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  • 172
  •  
  • 2010/08/11(水) 07:12:35
老舗といえば暫く前のコーヒーのコマーシャルで
神田うのと共演して話題になった水戸の老舗の息子がいたなぁ
どこの店だっけ?

169
♪あれ(荒れ)まつ(待つ)虫(無視)が鳴いている、チンチロ、チンチロ、チンチロリン〜♪

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>>157
ハクジーさん、懐かしい思い出話ありがとうございます。
水浜電車の電停の名前は時代とともにコロコロ変わっていますよね。
水戸駅前の次にあった柵町は廃止間際の名前で、茨交の本社が茨大前に移転する前は
「本社前」でしたし、次の三高下も戦後一時期「原子力館前」みたいな名前になったことがあります。
たしか三高の北側に東海の原子力関連事業の啓蒙施設があって、そこのPRのために
水浜線らしからぬ近代的な停留所名になっていたようです。
 ちなみにこの原子力館はその後、水戸三高の体育館として長らく使用されましたが、
現在では取り壊されてしまっています。

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>>158
自由研究中さん、昨日うちの子供たちを連れて市立博物館で「昭和の夏休み」という
展示を見てきたのですが、例の水浜電車の模型と電車の車内に掲示されていた
沿線案内地図が展示されていましたよ。29日までやっているそうです。

 ところで水浜電車を廃止に追いやった原因の一つである道路の渋滞の件ですが、
当時の交通量調査結果を見ると、その頃の猛烈なモータリゼーションの進展振りが
うかがえます。
千波の6号線(現在の旧国道)の日中12時間の通過車両数は、昭和37年8千台でしたが、
これが水浜電車の上市側が廃止になった昭和40年には1万6千台と僅か3年間で倍増しています。
現在の千波の慢性渋滞から考えれば、まだまだ少なかったのでしょうが、
当時は50号バイパスはもちろんのこと、水戸バイパスもやっと工事に着手したばかりで、
6号や50号を通る車が全て水戸の市街地に流れ込んでいた時代でした。
この状況を受けて水戸市議会からも水浜線の廃止要請が全員一致で可決されてしまったそうで、
いくら当時の自動車保有台数が現在より2桁少なかったといっても
こんな地方にあるささやかな市内電車を廃止させるには十分な交通量だったんでしょうね。

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>>172
それはたぶん入船堂でしょう。

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>>172
入船堂もいいが、但馬屋や赤塚の巴堂も味わい深くすてがたい。

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  • 177
  •  
  • 2010/08/11(水) 14:58:12
なんだ、またイーモバが涌いたのか。
あいかわらず方々のスレでゴロまいてんのな
お前の居場所はここにはない。
とっとと出てけ、そして二度と来るな!

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  • 178
  • 自由研究中
  • 2010/08/11(水) 18:55:12
>>水浜電車さん

またまた情報をありがとうございます。
市立博物館、そうですか!ぜひ行ってみます!

1階の図書館に、何度か資料を探しに行った時に企画展の案内を見て
寄って行きたいな〜とは思っていたのですが、自由研究が落ち着いたらね…と
後回しにしていました(^^;
まさに、今、展示されていたんですね〜、嬉しいです!ありがたいです!

道路の渋滞こと、交通量を調べてくださってありがとうございます。
そうだったんですね。本当にあっという間に車社会になっていったんですね〜。

下市商店街のお店の方に聞いたところ、下市ではさほど感じなかったという
お話をしてくださる方が多かったです。
もしくは、ちょうど高校を卒業して地元を離れていた、という方が多くて
当時、目の当たりにしたという方には、まだめぐり合えていません。

本や資料ではわからないことがあると思うので、もう少し頑張って
いろんな人に聞いて歩きたいと思います!

いつもありがとうございます★

ここまで見た
  • 179
  •  
  • 2010/08/12(木) 13:11:13
水府橋の空襲の跡の話が以前出ていましたが、場所が分かったので連絡しますね。
水戸駅側を背にして、右側の歩道の陸から1or2メートルあたりです。
(説明が下手ですみません。。)
歩道は石畳の歩道なのですが、焼夷弾が当り石畳がえぐれてしまったそうです。
今はそこだけコンクリートで補修してあります。
中央郵便局隣の戦争展示エリアに、被災者の声に詳しく写真付きで説明がありました。

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  • 180
  • むねりん
  • 2010/08/13(金) 14:54:53
水浜電車の軌道の所に畳1/4位の白い石(稲田石?)が使われいませんでしたか?
子供のとき廃止後掘り返していたこの石の行き先がとても気になっていたのですが、行き先が分かる方いませんか?

