懐かしの下関市内を語り合おう パート1 [machi](★0)
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- 2011/09/01(木) 15:08:41
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予想開店閉店時期
山の田初代ニチイ→昭和46年−53年
丸和山の田店→昭和46年-53年
サンボウル→昭和46年→昭和49か50年
初代ニチイと丸和の開店は全くの同時と予想。
開店年月に関しては未だ意見が分かれます。
サンボウルの閉店時期だけは未だ不明です。
1974年の住宅地図には、この3つ全て載ってます。
1978年の住宅地図には、丸和、ニチイ、ニチイ倉庫となって
いますね。サンボウルだけが早々に閉店しているのが明確です。
1980年の住宅地図は、リニューアル開店後のニチイ山の田ショッピング
デパートとなっています。
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- 393
- 2011/09/01(木) 19:46:15
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昭和46年の夏にはTシャツの絞り染めが流行っていて、その春に完成したばかりの
ニチイ下関店(下関駅西口)でシャツ売場をあさっていた。
自分と同年輩ぐらいの2人連れの若者が「兄ちゃん、金貸してくれん」と言ってきた。
そのころ体を結構鍛えていたので、「ここじゃ他のお客の迷惑になるから外行こうか」
と答えると、「すみません」と言って立ち去って行った。
この年の秋にはまだ、山の田にはニチイはなかったと思う。
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- 394
- 2011/09/01(木) 20:06:53
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鳩のマーク
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- 395
- 2011/09/01(木) 20:08:25
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ニチイ下関店の開店は昭和46年で間違いないです。
閉店は昭和63年3月です。以前、61年閉店と言っておられる方がいましたが間違い
でしょう。市役所に昭和63年閉店と聞いたので間違いありません。
初代山の田ニチイ開店は、昭和45年ではないです。100%ないです。
昭和46年か47年開店には間違いないですが、核心をつく情報がなく
市役所に聞いてもわからないそうです。サンボウルもわからない
そうです。
余談ですが、唐戸のユニードは開店昭和43年−閉店56年です。53年に一度
休業をしていますが後に復活しています。
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- 396
- 2011/09/02(金) 20:11:23
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>>395
いや昭和63年閉店はありえない。
で、山の田ニチイの開店は昭和50年代だと思う。
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- 397
- 2011/09/02(金) 23:18:49
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>>396
何か裏取れるソースはありますか?
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- 398
- 2011/09/03(土) 00:33:38
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>>395
ニチイ下関店てのは、場所はどこ?
あの大丸下関の駅挟んで反対側のニチイではないのかな?
出来れば番地までか、MAPのリンクかで教えて欲しいけど、勘違いしてたら話が前に転がらないので
僕の記憶でも、あと1年で平成という昭和63年まで、ニチイ下関店が残ってはいなかった、と思う
ニチイ山の田店、昭和46年には存在してたよ
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- 399
- 2011/09/03(土) 05:50:35
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>>397
ソースは昭和46年生まれの俺の記憶。
山の田ニチイが出来る前の丸和で食べたたこ焼きの味。
ニチイオープン時の賑々しさ。
・・・これらが勘違いだったらかなりショックw
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- 400
- 2011/09/03(土) 06:02:08
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ソースと言えるかわからんけど。
http://blog.livedoor.jp/avocado551/archives/375205.html
山の田サティ:来年2月末で閉店 競争激化で売り上げ減−−下関 /山口
下関市山の田本町の大型スーパー「山の田サティ」が来年2月末で閉店することになった。経営会社のマイカル(本社・大阪市)は店舗の老朽化に加え、他店との競合による売り上げ減少を理由に挙げている。
山の田サティは1979年、「ニチイ山の田」としてオープン。95年に現在の店名になった。4階建ての2、3階が売り場で、売り場面積は約9000平方メートル。近くには下関市立大や住宅街があり、開業当初は地域有数の大型スーパーとしてにぎわった。
しかしその後、下関市内には大型ショッピングセンターなどが相次いで進出。売り上げはニチイ山の田時代の85年度(年約35億円)をピークに、昨年度は3分の1以下に落ち込んだ。マイカルは「外部環境が変化し、もはや将来に期待がもてない」と閉店の理由を説明している。
山の田サティでは現在、正社員4人とパート社員の計130人が勤務している。閉店後は正社員4人が他店に異動し、パート社員はイオングループの店舗への再就職をあっせんされる。土地と建物はマイカルの所有だが、跡地利用はまだ決まっていない。
サティは現在、全国に107店舗あるが、先月には北九州市の門司サティが閉店している。山の田サティが閉店すると、県内では「防府サティ」(防府市)1店舗のみになる。
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- 401
- 2011/09/03(土) 06:31:20
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3連投すんません。
あとニチイ下関店は昭和60年3月閉店ってな情報もありますね。
俺もその辺の時期ではなかったかと思うけど。
山の田サティのとこ、自分の幼少時の記憶では上側(今の郵便局側)にパチンコ屋やらスマートボール屋があり、
線路沿い脇の道路を斜めに下がった辺り下側(市営住宅側)が丸和だったと思う。
でもニチイと丸和が同時に存在していたと言われれば、そうなのかもしれない...
