facebook twitter hatena line google mixi email
★お気に入り追加


■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

  • 1
  •  
  • 2009/07/26(日) 14:31:27


相争う哲学的見解を越え、

さとりに至る決定に達し、

道を得ている人は、

「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、

犀の角のようにただ独り歩め。

『スッタニパータ』55

ここまで見た
  • 176
  •  
  • 2009/11/02(月) 11:12:14
修行する比丘たちに、恐怖感が起こったら、
たちまち仏陀を念ぜよ。
また、法を念ぜよ。
また、僧を念ぜよ。
恐怖感は確実に消え失せる。
なぜなら、仏陀は不貪不瞋不癡であり、
怯えることは全くないからである。  「サンユッタ・ニカーヤ」

ここまで見た
  • 177
  •  
  • 2009/11/09(月) 17:31:38


観音薩埵の 冠に

やどれる相いとたえに

悪魔・外道もくじきます

阿弥陀ほとけをおがまなん


『十二礼』

ここまで見た
  • 178
  •  
  • 2009/11/23(月) 06:26:41

善を為すのを急げ。
悪から心を退けよ。
善を為すのにノロノロしたら、
心は悪事を楽しむ。

《ダンマパダ》

ここまで見た
  • 179
  •  
  • 2009/11/23(月) 17:02:17
般若

ここまで見た
  • 180
  •  
  • 2009/12/15(火) 05:38:49

罪がないのに罵られ、

なぐられ、

拘禁されるのを堪え忍び、

忍耐の力あり、

心の猛き人、

かれをわたくしは

<バラモン>と呼ぶ。

『スッタニパータ』

ここまで見た
  • 181
  •  
  • 2009/12/16(水) 05:08:40
止まる所から執着の心がおこり
輪廻もここからおこる。

花紅葉を見れば花紅葉を
見る心は生じるけれど
そこに心が止まらないことが
大切である。

『不動智神妙録』

ここまで見た
  • 182
  •  
  • 2009/12/18(金) 05:29:22
たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果て
しない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、
海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころを
こめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しと
げ、どのような願でも満たされないことはないであろう

『大無量寿経』

ここまで見た
  • 183
  •  
  • 2009/12/18(金) 05:37:18
世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起しました。
どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説きください。
わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを
選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいので
す。どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷
いと苦しみのもとを除かせてください

『大無量寿経』

ここまで見た
  • 184
  •  
  • 2009/12/21(月) 12:42:48

この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。
惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。
生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。
実に生ある者どもの定めは、この通りである。

『スッタニパータ』

ここまで見た
  • 185
  •  
  • 2010/01/11(月) 01:38:31
カッパ師が清らかな行いを行って達成しようとした目的は、かれにとって空しかったのでしょうか?
かれは、消え滅びたのでしょうか? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか? 
かれはどのように解脱したのでしょうか、──わたくしたちはそれを聞きたいのです。」

師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。
長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである」五人の修行者の最上者であった尊き師は
そのように語られた。

『スッタニパータ』

ここまで見た
  • 186
  •  
  • 2010/01/12(火) 18:51:06

戦場の像が、弓から射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、

我は人のそしりを忍ぼう。

多くの人は実に性質が悪いからである。

「法句経」

ここまで見た
  • 187
  •  
  • 2010/01/12(火) 22:08:55
おっす!オラゴクウ

「ドラゴンボール」



ここまで見た
  • 188
  •  
  • 2010/01/14(木) 00:16:12
「我が命我が物と思わず 

武門の儀、あくまで陰にて 己の器量伏し、

ご下命いかにても果すべし 

尚、 死して屍拾う者なし 死して屍拾う者なし」


『隠密同心 心得の条』

ここまで見た
阿含宗桐山教祖の逮捕歴

昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署

十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署

二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課

二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪


ここまで見た
  • 190
  •  
  • 2010/02/01(月) 17:32:10
Lil' Rin, on December 17th, 2006 at 10:27 pm Said:

I used to be a gangstalker and I am so ashamed to admit that.
It was terrible, and I am so sorry for those I hurt.


