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  • 2014/10/26(日) 13:41:54
潮干狩り

何か落ちてるかも
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  • 2014/10/26(日) 16:51:01
我々は宇宙人の言葉を理解できるだろうか
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  • 2014/10/26(日) 16:58:50
いつどこで読んだのかも忘れましたが
そこそこ頭のいい人の書いた文章で

人間同士が将棋を興じているところを
こっそり宇宙人が覗いているとして
この宇宙人は将棋のルールを理解するだろうか

という話があって
そこでの結論は「見てるだけでは宇宙人は将棋を理解しない」
というものだった

何十年も前の話で、その結論に至る理由は覚えていない
というかまったく理解できなかった

あ、理解しないってそういうことか
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  • 2014/10/26(日) 19:58:47
理解するって信仰にすぎないの?

しかし信仰ってなにかね(菅原文太ふう
それは疑うことをやめた状態

疑うってなにかね?何を疑ってるの?
「本当は違うかも」・・・?

本当ってなにかね
似せではないってこと
似せがあるなら本当がある

でもこの世界は似せではない
だからこれ以外の本当の世界なんてないんだよ

あれ、しかし宇宙人にとっての世界ってこの世界?
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  • 2014/10/26(日) 20:10:35
「理解」が、なにかしら、宇宙に普遍的な成立だ、というなら
宇宙人と我々は世界を共有できる可能性はある

しかし宇宙人は物質でできているのかな
そうであるなら宇宙人に我々の言う「物質」を理解させるための
その努力の方法論はいくらもある

やってみたら案外いけたりするのかな
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  • 2014/10/26(日) 20:13:06
雲をつかむような導入部はここまでにして
次からは地道に
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  • 2014/10/26(日) 20:22:11
電験三種に通りました

言いたくて仕方がないのだが
言う相手がいないので、ここで

わたしの日記になっちゃうな
すいません
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  • 8
  • 名無し
  • 2014/10/27(月) 08:37:34
>>7
オメデトウ(^▽^)ゴザイマース
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  • 2014/10/27(月) 19:24:49
信号はそれだけで意味内容を成立させ得るのだろうか

戸田山和久の哲学入門
「情報」の章だけ何度か読んだ
(それ以降の章は完全に流し読み)
期待値が高かったので、かなり気合いが入った
なんだろう、この分かり難さ、気持ちの悪さ
他の章はやすやす読めるのに
この章だけは煮ても焼いても食えない
わたしの頭が悪いから?

シャノンの情報理論が泣いている
なんとかしてくれと

信号がそれだけで意味内容を持つのなら
世界に暗号なんて存在しない
多くの未解読文字があるのはどうしてか

暗号を復号させるとは
それが世界と対応する、ということ
この本は、世界すなわち論理が生まれるその奇跡にまるで無頓着
この人にとっては当たり前のように世界があって、論理の存在も当たり前なのかな

それでもやっぱり、わたしの頭が悪いだけ、という可能性は
大いにあり得ることですけどね
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  • 2014/10/27(月) 19:29:20
>>8
ありがとう

生活のため、これからの人生のため
自分がただの馬鹿ではないことを証明するため
少しテンションあげました

どうやら食いつないでいけそうで
やれやれです
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  • 11
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  • 2014/10/27(月) 20:24:34
哲学入門の「情報」について その2

思うにこの人は、いわゆる「客観的」とされる事象について
それが起こることそのものには解読者の存在は関与しないのだから
情報というものは解読者がいてもいなくても情報なんだ、と
そういったことを言いたいのかもしれない

しかし贔屓目に忖度しても
そういった意味における情報は、『理解可能なこの世界のありき』の
「出来合の世界」の中でのみ意味をなす情報
つまり、すでに「意味内容群」が存在する中で、
特定の信号に特定の意味内容を対応させることはできますよ、と
そういったことが言えているだけ

シャノン的な信号が、即座に意味内容に化けるとか
そんな芸当にはまるで手が届いていない
なのに章の冒頭では、まるでそれが可能であるかのように書いている
とんだ食わせものですよ