はっきりさせたいなぁこれ・・・
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- 402
- 2011/09/03(土) 06:57:58
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鶴田寛
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- 403
- 2011/09/03(土) 10:13:15
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>>400
1979年=S54年は、丸和とサンボール跡を改装してリニューアルオープンした年だとされています。
それ以前はニチイを含めて三店舗が併設していた時期もあるそうです。
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- 404
- 2011/09/03(土) 10:34:05
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>>398
ニチイ下関店跡の住所は、
山口県下関市竹崎町3丁目6−2
です。
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- 405
- 2011/09/03(土) 16:21:19
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ニチイ山の田は、昭和54年以前は確かに丸和と併設だったな
郵便局向かい側の同じ高さに
右側線路脇を降りて行って、丸和があった
なんとなくの記憶では、今のように郵便局向かい側の、ドーナツ屋があった辺りまでの広場はなくて、もっと歩道側に店が迫っていたと記憶してる
リニューアルしてから、バス停のあたりの歩道が広がり、ニチイ並びのビルも下がって建て直されてた
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- 406
- 2011/09/04(日) 13:43:17
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初代山の田ニチイ時代からあると思われる現在も残っている地下駐車場に下る坂道は
リニューアル時にも一切いじらずにそのままの姿で現在に至っているのでしょうか?また、
同時期にミスタードーナツが営業していましたが、
このミスタードーナツはリニューアルオープン後(S54年)も閉店せずに営業していた
記憶があります。>>405さんの煽るように、歩道は現在より狭かった気が
しますね。リニューアル後に現在の広さに変わったと思われます。
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- 408
- 2011/09/04(日) 15:33:15
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山の田ニチイの開店日は、昭和45年10月30日でした。
ソースは山口新聞の記事です。
同記事に、食品スーパーが11月下旬に開店、36レーンのボウリング場が12月中旬に完成とあります。
写真は、建設中の建物の写真がありますが、小さくて潰れ気味なので当時の様子を知る人が見れば何かわかるのかもと言った程度でした。
また、竹崎ニチイの開店日は昭和46年4月29日、閉店日は昭和60年3月31日。
同じく山口新聞から。
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- 409
- 2011/09/04(日) 15:50:01
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1971年の住宅地図では、現在のSATYの場所にボーリングセンター建設中とだけ書かれていて、初代山の田ニチイ
、丸和のことは全く書かれていません。住宅地図の情報は半年から1年前の情報です。
ということは、1970年の時点では、サンボウルのみ建設中だったということです。
ニチイ、丸和は1971年から建設が始まったとも考えられますね。
なぜだか分からないのですが、山の田に限って言えば、本によって情報が錯乱しています。
開店年月などが微妙に違って書かれており不思議ですね。どれが本当の情報かわからないのが現実です。
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- 410
- 2011/09/04(日) 16:00:34
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この食品スーパーというのは丸和のことでしょうが、ニチイは丸和開店の前月に
開店していたということですか?
