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  • 2009/07/26(日) 14:31:27


相争う哲学的見解を越え、

さとりに至る決定に達し、

道を得ている人は、

「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、

犀の角のようにただ独り歩め。

『スッタニパータ』55

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  • 2009/08/17(月) 05:45:43
世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。
それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することがでまるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 
『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察である。
『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察である。
このように二種の観察を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。
すなわち現世における<悟り>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」


                                        『スッタニパータ』

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  • 126
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  • 2009/08/18(火) 09:46:32

有でもなく無でもなく、一如でもなく異なるのでもなく、

生ずることもなく滅することもなく、

減ることもなく増すこともなく、

清浄となるのでもなく不浄となるのでもない、

これが第一義の相である。


『大乗荘厳経論』

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  • 2009/08/18(火) 09:49:24

これ(ブラフマンである我)は真のバラモンの永久の偉大である。

業によって増大せず、また縮小せず。

人はよろしくその足跡を追求すべきである。

これを知れば、悪業によって汚されることはない。


『ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』

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  • 128
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  • 2009/08/18(火) 09:57:26

苦中に苦を離れ楽中に楽を離る、かくの如く障碍なければ苦集滅道もなきにあらずや。

苦は苦でよし、楽は楽でよし。苦楽空相なれば苦ある時は苦に遇うてよし、

楽あるときは楽に遇うてよし、何の妨ぐることやこれあらん。


『心経決談抄』

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  • 129
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  • 2009/08/18(火) 10:27:29
あるとき、わたしは、このように聞いた。ある日のこと、比丘は、コーサラ国にある、
静かな森の中で、蓮華の香りを楽しんでいた。そこに、一人の天人が現れ、このように言った。

「池に咲いている、蓮華の香りを嗅ぐとは、生きている花の、香りを盗み取る事に等しい。
比丘よ、汝は、蓮華の香りを盗む、盗人である。」

「私は、取ってもいない、折ってもいない。どうして、わたしのことを、盗人と言えよう。
人の体面を盗もうとする、汝こそが盗人である。」

「人が囚われた物を、盗む者が盗人である。友よ、汝は、そんな物に、囚われているのか。
囚われている、憐れな者から、盗むことはない。」

この天人の警告によって、比丘は正気に戻った。

『ヴァナ・サンユッタ』

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  • 130
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  • 2009/08/19(水) 08:24:31
>>129 ちょっといみわからんな。

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  • 131
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  • 2009/08/19(水) 16:51:34
忍耐は最高の修行である【釈尊】

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  • 132
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  • 2009/08/19(水) 17:29:23
気づきを怠らないこと(不放逸)は、不死の境地である。怠ること(放逸)は、死魔の境地である。
気づきを怠らない者たちは、死ぬことがない。気づきを怠る者たち、彼らは死んだままである。
このことを「覚者の教えの一番の特質である」と知って、常に怠らないことのうちにある賢者たちは、
聖者たちの境涯に喜びある者たちであり、気づきを怠らないことに歓喜する。
彼らは、常恒の瞑想者たちであり、常に断固たる努力の者たちである。
常に気づきを怠らない慧者たちは、涅槃の境地を、束縛からの心の平安という無上の境地を、体得する。
奮起あり、気づき(念)あり、清らかな行為(業)あり、物事を真剣に為し、
また、常に自制し、法(教え)によって生き、気づきを怠らない者の福徳は、自ずと増え行く。
心の奮起と気づきを怠らないことで、あるいは、自制と調御によって、
思慮ある者は、激流が押し流さない洲を作るもの。
愚者たちは、思慮浅き人たちは、怠ることに専念する。しかしながら、思慮ある者は、
最勝の財を守るように、怠らないことに専念する。
怠ることに専念してはならない。欲望の喜悦や親愛の情に耽溺してはならない。
なぜなら、気づきを怠らない瞑想者は、最高の安楽を得るからである。


