパー乾電池は売り切れました!
水はお一人2本まで!次の入荷は未定です!」とメガホンで言い出す。
それでもみんな、何か買えるならと並び続けてた。
書いていたら、ついこの前のように思い出されてきた。
3月11日は点検の意味もこめて、非常用のライトと食料で過ごそうと思う。
-
- 237
- ゆきんこ
- 2012/02/16(木) 21:02:35
-
21世紀の日本で、食い物やガソリンを手に入れるために行列が出来るとは思わなかった。
今になって思うと、
「ホントにガソリンは足りなかったのか?」
「食料はどこに行ったのか?」
という検証は必要かもしれない。
供給が滞ったのは事実だと思うが、需要は適正だったのだろうか。
ないない、ということに煽られて、不必要な需要を生んでなかったのか。
今後、このような事態になった時、この経験は活かされるのだろうか。
なんてことを考えてみる。
-
- 238
- ゆきんこ
- 2012/02/17(金) 00:28:34
-
>203
http://www.youtube.com/watch?v=BFo6p90dJko
-
- 239
- ゆきんこ
- 2012/02/17(金) 00:51:04
-
宮城県仙台市若林区荒浜から数十キロ。
うちの家では少しでも揺れを感じたら外に出る習慣を付けていた。
あの日は早朝勤務だけして家でくつろいでたんだ。
少しの揺れを感知し、母と婆さんに声を掛け家を出た。
出て間もなく激しく歪む地面。
アパートが崩れるんじゃないかと思った。
!!
母と婆さんが家から出て来ない。
まだ揺れる中アパートへまた戻ると、母は廊下に座っていた。
婆さんは家具に挟まれていた。
必死の思いで助けおんぶして外へ連れ出した。
ヘリが飛んでいる。
「津波が来ます。」
逃げる手段がないうちら。
知らない人にマンションに招かれる。
助かる。
徐々に家を元通りにし、普段の生活に戻ったのもつかの間。
婆さんは震災の疲れで亡くなった。
-
- 240
- ゆきんこ
- 2012/02/17(金) 00:56:50
-
>>237
必要だったよ。次の予震に備える為にも。
水を汲むにしても、食料を確保しに行くにしても車が必須だったから。
水は1ヶ月出なかったし、給水所は何人家族だろうがならんだ人の分しかくれなかった(6L/人)
買物も一人5点とか、とにかく一家総出で動かなきゃなかった。
先が見えない中で、移動手段を確保する為に必死だったよ。
避難所は飽和状態で頼れそうもなかったし。
TVで放送された仙台や女川石巻にどんどん物資が届く中、町の半分が浸水した
うちの町は町民に物資提供を何回も呼び掛けていたよ。
報道から漏れた知名度低い町では何もかもが足りてなかった。
-
- 241
- ゆきんこ
- 2012/02/17(金) 02:19:21
-
>>237
地震やそのあとの津波で住むところを失って、着のみ着のまま避難所へたどりついた
被災者の方々が一番大変だった、というのは大前提として、ですが…
避難するほどの直接的な被害がなくて、自宅にとどまった人たちというのも、
最初の一週間くらいはかなり大変だったんですよね
ほとんどのところでガスが停まったし、停電も回復までに数日かかったし、さらに
水まで停まって完全に詰んだところもあったし
あっちこっちのスーパーやコンビニ、ホームセンターなどを駆け回って、なんとか
食料や燃料などを確保することで頭がいっぱいになってましたっけ
スーパーはどこも長蛇の列、買えるものは数量制限あり…状況が状況だから、
火を使わずに食べられるものが欲しかったけれど、選択の余地はほとんどなく…
うちはすぐ近くに小学校があって、そこが避難所になっていたので、町内で開いてる
店を探して自転車で走り回りつつ、避難所近隣の住人にも食料配布があれば
とても助かるんだけど、と(ないものねだりとわかってはいますが)思ったこともありましたよ
-
- 242
- ゆきんこ
- 2012/02/17(金) 12:34:39
-
ライフラインに関しては地域によって激しく温度差がありますね。
大震災後、奥山仙台市長が唯一やったのが「ガスの復旧に1ヶ月かかる宣言」
うちは、キャンプ用ガスコンロや食料の備蓄で温かい食べ物にははさほど不自由しなかった。
でも電気と電話が復旧するまで1ヶ月、水道が復旧するまで2ヶ月。
ガソリン、灯油が通常の値に戻り、生活物資が手に入るようになるまで3ヶ月かかった。
つまり6月、凍死する心配がなくなるまでは、灯油は10l2000円のままだった。
石油の供給が安定するまでは半年かかったかな?
いまだにテント暮らしのハイチの苦労を思えば、半年で2chできるまで復旧しただけでも十分。
このページを共有する
おすすめワード