173 、 以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、
その人はこの世の中を照らす。___雲を離れた月のように。

Dammapaddha

ここまで見た
  • 191
  •  
  • 2010/02/02(火) 11:47:40
世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。
それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。

SuttaNipāta

ここまで見た
  • 192
  •  
  • 2010/02/02(火) 17:02:14
 世の中には法令に定められた牢獄があるのに、少しも恐れないで
悪い行いをし、罪を犯しその刑罰を受ける。それをどれほど逃れ
たいと思っても、逃れることはできない。この世にも現にこのよう
な苦痛がある。さらに命を終えて後の世には、ひときわ深く激しい
苦痛を受けなければならない。苦しみの世界に生れ変ることは、こ
の世界でもっともきびしい刑罰を受けるのと同じほどの苦痛である。

無量寿経

ここまで見た
  • 193
  •  
  • 2010/02/02(火) 17:03:57
 
>>190
 このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜
生の世界で、はかり知れない苦しみを受ける。次々とその身を変え
姿を変えて苦しみの世界をめぐり、長短の寿命を受けるのであって
そのこころはおのずから行くべきところに行くのである。そしてた
とえひとりで行っても、前世に憎みあったもの同士は同じところに
生れあわせ、かわるがわる報復しあって尽きることがなく、犯した
罪が消えない限り、互いに離れることができない。

無量寿経

ここまで見た
  • 194
  •  
  • 2010/02/02(火) 17:05:37
>>190
こうして地獄や
餓鬼や畜生の世界を転々とめぐって、浮かび出るときがなく、その苦
しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことが
できない。世の中にはこのような因果の道理がある。たとえ善悪の
行いによって、すぐにその結果が現れなくても、いつかは必ずその
報いを受けなければならない。これを第一の大悪、第一の痛、第一
の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれ
るようである。

無量寿経

ここまで見た
  • 195
  •  
  • 2010/02/02(火) 17:17:44
シャーリプトラよ、そなたはどう思うか。なぜその仏を阿弥陀と申しあげるのだろうか。
シャーリプトラよ、その仏の光明には限りがなく、すべての国々を照らし、
何ものにもさまたげられることがない。それで阿弥陀と申しあげるのである。

またシャーリプトラよ、その仏の寿命とその国の人々の寿命もともに限りがなく、
実にはかり知れないほど長い。それで阿弥陀と申しあげるのである。
シャーリプトラよ、この阿弥陀仏が仏になられてから、
今日まですでに十劫という長い時が過ぎている。

またシャーリプトラよ、その仏のもとには数限りない声聞の弟子たちがいて、
みな阿羅漢のさとりを得ている。その数の多いことは、とても数え尽すことができない。
また菩薩たちの数もそれと同じく、数え尽すことができない。

シャーリプトラよ、阿弥陀仏の国はこのようなうるわしいすがたをそなえているのである。


『佛説阿彌陀經』

ここまで見た
  • 196
  •  
  • 2010/02/04(木) 15:24:35
>>190
116 怒りやすく恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、
たくらみのある人、──かれを賤しい人であると知れ。

117 一度生まれたものを(胎生)でも、二度生まれるもの(卵生)でも、この世で生きものを害し、
生きものに対するあわれみのない人、──かれを賤しい人であると知れ。

119 村にあっても、林にあっても、他人の所有物( & 個人情報)をば、与えられないのに
盗み心をもって取る人、──かれを賤しい人であると知れ。

122 証人として尋ねられたとき、自分のために、他人のため、また財のために、偽りを語る人、
──かれを賤しい人であると知れ。

126 相手の利益となることを問われたのに不利益を教え、隠し事をして語る人、
──かれを賤しい人であると知れ。

127 悪事を行なっておきながら、『誰もわたしのしたことを知らないように』と望み、
隠し事をする人、──かれを賤しい人であると知れ。

131 この世に迷妄に覆われ、わずかの物が欲しくて、事実でないことを語る人
──かれを賤しい人と知れ。

132 自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、
──かれを賤しい人であると知れ。

133 人を悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、
──かれを賤しい人であると知れ。

「スッタニパータ」

ここまで見た
  • 197
  •  
  • 2010/02/06(土) 06:50:50
>>194
661 嘘を言う人は地獄に堕ちる。また実際にしておきながら
「わたしはしませんでした」という人も同じ。両者とも行為の卑劣な人であり、
死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に堕ちる)。