法句経

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  • 133
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  • 2009/08/19(水) 19:36:31
>>130
比丘は蓮華の花の香りに囚われている、と指摘したんでしょ。
勝れた修行者は、花の香りを楽しむこともなければ、
ウンコの臭いに顔をしかめることもない。

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  • 134
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  • 2009/08/20(木) 18:25:03
水の清く澄みきったようすをはっきりと心に想い描き、心を乱さないようにするのである。
水を想い描きおわったなら、次にその水が氷となったようすを想うがよい。
そして氷の透きとおったようすを想い描き、それが瑠璃であるという想いを起すがよい。
この想いを成しおえたなら、極楽世界の瑠璃の大地が内にも外にも透きとおり映りあうようすを
見るであろう。
その下には清らかな七つの宝で飾られた金の柱があって、瑠璃の大地をささえている。
それは八角形の柱であり、その八つの面はそれぞれ百もの宝玉で飾られている。
それぞれの宝玉は千の光にきらめき、それぞれの光にはまた八万四千の色があって、
それが瑠璃の大地に映え輝いているありさまはまるで千億もの太陽を集めたようであり、
とてもまばゆくて見ることはできない。またその極楽世界の瑠璃の大地には、
黄金の道が縦横に通じていて、しかもそれぞれの区域が七つの宝で整然と仕切られている。
その一つ一つの宝には五百の色の光があり、その光は花のようであり、また星や月のように輝き、
大空にのぼって光明の台となる。その台の上には百の宝でできた千万の楼閣がそびえている。
また台の両側には、それぞれ百億の花で飾られた幡と数限りないさまざまな楽器があり、その台を飾っている。
そしてその光の中から清らかな風がおこり、いたるところから吹き寄せてこれらの楽器を鳴らすと、
苦・空・無常・無我の教えが響きわたるのである。このように想いを描くのを水想といい、
第二の観と名づける。


『観無量寿経』

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  • 135
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  • 2009/08/20(木) 18:46:03
一切の生きとし生けるものは、
ことごとく仏性を有している。(一切衆生悉有仏性)

『大般涅槃経』


あなたがたは、自分が神の神殿であり、
神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。

『コリントの信徒への手紙3:16』

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  • 136
  • 注釈
  • 2009/08/20(木) 19:39:22
>>133

現世では、分別も必要。

だから自然の法則(本神仏)より与えられている感覚。

感性と理性の中道が、最重要。

博峰



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  • 137
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  • 2009/08/21(金) 15:50:09

もし、他者に教示するように、そのとおり、自ら実践するなら、自己が善く調御された者は、

まさに、他者を調御するであろう。なぜなら、真に調御し難きものは、まさに、自己なのだから。

まさに、自己は、自己の主。まさに、他者の誰が、主として存するというのだろう。

まさに、善く調御された自己によって、得難き主を得る。

ダンマパダ

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  • 2009/08/23(日) 05:47:26
善知識よ、外に相を離るる即ち禅、内に乱れざる即ち定なり。
外に禅、内に定なり。是れ禅定と為す。

六祖壇経


だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、
わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

コリントの信徒への手紙二4章16節

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  • 2009/08/24(月) 09:48:21
サティの実践者は、常につとめ励む。

彼らに依り所(home)はない。

白鳥が池を立ち去るように、

彼らはあの家、この家(依り所)を捨てる。

法句経

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  • 2009/08/24(月) 10:08:50
「アーナンダよ、昔にしても、今にしても、確かに、わたしは、空の境地に止まっている。アーナンダよ、汝に、空について、私は説こう。」
「たとえば、己の心を、天空に広げて行く。そのとき、山が消え、川が消え、森が消えて、次第に、心が空っぽになり、観念が消えていく。」
「そして、いよいよ、心が天と合一すると、そのときは、心の中に、天の観念だけがあり、それ以外について、あらゆる観念が、空になる。」
「たとえば、己の心を、大地に広げて行く。そのとき、山が消え、川が消え、森が消えて、次第に、心が空っぽになり、観念が消えていく。」
「そして、いよいよ、心が地と合一すると、そのときは、心の中に、地の観念だけがあり、それ以外について、あらゆる観念が、空になる。」
「すなわち、己の心を、Aに広げて行くと、そのとき、Bが消え、Cが消え、Dが消えて、次第に、心が空っぽになり、非Aが消えていく。」
「そして、いよいよ、心がAと合一すると、そのときは、心の中に、Aの観念だけがあり、非Aが消えて、Aも消えて、すべてが空になる。」

