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  • 2009/07/26(日) 14:31:27


相争う哲学的見解を越え、

さとりに至る決定に達し、

道を得ている人は、

「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、

犀の角のようにただ独り歩め。

『スッタニパータ』55

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  • 2009/08/01(土) 13:26:11
思い〜出す、病室で〜痩せてゆく〜父のすがたを〜(チャッチャッチャチャ!)痛みから〜解かれて〜去っていった〜ひとりきり〜車の窓に写ってる〜俺の顔彼に、に・て・る、ファーザズソン、答を探さないで、なにも意味〜など無い〜「浜田・ファーザズ・サン」

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  • 2009/08/01(土) 13:30:34
子供の頃、素直で〜すべてのルール守ってきた〜社会にでて真面目に!不平も言わず働いてきた〜みんなこう言ってた〜「いい人」だと〜会社も「君は優秀だ」と〜だけど心も〜身体も〜病んだときには〜切り捨てられた〜

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  • 76
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  • 2009/08/01(土) 13:32:09
ひーとり、一人きり、誰だって、死ぬ時はひとり〜ひーとり、一人きり!大丈夫、やってゆけるさ〜イェー、

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  • 77
  • 俺の罪(カラオケで歌っちまった)
  • 2009/08/01(土) 18:34:56
いーじーかーむ、いーじーごー、ボントゥヴィmonkeyゴリラでもウータンでも駄目ならチンパン〜彼女を棄てた〜俺の罪〜お猿なら知らねえ、これこそレット・イット・ビ〜。お猿なら悲しくても涙はいらねえ〜

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  • 78
  • 俺の罪(カラオケで歌っちまった)
  • 2009/08/01(土) 18:36:48
おいら〜の自慢のエレキ〜猿山に響け、トレモロ〜アーム「筋少・俺の罪」

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  • 2009/08/02(日) 06:03:35
「諸々の法もの・ことは、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、
知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する
これは、清浄への道である。
ダンマパダ279

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  • 2009/08/02(日) 06:20:38
180

正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は
世間から離れた静けさを楽しむ。

神々でさえもかれを羨む。

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  • 2009/08/02(日) 07:25:58
ダンマパダ 293

常に身体の動きに
気づくことに努力して
為すべからざることは為さず
為すべきことは為し
寂静であり正しく知る人々には
諸々の煩悩がなくなる

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  • 2009/08/03(月) 05:53:26
比丘たちよ、わたしはまだ正覚を成じなかった時、かように考えた。まことに、この世は
苦の中にある。生まれ、老い、衰え、死し、また生まれ、しかも、この苦を出離すること
を知らず、この老死を出離することを知らない…。
比丘たちよ、その時、わたしは、かように考えた。何があるがゆえに、老死があるのであ
ろうか、何に縁って老死があるのであろうか。
比丘たちよ、その時、わたしは正しい思惟と知恵とをもって、かような悟りを得た。
生があるが故に、老死がある。
生に縁りて、老死がある。
比丘たちよ、その時、わたしはまた、かように考えた。
何があるが故に、生があるのであろうか。
何に縁って生があるのであろうか。
比丘たちよ、その時わたしは、正しい思惟と知恵をもって、かような解釈をなした。
有があるが故に、生がある。
有に縁って、生がある。
比丘たちよ、かようにして、無明に縁って行があり、行に縁って識があり、識に縁って名
色があり、名色に縁って六処があり、六処に縁って触があり、触に縁って受があり、受に
縁って愛があり、愛に縁って取があり、取に縁って有があり、有に縁って生があり、生に
縁って老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。
これが、すべての苦しい人間存在の縁ってなるところである。
比丘たちよ、これが、縁ってなるところである、と未だ聞いたこともない真理において、
わたしは、眼生じ、さとりを得ることができた。
比丘たちよ、その時、わたしは、またかように考えた。
何がなければ、老死がないであろうか、何を滅すれば老死を滅することができるであろうか。
比丘たちよ、その時、わたしは正しい思惟と知恵とをもって、かような解釈をした。
生がなければ、老死はない。
生を滅することによって、老死を滅することを得る。


サンユッタ・ニカーヤ

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  • 2009/08/03(月) 05:55:55
「一切衆生に、ことごとく仏性あり」

(大般涅槃経)

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  • 84
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  • 2009/08/03(月) 14:28:45
秋のハスを手で切る取るように
自分の愛着を切り取れ
寂静への道のみを育成せよ
涅槃は仏陀の説かれたものだ(ダンマパダ285)

