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  • 113
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  • 2012/01/31(火) 21:08:09
>>109さん
私も力強さを感じた事があります

こちらは宮城県北ですが、確か12か13日の夜中におびただしい数のサイレンを聞きました
市内の消防車・ポンプ車・救急車かな?と思ったら
秋田から高速降りて沿岸部に向かう車列だったようです。

電気が消え、人の姿も消えた内陸の田舎町です
高速降りて沿岸方面に向かう道があるんだと思います。
がんばれがんばれ、助けてあげて
ここは大丈夫
そう願って見送りました。
沿岸近くにキャンプを張れない自衛隊の方々もたくさんうちの町に来てました。同じ気持ちで見送ってました。


あと、うちの五歳児は自衛隊さんが大好きになりました
車ですれ違う時に
自衛隊さんを書いた絵を見せてました。
疲れてるのに合図してくれるんです
恥ずかしかったんですが手を振ってくれると嬉しかったですね。
彼らが頑張ってたおかげなんだっていつも思ってます。
子供は自衛隊さんになる!と言ってます
女の子ですが、頑張って欲しいもんです。

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  • 114
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  • 2012/01/31(火) 21:32:41
自衛隊、広域消防、警察官の方々には、いくら感謝しても足りないよね。
3日後くらいには、いろいろな地域からの緊急車両が来て頑張ってた。
県が緊急車両用のガソリンを確保してたみたいだけど、それに文句言ってる人が情けなかったよ。
「何であいつらばっかり入れられるんだ!!」
ってね。
「出勤出来ない!!クビになったら責任取れ!!」
とか言ってる奴もいた。
何でこうなのかね・・・

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  • 115
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  • 2012/01/31(火) 22:43:17
@東松島
自衛隊の車列にはサンダーバードのテーマ
警察の車列には西部警察のテーマ
消防の車列にはバックドラフトのテーマがそれぞれ頭の中でながれてそのたび涙した。

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  • 116
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  • 2012/01/31(火) 23:37:50
>>114
逆に考えると、こういう状況になれば誰が誰なのか分かるという事だろう
品性があるのか無いのか・・・・・・・

ガソリンスタンドでの醜い争いは、わりとよくあったらしいな
スーパーなんかでも人数や品数制限して頑張ってたが、万引きも多かった
被災地の火事場泥棒然り、こういう連中に生きている価値はあるのか
万代に忍び込んだ育英野球部なんかも、実害ないだけで無罪放免
あの有名高校にして、この程度の品性だったわけだ

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  • 117
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  • 2012/02/01(水) 00:07:56
毎日ちょっとづつ買い物しても間に合うのに、適当な風評信じてまとめ買いして迷惑かける市民性にはガッカリした。

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  • 118
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  • 2012/02/01(水) 00:15:52
@石巻
記憶違いでなければ12日の午前中には長岡ナンバーの救急車を見た
地元の人間が力なく立ちつくしている道路を
数台連なって静かに走って行ったのを憶えている

救急車を見て感動したのは生まれて初めてだった

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  • 119
  •  
  • 2012/02/01(水) 01:18:11
13日の早朝、食い物も電気もない中、県庁に行ってみた。
そこだけ電気があってTVが見られたし、ホントはダメなんだろうけど携帯の充電が出来た。
そしたら地下の食堂が営業してたのよ。
白飯、漬け物、味噌汁が300円だったかで食えた。
美味かった・・・

食いながら涙が出てきたよ。
悲惨極まる沿岸の様子、現地で何も出来ない情けなさ、自然の恐ろしさ。
何だかわけのわからない感情が溢れて、涙が止まらなくなった。
あの時の飯は、一生忘れないと思う。