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>>180むねりん様
 水浜電車の軌道撤去は廃止後ただちに着手され下市地区も昭和42年度中に完了
しているようです。その際に大量に発生した軌道の敷石の行方については謎の
部分が多いのですが、一部は当時の関係者が引き取ってその方のご自宅に現存
しています。

 ここから先は余談です。
 市内電車廃止後の軌道の取り扱いについては路線によって非常に差が大きいです。
我が国で最も一般的と思われるのは、廃止後軌道敷のレールはもとより敷石も合わせて
ことごとく撤去され、軌道敷の跡をアスファルトもしくはコンクリで固めてしまう
やり方だと思います。水戸はこの方法を取りました。
 その他にはレールや敷石はそのままにして、上からアスファルトを敷き詰め
覆い隠してしまう方法です。都電はこの方法が多く取られたようで雨上がりの
路面では線路の跡がレールの熱吸収のせいでアスファルト越しに路面に浮かび上がる
ことがあります。
 私がかつて暮らしたことがある仙台では同じように路面にレールが埋め込まれた
ままとなっていましたが、路面がカーブする地点や交差点などではタイヤでアスファルトが
削り取られ、市電の廃止から20年以上経過してなお花京院の交差点など市内各地で
レールが路面に浮かび上がっていました。
 日本はせっかちなのであり得ない話ですが、欧州では廃止後も架線は撤去するものの
軌道敷はそのまま、何十年も放置しておくケースが各地で見られます。近年の路面電車復活
ブームの中、かつてのレールをそのまま活用して路線が復活する例さえ見られます。

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  • 182
  •  
  • 2010/08/14(土) 12:10:09
>>172です。
水浜電車さん、いつもながら素早いご回答に感謝します。
いまや、ハクジーさんと水浜電車さんはこの板になくてはならない方になられました。

入船堂の息子さんの出演しているコマーシャルの動画と詳細を見つけました
動画
http://www.youtube.com/watch?v=tEtglTrjNqk

詳細
http://www.suntory.co.jp/enjoy/cm/log/sd27.html

入船堂の息子さんは舞台を中心に活躍されている役者さんということです。

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  • 183
  •  
  • 2010/08/18(水) 00:00:19
水戸の戦後昭和史

ここまで見た
>>水浜電車さん
博物館に行って、模型など見てきましたよ。
写真と色が違う?とか言いながら、カメラに収めていました。

仙台を走る水浜電車の車両の写真も、ようやく見つかりました。

水浜電車を通して、江戸から大正時代まで、まだほんの入り口ですが水戸の歴史や市政にまで興味を持ったようです。

資料が集まりすぎてまとめるのが大変ですが、残りは来年ということで長かった夏休み(自由研究)もラストスパートです!

ありがとうございました。



このスレの流れを、個人の自由研究のために昭和史ばかりの話題にしてしまってすみませんでした。

親切に教えてくださった皆さん、ありがとうございました。

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>>182
これってもう11年も前のCMなんですね。もっと最近のことかと思ってたのに・・・

ところで、水浜電車の敷石の補足ですが、関係者のご家族に再度たずねたところ、
全て社員に有償で頒布したそうです。水浜電車の路面区間は意外に短く、また
全線単線だったこともあり、社員だけでさばけてしまったそうです。
今でも庭石等で残っているだろうとのこと。

 またサイズは何種類かあったので、大きさに応じて値段は変えたそうで
1枚百数十円。半世紀近く前の百数十円は今だと千円近い価値かもしれません。

 社員全員といっても、昭和41年は茨城交通の社員数がピークの頃でした。
当時は千八百人ちょっといたと社史に書いてあります。そして現在はオートや
県北バスを統合しても390人にまで減っています。

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>>184
自由研究中さん、夏休みも残すところ1/3とはいえ、まだまだ先が長いですね。
子供たちがうらやましい。