666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ず戻ってきて、(業をつくった)
主がそれを受ける。愚者は罪を犯して来世にあっては、その身に苦しみを受ける。

スッタニパータ


ここまで見た
  • 198
  •  
  • 2010/02/10(水) 17:13:45

怒りを捨てよ。

慢心を除き去れ。

いかなる束縛をも超越せよ。

名称と形態とにこだわらず、

無一物となった者は、

苦悩に追われることがない。

「法句経」

ここまで見た
  • 199
  •  
  • 2010/02/10(水) 18:40:17
(色川たけひろ,浅田哲也)の小説だったか随筆に在った文章の一節。
<助けて給べや 御僧 たすけてたべや おんそう云々>という 箇所が
恐ろしかったですね。
どなたか詳細をご指摘できる方は居られませんか?歌舞伎か謡曲かなと思いますが。

ここまで見た
  • 200
  •  
  • 2010/02/16(火) 11:40:04
このように、わたしによって聞かれた。
あるとき、世尊はヴァーラーナスィーの鹿野苑におられた。
そのとき、世尊は五人の比丘たちに告げて、このようにいわれた。
「比丘たちよ、このように知るべきである。 肉体は自己[のもの]ではない。
もし[肉体が]自己[のもの]であるならば、 肉体は、病むことなく、苦痛を受けることもない。
私がこのようになってほしいと思おうと わたしがこのようになってほしくないと思おうと
そのようにならず[病み、苦痛を受け]、その欲するところに従うことはない。
それゆえ、このように知るべきである。 肉体は自己[のもの]ではない。
感覚、想念、志向、識別作用(心のはたらき)も同様である。

仏説五蘊皆空経

ここまで見た
  • 201
  •  
  • 2010/02/18(木) 04:35:03
船に乗り、陸の見えない海原へ辿り着き、四方を見廻したとき。
海はただ、果てしなく丸く円いものとしか見られない。
しかし、大海はただ丸いものにはあらず、ただ四角いものにもあらず、
海の姿象様相は無限に尽くしきれぬものであり、それは私たちの眼力を超えている。
それらは宮殿や瓔珞のように見事にあり続ける。
しかし我々の目には、ただ丸いとしか映っていない。

全ての存在・非存在のありさまはこのように言える。一塵のなかに万象があり、形なきものにも千変がある。
修証に修証を重ね、眼力の及ぶ限り見なくてはならない、及ぶ限り会得しなくてはならない。
知ろうとする人に言おう。ものが方円と見える時にも、そのものの姿形と作用は思量の及ばぬ無限の働きを有する。
四方や十方の世界はそのようにして成り立っている。
君から遠い世界はそのようにある、君の近くの世界はそのようにある、君自身はそのようにある。



 正法眼蔵 第一、現成公案。

ここまで見た
  • 202
  •  
  • 2010/02/27(土) 12:32:25

依りかかることのない人は、

理法を知ってこだわることがないのである。

彼には、生存の断滅のための妄執も存在しない。

『スッタニパータ856』

ここまで見た
  • 203
  •  
  • 2010/03/05(金) 18:16:34

この容色は衰えはてた。

病いの巣であり、脆くも滅びる。

腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。

生命は死に帰着する。

『法句経』

ここまで見た
  • 204
  •  
  • 2010/03/08(月) 10:47:02
「婆羅門よ、己自身で確かめたことか?善なる徳を積まんと、五柱を立てるべしと」
「否、確かめず。書かれている通りなり。」
「婆羅門よ、汝の師が、確かめたことか?善なる徳を積まんと、五柱を立てるべしと。」
「否、確かめず。書かれている通りなり。」
「婆羅門よ、汝の師の師が、確かめたことか?善なる徳を積まんと、五柱を立てるべしと。」
「否、確かめず。書かれている通りなり。」