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  • 120
  •  
  • 2012/02/01(水) 02:01:56
@いわき
津波が収まって、いわきではめったに降らない雪(粉雪だったかな)が降ってきて、湿った瓦礫の上に落ちてきたのを見て、
ああ、これで何かが終わっちゃうんだな。終わりってあっけないな。つい数時間前まで波を眺めながら一服してたのにな…って特に意味のないことを感じてたら、
津波から逃れた人たちの声が聞こえてきて、オレの脳裏で「ロンリー仮面ライダー」が流れた。
オレは仮面ライダーにゃなれないけど、生き残った人たちを護らなくちゃと気持ちを奮い立たせたっけな。

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  • 121
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  • 2012/02/01(水) 21:11:04
3・11を振り返り…思えば直感的に近々ヤバい地震が来るなと思っていました。
金魚を2匹飼っていましたがあの地震がある1ヵ月か半月前か…2匹共ずっと下の隅っこに沈んで身を潜めてました。普段は餌をネダる様に人が通り過ぎると上に浮上しパクパクと激しく口を動かすヤツらが…。地震前日に「そろそろチェストから下に降ろしてた方がいいかな」と、ふと思いました。
それから余震も多かったので金魚の行動に「変だな。近い内、大きな地震でも来るんじゃないか?」って家族で言ってた所でした。

3月10日の夜。いつもみたいに余震が何回か来て「本当にヤバいなぁ。寝室の本棚、移動しよう」と思っていました。

11日は突っ張り棒していた本棚が全壊して布団に降り注いでました…
3月11日。息子を幼稚園にやった後、娘が○歳半検診時で耳の検査に引っかかりヒヤリングセンターへ。

検査まで時間があったので市民広場に寄ると女川等の物産展(?)がやっており、普段は買わないのに何故か女川産食べるラー油「オナラー」や沖アミを4袋も買った。
検査後にミスドに行き、やはり普段そんなに買わないのにドーナツを15個も買ってしまう。
最終的にはアエルの4階で娘と被災しました。
エスカレーターを降りてすぐに緊急地震速報が鳴りました。周りのお客さんのも複数鳴り響き、ただ事では無いと感じました。

…振り返ってみて何かデカい事がある時は普段と違う事をやってしまう&「そろそろ○○しよう」と直感的に思う&飼っている動物の動きに注意かなと思いました。
ちなみに金魚は2匹ともチェストの下敷き&チェストの引き出し内にいました…ごめんね…本当にごめん…。降ろそうかって思った10日の夜に下に降ろして置くべきだった…
…今は5匹飼ってます。子供達が悲しんだので夏祭り等で釣りました。

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  • 122
  •  
  • 2012/02/01(水) 21:25:55
121です。長々スイマセン。
何人の方か書いてますが停電が続き、私も新聞で津波の被害を知りました。
「え…嘘でしょ?これ名取?」と頭が真っ青になりました。

友達は母を津波で無くしたり爺婆が行方不明だったり友達無くしたり自宅無くしたり職なくしたり…同じ被災者なのにレベルが違い過ぎて何を言ってあげたら良いか分かりませんでした。

県外からの支援車や隣近所の優しさに改めて暖かさを感じました。
震災は忌むべきもの。でも人の暖かさを再認識出来た。これが人間だ。人間の温もり、力、繋がり。皆ありがとう。

停電中は開き直るしか無かったので皆で酒盛りしたりロウソクの明かりで影絵をして子供と遊んだり…悲しむだけじゃなく前向きになれる様、楽しむ事を考えました。

人知れず涙もしましたけどね。

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  • 123
  • 青鹿φ
  • 2012/02/01(水) 21:33:22
>>94
旦那さんの帰宅経路・移動手段なども聞きたかった。
あの日の夜、かなりの数の人が車中で過ごし夜空を見ていたんですね。
そして皆さん星がきれいだったと言っています。

>>95
この大きな揺れはいつ治まるんだろ、と。
岩手(特に内陸部)ではトタン屋根が一般的で、主に瓦葺きの店舗・蔵・住宅に被害ありました。
配給の水は飲料分しかなかったでしょうから、、、最高の風呂でしたね。

>>96
福島県の苦悩について計り知れません。
少しだけ意見を云うと40年廃炉という政府の建て前は、
これからも核エネルギー推進、未来については我関せずとしか思えない。