 電車の色ですが、ネットや雑誌でたまに見かけるカラー写真は退色が激しく、
実際の色とは違っているようです。
 今の湊鉄道線からは想像もつきませんが、昭和46年に茨城鉄道線が廃止になるまでは
茨城交通の鉄道車両の塗装は緑の濃淡で統一されていました。(ただし茨鉄と湊線は
緑の濃淡の間に白帯が入ります)

 それから歴史の話題ですが、ここは昭和以降が主流なので特に気にすることはないと
思います。古代や中世の話をしようにも図書館の文献しか資料がないので、むしろ
参加者の記憶をたどった思い出とかの方が盛り上がりやすいみたいです。

博物館のOゲージと思われる模型はそういう意味で当時の塗装を今に伝える
貴重な資料だと思います。

ここまで見た
そういえば、ハクジーさんが昔、酔いつぶれてしまったことがあるらしい
元白銀町のバー「そしある」がいつの間にか閉店になっています。建物はそのままですが。
そして、海野クリーニング店も常銀横の店は閉まっていて、旧・奈良屋町に下っていく
坂道の方の店だけになってしまったようです。
 昔からの店も徐々に徐々に消えていきますね。個人商店はこの30年くらいで
劇的に減ったと思いますが、古地図でも頼りにその変遷でも追ってみようかと
思います。週末あたりに・・・

ここまで見た
  • 188
  •  
  • 2010/08/18(水) 23:18:15
風俗店の変遷とかおもしろいんだけどピンク板じゃないから
まずいよね。

ここまで見た
  • 189
  •  
  • 2010/08/19(木) 00:30:11
>>188
面白そうだけどな。
オレは読みたい。

ここまで見た
  • 190
  • 昭和33年生まれ
  • 2010/08/19(木) 10:54:29
海野クリーニングの五軒町の本店はまだやってますよ。

ここまで見た
  • 191
  • ハクジー
  • 2010/08/19(木) 10:58:23
水浜電車さん 本当にいろいろと思いであるお話をお聞かせ下さり、ありがとうございます。
ただ、驚いた事に、何故私が酔いつぶれてしまった、元白銀町のバーの名前をご存じだったん
ですか?私、以前にそのバーの名前書きましたっけ?今朝、水浜電車さんが、「そしある」と
云われたので、思い出したんですよ。何故でしょうか?海野クリーニング店も確か、私の
三の丸国民学校の時の友達が開いていたクリーニング店でしたが、戸田君と云ったと思い
ましたが?「そしある」・・・・・私、前にこの名前書きましたっけ?
ちょうど、その店のトイメンが鬼沢青果(果実店)の裏口でしたよね?私と同年配の息子さん
がおりましたが、お元気なんでしょうね? ごめんなさい!個人的な話になってしまいました。

>>184
自由研究中さん この文面ですと、これでお終いと思われますが、その様な事の無いように、いつでも
いらしって下さい。そしていろいろお話しませんか? 皆さんで・・・・・。

ここまで見た
  • 192
  •  
  • 2010/08/19(木) 11:17:13
>>189
じゃ、すこしだけ
前に少し聞いた話だと昭和50年代あたりまでちょんの間とか
連れ込み宿がのこってたとのことです。
戦後しばらくのあいだは売血して性病しらべてもらってOKだと
その金で風俗街にしけこんだもんだともききました。

ここまで見た
  • 193
  •  
  • 2010/08/20(金) 00:18:02
>>192
売血ってそんなにもらえんの!?

今換算でせいぜい1000円くらいかと思ってた。

ここまで見た
>>水浜電車さん、ハクジーさん

ありがとうございます。
自由研究の話ばかりになって申し訳なかったなぁと思い、あのように書きましたが、こちらのスレは今後も楽しみにしています。

昨日やっと、自由研究が終わりました〜。
でも自由研究ばかりやっていたので、読書感想文と絵の宿題が残っています・_・;

下市が本当に栄えていたのは、明治17年の大火までだったんですね。江戸仕掛なんて楽しそうで、街並を模型でもいいから見てみたいです。

そういえば、下市の年表に、毒蛾の大群が町を襲ったとあったんですが、ご存知の方はいますか?