それとも、山口新聞の発行日が昭和45年10月31日で、前日開店のニチイのことを
伝えているのでしょうか?
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- 411
- 2011/09/04(日) 16:23:17
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>>408 昭和45年末にニチイ、丸和、サンボウルの順に1ヶ月おきに
開店したのですねー。正直びっくりしました。昭和45年の開店はないと
思ってました。昭和45年までにこの3店が全て開店していたとは。。。。
新聞記事なら間違いないでしょうね。
今までサンボウルが一番先に開店していたと思ってました.......。
図書館で古い新聞引っ張り出して調べられたのですか??
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- 412
- 2011/09/04(日) 16:26:17
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>>410
山口新聞の昭和45年10月分を全部舐めて、10月2日、29日、31日に載った記事を見つけしました。
記事を信用するなら、ニチイと丸和には一ヶ月程度ズレがありますね。
「丸和産業が経営する食品スーパー」と書かれたものもあります。
あとで記事をテキストにして何処かにあげます。
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- 413
- 2011/09/04(日) 16:36:19
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わたしもニチイ下関店の開店のほうが数年先と思っていました。
下関店のエスカレーターではじめてニチイの歌が流れているのを
聞いたものですから。
いい街だ〜♪この街は〜♪ あなたと一緒にニ・チ・イ
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- 2011/09/04(日) 16:37:20
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>>411
県立図書館に縮刷版があったのでそれをみました。
印刷の状態がイマイチで、字も小さくて読むのに難儀しました。
しかし、ニチイはなぜ山の田に市内一号店を出店しようと思ったのか謎ですね。
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- 415
- 2011/09/04(日) 16:54:53
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昭和44年頃の山の田は、山の田中央マーケット(昭和42年?頃開店)
のみがありました。しかし、それ以外は何もないド田舎で、
辺り一面が水田だった。ニチイの場所も雑草が茂っていたと思います。
唯一昭和シェルのガソリンスタンドがありましたね。
現在の郵便局もなく、全く何もない町でした。しかし昭和45年ごろ
パチンコマンモスが開店し、その頃から徐々に活気がでてきたと思います
ニチイ建設が山の田に決まったのは、当時パチンコ屋もできて
徐々に人が集まりだしたからでしょう。
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- 416
- 2011/09/04(日) 17:11:00
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いまの南部町郵便局が、山の田に移転する前の下関東郵便局でしたね。
東郵便局は、下関北郵便局として勝山地区に建てる案もあったようです。
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- 417
- 2011/09/04(日) 21:45:35
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>>406
全て、その通りですよ
線路脇の坂道は、そのまんま、地下駐車場へのスロープになりましたね
何となくだけど、あの坂道は、山陽本線と山陰本線の保守用に、橋側から資材を運ぶルートだったんじゃないかな?と思うけど
違うかもしれない
昔の国鉄の保線やってた人なら知ってそうだね
46年ごろは上がニチイ、下りて行くと左奥がスーパー丸和、という感じだった
ミスタードーナツは、今にして思えば時代を先取りしてますね、当時は誰がドーナツなんて買うんだろう?と思ってた
リニューアル後にできた、ニチイ前のタイル敷広場のようなエントランスは、ほとんど駐輪場と化してましたが、当時はやり始めた原付や自転車が溢れていました
多分、歩道が狭くて、ニチイ前のバス停やらでごった返してて、事故があったから作り変えた、とかじゃないのかな?
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- 418
- 2011/09/04(日) 21:59:44
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>>415
昭和シェルは最近の合併ですが、当時はどこにあったGSの事ですか?