ああ、これは言い過ぎました
何事かを理解できないときに、自分の頭が馬鹿なのだと認めるのは
なかなか困難なことです

次回は別の話題でもっと穏やかに
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  • 2014/10/28(火) 20:14:03
論理は主観によって作られたものだろうか

主観というのはやっかいなものです
なんでもかんでも「それはただの主観」になり得ます
主観主義者にとってはニュートン力学も主観です
どんな理論も結局は主観だと強弁されたら
その人の考えをひっくり返すことなど、およそ不可能です

しかしその主観とは何のこと?
と問われたら、まともに説明することもできません
それでも「思考とは結局は主観だ」という強力な確信が人間を支配しています

この「確信」というものがまたくせものです
確信でしかない以上、それが確信であること以上の保証はありません
確信を確信しなくて何を確信するつもりか?というトンチキな話になるわけです

しかし確信なんてのは、刹那的な気分であって
ワイドショーなんかを見つつ、「こいつが犯人でまちがいない」と確信していたが
新たな事実が出ることで、とたんにその確信は揺らぎます

思考が主観であることは、理由のない確信にすぎません
なので逆に、容易には疑うこともできない

しかし手がかりはあります
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  • 2014/10/30(木) 11:08:35
『わたしはそのことを確信している』のそのこととは何なのか

古い話で恐縮ですが、ドラマの大草原の小さな家
主人公の姉やんが途中で盲目になってしまいます
その後、再び光が見える気がした時のエピソードがあるのですが
それは結局、顔の肌が熱を感じたのを、光が見えたと錯覚しただけ
という悲しい落ちだったように記憶しています

下条伸輔氏の「サブリミナルマインド」に「顔面視覚」についての記述があるので
ご紹介します
目の不自由な人は、杖が無くても障害物を避けて歩くことができるというような
特殊な能力を持つことがある
ところでこの盲人がこの能力をどうやって行使できているかについての自覚的な報告内容は
「黒い陰が顔面に迫ってくる」とか云々の“視覚的な現象”
さては未知の感覚器官か、と研究されたりもしたそうだが
実のところ、聴覚的な手がかりが無いと、この能力は発揮できないようで
どうやら自身の靴音の反響音を手がかりにしているらしいことが分かったそうです
しかし報告される内観の内容は視覚的であるわけです

彼に「おまえはまちがっとる」と言ってやることは妥当だろうか
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  • 2014/10/30(木) 23:22:16
以下のような突っ込みは当然にしてあるだろう

『そんなものは、音波に起因する聴覚からの刺激が、脳内であたかも視覚的な現象として
 感じられるように成立した。それだけのこと。』

一見まともな反論なのだが、しかしこの『』内の言葉によって表現される内容もまた
脳内で成立している『だけのこと』だ。
『たしかに黒い影があるんだよ。』という主張に比べて本質的、決定的な違いはどこにあるのだろう。
常識とか思考の慣れ、当たり前のこと、そういったものを根拠にして反論しているだけ
いやそうではない、と断言する根拠はあるだろうか。
無いように思われる。

いやいやしかし、常識、慣れ、習慣、当たり前
こういったものは、「それだけのこと」なのか
常識が常識であることには理由があるのかもしれないではないか

そろそろわかわかめになる頃合いなので、次回は別の話題に
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  • 2014/10/31(金) 21:43:44
アナロジーの有効性は、それによって理解しやすくなる場合において
理解しやすいという事態のみが、その有効性の全体である(黄檗

でも理解しやすいことに理由がないわけでもないよね
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  • 2014/11/02(日) 11:04:09
意識は機能なのか

それを語る前に、「機能」という便利すぎる言葉を定義しよう
機能とは「都合に合った性質」でどうだろう
自動車の機能は人や荷物を載せて走ることだが
これは自動車に限った性質ではない
自動車で人を轢き殺すこともできるが、これは自動車の機能とは言い難い

そこで意識の話なのだが
前野隆司は自著『脳はなぜ心を作ったのか』に於いてこんなことを言う

・人間はエピソード記憶ができないと不便だ
・エピソード記憶ができるためには意識が必要だ
・ゆえに進化的に意識は生まれたのだ

残念ながら、この論証は完全に間違っている
ちなみにエピソード記憶とは、物語的な記憶のことであり
つまり「いつどこでなにがどうした」という内容を持つ記憶のこと

なにが間違っているのか
それはこの論証は
エピソード記憶ができないと不便だという話は、この意識に於いて成り立つ話だ、ということに
まったく無頓着である、ということだ