ここまで見た
  • 195
  •  
  • 2010/08/20(金) 09:36:38
売血なんていうと、ガキの頃に読んだ川崎のぼるの漫画「男の条件」を思い出す

ドヤ街に身を落とした主人公とドヤ街の住人のやり取りで
「仕事にあぶれたなら売血しろ」というと「黄色い血なので売れねぇんだ」との返事
栄養不足で血液成分に影響が出てくると黄色い血といったらしい。

また主人公の友人が売血してきて飯を食わしてくれる
その友人は二人分の一晩の宿代と飯代で売血した金はなくなるといっている。

漫画に描かれている金額まで思い出せないが宿代、飯代も100〜200円くらいだったと思う。
そこから推測すると売血代金は500円〜700円くらいではなかったかと思う。

ここまで見た
  • 196
  •  
  • 2010/08/20(金) 12:46:24
昭和22年の那珂川の洪水を知っている人いませんか。
調べても水戸の浸水流域がどうしてもわかりません。
戦後の混乱期だからデータも写真もないのだろうか。
このときは水戸駅も洪水の被害にあったとか。

ここまで見た
  • 197
  •  
  • 2010/08/20(金) 21:38:50
>>193
売血って今の価値だとだいたい8000円くらいになるんだとおもうよ。
酒屋だと二級酒の一升瓶で100から150円くらいでちょんの間が
いっぱつ500から800円くらいって言ってたから。

ここまで見た
  • 198
  •  
  • 2010/08/20(金) 22:19:14
>>196
那珂川氾濫とかカスリーン台風とかでも検索してみたらどうだろう

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  • 199
  •  
  • 2010/08/21(土) 09:10:35
那珂川氾濫で検索したら、福岡の那珂川の氾濫(ユーチューブ)が出てきてしまった。
カスリーン台風はそれなりに大きかったらしいけど、氾濫の原因は戦後復興での
建設ブームで山林を尽く切り倒してしまったので、雨の保水作用が聞かなかったらしい。

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>>190 そうでしたね、五軒町の方のを忘れてました。

>>191
 「Barそしある」の件ですが、ハクジーさんの以前の書き込みをみて、
おそらく元白銀界隈だとあそこしかないと思ったものですから。やはりそうでしたか。
 南町1丁目の通りの北側は店の移り変わりが激しく、鬼沢本店もとうの昔になくなっています。
昭和40年代から残っているのは筑波銀行(先日、茨城相互銀行が合併で名称変更)と
藤田帳簿店の2箇所のみとなっており、近年は空きビルも目立つようになってきました。

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  • 201
  • ハクジー
  • 2010/08/21(土) 17:15:50
>>200 水浜電車さん
そう云われれば、あそこ一軒しかなかったかな〜?あの頃は、今みたいにシャレタ飲み物は
なく、せいぜいコークハイ位かな?いや、あったかもしれませんが、とにかく私は、実を云うと
全く飲めないんですよ。あの時は・・・なんて今の話みたいに聞こえますが・・・
ウイスキーのお湯割りで、お砂糖を入れて飲んだものだから、飲みやすくて、つい、たてつけ
7杯と行ってしまったんですよ。こう聞いたらば、想像つくでしょう?勤務先の友人に、誘われ
行ったんですよ。静かなバーでした。ママのお嬢さんだったかな?可愛いお嬢さんがいてネ。
滝〇さんとか云ったかな?その後、家内を連れて行きまして、今度は家内が、高い腰掛けとともに
ひっくり反ってしまいました。そんなに古くない話ですよ?42,3年前かな?

筑波銀行ですか? つくばに負けたかな? あそこは、茨城無尽会社の頃から、あの場所ですよ。
常磐無尽と云うのもありましたけど、別会社でしたかな? 藤田帳簿店も古いです。あの辺は、友達が
多かったですよ。向かいの魚屋さんはありますか? 会澤ミシン屋さんとか・・・・。
赤のれんさん、鶴屋さん、石井読売新聞販売店さん、小森自転車屋さん、その近辺の根本さん
等々私と同年配の方が居られる筈・・・・・。

>>190
 昭和33年生まれさん ありがとうございました。同じ海野クリーニング店でしょうか?