空小経

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  • 2009/08/27(木) 06:21:17
あるとき、わたしは、このように聞いた。
ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、ジェータ林にある、アナータピンディカ園で、ウパヴァーナに向かって、このように説かれた。

「ウパヴァーナよ、現生なる法とは、何か。眼を以って色を感じ、我が中に貪りを観じる。
これこそ、涅槃に導く、良く知るべき法である。」

「ウパヴァーナよ、現生なる法とは、何か。耳を以って声を感じ、我が中に貪りを観じる。
これこそ、涅槃に導く、良く知るべき法である。」

「ウパヴァーナよ、現生なる法とは、何か。鼻を以って香を感じ、我が中に貪りを観じる。
これこそ、涅槃に導く、良く知るべき法である。」

「ウパヴァーナよ、現生なる法とは、何か。舌を以って味を感じ、我が中に貪りを観じる。
これこそ、涅槃に導く、良く知るべき法である。」

「ウパヴァーナよ、現生なる法とは、何か。
身を以って触を感じ、我が中に貪りを観じる。
これこそ、涅槃に導く、良く知るべき法である。」

「ウパヴァーナよ、現生なる法とは、何か。意を以って法を感じ、我が中に貪りを観じる。
これこそ、涅槃に導く、良く知るべき法である。」

『六処相応』

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  • 2009/08/27(木) 11:30:35
光顔巍巍 威神無極 如是焔明 無与等者

人は自分の存在を認めて欲しいものである。
自分がいないとダメだと思えるから頑張れる。
日々忙しく充実する人は誰しも顔が光り輝いている

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  • 2009/08/28(金) 05:40:25

鞭を入れた賢馬のように、熱情ある者たちとして、

無常の現実を畏怖する者たちとして、世に有るように。

信と戒と精進によって、心の統一(定:三昧の境地)と法(真理)の判別によって、

あなたたちは明知と行ないを成就した気づきの者たちとして、

この、少なからざる苦しみを捨て去るであろう。


『法句経(ダンマパダ)』

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  • 2009/08/29(土) 10:41:27
さてこの観が成就したなら、さらにその様子を一つ一つ想い描き、
それが極めてはっきりと見えるようにして、目を閉じても開いても
目の前から消え失せないようにしなければならない。
そしてただ眠っているときを除いて、常にこのことを想い続けるがよい。

 このように想い描くことができれば、ほぼ極楽世界の大地を見たということができる。
さらにすすんで三昧の境地に入ったなら、その国の大地を一層はっきりと
見ることができるのであるが、その有様を一々詳しく説くことはできない。
このように想い描くのを地想といい、第三の観と名づける。

【観無量寿経】

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  • 2009/09/01(火) 07:59:59
師衆に示して云く、
「善知識よ、何をか名づけて坐禅とするや。
此の法門中は、無障無礙なり。外に一切の善悪の境界に於て、心念が起こらざるを名づけて坐と為し、内に自性を見て動ぜざるを名づけて禅と為す。
善知識よ、何をか名づけて禅定とするや。
外に相を離るるを禅と為し、内に乱れざるを定と為す。外に若し相著れれば、内に心即ち乱れ、外に若し相を離れれば、心即ち乱れず、本性は自浄・自定なり。
只だ境を見、境を思えば即ち乱るると為す。若し諸境を見て心乱れざれば、是れ真の定なり。
善知識よ、外に相を離るる即ち禅、内に乱れざる即ち定なり。外に禅、内に定なり。是れ禅定と為す。
菩薩戒経に云く『我れ本元自性清浄なり』
善知識よ、念ずるとき念中に、自ら本性清浄なるを見、自ら修し、自ら行じ、自ら成ずるが仏道なり。