昭和石油?シェル?生野町と大学町の間に、40年代はESSOか、STOKE昭和があったような記憶がありますが
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- 2011/09/04(日) 22:52:54
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開店、あふれる人波
ニチイ下関
スーパー・ニチイの下関進出第一号となるニチイチェーン山の田店が三十日午前十時からオープンした。下関市山の田地区は新興住宅地として急速に発展しているところで、数年後には人口十万人が見込まれている。市の中心部からやや離れているので買い物には不便な点が多かった。ニチイは山の田地区の将来性を買って「地域に密着した店づくり」を目的に進出した。
三十日午前十時の開店前には山の田交差点近くのガソリンスタンドまで約三百メートルの行列ができる盛況。オープニングを飾って林兼産業ペンギンシスターズ演奏するなかを、待ちかねた客は開店と同時に店内へ、約千八百平方メートルの店内はたちまち人の波で埋まった。ニチイ側は、万一事故があってはとガードマン三人と男子従業員を配して警備した。
同店をつくった中国ニチイ開発部の話では「開店第一日は四万人の来客を予定している。すでに一年前から市場調査をしており、立地条件と消費者の好みを掴んでいる。これまで近くに本格的な買い物の場所がなかったので、満足してもらえると思う」と話している。
三十日開店したのは二階建てのべ千八百平方メートルのニチイ・チェーン山の田店で一階は日用雑貨、はきもの、文具、玩具、袋物、服飾、化粧品、電化製品など、二階は衣料品、肌着、寝具など。ニチイ開発部は同店だけで年商六億円を予定、今月下旬には丸和産業が経営する食品スーパー部門(千八十平方メートル)が開店するので、これをあわせると年商十億円を見込んでいるという。また十二月中旬には三十六レーンのボウリング場も完成するので、これらを含めて「ニチイ山の田ショッピングセンター」として誕生する。百台収容の駐車場も計画しており、地域に密着したレジャーから買い物まで出来るショッピングセンターとして特異な存在になりそう。
(山口新聞 昭和45年10月31日土曜日)
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- 2011/09/04(日) 22:55:37
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>>418
宮の下のバス停から山の田方面に向かって、行くとセブンイレブンがありますが、ガソリンスタンドの跡地です。その隣はのそ今は回転すし屋がありますが以前は日産の車屋さんでした。
その反対側は昔は、岩中というスーパーでした。今は丸和になりましたが、サティが閉店して、お年寄りは(歩きの人)丸和で買い物をしているらしいです。
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- 2011/09/04(日) 23:10:46
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30日オープン
ニチイ山の田 下関第一号店
ニチイ・チェーンの下関進出第一号店となるニチイ山の田ショッピングセンターが三十日午前十時オープンする。山の田は私立大学があるほか新興住宅地として急進に発展しているところで、ニチイ山の田店は同地区の将来性を狙い設立した。ボウリング場などレジャー施設もあるが、三十日オープンするのは日用雑貨や衣料を中心にしたスーパ部門。
二階建て延べ千七百八十平方メートル。八月上旬から工事していた。一階は日用雑貨のほかメガネ、カメラ、家電製品、二階は衣料や紳士服など。このあと十一月下旬には千九十平方メートルの食品スーパーが開店するほか、三十六レーンのボウリング場も建設中。
山の田は郊外にあるため、買い物に出るにしても中心商店街までいくのに不便。このため食品を中心にしたスーパーが現在三店営業しているが、本格的なショッピングセンターができるのは最初なので「買い物が便利になる」と工事の進み具合を見守る主婦の姿も目立った。開店目前にアドバルンを上げてムードをあおっており、店開き当日は買い物客で山の田一帯は混雑することが予想されている。
(山口新聞 昭和45年10月29日木曜日)
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- 2011/09/04(日) 23:31:07
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『商戦』戦国時代へ 下関
ニチイ、エムラ進出
ショッピングセンターも 受けて立つ大丸