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>>201
ハクジーさん、コークハイって懐かしいですね。
もう30年くらい昔、水戸駅前にあった喫茶店でよく注文したものです。未成年でしたが・・・
ロッセとかカルラージュ、こころ館、ブルボンなんかで頼んでた記憶があります。

飲みやすいし、程よく酔っ払えたのでコークハイばっかり飲んでた気がします。
でも、当時は高校生でしたからお金も無くて、ひっくり返るほど飲むことは出来なかったのです。
それでもいよいよ金がなくなると、酒屋で安いトリスの小瓶を買ってきて友達の下宿で
コーラで割って飲んでましたね。
 でも、このコークハイって飲み物、懐かしいばかりで成人してからは一度も飲んだことがありません。

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  • 203
  • ハクジー
  • 2010/08/25(水) 21:03:42
>>202
水浜電車さん 30年前と云うともう昔になってしまうのですね。まだまだ
水浜電車さんはお若いですね! それにしても、いろいろなことをよくご存じですね。
私みたいに日本の平均年齢を高くしている人間には、30年なんて云うと、つい先だって
の事の様に思ってしまいますよ。ちょうどその頃は、私は北海道で生活しておりました。
「水戸の歴史」からかけ離れてしまいそうなので、ちょっと話題かえましょうか?

>>196
昭和22年の那珂川の洪水の事なんですが、那珂川洪水の事に関しては、あまり知らない
のですが、この洪水は覚えがあります。私が茨中3年生の頃でした。櫻川が那珂川に通じて
いたんですよね。そのせいで、那珂川から櫻川へ逆流してきまして、千波湖の堤防を越して、
千波湖に流れ込み南側の堤防も越え、学校へ行けなくなってしまったのを思い出しました。
当然、常磐線も冠水したと思いましたけど、詳しくは覚えておりません。水戸駅は少し高かった
ので、冠水はしていなかったと思いますが、その頃もし、駅南があったら完全に洪水の被害に
あったでしょうね。下市方面は完全に洪水の被害に遭ったと思いますよ。昭和16年の頃にも
同じ様な水害があったような気がします。

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>>203
 私が30年という時間を意識したのは昭和50年からです。
 当時小学6年になって、自分としてはやや大人に近づいて少しは社会意識が芽生えてきた
頃だったので、この年ベトナム戦争が終結したことも印象的でしたが、何にも増して
「戦後30年」という言葉をやたらと耳にしたり目にする機会が多かったもので
それ以来のことです。
 自分はまだハクジーさんから見たら息子くらい年ですし、まだ四十数年しか生きていないので、
やがて七十代くらいになったらそういう感覚になってくるのでしょうね。
私は生来病弱なのでその頃まで元気でいる自信はまったくありませんが・・・

 水害の件ですが、私も昭和61年の洪水以前の知識がないのと、ハクジーさんまで
ご存じないとなると、まちBBSの参加者では誰もコメントできそうにないですね。
市立図書館に茨城新聞の縮刷版のDVDがあるので、それを調べるしかなさそうです。

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  • 205
  •  
  • 2010/08/28(土) 11:14:50
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08000001008280001
水戸市で「163歳」戸籍上生存
2010年08月28日

 江戸時代に生まれた人の戸籍が全国各地で残っている問題で、水戸市でも、生きていれば163歳とみられる女性のほか、150歳代の6人の戸籍があることが27日、明らかになった。同市は今後、調査をして削除していく方針でいる。(津布楽洋一)


 同市市民課によると、27日現在、年齢が100歳以上で水戸市に戸籍がある人は973人。このうち戸籍の付票で最終住所地が不明、空欄などになっている人が837人いたという。


 最高齢は江戸時代の弘化4(1847)年2月15日生まれの女性で163歳。江戸時代末期のペリーの黒船来航の6年前の生まれだ。


 このほか、157歳、153歳など150歳以上が6人いた。いずれも住民票はないため、年金支給などはされていないという。


 同課は、戸籍の削除は強制的ではないとしているが、「これから戸籍をたどっていって、家族などがいれば説明をしてもらい、法務局の指導をあおぎながら、(不明の戸籍を)少なくしていくのが正しいと考えている」という。