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  • 124
  •  
  • 2012/02/01(水) 21:55:57
>>123
気持ちわかるけど…(傲慢ですまない)

後者は、赤文字で語ってはならない。>>1の趣旨を逸脱。

行きたいけど、行けない。物資を送りたくとも、送れなかった。そんな、半年前を思うと、いま、同じ物資を送ることが、ありがたいか、迷惑かを考える。

具体的に明かせないので、このへんで、退出。


でも、野蒜で育ててもらったうちらは、まだ。惜しみすぎ…

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  • 125
  •  
  • 2012/02/01(水) 21:57:08
>>113
同じく
12日のお昼過ぎだったかな
こちらはいわき市ですが、浜松消防隊の車列が50台近く、通行止めの高速から降りて来て津波被害の沿岸部に向かって行ったのを見ました
物凄いサイレンの音が鳴り響いて、何事?と思い、反面、今のいわき市にこんなに動ける緊急車両なんてあるの?って家族と話をしていましたね
浜松消防署の名前が見えて、皆涙流しながら頑張って!ありがとう!って叫んでたのが印象深かったです
原発がヤバイ状況の中、よく来てくれたものです、感謝感謝です

浜松の皆様、この場を借りてお礼申し上げまする

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  • 126
  •  
  • 2012/02/01(水) 22:05:37
福島県白河の零細事業主です。
ともかく金が無くて困った。
3/10に、それまで溜まっていた下請けへの支払いと従業員の給与を年度末だからと綺麗さっぱり支払ったら、自分の生活費が無くなってた。
3/20に顧客からまとまった支払いがあるはずなのでそれをアテにしてたけど、連絡もつけようになかった。
原発が爆発して女房子供だけでも避難させようとしたけど、交通費と当座のまとまった資金すら手当て出来なかった。
3/20になにも言わずにきちんと耳を揃えて支払ってくれたお得意様、あなたは神様です。〔感謝〕

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  • 127
  •  
  • 2012/02/01(水) 22:57:55
自衛官(航空)の嫁ですが、震災前は旦那の職業を聞かれ、「自衛官」と答えると あ〜(笑)毎日走っているの?ほふく前進してるの?などなど…笑って言われていました。私も結婚する前は自衛官でした。今回の震災では 誰もが家族、知人と連絡が取れない中、不安な日々を過ごしましたね。
私も主人と連絡が取れたのは震災から一週間後です。
連絡が取れても主人が家に帰って来たのは震災から三ヶ月後でした。岩手県に派遣され 毎日 毎日行方不明者捜索、物資の輸送 新聞やラジオで自衛隊の活動が取り上げられていました。
何の職業でも 私たちが生活していく上で必要だから 色々な仕事、職業があります。
はじめて自衛隊が世の中に認められたような…震災では色々な事を今 生きている人々に与えたのですね。忘れかけてた人との繋がり、物の大切さ…色々。

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  • 128
  •  
  • 2012/02/01(水) 23:08:31
>>127さんの旦那さんに敬礼(・д・ゞ

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  • 129
  •  
  • 2012/02/01(水) 23:26:18
>>126
金と言えば、取引中のネットオークションが2件あった。
震災直後は言うまでも無いが、それからしばらくは東北への配送が大きく
制限されたままだったなぁ。
郵便局が一番早く配達始めてくれたが、それでも沿岸部や福島原発周辺は
配達制限が続いていた。
オークションの取引相手との連絡が付いたのは、震災から5〜6日後。
やっと電話とネットが復旧したんだが、1件は取引の継続も対応もこちらの
都合に合わせていいと言ってくれて、温かい励ましの言葉も嬉しかった。
もう1件は、取引停止&ブラックリストにまで入れられていたので、連絡も
不能だったw

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  • 130
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  • 2012/02/02(木) 01:34:12
良いスレなので私も書き込み