『六祖壇経』坐禅第五

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  • 2009/09/02(水) 05:36:18

比丘らよ、ここに唯一の道がある。

それは、生きとし生けるものが清らかになるため、

悲しみと嘆きを乗り越え、

心と体の苦しみがなくなり、

もののあり方を正しく知り、

涅槃を体験するための道である。

その道とは四念処、

四つの気づきの実践である。

『中部経典・四念処経』

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  • 2009/09/02(水) 07:56:10
全ての魂を悪趣から解放せよ。そのためにはポアしかない。

麻原彰晃

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  • 2009/09/03(木) 06:15:54
釈迦牟尼仏は、世にもまれな難しく尊い行いを成しとげられた。
娑婆世界はさまざまな濁りに満ちていて、汚れきった時代の中、
思想は乱れ、煩悩は激しくさかんであり、人々は悪事を犯すばかりで、
その寿命はしだいに短くなる。そのような中にありながら、この上ないさとりを開いて、
人々のためにすべての世に超えすぐれた信じがたいほどの尊い教えをお説きになったことである。


『阿弥陀経』 

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  • 2009/09/04(金) 13:10:09
ぎゃーてぃぎゃーてぃはらぎゃーてぃ
このお経なんだか知ってる方いませんか
気になっています

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  • 2009/09/05(土) 11:13:33

過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ、

未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ

                 
                       『大乗本生心地観経』

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  • 2009/09/05(土) 12:10:40
>>149
「般若心経」だね。

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  • 152
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  • 2009/09/08(火) 08:06:20
釈尊が阿難と韋提希に仰せになった。
  「 地想観が成就したなら、次には極楽世界の宝の樹を想い描くがよい。
 宝の樹を想い描くには、まず一つ一つの樹を思い描き、それらが七重の並木に
なったようすを想うがよい。それぞれの樹の高さは八千由旬であり、これらの宝の
樹は等しくみな七つの宝ででき花や葉をつけていて、その花や葉の一つ一つが
また異なった宝の色を持っている。瑠璃色の中からは金色の光を出し、
玻璃色の中からは紅色の光を出し、瑪瑙色の中からは蝦蛄の光を出し、
蝦蛄色の中からは緑真珠の光を出し、その他、珊瑚、琥珀などすべての宝の光
でさまざまに輝いている。また樹々の上には美しい真珠でできた網が一面におおっていて、
それぞれの樹に七重に重なっている。その網と網の間には五百億の美しい花で飾られた
宮殿があって、それはまるで梵天の宮殿のようである。
その宮殿の中には多くの天の童子がいて、それぞれ五百億の宝玉でできた胸飾りを身につけている。
それらの宝玉の光は遠く百由旬を照らし、まるで百億の太陽や月を一つにあわせたようで、
そのみごとさは言葉に表しようがない。さまざまな宝の輝きが互いに入りまじり、
その色どりは実に美しい。

『観無量寿経』

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  • 2009/09/10(木) 10:35:59

動中の工夫、静中に勝ること百千億倍

白隠禅師

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  • 2009/09/11(金) 09:17:52
夏日題悟空上人院 (夏日悟空上人の院に題す)
  杜荀鶴(と じゅんかく、846年 - 904年)

三伏閉門披一衲 (三伏門を閉ざして一衲を披る)
兼無松竹蔭房廊 (兼ねて松竹の房廊を蔭う無し)
安禅不必須山水 (安禅は必ずしも山水を須いず)
滅却心頭火自涼 (心頭を滅却すれば火も自ずから涼し)