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  • 206
  •  
  • 2010/09/05(日) 10:47:33
>>203
ハクジーさんありがとうございます。水戸駅は冠水しなかったのですか。
でも駅から南側全部濁水で占められた風景は想像するだけでも怖い。
この前、下市のジャスコに行ってきたのですが、そこに洪水ハザードマップが貼ってありました。
それによるとこれからも市役所も含めて下市は洪水の被害がありそうです。
これでは堤防建設に那珂川、桜川沿いの住民は、何のために土地を削られたのか分らないです。

>>204
ありがとうございます。今度市立図書館に行ったら調べてみます。
s61年の洪水では根本町で商売をしていた一部の人たちが引っ越し、そのあとは駐車場になって、
市内に勤務している人たちが利用しています。

ここまで見た
  • 207
  •  
  • 2010/09/05(日) 21:30:44
コークハイっていうか酒のコーラ割りってどこの国でもたいていあるん
だよねなんせ酒を飲めないはずの宗教の国にまでビールのコーラ割り
なんてものがあるという話を聞いたことがあるんだから。
ちなみにかの国ではビールは酒ではないそうな。

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 暫くぶりに戻ってまいりました。前スレで茨城国体の時に記念のプランターが町中に置かれた話を書いたと思います。
 白いプランターで真ん中に国体の聖火のイラストが入っていました。
 かなり長い間そのプランターはあちこちで見ることが出来ましたが最近では流石に老朽化したのか殆どが撤去。

 実は今日、自転車で走っていたところ偶然そのプランターが袴塚1丁目から2丁目に数個残存しているのを発見。
 多くは酷く汚れていて国体のプランターであることも良くわからない状態で、内1つに至っては色を塗り替えられています。
 しかし1つだけは比較的きれいに維持されており、色褪せてはいますが国体の聖火マークも健在でした。
 36年間も風雨に耐えてきたある意味貴重な遺跡?ですね。

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  • 209
  •  
  • 2010/09/12(日) 22:29:44
たしか「水と緑のまごころ国体」とサブタイトルが付いてたよね
婦人会ごとにおばちゃんたちが派手な着物を着て開会式の踊りの練習をしてたっけ

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  • 210
  •  
  • 2010/09/13(月) 21:10:00
パラリンピックもやったんだよな。

幼稚園で、「国体で踊る組」と「パラリンピックで踊る組」に別れて行った。

俺は「なんか語感がカッコイイ」という理由でパラリンピックへ。

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  • 211
  •  
  • 2010/09/14(火) 15:18:20
土浦に国体道路ってあるよね
最初意味がわからなかった

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  • 212
  •  
  • 2010/09/14(火) 19:26:28
国体のポスターコンクールに入賞して何か貰ったんだが、何を貰ったか思い出せない
その逆で、コンクールの賞品に大阪万博の記念切手シートを貰った事があるが、何で貰ったか思い出せない

ここまで見た
  • 213
  •  
  • 2010/09/15(水) 15:16:14
おじいさん、しっかりして!!

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  • 214
  •  
  • 2010/09/16(木) 13:01:14
>>213

? ?

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  • 215
  • 昭和33年生まれ
  • 2010/09/17(金) 12:01:34
久しぶりです。海野クリーニングは常銀本店の路地と五軒町とで同じマークを使ってるので
同じ店だと思います。常銀路地の店の隣に’とむら’という喫茶店が以前ありましたが
こちらも海野クリーニングの関係の方がやっていたと聞いたことがありますが本当かどうかは
不明です。

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  • 216
  • 昭和33年生まれ
  • 2010/09/17(金) 13:27:37
ちなみに笠間にあるカフェアンドギャラリーとむらは上記喫茶店の関係の店
だと思います。

茨城国体のとき私は高校生で、笠松競技場の補助員としてかりだされました。
トラックのラインで監視している横を当時すでに高校生スター選手だった
瀬古利彦(のちのマラソン選手)がものすごいスピードでかけぬけていきました。

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  • 217
  •  
  • 2010/09/18(土) 00:36:20
水戸とは関係ないけど
本当に瀬古利彦はすごい選手だったよね
昔、神宮に六大学野球を見に行ったとき、目の前をすごいスピード走り去った人影があった。
よくよく見ると瀬古利彦であった。
練習のスピードでさえ普通に俺が全力で走っても追いつかないほどだった。
あのスピードで42.195キロを走りぬく間だから超人としか言いようがない。