「即、汝は確かめず。誰も確かめない。汝は信じ込み、思い込みのみ。
汝ら、法を修せず。法に治められるのみ。」

「前の人は見えているだろうと思い込み、盲人が列に並ぶようなもの。」
いずれ前の人も見えていないと思い知る。」


「スヴァ・スッタ」

ここまで見た
  • 205
  •  
  • 2010/03/17(水) 13:28:17

gate gate paragate parasamgate bodhi svaha
ガーテー ガーテー パーラガーテー パーラサンガーテー ボーディー スヴァハー

般若心経真言

ここまで見た
  • 206
  •  
  • 2010/03/17(水) 23:29:03
1070
「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、
『何も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。

諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、
妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

スッタニパータ

ここまで見た
  • 207
  •  
  • 2010/03/25(木) 15:38:20
さらに釈尊が言葉をお続けになる。

  「 第四の悪とは次のようである。世間の人々は善い行いをしよう
とせず、互いに次々と人をそそのかして、さまざまな悪を犯してい
る。二枚舌を使い、人の悪口をいい、嘘をつき、言葉を飾りへつ
らって、人を傷つけ争いを起すのである。

 あるいは善人をねたみ賢いものをおとしめて、自分は陰にまわっ
て喜んでいる。また両親に孝行をせず、恩師や先輩を軽んじ、友人
に信用なく、何ごとにも誠実さを欠いている。しかも自分自身は尊
大に構えて、自分ひとりが正しいと思い、むやみに威張って人を侮
り、自分の誤りを知らずに、悪を犯して恥じることがない。また自
分の力を誇って、人が敬い恐れることを望むというありさまである。

 このような人々は天地の神々や太陽や月に知られることを恐れず、
教え導いても善い行いをせず、まったく手の施しようがない。自身
は横着を決めこんで、いつまでもそうしていられると思い、将来を
憂えることなどなく、いつも傲慢な心をいだいているのである・・・

無量寿経 第三十八

ここまで見た
  • 208
  •  
  • 2010/03/25(木) 15:40:07
このようなさまざまな悪は天の神によって残らず記録される。だ
から、その人が前世で少しばかり功徳を積んでいたことにより、し
ばらくの間はそのおかげで都合よくいくとしても、この世で悪を犯
して功徳が尽きてしまえば、多くの善鬼神に見放され、ひとりきり
となり、もはや何一つ頼るものがなくなってしまう。そうして寿命
が尽きると、これまでに犯したさまざまな悪がおのずからその身に
集まってきて、その人とともに次の世に至る。また天の神がその行
いをすべて記録しているから、その罪に引かれて行くべきところへ
行くのである。罪の報いは必然の道理で、決して逃れることができ
ない。やがては必ず地獄の釜に入って、身も心も粉々に砕かれて痛
み苦しむことになる。そのときになってどのように後悔しても、も
はや取り返しはつかない。まことに因果の道理は必然であって、少
しのくい違いもないのである。

無量寿経 第三十八

ここまで見た
  • 209
  •  
  • 2010/03/31(水) 17:37:52
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。
シャーリプトラよ、深遠な智慧の完成を実践するときには、求道者はこのように学ぶべきである」と。
そのとき、世尊は、かの瞑想より起きて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラに賛意を表された。
「その通りだ、その通りだ、立派な若者よ、まさにその通りだ、立派な若者よ。
深い智慧の完成を実践するときには、そのように行われなければならないのだ。
あなたによって説かれたその通りに目覚めた人々・尊敬さるべき人々は喜び受け入れるであろう。」と。
世尊はよろこびに満ちた心でこのように言われた。
長老シャーリプトラ、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラ、一切の会衆、
および神々や人間やアスラやガンダルヴァたちを含む世界のものたちは、
世尊の言葉に歓喜したのであった。
ここに、智慧の完成の心という経典を終る。

『大本般若心経』

ここまで見た
  • 210
  •  
  • 2010/04/11(日) 12:06:52

道に適した至人しいじんは常に心気を下半身に充実せしめる。
心気が下半身に充実している時は、
喜・怒・憂・思・悲・驚・恐の
七情による病が内に動くことなく、
風・寒・暑・湿の四つがもたらす邪気も外より窺うことを得ない。
体の備えは充分となり、心神すこやかである。
口は薬の甘いも酸いも知らず、
身はついに鍼や灸の痛痒を受けない。