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  • 2009/08/03(月) 17:33:12
仏の衆生を見る眼は、あたかもラーフラのごとし(極愛一子)「大般涅槃経より」

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  • 2009/08/03(月) 17:37:51
アジャセ(ダイバダッタにそそのかされ、父王を殺した五逆の王)を救うまで、わたしは涅槃に入らないであろう…アジャセとは無明の衆生一般を意味する。したがって涅槃しないにもかかわらず、あえて「涅槃する」と仮に言うのだ

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  • 2009/08/03(月) 17:40:24
わたしが涅槃した後、わたしは何処にいると思う人々が現われるであろう。しかし、わたしは常住であり、あなたがたのすぐそばにいる。

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  • 2009/08/04(火) 07:07:14
森を切り倒せ、木ではない
森(欲)から恐怖が生まれる
森も みも切り倒し
比丘たちよ、欲のない(涅槃)者であれ(ダンマパダ 283)


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  • 2009/08/04(火) 10:01:27
我願わくは佛となり 徳この法王にひとしくて

迷える生死の海を渡しては 悟りの岸に著かしめん

施しおきてつつしみや 忍び精進に定と智慧

菩薩の行を三昧に 世にすぐれたる佛たらん

我誓うらく悟り得て ひろくこの願はたしなば

一切の恐れ悩める諸人の 憩いの家とならんかな

『大無量壽經』

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  • 2009/08/04(火) 11:43:02
「心とは大乗の教えで、最高の深い意味を持つ語である。
心の動きの特徴は、完全無欠な佛の秘密の中で最高のものであり、
世俗の思考では、とうてい知りえられない。
そのすべてを、余は汝に語って聴かせよう。一心不乱に耳を傾けて聴くがよい。
百六十をこえる世俗的な心を超越するとき、求める心が生ずるであろう。
その心は虚空のように無量であり、汚染されず、永遠に不変であり、
いかなるものによっても動かされず、本来煩悩を離れており、なんの限定も受けない。
限りない智慧によって完成され、完全に「さとり」に到達した師(佛)に供養し、
修行によって完成されるのであるから、「さとり」のために、
まず第一に、その心を起こそうとせよ。

「大日経」

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  • 2009/08/05(水) 05:49:17
他人の罪を見て
常に不満の思いある人は
その煩悩は増大し
彼は涅槃から離れて行く(ダンマバダ253)

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  • 2009/08/05(水) 07:14:25
南無阿弥陀仏と一度正直に帰命せし一念の後は、

我も我にあらず。

故に心も阿弥陀仏の御心、身の振舞も阿弥陀仏の御振舞、

言葉も阿弥陀仏の御言なれば、

生たる命も阿弥陀仏の御命なり。

『一遍上人語録』

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  • 2009/08/05(水) 07:45:42
善男子、我この閻浮提において或いは戒律を犯すを示現し、一闡提となる事を示現し、和合僧破壊を示現し、魔王となる事を示現し、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四趣に生まれる事を示現し、淫女の舎に入る事を示現し、諸々の酒舎、博奕の処に入るを示現し

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  • 2009/08/05(水) 07:53:11
大長者となる事を示現し、諸王、大臣、王子、宰相となる事を示現する。これ皆如来の善巧方便なり。疫病の劫来たれば、まず医薬を施し、饑餓の劫至れば、その用いるところに随うて飲食を施し、そうして後に微妙の正法を説きて衆生をして無上菩提に安住せしむる(大般涅槃経)

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  • 2009/08/06(木) 06:03:47
賢い人は次々に
少しずつ刹那刹那に
銀の細工師が錆びを取るように
自分の心の垢を取り除く(ダンマパダ 239)

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  • 2009/08/06(木) 07:36:32

三界は虚妄にしてただ一心の作るところ
『華厳経』

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  • 2009/08/06(木) 07:46:35
回光返照

外の諸法を照らす自己の光明を、

廻らし返して、内の自己を照らすを云うなり。


蘭渓道隆大覚禅師

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  • 2009/08/06(木) 09:46:02
雑念は、心が外に流されている状態である。
専念とは、心が内に止まっている状態である。
三昧転変は、雑念から専念に変わることである。

「ヨーガ・スートラ」

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  • 2009/08/07(金) 06:33:06
経行(歩行瞑想)している覚者ブッダの後に付き従って経行した。