意識あってこそのエピソード記憶であるものを、エピソード記憶ありきの話に転倒させている
エピソード記憶が物理的にどのようなものであるのかについては何の説明もなく
この意識に形成される「いつどこでなにがどうなる」のためにはこの意識が必要なのでこの意識が生まれた
とんちんかんな話
喩えて言うなら、この湯飲みでお茶を飲みためにはこの湯飲みが必要となったのでこの湯飲みが生まれた
のような話(遠いか・・

意図的であるなら詐欺だし、無自覚なら馬鹿
戸田山の哲学入門を読んだときと似たような気持ち悪さ

と、さんざん腐しましたが、観念論や現象学はその性質上
この問題の入り口に立つこともないわけで
それを喚起した意義はあるのでしょうか、ね
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  • 2014/11/02(日) 20:18:55
エピソード記憶は知的活動のために必要なのか

人間活動の現状をそのまま肯定する限りにおいてそうだが
宇宙人にとってそうでなければならない根拠は一つもない

分かってもらえるかどうか

エピソード記憶が生存競争のために有効であることを示そうと思うならば
それが「我々の意識的思考にとって主観的に理解しやすい様式である」ことを示したのでは
まるで駄目なのだ
意識など必要としない、もっと優れた知的活動が存在し得ることを否定できないから

もしエピソード記憶にこだわるのであれば少なくとも
「いつどこでなにがどうなる」という自覚的論理(世界形式)が、あらゆる宇宙人にも通じる可能性のある、
つまり宇宙という存在にとって普遍的な形式であることが示されなければならない
そうでなければ、いつまでたっても人間による独り言のための独り言で終わってしまう
まるでこのスレのように

どうやってもわけわかめですね

次回はもっと地に足をつけてべたに
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  • 2014/11/03(月) 23:03:22
めずらしく残業
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  • 2014/11/05(水) 17:07:01
言葉は比喩なのか

言葉とは比喩
よく言われる台詞です

薔薇や蜜柑、はてはエネルギーからニュートリノ
走る踊る考える、強い鋭い情けない

こういった言葉が比喩だとして、いったいそれらは何の比喩?
存在の比喩ですってさ
ふぅ~~~ん(みのもんたふう
それで納得できる人の頭の中ってどんな思考構造なんだろうな
よく分かりませんよ私なんかには

言葉の体系は様々あって、「言語一般」というものを想定することはナンセンスなのかもしれません
がしかし「言葉によって思考される」状況に於ける言葉は『本物』なのであって
何かの「似せ」ではないはず
なぜならその言葉より他に代用が無いのだから

言葉が比喩なのではなく
「言葉は比喩」という表現が比喩なんですよ

・・・・あれ、同じことか・・・いやいや
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  • 2014/11/06(木) 18:15:59
始めに言葉ありきなのか

私の本棚に飾ってあるヨハネによる福音書によれば
「元始(はじめ)に大言(ロゴス)あり、大言は神とともにあり』
となっているので「始めに言葉ありき」とはちょっと様子が違うようにも
思いますが

私は2年前まで5年間ほど下層翻訳者として生活していました
だいたいは英語で書かれた技術文献を日本語に要約し、
これを「抄録」という形で納品する仕事です
リーマンショックまでは割と仕事がありましたが、その後は悲惨でした

そんなことはさておき、わたしは英語が得意ではありません
大人になってから半年ぐらい勉強し、やっと英検2級
ですので正確な訳文を作るとなるとちょっとたいへん
それでも要約は可能なんです
どうしてか

予め機械の知識を持っていると、機構とのつじつまを合わせることで
とんちんかんな要約になることを避けられる
文献内容の目的さえ分かれば、構造ありきによって日本語を組み立てることが
できてしまうのです

ネットの自動翻訳程度では、そんなことはできません
こいつらに事前に言語内部的な文法を教えることはできますが
言葉と世界構造との対応を教えることはできないからです
内容的な辻褄が合おうが合うまいが、決められた文法規則に従って
無頓着に翻訳してしまいます