「夜船閑話」

ここまで見た
  • 211
  •  
  • 2010/04/15(木) 17:22:26
天下は平和になり
月日は明るく輝き
風や雨はほどよく
災害厄病はおこらず
国豊かに人安らかに
軍隊兵器無用となり
徳をあがめ仁を尊び
礼節を大切にする

無量寿経

ここまで見た
  • 212
  •  
  • 2010/05/14(金) 17:58:53

無相ののおもいを修せよ。

心にひそむ傲慢をすてよ。

そうすれば汝は傲慢をほろぼして、

心静まったものとして日を送るであろう。

経集

ここまで見た
  • 213
  •  
  • 2010/05/23(日) 12:45:43

無念無相一念不生と云は、
念をやめ、
妄想をのぞいて、
木石の如くなるを、
無念無想と云うには非ず


『瑩山禅師法語』

ここまで見た
  • 214
  •  
  • 2010/06/14(月) 05:27:28
ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。

ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。

ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。

ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。

ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。

ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。

「ダンマパダ」

ここまで見た
  • 215
  •  
  • 2010/06/19(土) 11:26:43
 世で言われるのは、仏道は修して悟るものだということだが、勘違いするな!
もし修して得るものがあるなら、そりゃすべて生死流転の業じゃ!
六度万行すべて修するなどとキミたちは言うが、わしから見りゃそんなもんすべて業づくりじゃ!
仏を求め、法を求めるのも、すなわち地獄へ落ちる業づくりじゃ!
菩薩を求めるのも業づくり。経典を読むのも業づくり。仏と祖師は無事の人だ。
だから煩悩の迷いと、煩悩を絶って得た悟りも清浄の業づくりに他ならん。
 世には盲人僧侶どもがおって、飽きるまで飯を食ってから、さて坐禅観行にとりかかって、
雑念妄想の漏れを押さえ込んで起こらないようにし、喧騒を嫌い、静けさを求めるが、
こんなんは外道のやり方じゃぞ!祖師は言った『もし心住して静けさを求めたり、
心を奮って外を照らしたり、心を収めて内面を澄ませたり、心を凝らして禅定に入ったりするなら、
これらの類はすべて無用な造作だ。』と。

『臨済録』

ここまで見た
  • 216
  •  
  • 2010/06/29(火) 01:36:08
わたしから哲学を学ぶな、哲学する事を学べ

イマヌエル・カント

ここまで見た
  • 217
  • 2010/09/24(金) 04:25:21
舎利弗よ、そなたはどう思うか。なぜその仏を阿弥陀と申し上げるのだろうか。

舎利弗よ、その仏の光明には限りがなく、すべての国々を照らして何ものにも妨げられることはない。
それで阿弥陀と申し上げているのである。

また舎利弗よ、その仏の寿命とその国の人々の寿命もともに限りがなく、
実に計り知れないほど長い。それで阿弥陀と申し上げるのである。
舎利弗よ、この阿弥陀が仏になられてから、今日まですでに十劫という長い時が過ぎている。

また」舎利弗よ、その仏のもとには数限りない声聞の弟子たちがいて、みな阿羅漢の悟りを得ている。
その数の多いことは、とても数え尽くすことができない。また菩薩たちの数もそれと同じく、
数え尽くすことができない。

舎利弗よ、阿弥陀仏の国はこのようなうるわしい姿を備えているのである。


仏説阿弥陀経

ここまで見た
  • 218
  • 真言・念仏・禅は謗法邪宗
  • 2010/10/17(日) 21:05:56
(よく誤解されるのでことわっておきますが、私はどの宗教団体とも関係ないです)

「真言・念仏・禅」の邪宗が多い理由。まず、邪義「真言」が、なぜ広まったのか。
それは、像法の末に伝教(最澄)が「法華経最第一」を確立した「後」に、
空海(弘法)によって伝来したからである。