法(教え)が示されているとき、わたしに、知恵が生起した。

テーラガーター

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  • 2009/08/07(金) 07:28:22
アトゥラよ、これは昔からである
これは今始まってことではない
黙して座っても非難され
多く語っても非難され
適量語っても非難される
この世に非難されない人はいない(ダンマパダ 227)

そう、もういるだけで非難されるんでありまつ。
いなければいないで非難されまつ。はぁ

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  • 2009/08/08(土) 05:44:22
無理な方法で行う人は
その故に道理に従う人ではない
道理と非道理の
両方を賢者は見極める〔ダンマパダ256〕

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  • 2009/08/08(土) 07:11:23
心は、巧みな画家がさまざまの五蘊を描き上げるように、一切の世界においてあらゆるものを造り出す。

心のように、仏もそうであり、仏のように、衆生もそうである。心と仏と衆生との三者には、区別はない。

仏たちは、みな、一切のものは心から起こるということをはっきりと知っている。

もしもこのように理解することができれば、その人は真の仏を見るだろう。

『華厳経』

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  • 103
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  • 2009/08/08(土) 07:49:36

みことのままにあらわれし

龍樹大士はおしえます

陸路のあゆみ難けれど

船路の旅の易きかな

「教行信證」

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  • 2009/08/09(日) 06:59:52
悪をするよりしない方がよい。
後で苦しむから。
するならば善いことをする方がよい。
したら悩むことがないから。卍ダンマパダ314

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  • 2009/08/09(日) 09:41:13

応に(まさに)住する所無くして其の心を生ずべし

『金剛般若経』


霊覚性は言語を以て取るべからず

『伝心法要』


一所に心を止めねを至極とする事にて候
『不動智神妙録』

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  • 2009/08/10(月) 04:20:05
気付きのない行ないをする人は
葛のつるのように渇愛が増える。
彼は森の猿が果実を求めるように
あちらこちらの世界を輪廻する。( ダンマパダ 334)

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  • 2009/08/10(月) 05:50:55
「こうして、集中しながら、三昧になると、
その比丘には、第六の、定覚支が湧き上がる。
そして、定覚支を修めて、諦念して観察をする。」

「こうして、諦念しながら、観察するとき、
その比丘には、第七の、捨覚支が湧き上がる。
そして、捨覚支を修めて、解脱の果報が生じる。」

これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。


『入出息念経(アーナーパーナサティ・スッタ)』

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  • 2009/08/10(月) 05:57:50
「それでは、ヴァッチャよ、止観を修めよ。止は、心を静めて、雑念を止めることであり、
観とは、正しく観て、智慧が生じることである。」

「こうして、止と観を、実践し続けた者が、自ずと、具えることになる、六つの力がある。
それでは、この六つの力とは、如何なるものか。」

「一身が多身となれば、多身が一身となる。消えた姿が現れたり、水上を歩き空中を飛ぶ。
全ての世界に出現する、これが、神足通である。」

「近くの音を聴こえて、遠くの音が聞える。人の声が聞えて来て、神の声が聴こえて来る。
聞えない音が聴こえる、これが、天耳通である。」

「貪りを貪りと知れば、怒りを怒りと知る。疑いを疑いと知れば、善き心を善き心と知る。
他の人の心を理解する、これが、他心通である。」

「あの時の姓はこうで、あの生の名はこう。あの生の糧はこうで、あの時の世の中はこう。
前の時の世を理解する、これが、宿命通である。」

「近くの物を見とめて、遠くの者を認める。この世が見えて来て、あの世が現われて来る。
見えない物を観とめる、これが、天眼通である。」

「この人は漏れていて、あの人は漏れない。あの煩悩から漏れて、この煩悩から漏れない。
煩悩の漏れを滅尽する、これが、漏尽通である。」

こうして、彼は、三明を得て、阿羅漢に至った。


『ヴァッチャ大経(マハーヴァッチャ・スッタ)』


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  • 2009/08/10(月) 06:16:16
『この世で自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、

 法を島とし、法を拠り所として、他のものを拠り所とせずにあれ

 それはどうやって出来るのか

 それは身体について身体を観察しつつ、熱心に、正しく念じて、よく気をつけ て、この世における貪欲と憂いを除くことで

 それは感受について感受を観察しつつ、熱心に、正しく念じて、よく気をつけて、この世における貪欲と憂いを除くことで

 それは心について心を観察しつつ、熱心に、正しく念じて、よく気をつけて、この世における貪欲と憂いを除くことで

 それは智慧について智慧を観察しつつ、熱心に、正しく念じて、よく気をつけて、この世における貪欲と憂いを除くことで』


『大般涅槃経(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)』

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  • 2009/08/10(月) 07:30:13
五十六億七千萬 弥勒菩薩は年をへん
まことの信心得る人は このたび悟りをひらくべし