言葉というものが、世界構造と一致するかどうか
それは大問題で、わたしなんかの手には負えませんが

始めに言葉ありき

「言葉」という単語に、どこまでの内容と責任を押しつけるか
その態度如何によって見かけ上の意見は異なるような気もしますが

次回はさらにさらにべたに
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  • 2014/11/11(火) 17:21:17
哲学とはまるで関係のない「機械の話」

ベアリングなど、機械内部にはめ込む部材はその角部が削られています
これを「面取り」と言いますが、これは手で触れたときに怪我をしないようにとか
そんな目的でわざわざ加工されているわけではありません
はめ込むときに、角が隅に当たらないように施されているのです
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  • 2014/11/11(火) 17:30:44
大事な試験の日の朝、頭が冴えない
そんなときにはバファリン1錠
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  • 2014/11/11(火) 18:12:12
どうして人間には「時間とは何か」が分からないのか

簡単に言ってしまえば
物理的な方法によっては時間を制御することができないので調べようがないから
ってことなんですがしかし、この洞察(すいません)もその妥当性を確かめようがないので
単なる主観的な確信というか思想のようなものでしかない

変化が無ければ時間は存在しないだろう、という直観も微妙です
土台無理に無理を重ねているだけなので

哲学上の思考実験に暇つぶし以上の内容はあまり期待できません
しかし暇つぶし自体は立派なものか

あ、人生はしょせん暇つぶしなので暇つぶしが世界を変えるのか
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  • 2014/11/11(火) 20:10:13
相対性理論によって時間を理解できるのだろうか

高速で運動すると時間の経過が遅くなるとか
大重力場に於いては時間の経過が遅くなるとか
相対論から得られる内容はどこか恐ろしい感じすらします
しかし事実、相対論による計算補正によってGPSの精度は保たれているとか

このことは、時間を制御している、そういうことになるのでしょうか
そうだとしても、どうも不完全のように思えます(完全な制御って何?という非難囂々
制御したい時間を制御していない、制御できている気がしない
動いたら不可避的に時計が狂いますから修正してね、って話なわけで
なんといいますか、眼鏡をやるから近視になれ、と言われているような
・・ちょっと喩えが遠すぎますね

この話はまたネタがあればたまに
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  • 2014/11/15(土) 22:40:07
光速度をめぐるベタなはなし

光速度不変の原理なんてのは、今日び小学生でも知ってる話ですが
これを論理的に理解しようとすると、わたしのような普通の人間ではなかなか大変です

光速度不変の原理はマクスウェルの電磁方程式からの当然の帰結、というわけではありません
それを「どう解釈するか」という話であり、どのように解釈するのが妥当であるかは
理論そのものからは導けません
ちなみにマクスウェルは19世紀の人で、ニュートンからは200年も後の人です

マクスウェルはファラデーの研究を基礎にして電場と磁場の関係を整理し

ある点において
位置変化に関する電場の変化率が、時間変化に関する磁場の変化率に比例し、さらに
位置変化に関する磁場の変化率が、時間変化に関する電場の変化率に比例する、と

そういう式を立てたわけです
この二つの式から電場だけの微分方程式、または磁場だけの微分方程式を導くことができて
その式は波動を表現する方程式(定数係数二階線型偏微分方程式)となる
マクスウェルは電磁波の存在を予言します

電気の勉強をしてますと、ここがまったくの急転直下なわけです
ん~?となる
電気と磁気との間の関係は高校の物理でも習うと思いますが
電気によって働く力は遠隔作用として考えて全く差し支えなかった
実際、物理の参考書を読んでもマクスウェルの話までは、私の頭でも
分からないということはない、飛躍が無いから
しかし突然に断崖が出現して呆然となる

特定の物理量の距離に関する変位と時間に関する変位が交差することまでは調べることで分かったとしても
そのことから「これは波動だ」という「電磁場の実体化」まで頭がジャンプできない
数式のマジックを論理によって埋めることは本当に大変です(しかし必ず埋まります)

光速度不変の話が飛んでしまいましたが、またそのうちです
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  • 2014/11/16(日) 22:29:01
自然はいま何をしてるのだろうか