つまり、天台・伝教の破折を「まぬかれている」のだ。

伝教(最澄)が南都六宗の邪義を破った後に、空海(弘法)によって伝来した真言が、
後に天台宗の人々が真言に「籠絡されていく落とし穴」となってしまった。

真言は、天台の一念三千の法を「盗み入れて」自宗の極理となし、「真言宗は天台宗と
法理の次元では同じだが、天台宗にない印と真言という事相があるから勝れている」
との邪義を立てた。その策略にかかり、天台宗を真言へとおとしめてしまったのが
比叡山第3代座主の「慈覚(円仁)」である。

伝教が一生の闘争で確立した「法華経最第一」の原則を崩し、「理同事勝」の邪義を唱え、
天台宗の真言密教化に踏み切ってしまった慈覚が、謗法の端緒を開く元凶となった。
さらに、慈覚の弟子「安然」は、禅宗を促し、「恵心」は、念仏を広める役割をした。

高徳・碩学と仰がれた慈覚が、後世の安然や恵心の邪義を引き出す呼び水になったのだ。
法をより深くむしばむ害虫は、他宗ではなく正法を護るべき天台宗の中にいた。
(よって現在の天台宗は、慈覚・安然・恵心の謗法を引継ぐ邪宗・謗法宗である)

そして、謗法に毒された人々を救うため、末法悪世の変革のために、次々と起こる
大難・迫害に命がけで戦い勝ち越えてきた、末法における妙法流布の法華経の行者が
日蓮である。謗法の人々も今は法華経を誹謗しているが、亡国・亡身の危機に直面した
とき、一切の仏寺・一切の神寺を捨てて、「南無妙法蓮華経」と唱えるようになるだろう。





ここまで見た
  • 219
  •  
  • 2010/10/28(木) 00:40:18
この世の中に、悟りの道を始めるに当たって為し難いことが二十ある。

1.貧しくて施すことは難く、
2.慢心して道を学ぶことは難く、
3.命を捨てて道を求めることは難く、
4.仏の在世に生を受けることは難く、
5.仏の教えを聞くことは難く、
6.色欲を耐え忍び諸欲を離れることは難く、
7.よいものを見て求めないことは難く、
8.権勢を持ちながら勢いを持って人に臨まないことは難く,
9.辱められて怒らないことは難く、
10.事が起きても無心であることは難く、
11.広く学び深く究めることは難く、
12.初心の人を軽んじないことは難く、
13.慢心を除くことは難く、
14.良い友を得ることは難く、
15.道を学んで悟りの入ることは難く、
16.外界の環境に影響されないことは難く、
17.相手の能力を知って教えを説くことは難く、
18.心をいつも平らかに保つことは難く
19.是非をあげつらわないことは難く、
20良い手段を学び知ることは難い。

ここまで見た
  • 220
  •  
  • 2010/11/05(金) 02:35:28
妙法蓮華径 観世音菩薩普門品第二十五 観音経 リミックスバージョン