東京、世田谷代田駅を越えたあたりの小田急線の中でその時が来てしまいま
した。当日、前日に秋葉原で購入したノートパソコンが不良品だったので交
換するためにノートパソコンの箱を持って秋葉原に向かっていました。
トイレに行きたかったのですが、電車が来たので走ってこの電車に乗りました。
まさか、トイレに行けなくなるなんて思いもしなかったです。
世田谷代田駅を2両目ぐらいが越えたあたりで電車が急停車しました。
その後、女車掌の声で「緊急停車いたします」との車内放送があった直後に車
内一斉に携帯電話の地震警報が鳴り響きました。その後、すぐに大きなゆれがきました。
車両が世田谷代田駅にかかっていたので駅に立っている人も座り込むぐらいの揺れ
でした。ちょうどこのあたりは複々線化工事のため工事中で重機が止まっていたので
すが、工事の人達が走って逃げていきます。重機を運転している人が急ぎアームを倒し、
重機の中から走って逃げていました。
その後何度も何度も大きく揺れました。車内放送では「電車内は安全なので外に出ないよ
うに」と放送していますが外にはだしてくれません。
結局2時間ほどたってから車両から出ることができました。
車両からでてから、急ぎトイレへ。それからコンビニでペットボトルのお茶とパンを買い
ノートパソコンの箱を抱えて家まで歩きとなりました。約18km。
家についてからノートパソコンをコインロッカーに入れてくりゃぁよかったと思いました
がそれまでパソコンの箱を抱えて歩いているなんて全然気がつきませんでした。
家のあたりは停電で真っ暗でした。あんな闇を見たのは初めてでした。
この日を境に人生感が大き変わった一日となりました。

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  • 2012/02/02(木) 15:34:46
仙台市若林区つ○といのマンション住まいです。
震災直後、水が全く出なくなりました。コンビニも
閉まって困ってしまいましたが、地域の酒販店が、
外の上水道を開放してくれたので助かりました。
水の量も制限しなかったので、長蛇の列になりました
が、本当に助かりました。お酒買ったこと無い店で
したので、水だけもらって申し訳け無かったです。
(酒屋さんは3日後、開いたので買いに行きました)

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  • 134
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  • 2012/02/02(木) 15:57:48
@塩釜
地震後、最初の津波の高さが6メートルと言われ、会社の屋上に避難していたけれど、数分後15メートルに訂正される。
確実にその高さでは命がないと思い、子供の学校に走って行った。
走っている後ろから放送で現在水位が上昇しています。早く避難して下さい!!ってむっちゃくちゃ焦って行ってるおっちゃんの声が耳に残っています。
急に危機感や恐怖心が高まりおなかが痛くなる始末。
ちょっとまってと我慢せずトイレに入ったらさよならだった…

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  • 2012/02/02(木) 16:13:28
>>133
大規模停電起きると飲料水途絶えるのは深刻だったね。
うちのは、市の水道と地下水備えてて
市の水道は料金かかるので、普段、地下水使ってるんだけど
これもモーターで汲み上げてるものだから使えなくなった。
私は盛岡在住ですが、近場に湧水の出る神社があったので
以前、アウトドアでホムセンで買ってあった20Lの
飲料用タンクを軽トラックに積んで、15キロほど南下した
紫波町にある水分神社まで汲みに行ったよ。
地震直後の影響で湧水も少し濁ってたけどね。

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  • 136
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  • 2012/02/02(木) 16:46:47
@石巻
半分まで読みました。
涙を流しながら読みました。
後で私も書きますね。