今現在しかない
そう信じている人の数は相当の勢力いるようです
統計を取ったことは無いので適当な感想ですが

この確信を支えているのは恐らく、
「どこを見回したって今しか無いじゃないか」
という個人の素朴なメンタルです
過去なんてのは人間の作り出した幻想、というわけです

確信の根拠は個人の素朴なメンタルなのですが、意識的にか無意識にか
人間一般という超便利なものが介入し、それに責任を押しつけます

『人間が誕生するまでは時間など無かった』と

しかし「人間が誕生する」というのは、どのようなイベントなんでしょう
世界の始まり?そりゃまた大変な神話です
何にも言ってないのと同じと言ったら、それは言い過ぎ?。。いやいや
既にに常識的時間構造を受け入れて、その構造の中で「あるとき時間が生まれた」
とか言われても、わたしなんかにはなんのことやら

私の死んだじいさんも、“いま”を生きていた
そう考えることは自然ですし、実はそう考えるしかないのです
しかしだとすると、そのじいさんの生きていた“いま”とは別の
「まさにこの今の今」とは、いったい何なのか

物理現象でしょうか
あるいはもっと上位の何かによって説明されるものなのでしょうか
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  • 2014/11/18(火) 19:40:49
少年老いやすく学なりがたし
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  • 2014/11/18(火) 19:41:55
いまさら言うのは恥ずかしいが
一頁も荘子を読んだことはない
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  • 2014/11/18(火) 21:12:16
家庭用コンセントって差すほうと穴のほう、どちらも2つありますけど
左右で大きさが違うって知ってました?

大きい方が接地してあるほう
てことはそちらに触れても感電しない

あえて触ってみるのはやめてください
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  • 2014/11/18(火) 21:42:14
個別的に成立するクオリアは言葉で説明することができない、という神話

なぐられた傷なんてものは時間が経てば治っちまう
だがな、言葉によって傷つけられた奴は
へたすると死ぬ場合があるからな、気を付けろ

なんか三流ドラマなんかで聞いたような台詞ですが
実際のところ、そうかもしれないと思わせるだけの
説得力がこの台詞にはあるわけでしょう
つまり、そうかもしれない、と思い当たる節が
みんなどこかにあるわけです

そこで表題に戻るわけですが
果たしてクオリアという全くの主観的かつ非言語的な現象を
言葉だけによって説明することは可能なのでしょうか

たとえば、ゴッホの絵でも、モーツァルトの演奏でも良いのですが
それらを見たり聴いたりしたときの感動は、言葉で表現仕切れるものでしょうか
普通の感覚では「できない」と判断するように思います

しかし冒頭で唐突につぶやいたように、言葉が人を殺すこともある
言葉がやがて人間の気分を支配してしまうこともあるわけです

だとすると、ある人がゴッホの絵を見たときの感動と、寸分違わぬ感動を
とある文章によって得られる可能性もないではない、のではないか
と思えてきたり・・・いやーまじで?
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  • 2014/11/21(金) 22:56:28
ばいさるになったわ

わたしにあんなこと期待されてるのかな
徒労なような、本質でもあるような
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  • 2014/11/26(水) 19:13:52
時間の矢についてのベタな話

時間の非対称性、つまり先後の非対称性についてよく、エントロピー増大
という台詞がまかりとおるわけです。
一般に言われるエントロピーという言葉は、「乱雑さ」という概念とリンクしており
自然は「より乱雑な状態」に向かって変化していく、というわけです

しかし実際のところ自然は本当にエントロピー増大に向かっていると
単純に言い切れるものでしょうか

たとえば、製氷室に水を入れておけば当たり前のように氷ができるわけですが
直感的に考えても、結晶状態である氷より液体である水の方が乱雑であるように
思えます

なんかおかしいわけです
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  • 2014/11/26(水) 19:33:48
私なんかが高校生のときには、物理でも化学でも、エントロピーという概念は
主要なテーマとしては全く出てきませんでした
せいぜい箸休めに顔を出すぐらい
いまの授業はどうなってるのかしら