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  • 2009/09/13(日) 06:34:56

無明とは即ち是貪の因、瞋の因、癡の因。

若し実想を観ぜば、是の人能く一切諸有を断ず。

常、楽、我、浄 。

 
『涅槃経』

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  • 2009/09/15(火) 18:10:50
師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと
思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。
かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、
そわそわすることなく、ことばを慎しむ。
未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。現在感官で触れる諸々の対象について
遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
貪欲などから遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。
快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。
平静であって、常によく気をつけていて、世間において他人を自分と等しいとも思わない。また自分が勝れているとも思わないし、
また劣っているとも思わない。かれは煩悩の燃え盛ることがない。
依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存の断滅のための妄執も存在しない。
諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ<平安なる者>である、とわたしは説く。かれには締めの結び目は存在しない。
かれはすでに執著を渡り了えた。


『スッタニパータ』

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  • 2009/09/18(金) 15:21:52
まぁーめぁーいりぃー そぉーろぉー  いぃーせぇーやぁーの どんぎりぃー たぁーまぁー !!

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  • 2009/09/19(土) 15:09:43

往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、悟りよ、幸あれ。

大本『般若心経』

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  • 2009/09/20(日) 06:05:51

比丘は、要素の原因を、洞察すべきである。
比丘は、感触の原因を、洞察すべきである。
比丘は、感受の原因を、洞察すべきである。
比丘は、表象の原因を、洞察すべきである。
比丘は、思考の原因を、洞察すべきである。
比丘は、意欲の原因を、洞察すべきである。
比丘は、苦悩の原因を、洞察すべきである。
比丘は、希求の原因を、洞察すべきである。
比丘は、獲得の原因を、洞察すべきである。

「十上経」

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  • 2009/09/20(日) 13:14:21

勉強しないと あふぉになる

恋愛しないと 不感症になる 

母ーちゃん使えば 安上がり
             (あっふぉ陀羅経)

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  • 2009/09/21(月) 05:56:52

戦場において百万人の敵に勝つとも、

唯一つの自己に克つ者こそ、

実に不敗の勝利者である。

自己にうち克つことは、

他の人々に勝つことよりもすぐれている。

常に行いをつつしみ、自己をととのえている人、

このように明らかな智慧ある修行僧の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、

神々も、なし得ない。

ガンダルヴァ(天の音楽神)たちも、

悪魔も、梵天もなし得ない。

『無問自説経』

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  • 2009/09/22(火) 05:58:49

愛する人と会うな。

愛しない人とも会うな。

愛する人に会わないのは苦しい。

また愛しない人に会うのも苦しい。

それ故に愛する人をつくるな。

愛する人を失うのはわざわいである。

愛する人も憎む人もいない人々には、

わずらいの絆が存在しない。

愛するものから憂いが生じ、

愛するものから恐れが生ずる、

愛するものを離れたならば、

憂いは存在しない。

どうして恐れることがあろうか?


「法句経」

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  • 2009/09/25(金) 16:20:53
404 在家者・出家者のいずれとも交らず、住家がなくて遍歴し、欲の少ない人、
──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。(ダンマパダ)

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  • 2009/09/26(土) 11:04:54

さて、師は、この折に、次のような詩を歌われた。

 かたちによって、私を見、
  
 声によって、私を求めるものは、

 間違った努力にふけるもの、

 かの人たちは、私を見ないのだ。

 目覚めた人々は、法によって見られるべきだ。

 もろもろの師たちは、法を身とするものだから。
 
 そして法の本質は、知られない。

 知ろうとしても、知られない。


『金剛般若経』
 

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  • 2009/10/05(月) 08:54:10

「比丘たちよ、私は一日一度、食事を摂る。
 
一日に一度食事を摂っているので、

病少なく、体も軽快で、力があり、安穏である。

比丘たちよ、汝らも、一日に一度だけ、食事を摂るようにせよ。

そうすれば、病少なく、体も軽快で、力があり、安穏である。」

「跋陀和利経」

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  • 2009/10/06(火) 09:35:41
全大地の唯一の支配者になるより、
全世界の主権者になるより、
聖者たる第一階梯(預流果)の方がすぐれてる。    ダンマパダ

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  • 2009/10/06(火) 10:25:08
莫妄想(妄想することなかれ)        無業禅師