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  • 137
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  • 2012/02/02(木) 19:57:21
岩手から、神奈川に単身赴任してます。
震災直前、施設にある地震速報が東北で大地震を感知したと電話が鳴った。
「うわっ大変だ」と思った直後、自分の場所も気持ち悪い程の横揺れを受け。
目の前のビルが見た事も無い程揺れ、倒れるんではないかと思った。
揺れの後、建屋確認と人員確認に奔走。
岩手の家族は心配だったが、遠く離れた自分には何も出来ないのは分かっていた為、目の前の仕事に集中しました。
早い段階で災害メールで家族の安全は確認できましたが、ラジオから聞こえる沿岸部の情報に、悲しみとやり場の無い怒りが込み上げました。
再び家族が心配だったのと、どうか沿岸の人達が生き延びてくれますようにと願っていました。
会社の前の、停電で暗闇になった幹線道路を、蟻の行列のように徒歩で帰宅している様子は、今も覚えています。
私が仕事から解放され帰宅したのは、2日後。
妻と電話できたのがそれよりも後。
岩手に帰省できたのは一月以上後でした。

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  • 138
  • 青鹿
  • 2012/02/02(木) 20:43:26
>>102
>大自然のエネルギーに畏怖
恥かしながら自分は水に溺れ救急車のお世話になったことがありまして、、、
今では、日々の天候・四季の移り変わりさえ大いに敬服。
海に向かって拝んだのは、慰霊鎮魂の祈りと静寂への願いでした。

>>104
ですか、、浮かぶのは当面の寒さ対策ですね。

>>108
人は自然に対し小さく弱いと思います。
人間がつくった社会・機械(車も含め)に犠牲となった人達もまた見逃せないと思う。

>>109
ガソリン給油列の必死形相にはあきれましたが、黙々と仕事に向かう人達へ感謝でした。


>>124
確かに、、、
赤ハンドルにするのは他にも目的があるんで、でもキャップ被る数を減らしてみますね。

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  • 140
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  • 2012/02/03(金) 00:57:29
岩手県大船渡市在住です。 あの日から人生激変しました。やり直しです。とても疲れましたね。ただ、11月まで滞在していた海外の方が多数おられたボランティア団体さんだけにはとても助けられました。
その他は口ばかり。なにが絆だよ。よく言うよ。人間の嫌な部分ばかり見えました。

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  • 2012/02/03(金) 02:15:16
福島県白河市在住

親知らずを抜いたのが3/8
このときは地震がくるなんて思いもよらず
ちょっと無茶かなとおもいつつ、二本をいっぺんに抜いてもらった
一本はなんともなかったが片側だけ腫れて結構痛かった

3/11は午前中に抜糸に歯科医院へ行った
今思えばこのとき抜糸しておいてよかった
地震のあとは電話も通じなかったし、食料の確保とかガソリンの確保が大変で
それどころじゃなかった
(歯科医院が再開したと連絡があったのは地震から一月たってからだった)

その日の午後、こたつでうたたねをしていたら
地震警報がなった

家具がたおれて食器が床に落ちてたくさん割れた
電子レンジが棚から落ちて床に穴をあけていた

まだ頻繁に余震が続くなか片付けをして眠れる場所を確保
ざっと片づけして何か食べようと思ったときはもう外が真っ暗になっていた

そのときになって飼い猫がいないことに気づいた
家の中をさがしたら、ベランダで固まって震えていた
いつもなら名前を呼ぶと返事をしながら飛んでくるのだが
地震がよっぽどこわかったのか鳴きもしないしそこから
動こうとしなかった
逃げるときすりむいたらしくておでこにちょっと怪我していた

地震のあと何時間も忘れていてごめんね、猫
あのときは夢中で頭のなかから存在が抜けちゃったんだ

そのあと猫は地震警報が鳴ったら
私と一緒に机にもぐるようになった

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  • 142
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  • 2012/02/03(金) 09:40:15
都内在住、石巻にて地震に遭遇。

朝新幹線で仙台に向かう。
会わなきゃいけない人が石巻にいて、仙台に移動出来ないとのことでこちらから向かう。
仙台でお昼をして、仙台の人に石巻まで車で連れていってもらう。
そこから一人になって、会う時間の4時まで市内をうろつこうと考えてた。
街を知らないからどこ行ったら何があるかわからない、どうしようかと考えてたら地震が来た。
尋常じゃない揺れに右往左往し、収まったあととりあえず駅に向かうつもりでいた。
歩いてたらサイレンが鳴り、どこからか津波が来るとの人の声。しばらくしてたら水が流れてきた。
ありえない状況にもう訳もわからず近くのビルに逃げ込んだ。