http://www.youtube.com/watch?v=HakgMDrDiwg



ここまで見た
私は何も隠さず、老師のところへ行った。
老師は「わしは十二指腸潰瘍を取っとるんで、起きれん」と。
で、「あんたが敬宗君か。臨済の修行はほとんど済んどるそうなけど、じゃ聞くが、仏教は滅か不滅か」と。
「老師、仏教というものはどこにあるんですか」
「ほう、あんたそれを知っとるか」
「いや、知りません」
「知らんのに、なぜ仏教と言うた」
「ここへ寝ておるあなた何ですか」
「わしは玄魯だ」
「わたし敬宗です。(良久)老師、私聞きますけど、臨済のやっておることは、こことここと、言葉で言うことと動くことと、この四つ以外には何もないじゃないか」とこう言うた。
「ほう、どうしてそこが分かった!」
「四料揀、五位、十重禁戒を全部やってみて分かった。老師、これで修行が出来たなんて大嘘や。聞きますが、老師、どこをどう得たら、人間として自分自身を、今、生きることを知っているんでしょうか」と言うた。そしたら
「そこまで追い詰めとるか」と。
「それだからこそ、どこかに誰かおらんかと探しよったら、あなたがおった。だから、あなたに習うこともない」と言うたら、
「待て! おれもおまえに教えることは何もないんだ! だが、教えることはないが、お前を出せ」とこう来た。「偽りのないお前を出して来い」と。
私がそこで偽りを言うことをして、自分を自分でごまかすんだったら、ごまかしたかも知れない。が、
「ここが、胸先三寸(パンッパンッパンッ)が、どうにもならんから、これだけで困っとるから、来たんです」と。
「よくごまかさずに、嘘を言わずに来た。よし、これをやるのには、ここから聞いたら、こっちに出しなさい。こう持って行って、
こう持って来たら、だめだよ。ここで『おいっ』と言ったことを『何のために』と、ここへ持って来て『ああ、敬宗が呼ばれておるんだな』と。
それは作った世界だ。だから、ここから聞いたら、すっと逃がしなさい。目に触れても、そのままにしなさい。業識はそのまんまで、知と意で扱いさえしなければ、
いつでもゼロのはずである。そのこと、それを教えておる」とこう来た。
その時はちょうど竜巣院が開単だったからね。広島のおばあさんが来たり、大学の先生や偉い人が沢山おった。
「ああ、これが臨済禅の、あの東福の管長さんについた敬宗さんじゃ」
「ああ、そうですか」

ここまで見た
水野先生なんかも笑うたよ、わしを―「ああ臨済坊主は大したことはないな」
笑われてもかまわん、おれは自分のことをしに来たんだから。坊主になって、お師家さんになろうとか何とかじゃない。
自分が自分の、ここをどうするかで来とるんだから。この人らは話を聴いて楽しんでおるけども、話を聴いても、
老師と同じようにならなければ、どうにもならない。だから私は話を聴かない。
 それから一カ月くらいやったね。八月十五日の晩に、下に大学の農学部の先生がおって、そこへ行って点心をよばれた。
そして玄関を出た途端に、お月さんが、「ハアッ」。
もう何にも見えない。もうそれだけ。
「思い詰めたんかもわからん。ちょっとなんかなるんとちがうんかいな」と思うた。それからつめってみたけど間違いない。
「ほほお。応に住する処無うして−すぐそういう言葉が出るのね、臨済におったから−応に住する処無うして而もその心を生ず。
ははあっ、なるほど、ものと私というものが一つになるんじゃない。初めから一つであったんだ」と。
で、飛んで行った。知っとる者がおるかな、と思って。
ほいから、その晩から、坐ったら、もう薮がずずずっとこうなるのね。もう笹がずずっとこうなるの。

ここまで見た
  • 223
  • 青野敬宗老師語録3
  • 2010/12/02(木) 12:21:12
それから一週間、飯食わずにやったね。ホオッ、いまだ曾て経験のない世界ね。もうこの肉体というものが全然離れちゃって。
食べたいとかどうありたいとかいうことは一つも浮かんで来ない。つめってみると出る。
ノイローゼじゃないか、だけどここでは東司に行くところがない(この辺り聞き取りにくく正確ではないかも知れない)。
で、今の大学のある下の方にね、実性寺という寺があった。(それまでは実性寺で坐っていたが)そこから上へ(龍泉寺へ)上がって、
老師や奥さんに頼んで、本堂(西の室中)の床間の前へね、一週間坐った。ちょうど八月だから、
毎晩毎晩、盆踊りの稽古をやってるのね、後で聞いたら。その太鼓の音が鳴る度に、飛び上がるんよね。
それほど概念の意識が、キレーイに落ちてしもうて。概念の意識が落ちたということは、
もうそれを分別するものがキレーイにのいてしもうた。だから、いつでも空気のような状態やから、
「ボンッ」と来たら、「アッ」となるということやね。ものといつでも同化するだけの小さな芽ができつつあったんやね。
ほいで初めて、奥さんが何かで通ったら、オワーッとくさがでる(ここ意味不明)。ホオーッとそれから、
「ヨシッ!」と言って一生懸命眼(まなこ)をおっ開いて坐っとって、明け方の太鼓の音で、
「ナアーンッジャーッ!」と、うれしゅうなって、涙ボロボロ出た。それから松木の駅から可睡斎へ飛んで行って、顔を見て、
「老師!」。
「やったな!(良久)出してみい」。
「ははっ、つまらんこと言うんじゃないよ」。もう顔色が違うから。それでいろいろ「地獄極楽はどこにある」、「死んだらどうなる」。
性急な質問。何でもない。どんどん答えて行くしね。
「よくやってくれた」