高校の授業で最も重要視されたのは、エネルギーの概念でした
燃焼という現象を考えるとき、反応に関与する酸素分子と水素分子のもつエネルギーのトータルが
水分子の持つエネルギーのトータルよりも大きく、反応すると外部にエネルギーを放出することになる
反応はつまり内部のエネルギーが小さくなる向きに進む
そういう経験則が十分有効に成り立つ、と習うのです
ここでエントロピーなんていう話はぜんぜん出てきません

反応の向きを考えるための指標として高校で習うのは、エネルギーを除けば
せいぜい、「外部からの影響を小さくするように平衡状態が移動する」ぐらいの
ことだったんじゃないかしら(遠い目
これはつまり、温度が高くなれば吸熱する方に平衡状態が移動する、ってことなんですが
今もそんな風に教えられているのかな

エントロピーはどこに入り込んでくるのでしょう
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  • 2014/11/27(木) 18:42:47
寒くなってきまして、わたしも暖房を入れたりするわけで
こたつがあれば良いのですが、部屋が狭いのでエアコンにしています

部屋を暖めるのに、電気ストーブとエアコン、どちらが暖かくなるかといえば
当然エアコンであるように思えます
第一、電気ストーブよりエアコンの方が消費電力が大きいし

しかしもし同じ電力を消費するとするなら、暖房能力は同じかというと
そうではないわけです
エアコンの暖房能力の方が電気ストーブのそれの何倍も大きい

それはどうしてか

電気ストーブというのは電気エネルギーを熱エネルギーに直接変換して
暖房してるわけですけど、エアコンの仕組みはそうではありません
エアコンというのは熱を発生させる機械ではなく、熱を移動させる機械、
なわけです

暖房運転の場合、移動させるエネルギー量は消費されるエネルギー量の
何倍にもなります

わりとすごい技術なんです
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  • 2014/11/29(土) 20:16:47
世界は情報の流れ、なのか

わたしの住んでいるアパートに無線RANを導入することになったようで
近々工事が行われるとの連絡がありました
どんな設備をチョイスするのが適当なのか
ネット環境の変化に私はついていけてません

もう多分、この空気中にうじゃうじゃと電波がひしめき合っているはずです
しかし幸いにも私の身体はその情報をキャッチすることはありません
何も見えないし、聞こえないし、感じない

ルーターが無かったら、飛び交う電波は、ただ無為に飛んでいるだけであり
出力装置が無ければ、電波の内容は世界に現れることは無いままに、やがて消えていくことになる

素朴にはどうってことのないのに
考えすぎると頭がおかしくなりそう
そんな話ってありますね
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  • 2014/11/29(土) 20:23:52
一部の哲学者は、無人島で木が倒れても音はしない、と大まじめに主張しますが
『音というのは“個人的主観に限定された事件”であるから、それ以上のことではありえない。』
という強力が信念がこの主張を支えている、のかな

ルーターが無い場所での電波信号
無人島での音波
それほど役割に大差があるようにも思えませんが

人間が居ることの、何がそれほど決定的なのでしょうか
だって、その人間は私でも貴方でもなくって良いのでしょ
誰でも良いから人間が居さえすれば良いってこと?

我々が人間というものにこだわる、その理由はどこに書かれているのでしょう
ひょっとして探しても何にも無いのでしょうか
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  • 2014/11/30(日) 20:02:44
電気コンロなんかを使っていて、スイッチを切らずにコンセントをいきなり抜くと
プラグから火花が飛んだりしますが、なんでそんなことになるか、その理由(わけ)は
流れている電流は流れ続けようとする性質があるから、だそうです

そうである理由もまたあるわけですけど

理由の理由の理由・・・
終点はあるのでしょうか
わたしはあるように思ってますが
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  • 2014/11/30(日) 20:18:45
ゴキブリに心はあるのか

そんな話をしてますと、よく
人間だって他人に心があることを証明できないでしょ
なんてことが非常な説得力を持って言われたりします
しかし本当は、自分に心があることだって証明することなどできないのです

証明できなくたって自明じゃん

自明という便利すぎる言葉は、どのような条件の下に、どこまでの責任を
負うことが可能なのでしょう

・・やっぱり終点なんか無いのか
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  • 2014/12/03(水) 20:56:57
電気ストーブを付けますと、ブォーンと音がしますが
これは電流が交流であることによってコイルの磁場が交番的に反転し
振動が生じるから