階段が見えた時には足首はもう水に浸かってた。

階段を登りだした時に女性が流れてきて(おそらく水位は腰くらい)水に少し浸かって引き揚げた。
流れは緩やかだったけどその後どんどん水位は増えて、近くでいろんな人が流されていく光景を見た。
津波が収まったあと誰もいないビルで女性と2人夜を明かすことに。
夜はかなり寒く、火もなく暖をとれない上女性の服が一部凍ったりしたため抱き合って過ごした。
翌日お互いビルを出て、こちらは駅へと向かい東京に帰る手段を考えた。

あんなに感謝されたことは初めてだった。
東京に何とか帰って体験談話してもやっぱりあの状況はちゃんと伝わらない。

東京であの地震、津波が起きたらどうなるんだろう。

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  • 2012/02/03(金) 13:58:43
>>123
94です。あの夜ダンナは深夜遅くもう日付がとっくに替わった頃徒歩で帰宅しました。
家の中を確認して誰も居なかったので車を覗いたそうです。
それから朝になるまで仮眠をとったんだけどいかんせん寒いし、これからどうなるんだろうと
いった不安感が大きくて私は殆ど眠れませんでした。
夜が明け始まって空が白々として来た頃新聞が配達されました。こんな時も新聞が来るとは
夢にも思わなかったです。5時過ぎにダンナと二人で家の中を確認し、ポリタンク等を引っ張りだして
午前中に近所の交番で水を分けてもらえたので汲んできました。
我が家の近くには高校があって其所の貯水タンクの水も限定的だけどもらえたし、交番の隣の
リフォーム屋さんが井戸水を無制限で提供してくれたので本当に助かりました。
其所の社長さんは震災当日閖上にいてあと一分でのまれる所だったと話してました。
人間何処で生死を分けるか分からないです。

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  • 青鹿
  • 2012/02/03(金) 19:20:43
>>113
高速道は3月24日から通れるようになったけど、それまでは
道路の補修・自衛隊警察の移動・物資の輸送などに使われてましたか。
彼らに力を借り、通り道に感謝の旗や札が見受けられ、、、
5才娘さんの絵は逆に自衛隊の人へ活力を与えたのでは。

>>114
自衛隊の給油班で間に合わなかっただろうし、GSは緊急車を優先させて当然です。
せっかく列んでも10か15Lまででしたか、、、
今思えば僅かな不便でした。

>>115
被災地での活動はtvでしか見れなかったが、
移動してる車、道の駅では隊員さん達のトイレ・食料補充を見かけました。
すれ違う時「頼むよ」と言葉に出さず願ったものです。

>>116-117
最初文句言う人も、2回目3回目には現実を受け入れ慣れるでしょう。
が、火事場泥棒は許せません。
あと信条がないのか、まとめ買いして自分からミイラになる人困ります。

>>118
警察や救急隊が寝泊まりした所が(岩手の場合)内陸でして、
駐車場に様々ナンバーが見られました。
「よくきたなあ」「荷物少しだけ持ってきたのかな?」とか思いましたった。


>>143
追記乙です。
草木も眠る頃に帰宅(ダンナさん)、、徒歩だったんですね。

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  • 2012/02/04(土) 18:43:26
東北道が再開通した翌日。
東京から実家に帰るのに夜運転していたら、ごみ収集車がゆっくり走っていた。
まだガソリン不足の頃だったし節約してるのかなと思っていたら
ごみ収集車が何台も続いていたので??と思い車のナンバーをみたら「鹿児島」ナンバー。
被災地に向けて、20台近い車が鹿児島から走っていたと分かった瞬間、涙が出そうになった。心の中で「頑張ってください!」と思った。
あの頃は日本全体が気持ちがひとつになっていたと思う。

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  • 2012/02/04(土) 18:45:44
148です。
携帯からの書き込みだったので読みにくくてすみません。