下関では、いま“商戦戦国時代”への幕開けを間近かにひかえ、商店街では期待と不安が交錯、攻められる側のデパートスーパーなどではその対策に真剣、一方の中小商店街では、これに便乗して客足の獲得に期待をかけている。ニチイ、エムラの下関進出が決定、すでに店舗の建設も着々と進み、一部は年内にオープンするなど、季節のスーパーやデパート、さらに北九州市小倉の商店街との“競合”が一段と激化しそう。年末商戦と時を同じうして展開されることになろう下関商店街の冬の陣の行方を探ってみると―。
「株式会社ニチイ」(西端行雄社長、本社大阪)は現在、国鉄下関駅と山の田に進出を決め店舗の建設を進めており、山の田店は敷地面積約一万平方メートル。一棟から三棟までのうち、一棟(二階建て)が衣料、家庭用品、インテリア、二棟(一階建て)がスーパーマーケット、三棟がボウリング場、レストラン、レジャー関係となっており、テナント数は三十店。衣料、家庭用品、インテリア、スーパーマーケットも10月中旬には開店する。
またニチイ駅前店も急ピッチで工事を進めており、開店も時間の問題、さらにニチイはこのほどスーパー・ます屋との協業によるニチイ・チェーンます屋を設立。ます屋は唐戸と邦楽座通りに店を持っているのでニチイは四つのチェーン店を持つことになる。
このニチイに続き「衣料スーパー・エムラ」(本店防府)も下関市幸町に店舗を確保しており、下関での商戦参加に名乗りを上げている。さらに地元商店街や商工会議所が中心となって、駅前にショッピングセンターの建設を計画、具体化へと努力を続けている。
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- 2011/09/04(日) 23:42:33
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>>422
こうした動きに対し下関大丸の■本専務は「ニチイ、エムラ、ショッピングセンターなどの建設準備が進んでいるが、これは下関の商店街にとってもいいことだ。商売上、人の流れということが最も大切。その点ニチイが駅前に進出したことは、ほかのところに進出するよりいいと思う」と受けて立つ構えは十分。しかし商店街の社内報などにも「ニチイ進出」を大きく取り上げ「数年ののちには年商九十億(昨年四十億)を目指す」ということが従業員の間でも話題となり、ニチイ進出強い刺激材料であることは否めない。
しかし同専務は「人口二十六万の下関に進出したところで、そんなに大きいことはできない。食うか食われるかの戦いも無駄だと思う。競争意識をあおりたてるようなことはせず、円満にやっていきたい。ニチイが進出したからと言っても具体的な対抗策はない。しいて言えば社員教育を徹底させ大衆に愛される従業員、親しまれる大丸にしたいということ。大丸(東京、大阪、京都など)というバックもあり、さらには昨年から松坂屋との共同仕入れをやっており、うちにはうちのやり方がある。ニチイのために売り場を拡張するとか、営業方法を変えるなどということは考えていない。今までどおり大丸独自のやり方でやっていく」という。
近い将来、下関駅周辺を中心に下関の中心となる商店街ができる。市の大ショッピングセンター、ニチイ、丸信、さらには邦楽座通りに高層ビルやマーケット…。そうなれば下関の商店地図が塗り替わることは必至。「さいきんの大丸は変わった」という声があちこちで聞かれる。ある主婦は「大丸に行けば欲しい商品はなんでもある、と思っている。デパートとはこんな消費者の殿堂でないと…」と、デパートの期待を話しているが、その裏側には最近の商店街が、“売れる商品中心主義”に変わりつつある傾向を示唆しているとも言えそうだし、戦国時代到来を物語っている。
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- 2011/09/04(日) 23:52:34
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>>423
下関駅周辺の商店主たちは、口をそろえて「人の流れからいっても大きなデパートやスーパーが出来ることはプラスだ。これは小倉の銀天街を見てもわかる」という。またある主婦は「大きな店が多くできれば、それだけ良い品が豊富に安く手に入ることが考えられ、消費者にとってはありがたい事です」と、大資本によるスーパーの本格化時代を大きく歓迎。
ニチイの福田博之副社長もこういったことを計算「将来手を広げるとすれば長府や彦島…」とこれからも下関を舞台に手を広げることをほのめかしており、まさに下関商店街の“戦国時代”はこれからが本番と言えそうだし、消費者は「良い品を安く・豊富に」そろえる店での買い物ができることになるとして、商店街の戦国時代到来をよろこぶことになるわけだ。
(山口新聞 昭和45年10月2日金曜日)
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- 425
- 2011/09/04(日) 23:54:01
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>>420
知ってますとも
あのGSは、何度か経営が変わったけれど、最初はストークスかエッソじゃなかった?なんだったかな?