念仏往生の願により 等正覚に至る人
すなはち弥勒に同じくて 大般涅槃を悟るべし

真実信心得るゆえに すなはち定聚に入りぬれば
補處の弥勒に同じくて 無上覚を悟るなり

像法のときの智人も 自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば 念仏門にぞいりたまふ

彌陀の尊號となえつつ 信楽まことに得る人は
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり

五濁惡世の有情の 選擇本願信ずれば
不可稱不可説不可思議の 功徳は行者の身に満てり

『五十六億和讃』

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  • 2009/08/11(火) 06:31:08
「比丘達よ、この身は、食によって止まり、不食によって、この身は、止まることがない。同様に、五蓋は、食べないと、滅びるのである。」
「貪りを楽しむと、貪りが強くなっていき、貪りを楽しまないと、貪りが弱くなっていく。即ち、貪欲蓋は、食べないと、滅びるのである。」
「瞋りを楽しむと、瞋りが強くなっていき、瞋りを楽しまないと、瞋りが弱くなっていく。即ち、瞋恚蓋は、食べないと、滅びるのである。」
「眠りを楽しむと、眠りが強くなっていき、眠りを楽しまないと、眠りが弱くなっていく。即ち、昏眠蓋は、食べないと、滅びるのである。」
「焦りを楽しむと、焦りが強くなっていき、焦りを楽しまないと、焦りが弱くなっていく。即ち、掉悔蓋は、食べないと、滅びるのである。」
「疑いを楽しむと、疑いが強くなっていき、疑いを楽しまないと、疑いが弱くなっていく。即ち、愚痴蓋は、食べないと、滅びるのである。」

『覚支相応(ボッジャンガ・サンユッタ)』

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  • 2009/08/11(火) 10:06:39

すべてはつくられたもの、

つくられつつあるものであり、

壊れる性質のものである。

今の瞬間に気づくことを怠らずに

サティを切らさずに完成しなさい。

『パーリ経典・釈迦の遺言』

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  • 2009/08/12(水) 05:44:09
学びある者や凡夫たちが、入定(禅定の境地)から出起して、
「わたしたちは定められた心によって、あるがままの観察をするのだ」と修めているなら、
あるがままの観察(毘鉢舎那・観)にとっての境処の拠点(直接原因)たることから、
瞑想の境地に専注して止まる心の統一の修行もまた、あるがままの観察という福利あるものと成り、
煩雑なる世俗のなかで阿羅漢の資質を得るための機会への到達となる方法によって、
瞑想の境地に近接して行く心の統一の修行もまた、あるがままの観察という福利あるものと成る。

それで、世尊は言った。「比丘たちよ、心の統一を修めなさい。
比丘たちよ、心が定められた比丘は、事実のとおりに覚知します」と。

【清浄道論】

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  • 2009/08/12(水) 18:16:02
善知識にあうことも 教うることもまた難し

よく聞くことも難ければ 信ずることもなお難し。

『浄土和讃』

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  • 2009/08/13(木) 05:26:06
永遠に無明を尽きさせるべきである。仏である私(お釈迦様)の言葉は真実であって、
決して偽りはない。たとえば優れた智慧をもった医師が、自分の子供が毒にあてられて気が狂い、
父の与えた薬を飲もうとしないとき、それを治すために、
方便をもってしばらく遠くへ旅行し、実際は生きているのだけれども、お前の父は死んだと言って、
子供に親を慕う心持ちを起させて薬を飲む気にさせ、その薬が効いて子供の病気が治ればまた帰ってきて
親子の対面をしたとする。この場合は、誰も父なる医者を嘘つきとは言わないであろう。
そのように仏は世の父であり、色々な方便を用いて教えを説くのであるが、
それは一切衆生を救おうという心から出ているのである。

「法華経」

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  • 2009/08/13(木) 05:31:27
過去を追うことなかれ。未来を追うことなかれ。過去はすでに過ぎ去れり。未来はいまだ来ざりき。