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  • 2009/10/07(水) 00:39:00
「律は、自己の統御を義(目的)としています。
自己の統御は、後悔の思いなきことを義(目的)としています。
後悔の思いなきことは、歓喜を義(目的)としています。
歓喜は、喜悦を義(目的)としています。
喜悦は、安息を義(目的)としています。
安息は、安楽を義(目的)としています。
安楽は、心の統一(三昧・定)を義(目的)としています。
心の統一は、有るがままの知見(如実知見)を義(目的)としています。
有るがままの知見は、厭離を義(目的)としています。
厭離は、離貪を義(目的)としています。
離貪は、解脱を義(目的)としています。
解脱は、解脱の知見を義(目的)としています。
解脱の知見は、執取の思いなき、完全なる涅槃(般涅槃)を義(目的)としています。

これを義(目的)とするのが、言説です。
これを義(目的)とするのが、思量です。
これを義(目的)とするのが、比喩です。
これを義(目的)とするのが、傾聴です。
これがすなわち、執取の思いなき、心の解脱です」(ヴィナヤ5p.164)

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  • 2009/10/13(火) 08:56:52
常に仏陀の弟子はよく覚醒していて
昼も夜も身体を念じている          ダンマパダ

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【最終】日本仏教はこのままでいいのか?!【決着】1
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1255345468/l50

もし、宜しかったらご参加のほどをヽ(´ー`)ノ

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  • 2009/10/14(水) 12:17:25

それ故に、自己の洲(依り所)を作りなさい。
速やかに努めなさい。賢者と成りなさい。
世俗の垢を取り払ったあなたは、穢れなき者となり、
天の聖なる境地に至るであろう。                 
                             「ダンマパダ 236」

世尊は答えた。「カッパさん、大いなる恐怖を生む激流のまさにその流れの中で
立ちすくんでいる者たちのために、老と死に打ち負かされた者たちのために、
依り所となる洲を、カッパさん、あなたに説きましょう。
無一物にして無執取であること。これが、他のものが存在すべくもない、洲です。
それを、老と死の完全なる滅尽を、『涅槃である』とわたしは説きます。」
                               「スッタニパータ 1093・1094」

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、
尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
                             「ルカによる福音書12:33-34」

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  • 2009/10/14(水) 12:38:35
まず自らを正しくととのえることを学び、その次に他人を正せ。
自己すら正せない者が、どうして他人を正せようか。
                               「ダンマパダ」

自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、
『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。
                               「ルカによる福音書6:42」

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  • 2009/10/17(土) 05:35:23
http://circle.zoome.jp/kanbi/media/66///?no_bt=1

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  • 2009/10/21(水) 10:07:51

かたちにとらわれた心をおこしてはならぬ。
声や香りや触れられるものや、心の対象にとらわれた心をおこしてはならぬ。
法にとらわれた心をおこしてはならぬ。
法でないものにとらわれた心をおこしてはならぬ。
どんなものにもとらわれた心をおこしてはならぬ。          <金剛般若経>

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  • 2009/10/22(木) 12:09:19
人は死んで、その体はなくなる。知識も思慮もなにもかもなくなる。
苦悩の要因の自己は消え去り、残るのは、ニルヴァーナだけなのだ。
無量の喜びと慈悲だけが残る。
しかしながら、自己にとらわれ、この世のものにとらわれている者は、
妄執に破れ、生まれるか、地獄に堕ちるか......
死んだ者のように生きよ、欲望もなく、自己にこだわることなく、この世
一切にこだわることなく、ただ慈悲心を喜びとして生きるならば、生存者
としてこの世に生まれることはないだろう。 「経集」

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  • 2009/11/02(月) 11:12:14
修行する比丘たちに、恐怖感が起こったら、
たちまち仏陀を念ぜよ。
また、法を念ぜよ。
また、僧を念ぜよ。
恐怖感は確実に消え失せる。
なぜなら、仏陀は不貪不瞋不癡であり、
怯えることは全くないからである。  「サンユッタ・ニカーヤ」

フリックゾンビ
フリック回転寿司
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