岩中も肉屋さんスーパーでしたね
そう言えば、あの日産自動車、潰れたのか。。最近GTRの発表会で予約待ちで売れてますとか、セールスマンが豪語してて、へぇそんな景気いい話も珍しいな、と感じたのを覚えてますが、あれももう10年前か
ニチイの新聞記事、お疲れ様です
林兼産業ペンギンシスターズってのが、笑ったw
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- 426
- 2011/09/05(月) 00:06:43
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竹崎ニチイ、懐かしすぎる。
屋上ビアガーデンや盆踊りもやってたなあ。人工芝のにおいが強烈だった。
ナムコ直営のナムコランド(ゲーセン)でナムコ最新作が遊べる事がプライドだった(笑)
「まだ小倉京橋にも入っちょらん」が合言葉。
6階の本コーナーに入り浸って漫画を読んだのも懐かしい。ブラックジャック一気読み
とか。西口大丸はウッスラ記憶にあるだけで西口ランドマークはヤッパリニチイでしょう!
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- 427
- 2011/09/05(月) 07:18:38
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鶴田寛
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- 428
- 2011/09/05(月) 07:52:24
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シーモール構想以前には、邦楽座通りの入口付近に新しいデパートをつくって
あのあたり一帯を大商店街にしようとする案もありました。
シーモールの当初案では駅舎建替え・ペデストリアンデッキ建設も同時に行う
ようになっていました。20数階建てビルも案のなかにはありました。
シーモールのデパートには、大丸以外に高島屋も出店希望をしていました。
ます屋とか懐かしいですね。邦楽座通りにも店があったとは知りませんでした。
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- 429
- 2011/09/05(月) 10:00:54
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ショッピングセンターで思い出したけど、安岡にもでかいのが出来る話はあったんですよね。
ラクロス安岡。
結局、噂だけだった。
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- 430
- 2011/09/05(月) 10:32:23
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>>406
自分が山の田へ行くようになったのは昭和59年ごろですが、ニチイ前のミスドはなんとなく記憶があります。
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- 431
- 2011/09/05(月) 13:32:33
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サンデンスポーツボウルのオープンは、昭和47年11月10日。
市内で13番目。36レーン、アーチェリー競技場、卓球場などの施設も。
下関に初めてのボウリング場ができたのは、40年末。
46年から47年にかけて続々オープンし、総レーン数約360、チラホラ身売り話も出ている。
「下関のあれこれ(33)」から記事を要約しました。
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- 432
- 2011/09/05(月) 13:43:58
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>>431
47年4月16日の記事では、8カ所240レーン、これに加え5カ所176レーンを新築とあります。
ブームの頃は小さかったので良く知りませんが、かなり異常だったんだなとは思います。
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- 433
- 2011/09/05(月) 20:44:07
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下関初のボーリング場は新地にできたと聞いたことがある。
★名前のわかるのは(正確ではないかもしれない)
下関ロイヤルボウル、下関ゴールデンボウル、下関東ボーリングセンター、
サンデンスポーツボウル、サンボウル山の田
★場所はほぼわかるが、名前がわからないのは
マリンランド、貴船町(幸町丸食向かい)、大和町(元冷蔵倉庫?いま空き地)
彦島西山
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- 434
- 2011/09/05(月) 21:41:42
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>>433
ほかに長安線の養護学校のところも。
図書館で本見てたときに、小月にもあったようなことをチラッと見ました。
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- 435
- 2011/09/05(月) 21:58:18
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新地の中山食堂はもうやってないのかなぁ?