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  • 青鹿φ
  • 2012/02/04(土) 19:57:35
立春から1.5ヶ月で春分の日ですか、、早く温かくなって彼岸を迎えたいものです。

>>119
混乱の中、食堂はまず水道光熱を整えて後方支援、、、対応で帰れない職員がいたでしょうから。
(3/11(金)、12(土)、13日(日))
もの凄い力に打ちひしがれた沿岸と、普通に食事してる自分がいて、、、複雑な気持ちでしたね。

>>120
>津波から逃れた人たちの声が聞こえてきて
無事を喜び元気が出てきた様子、、、
そこにいた人の生の言葉だと思いました。

>>121-122
そうそう、3.11の2、3日前から予震?ありましたね。
降ろさなかった事を悔やむでしょうが、チェストや金魚が家族の代りになってくれた、と、、、。

>>125
報道されたのはほんの一部で、
地味にも昼夜惜しまず動いた救援隊があったのですね。

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  • 2012/02/04(土) 21:30:20
岩手県 大船渡町の者です。 あの日崩壊した私の自宅に空き巣に入った奴は許せない。
仮設住宅のお茶の会なんていうのをNPO団体がやってるがまったく必要ない。無駄なNPO団体がたくさんいる。補助金目当てなんだろうな。 被災者は上げ膳据え膳、自立しろ。俺の人生はあの日で終わった。学者や教授どもが、卓上で計算して作った防波堤は役立たず。防波堤の意味を広辞苑で見てみろ。都合が悪くなれば、想定外だって。なんだよその想定外という薄っぺらな言葉は。想定外と絆という言葉ほど薄っぺらな言葉はない。

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  • 2012/02/05(日) 04:47:13
>>71
知人の安否確認のため震災直後に自ら被災地に向かうなんてすごい度胸だけど、危険を犯して結局なにしに行ったの?物資を届けた訳でもなくすぐ引き返してるし。貴重な体験談だからその辺の事も反省点などもあれば詳しく教えて下さい。お願いします。

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  • 2012/02/05(日) 05:54:15
仙台の深沼に知り合いが数人いたんだけど、震災でもう家も跡形もなくなっている。
消息がわからないので、いつも、どうなったんだろうと気になっている。
これからも、ずっと気になって生きていかなければならないと思うとつらいな。

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  • 2012/02/05(日) 08:28:12
>>155
旧住所から今の住まいに転送届が出てるかもしれないから、
ハガキで安否確認を出して見るのも手だと思う

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  • 2012/02/05(日) 08:38:24
>>155
ネットに死亡者の名前があったりするから、検索すると吉

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  • 青鹿
  • 2012/02/05(日) 11:57:27
場所を確認したい時は↓を参考にしてください。
東北の市町村地図 http://tohoku-bbs.info/wiki/images/7/78/12022512.gif

"区"などさらに詳しく知りたい場合は↓などで。
仙台市 http://www.mapion.co.jp/map/admi04.html

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  • 159
  • 青鹿φ
  • 2012/02/05(日) 19:44:30
3.11から331日経ちます。

>>126
会社が流されたり金融機関が機能しなくなった所では、3
.11以降の決済をどのようにしたか気になります。
♪難局に 入金ありて 資金繰り

>>127-128
自衛隊の派遣は確か106,000人規模でしたか。
活動姿をみて、やるせなさを拭った人がいたはず、、、。
ほふく前進の最低速が1時間1mと聞いたことあり、これには精神力がいるのでは。

>>129
特別な場合は、人が介在するかソフトの例外処理をするかしないかで変わってきますね。

>>130
2時間のトイレがまんは大変でした。
18km徒歩だって4時間はかかったんじゃないかと、、、。
コインロッカーに預けるのもとっさに決めかねたんでしょね。