このように説明が可能です

ある説明が必要十分であるかどうかは、それによって納得できるかどうか
という結果として主観論でしか計れない・・・?
主観が終点ということ?
しかしどうして納得できるのか
それはその説明に違和感が無いから

違和感が無いのは、多くの知識との摩擦を起こさないから
摩擦を起こさないのは、辻褄が合っていて
つまり論理的ってこと

客観化する努力はわりと可能なようです
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  • 2014/12/05(金) 16:58:14
意識と観察

シュレディンガーの猫は、『科学は気になるが哲学の方が好き』な人にとって
いまだに良いおかずとなっているようです

観測されるまでは決まらない、そのことは
ふたを開けて誰かが見るまで決まらない、なんてことを全く意味しません
だいたい、観測がなされるその瞬間を人間がじっと見てるなんてことは、
いまや多くはありません
“観測装置”が“記録”という状態を成す、そのことが観測なのであって
また、その状態になったなら、観測された内容を『いつだれが見ても』
同じ内容であるようなものを、観測結果と言うわけです
人間はいつ見ても良いし、誰が見ても良いわけです
そうでなければ科学など成り立たない

意識に上るまでは重ね合わせの状態にあるのではなく、
観測という状態を引き起こすと想定されるモデルについて、『その理解のために』
重ね合わせという概念がある程度有効に機能する、と
そういうことであるはずです

しかし、こんなことをここでどれだけ叫ぼうとも、誰の耳にも届きません
以前は、どうしてなんだとか思いましたが、最近は届かないことにこそ問題が
転がっているのかな、なんて思うように・・・いやいやまさか
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  • 2014/12/05(金) 17:26:13
シュレディンガーの猫の話で言うのなら
蓋を開けるのを100年間待ちました
蓋を開けたら白骨化した猫がおりました

猫が死んだのは蓋を開けたとき?
そんなはずないでしょ
とっくに死んでいる

どれだけ「意識」を特別視したいと思っても
辻褄が合ってないよう話はどうにもならんのです
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  • 2014/12/09(火) 18:48:04
『ちゃんと理解している』って

量子論を扱うサイトに顕著に見られる台詞で
「このような人は量子論の本質をちゃんと理解していないのです(キリッ」
なんて言われたりして、ドキッとすることがあります
私も『ちゃんと理解しよう』と努力してるわけですが
どうしてこんなことになるのでしょう

そうかと思えば、ネットで論争すると
「こいつこんなことも分からんのか」
と私の方がいらついたり

「ちゃんと」って難しい
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  • 2014/12/09(火) 19:00:37
構造って

構造主義という言葉が気になって少し調べてみたのですが
どういう立場なのか、どうにもピンと来ません

実体を否定するのが目的なのか
意味内容は関係に解消される、と言いたいのか
個別的物語よりも物語の普遍性を抽出しようとする運動をいうのか
どうにも分からず

結局分かったのは、ソシュールとかレヴィ=ストロースとか
そのあたりがこの話にまつわるビッグネームだと、
そういうことだけでした
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  • 2014/12/09(火) 20:48:33
工学に於いても構造力学というのがありますが
構造力学と構造主義はあまり似ていません

解析力学というのもあります
これはなんとなく構造主義っぽくはあります
それは、焦点が個別的局所的ではなく、大局的全体的である
という意味に於いてです
解析力学はニュートン力学から演繹されるものではありませんが
得られる結果は等価であるようです
利便性に於いてニュートン力学よりも有利な点も多いようです

構造主義はそこまでの成功しているようにも見えませんが
まだ可能性はあるのでしょうか
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  • 2014/12/09(火) 21:12:59
大局って

運動エネルギー保存則はニュートン力学から演繹されます
エネルギー保存則というのは、物質の振る舞いが法則に支配される
そのことを言っているわけです

しかし考えてみれば、個々の素粒子にとって「法則」なんか知ったこっちゃありません
素粒子は己の固有の性能を発揮すべく好きなように振る舞おうとしている
言ってしまうなら、物質は自分で勝手に動いているのです
だがその勝手な動きを押さえつけるものがある
全体を規格化する究極の縛りが、エネルギー保存則という得たいの知れない枠だと
そのように思考の転換を図ることは、さほど困難なことではない