ゆえに、ただ今なすべきことを、そのところにおいてよく観察し、揺らぐことなく、

動ずることなく、よく見極めて実践せよ。

ただ今日なすべきことを、よくなせ。

誰か明日の死あることを知らん。


『賢愚経』

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  • 2009/08/13(木) 05:36:08

世間の人はたいてい、もともと、人から立派だと言われよう、思われようと思っている。

その心があるから、立派になることができないのである。

『正法眼蔵随聞記』

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  • 2009/08/13(木) 05:58:22
あるとき、わたしは、このように聞いた。
ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、アナータピンディカ園に、止まっておられた。そこには、アングリマーラという、盗賊が居た。
仏陀が、サーヴァッティに、托鉢に入ると、アングリマーラは、仏陀を遠くから見とめた。
彼は、仏陀の姿を見つけて、このように思った。

「今日の獲物が、向こうの方から現われた。奴の命を奪い取り、持ち物を剥ぎ取ってやる。奴の指を切り取って、首の飾りに付けてやろう。」

早速、アングリマーラは、仏陀を追ったが、仏陀は、神通を使って、いくら追い掛けても、彼が、決して仏陀に、追い着けないようにした。
「おい、沙門よ、止まれ、沙門よ、止まれ。」
「私は止まっているが、汝は動かされている。汝の方こそ止まるが良い、私に追い着くだろう。」

「沙門よ、一体、それは、どういう意味だ。」
「私は、怒りを捨てて、心が止まっているが、汝は、怒りに捕らわれて、心が動かされている。」

アングリマーラは、はたと、刀を落とした。そして、仏陀の足元に跪いて、地に平伏した。
それから、出家することを、懇願したのである。

『央掘摩経(アングリマーラ・スッタ)』

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  • 2009/08/14(金) 05:24:49

アーナンダよ、 
ヴェーサーリーは楽しい。 
ウデーナ霊樹の地は楽しい。 
ゴータマカ霊樹の地は楽しい。 
七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。 
バフプッタの霊樹の地は楽しい。 
サーランダダ霊樹の地は楽しい。 
チャーパーラ霊樹の地は楽しい。

世界は美しいもので、人間の生命は甘美なものだ。


『大パリニッバーナ経』

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  • 2009/08/14(金) 05:56:45
そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
「 そなたや未来の人々は、ただひたすら西方に思いをかけて、
その世界を想い描くがよい。では、どのようにして西方を思い描くの
だろうか。それにはまず、生れながら目が見えないのでない限り、
目が見えるものはみな日没の光景を見るがよい。その観を始めるに
あたってはまず姿勢を正して西に向かって座り、はっきりと夕日
を思い描くがよい。そして心を乱さず、思いを一点に集中して他
のことに気をとられずにいられたなら、次に、夕日がまさに沈もう
として、西の空に太鼓が浮んでいるようになっているのを見るがよ
い。それを見おわった後、目を閉じても開いても、その夕日のすが
たがはっきりと見えるようにするのである。このように想い描くの
を日想といい、第一の観と名づける。

『観無量寿経』

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  • 2009/08/14(金) 06:36:18
>>120 日没を見るか。
日の出ではなく。
日観したら、そのまま眠りそうだお


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  • 2009/08/14(金) 12:45:54

未来経典研究スレッド に是非お越しください

僧侶/赤星 博峰



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  • 2009/08/15(土) 10:14:33

是非愛憎すべてなげうてば、

汝に許す生身の観自在たることを


白隠禅師『毒語心経』

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  • 2009/08/16(日) 05:36:34
世尊「スブーティよ、どう考えるか。
阿羅漢に『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるであろうか。」
スブーティ「世尊よ、もし阿羅漢に『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるなら、
彼には、かの自我への執着が起こり、衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着が起こるでしょう。
それは何故かと云いますと、かつて正しい悟りを得た如来は、
『私は煩悩無く、無諍してある者のうちの最上の者である』と、仰せられました。
世尊よ、私は欲望を離れた阿羅漢であります。
しかしながら、私には『自分は欲望を離れた阿羅漢である』という考えは生じません。
世尊よ、もし私に『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるなら、
如来は私について、『良家の子であるスブーティは、煩悩無くしてある者のうちの最上の者である。
彼は、いずこにも在るのではない。
だから、煩悩無くしてある者と云われる』などと宣言されることはなかったでありましょう。」

「金剛般若経」

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  • 2009/08/17(月) 05:45:43
世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。
それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することがでまるのか?』と、
もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 
『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察である。
『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察である。
このように二種の観察を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。
すなわち現世における<悟り>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」


                                        『スッタニパータ』

お絵かきランド
フリックゾンビ
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