ここまで見た
  • 224
  •  
  • 2010/12/28(火) 16:00:10
「呼吸を見る。私たちはいま、自分の呼吸を意識しておりません。吐く息、吸う息、吐く息、吸う息を意識して生活をして、
あるいは坐っておられる人は、いらっしゃらないと思います。そこで、禅を修行する---
修行するということは、やむを得ずですね、本当は呼吸を意識するなんていう不自由なことをしなくてもよろしいのですけれども、
修行をするということで、呼吸を意識していただきます。すなわち、吐く息、吸う息、吐く息、吸う息をよく見る、
そういう状態になっていただきたいと思います。油断なく、ひと呼吸、ひと呼吸を親切に、そして丁寧に、
真心をこめて、吐く・吸う、吐く・吸うの動作を繰り返していただきたいと思います。
そういう「呼吸を見る」、つまり意識を集中することによって、だんだんと呼吸三昧、意識三昧に
入ることができると思います。しかし、三昧ということを、まだ自分で意識している間は、
意識している自分だけが三昧の外にいるということになります。本当の三昧になれば、
三昧に入っている状態を自分で意識、あるいは認識することは、不可能なはずです。
呼吸を意識する、あるいは三昧に入っている、三昧に入ろうとする自分の意識というものは、
当然わかる。そのわかっていることが悪いのではありません。


ここまで見た
  • 225
  •  
  • 2010/12/28(火) 16:02:30
わかっているその意識を、意識によって擦(す)りつぶすような状態になっていただきたいわけです。
三昧に入る、あるいは意識によって意識を擦りつぶすということは、多少の時間が必要かもわかりませんけれども、
根気よく自分の呼吸を意識することによって、必ず三昧に入ることが可能になると思います。
一所懸命に自分の呼吸を見ていくうちに、三昧に入っていくということは、自分の呼吸を意識していることも
忘れてくるということです。忘れてくるということは、元の、呼吸を意識していない状態に戻ってくるということです。
初めての方は、非常に面倒な、複雑なことのように受け取られるかもしれませんけれども、一度ものを知って、
そして知ったその意識によって擦りつぶしていく、また一回転して元に戻る、そういうことが、禅の修行ということであります。
客観的に見れば、その人が呼吸を意識しているか、していないかなどということはわかりません。
しかし、同じ状態で、同じ生活をしておりながら、一人の人は呼吸を意識することによって道を歩み、
必ず「脱落」という境地が得られる。一方、何もしないでただ坐っている人は、そういう脱落ということがありません。
そこに天と地の相違ができてまいります。」
                   

ここまで見た
  • 226
  •  
  • 2010/12/28(火) 16:04:05
坐禅の修行でも、あるいはその他の修行でも、修行といいますと、何か自分のなかに、悪いものが、
捨ててしまわなければならないものがあるような気がしがちです。けれども、仏教ではすべてが仏性
ですから、捨てるものは何もありません

私たちはどうしても堅い壁にぶつかると、何か手段を用いてそれを打ち砕こうとします。ハンマーや
ノミで厚い壁を壊そうとする、そういう手段や策を弄している間は、この山、この壁は決して打ち砕
くことができません。では、どうしたらよいか。「銀山鉄壁そのものになりきりなさい。そのものに
なりきるには、自分を忘れきって、功夫に徹しなさい。そのこと以外に、銀山鉄壁を打ち砕くことは
できない」ということです。

ここまで見た
  • 227
  •  
  • 2011/01/04(火) 12:58:40
【原始仏教】スッタニパータ【最古の仏典】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1294074608/

お絵かきランド
フリック回転寿司
ここまで見た

★お気に入り追加

このページを共有する
facebook twitter hatena line google mixi email
おすすめワード