ここまで見た
  • 218
  • ハクジー
  • 2010/09/19(日) 16:16:05
>>215 昭和33年生まれさん
お久しぶりです。私も時々しか出てこなくて失礼しておりますが、お元気で何よりです。
常陽銀行本店の横路地の海野クリーニングは正に戸田さんです。私も前々スレぐらいに
書いた事ありますが、私の三の丸小学校の友達です。今は何代目が継いでおられるので
しょうね?私の知っている限りでは、まだ喫茶店はありませんで、戸村さんがアイロンを
握っておりました。喫茶店もやっっていたんですね。今は、常銀横にはクリーニング屋さん
は無いと聞いておりますので、きっと五軒町に移られた事でしょう。とにかく、あの辺には
たくさん友達がおりましたので、同窓会でもやって皆さんと会えることが出来たら、さぞ
楽しいものでしょう。そして、その時でも、このスレの皆さんも一緒に、集まれたら楽しい
でしょう???

昭和22年の洪水の事ですが、今はどうか知りませんが、大野村(今は水戸市かな?)から
那珂湊大橋あたりまでは、那珂川の堤防はあったかな?無かったような気がします。
下市から千波湖に至って、今の駅南あたりの田んぼはすべて水没していました。

ちょうどその頃、常磐線の汽車ポッポに乗りましたが、牛久、佐貫、藤代あたりは
その水害の跡が生々しく残っておりました。あの近辺に、小貝川ってありましたよね。
常磐線の鉄橋近くに、水害に関係する石碑が建っておりましたよ。そして、この辺は
一面田んぼでしたが、その田んぼの中に何故か、土の大きな塊が、あちこち見られました。
原因は不明です。しばらくそのまま残っておりました。

茨城国体って昭和何年になるんでしょうか?47年頃ですか?この頃は少し水戸に
居りましたので、知っていなければならないのですが、申し訳けありません。
その道路脇に置いてあったと云うプランターは、コンクリート製ですか?それとも、
FRP製でしょうか?何かその頃、FRPでプランターを作ったことがあるんですよ。
確か、国体のマークを入れて・・・・・。妄想かもしれない・・・・・?

ここまで見た
  • 219
  •  
  • 2010/09/20(月) 18:45:10
水戸周辺でも、
終戦直後の混乱期に、
戦勝国民、朝鮮進駐軍などと称した不逞鮮人らが
略奪、強姦を行っていたのでしょうか?

ここまで見た
  • 220
  •  
  • 2010/09/20(月) 20:32:30
>>218
Wiki 笠松運動公園陸上競技場
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E6%9D%BE%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%85%AC%E5%9C%92%E9%99%B8%E4%B8%8A%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A0%B4

国体は1974年

ここまで見た
>>218
 FRPかどうかは知りませんが樹脂製のようです。時々割れていたりしましたし。

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  • 222
  •  
  • 2010/09/23(木) 07:23:41
>>218
ありがとうございます。
堤防は大野地区から那珂湊にかけてなぜか無いですね。
海に近くなると水面と陸地の段差が少なくて、このあたりは必要ないのでしょうか。
那珂川も水府町近辺まで洪水の被害はとても大きいのですが、港に近くなるとあの洪水は
どこに行ったのかと思えるほどなくなり濁水になるだけです。

下市から駅南 千波湖と水没するのは想像するだけでも怖いのですが、那珂川流域はさらに深い洪水の被害に
見舞われるのでしょうね。まったく何のために堤防は作られたのでしょう。

以前、小貝川は小さいながら、堤防が決壊して周辺に大被害をもたらしました。
田んぼのなかの土の塊は何でしょう。洪水の侵入を防ぐため、緊急で置かれた土嚢ではないのですか。
それとも流されてきた土石が固まって堆積したとか。多分両方とも違いますね。
謎です。

ここまで見た
  • 223
  •  
  • 2010/09/24(金) 10:51:22
むかしは単に、水がでた(堤防が切れた)とか、大水まわし(一面が水に浸かった状態)
と言いましたね。昭和30年頃の那珂川の氾濫で、未舗装で上って直角に曲がり、また直角
に下った(旧)千歳橋がポツンと水面に浮いていたの、工兵隊兵舎裏から見たのを覚えてます。

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