とほざいてみても、そこから新しい方法論が生まれるわけでも
ないのですが・・・いやいやどうもいかんね
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  • 2014/12/11(木) 19:22:16
関係って

哲学なんかを齧りますと、「存在の本質は関係である」
みたいなことを口走りたくなるわけですが、しかし関係という言葉によって
その人が、自分自身本当に何を言いたいのか、を見つめることができているか
については全く怪しいといいますか、おそらくまるで考えてないだろうと
経験的には推察されるわけで
まあ「関係」という言葉に“おまかせ”しているわけです

言葉っておかしなもので、発信されてしまうとその後
どう受信されるのかを規定できるルールが無いのです
なぜなら規定できるルールは言葉によって構成されるからです
ほとんど神頼みなわけです
逆に、無頓着に発信された言葉が真面目に受け取られたりも
するわけで、どうして真面目に受け取られるかと言えば・・・

それはともかく、関係ですが
関係という言葉で連想されるイメージってのは、概念と概念を
線で結んだような感じではないでしょうか
そういうイメージありませんか?
このイメージが形成されることにも
それなりの理由があるわけでしょうけど、しかしこんなイメージは
煮ても焼いても食えないのです

関係とは概念と概念の間の量的な比率である、そうなって初めて
関係を関係として扱うことが可能となるわけです

いやこれは言葉狩りが過ぎました
わたしとあの人との関係は?
親子です
あれ、量は関係ないじゃん
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  • 2014/12/11(木) 19:48:26
概念って

第一義的には「イメージ」ということなんですけど
イメージというのは、それがどれだけぼんやりしていても
『特定』なものなのです
イメージというのは言葉と概念を結びつけるための“仮止め器具”
というか、海に浮かぶブイのようなものでしかない、と思われます
意識にとって暫定的に維持できる何ものかが結果としてイメージとして理解される

これが概念となるためには、言葉として運用される必要があります
言葉が運用されることで世界の枠組みが形成されます
しかしこれは、言語の形式的な構造によるものではありません
文法をいくら分析しても世界が構成される仕組みは見いだせません

言葉を運用することで世界が構成される仕組みは分かりません
ゆえにそれをコンピュータに教えることもできません
もしその方法論が分かったなら、人工知能は概念に相当する
なにごとかを獲得し、そのとき初めて人類にとって驚異となるわけで、
それまでは心配しなくても良いとわたしは思いますが
どうなんでしょう
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  • 2014/12/12(金) 22:38:43
自由意志

決定論と自由意志が両立することの理屈があって
それはつまり自分で考えたことが実行できるのだから
これは『脳(精神)→身体』の因果関係の正しさを示している
だいたいそんな理屈なわけです(自己コントロール)
しかしこれは素朴な主観を根拠にしています
つまり、自覚的に知られる内容に沿って因果関係が成立している
そんな確信に依っているわけです

しかし「考えたように体が動く」という感覚が、体が動いた結果として
体が動いた後に遡及して成立するのだとすれば、身体を支配する意志として
自由意志は全くの錯覚として片づいてしまうことになる

実際、脳科学や認知科学によって、意識的な意志が成立する前に
身体の方が動いているという結果が得られている、ようです

「意志による自己コントロール」なんてそもそもが茶番かもしれない
自覚的な意志は行為がなされるその現場に参加も同期もしていない
例の戸田山氏の本からはその可能性がすっぽりと抜け落ちて
素朴に「気の持ちようを変える」的な言葉遊びと概念転換に終始している
ように思えましたが、これはわたしの読みが足りませんかね
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  • 2014/12/12(金) 22:52:14
一年ぶりに映画を見てきました
インターステラー

退屈はしませんでしたが
なんだかよく分かりませんでした

たまには映画もいい
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  • 2014/12/17(水) 19:23:28
100個の素数のうちの2つを選らんで掛け合わせた数の
可能な個数は・・・・4950個・・かな?

約50倍

素数を探すのって大変らしい
お絵かきランド
フリックゾンビ
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