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  • 160
  •  
  • 2012/02/05(日) 20:58:15
岩手県内陸南部
妙に冷静に、職場のいちばん丈夫な作業用机を選んで下にもぐりこんだ。
帰宅して、カセットコンロと土鍋でご飯を炊いた。
なぜか、なにがあっても夫にはちゃんとごはんを食べさせなければ!とばかり考えていた。
ガソリン節約のために、自転車で15km先の実家へ行って米をもらってきた。
義理母も同じことを考えていたらしく、やはり自転車で米を運んできてくれた。
冷凍庫の中のものは半分解凍されてしまっていたけれど、
優先的に食べたり、二世代三世代同居の親戚にゆずったりして無駄にしないですんだ。
手元の食べ物が、なによりもありがたいと思い知った。

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  • 161
  •  
  • 2012/02/05(日) 23:29:11
盛岡在住飲食店勤務

3・11 携帯の緊急地震速報とほぼ同時に揺れを感じました、
私の記憶だと終始横揺れだったような気がします。
盛岡という土地は地震が起きても地盤が固いなと感じるので
この時も揺れの強さに対してはさほど怖くなかったのですが
この時は治まる気配のない長い揺れに対し恐怖心が出てきました
すべり落ちる食器の音や家のきしむ音、地鳴りそして停電・・
このままドンと縦揺れがきて家がつぶれるのではないかと感じました。
揺れが収まり勤務先に向かいました。
勤務先周辺は停電以外大きな被害も無く
12日に停電復旧後、店は通常に営業しました。
こんな時にこんなに普通に営業していいのか?
営業してもお客さんなんか来ないんじゃないか?
と疑問を感じながら・・
でもお店は初日から混みました・・

出張で帰れなく駅や避難所にいるがどこも開いてないとか
ホテルに宿泊してるが食堂が機能していないとか
これから被災地に行くのでスタッフ達のお弁当を作ってくれとか
何日かしてからは
何も無かったように騒いで飲む若者や知人の安否が確認でき乾杯している
サラリーマン、
また献杯と静かにグラスを傾ける常連客、
「家流されちゃってこっちに非難してきたよ!今日ぐらい酔っ払って
いいよね?」と明るく振舞ってるおじさん、
いつもはどんな人だろう?などあまり気にしなかったんですが
この時ばかりは色々な人を意識して感じました。
いろんな地方からいろんな人達が被災地の為に来てました
関西、九州、関東・・・

感謝の気持ちと何も出来ない自分の不甲斐無い気持ちでいっぱいでした。
その後も
いつか炊き出しに行こうと思いながらも出来ずじまいでした。
でも
たまにあの日のお客さん達が
「あの時お店が開いてて助かったよ」
「ホントに食い物無かったもんな」とか言われると救われます。

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  • 162
  •  
  • 2012/02/06(月) 01:15:37
石巻
地震発生時は会社にいた、家が気になったので向かったが、渋滞で車が動かず一旦戻り自転車でいった
途中、避難している人の(10mの津波が来る)の話が耳に入ったが、まさかという感じだった
家に着くと中はぐちゃぐちゃで取りつくしまもないような感じ、妻と明日片づけようと、
とりあえず暗くなった時の灯りをだしていた時だった、開けていた窓から見える庭に水が入り込んで
きたのが見えた、逃げろと妻とひざぐらいまでの水の中を歩き、通りの方みたらものすごい勢いの流れ
仕方なく脚立を探し屋根の上にのぼった、ヘリが飛び緊急車両のサイレンがすごかった、火事の煙が見えた
隣近所の方に、うちに来いと声をかけられましたが、水の勢いが凄いので最終手段にした
17時30分あまりに寒くて、屋根から降り家の中に入る事に、この頃は水の高さは1m80cmくらいあった
胸までつかり平屋の家の中に、畳ごと浮かされたベットは妻と二人乗っても沈むことはなかった
濡れた服を脱ぎ、浮いていた衣装ケースの中の乾いた服を二人で適当に着て、天袋の戸を外しその中に入った
シュラフを入れてあったので2枚重ねにしてもぐりこんだ
つづく

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  • まいね
まいね

お絵かきランド
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