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- 436
- 2011/09/06(火) 00:32:07
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下関市は何というか、発展余地が昔からなかったな
旧市内と呼ばれた東駅付近までと、いわゆる新興住宅地の山の田から北側の垢田や綾羅木安岡などと、何ともダラダラと繋がりが悪いですね
慢性的に191号渋滞するだけ
と思ったら、何か凄い沿岸道路が工事してましたし、この前見てビックリしたのが、大きな出島が出来てる!
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- 437
- 2011/09/06(火) 17:01:14
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>>431サンデンスポーツボウルは、ジャスコの開店(昭和49年)と同じだ
とずっと思ってました。大変貴重な情報ですね。
山の田のサンボウルは、いつ閉店したのでしょうね。昭和50年代に入ってもまだ営業
していたのでしょうか。
山の田のミスタードーナツは、初代ニチイや丸和、サンボウルが開店した昭和45年末
と同時オープンという可能性はあると思いますか?
このミスタードーナツは、この時代にしては極めて時代を先取りしていたお店だと思います。
まだ「ドーナツ?」って感じでした。閉店は昭和57年頃と予想。昭和59年には、
「美味」というお店に変わっていました。
この美味というお店、何を食べても非常に美味しかったのでよく覚えています。
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- 438
- 2011/09/06(火) 18:16:21
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>>437
ミスタードーナツがいつできたかはちょっと分らないでしょうね。
でも59年には無くなってたんですね。
すると、なんとなく見た記憶があるのはそれ以前に数回山の田へ行ったときの微かな記憶なのかな。
ジャスコは、48年4月に土地を買い上げたという記事があったのですが、開店日はまだ不明です。
また、山口に行ったときに調べてみます。
自分的には「下関市史」に載ってた昭和51年11月開店を支持してるんですが、49年説が正解の感じですね。
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- 439
- 2011/09/06(火) 20:12:46
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ジャスコは昭和49年開店です。開店当時は大いに賑わいました。
なにせ、昭和45年頃の東駅には三栄センターぐらいしか買い物をする
場所がなかったと思います。スーパー平和とかもありましたが。
昔の東駅は、現在サンリブのある付近すべてサンデンの敷地で、整備工場
や車庫などがありました。あの辺りは、現在と比べたら街の変貌が激しいですね。
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- 440
- 2011/09/07(水) 11:03:40
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>>436
旧市内は山だらけで平地がなく、街を横に広げられないんですよね。
山ノ口や後田のあたりは両側に山が迫ってて窮屈な感じです。
おまけに鉄道で街が分断されて、下関から幡生の間で踏切や橋が少ない。
こういうのも下関の発展を阻害してます。
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- 441
- 2011/09/07(水) 18:25:38
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その気になれば山を掘り返して住宅地にすることだったできる。
一番の理由は人口が増えないことだろう。
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- 442
- 2011/09/08(木) 09:45:57
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>>441
しかし現実にはそうせず郊外へ街を作ってしまった。
あの頃は、どこの自治体も郊外へ街を広げてましけどね。
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- 443
- 2011/09/09(金) 18:12:42
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明倫学園をサーチしたらここにたどり着いた。
私立明倫学園 自動車工業科 3年B組卒業。
45年前下関を見捨てて広島に来た。
幸町に住んでいて、電車で東駅から幡生ゆき?二宮駅行き?二本松?で電車を降りて、
(あの頃の東駅は学生がわんさと居た様に覚えている)
山の上の学校に通っていた。猫の額の運動場、周りは畑ばかり、
商業科もあって女子も居た。
で、学校が廃墟か…ま仕方がないかも、当然でしょうねあの学校なら。
あの頃は成績が中だと、安工・関工は駄目だった…ので明倫に入った。
学校の(山の)下、電車の停留所近くにきれいな姉さんがお込み焼き屋をしていた。
卒業してしばらくして、帰った時にしばらくぶりに友人と行ってみると、
お姉さんは細江町の飲屋街でスタンドをしていると聞き、其のスタンドに尋ねて行った。
あの頃、東駅から電車で少し走ると小山に防空壕があり、人が住んでいた。
++懐かしさでコメント書いてみました。
さようなら
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