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  • 1
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  • 2009/07/26(日) 14:31:27


相争う哲学的見解を越え、

さとりに至る決定に達し、

道を得ている人は、

「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、

犀の角のようにただ独り歩め。

『スッタニパータ』55

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  • 2009/07/26(日) 14:42:46
菩薩たちは、「智慧の完成」に依拠しているがゆえに

心にこだわりが無い

こだわりが無いゆえに、恐怖も無い

間違った認識によって世界を見ることから遠く離れている。

三世の仏たちも「智慧の完成」に依拠したがゆえに

完全なる悟りを得たのだ。


般若心経

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  • 2009/07/26(日) 14:46:54
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い奉ること難し

我今見聞し、受持することを得たり、願わくは如来の第一義を解せん

至極の大乗、思議すべからず

見聞触知、皆菩提に近づく

能詮は報身、所詮は法身、色相の文字は、即ち是れ応身なり

無量の功徳、皆この経に集まれリ

是故に自在に冥に薫じ密に益す

有智無智罪を滅し善を生ず

若しは信、若しは謗、共に仏道を成ず

三世の諸仏、甚深の妙典なり

生々世々、値遇し頂戴せん

開経偈

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  • 4
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  • 2009/07/26(日) 14:51:59

赤肉団上に一無位の真人有り。
常に汝等諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざる者は、看よ看よ
時に、僧有り出でて問う。
如何なるか是れ無位の真人。
師、禅床を下って把住して云く、
道え道え。
其の僧擬議す。
師托開して云く、
無位の真人是れなんの乾屎橛ぞ。
便ち方丈に帰る。

臨済録

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  • 2009/07/26(日) 14:57:06
光と命きわみなき
阿弥陀仏を仰がなん
法蔵比丘のいにしえに
世自在王のみもとにて
諸仏浄土の因たずね
人天の善し悪しみそなわし
すぐれし願を建てたまい
まれなる誓いおこします
長き思惟の時へてぞ
この願選び取りませり
かさねてさらに誓うらく
わが名よひろく聞えかし
十二の光放ちては
数多の国を照らします
生きとしいくるものすべて
このみ光のうちにあり
本願成就のそのみ名を
信ずるこころひとつにて
仏の悟りひらくこと
願い成りたるしるしなり

正信偈

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  • 2009/07/26(日) 15:02:27
我、超世の願を立つ!(法蔵菩薩・阿弥陀経)

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  • 7
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  • 2009/07/26(日) 15:06:51
世尊よ、それでは、この無明を破るには、

繰り返しを越えるには、何を求めるのですか。

何を求めれば、苦楽を越えられるのでしょうか。

帝王よ、楽が生まれると、苦が埋まれる。

欲を求めると、苦楽が分かれ、総じて苦しみ、

欲を越えるとき、苦楽が消えて、総じて楽しむ。


大念処経

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  • 8
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  • 2009/07/26(日) 15:18:21
また、シャーリプトラよ。
かの佛国土は、天の音楽をかなで、黄金が地をなしている。
昼夜六時(一日を昼夜に二分、それぞれをまた三分して、六時となる)に、曼陀羅華を雨降らす。
その国の民衆は、常に清々しい朝に、おのおの花を盛る器をつかって、もろもろの妙華を盛り、
他方の十万億の仏を供養し、昼の休息をもって、本国に還到し、ご飯をたべ、
座禅の眠気を覚ますためゆきつもどりつする。
シャーリプトラよ。極楽国土には、このようにすぐれた性質の荘厳を成就する。

仏説阿弥陀経

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  • 9
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  • 2009/07/26(日) 15:21:06
何がおかしい。何を喜んでいるのだ。世は燃えているのに。
おまえたちは暗闇に覆われているのに、ともしびを求めようとしない。
作りあげられた幻をよく見ろ。寄せ集めでつくられた、傷だらけの身体だ。
病いと妄想に満ちている。その中に永遠に留まるものなど存在しない。
老いてボロボロになった、この体は、病の巣となり、崩れるものとしてここにある。
腐りゆく体は、朽ち果てる。生命の行き着くところは死である。

法句経

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  • 10
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  • 2009/07/26(日) 15:21:52
海中に妙音という名の神がいる。彼は海の生物の若干種の言語を理解し、それらの生物を楽しませる。まして大功徳の菩薩が衆生を利益しないわけがない。「華厳経・記憶をたよりに私訳」

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  • 11
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  • 2009/07/26(日) 15:24:49
比丘たちよ、このように知るべきである。
”正知”をもって、感覚、想念、思考、識別作用のある所を、ただしく観察せよ。
過去、未来、現在においても、さきの如くに、”正知”をもって観察せよ。
もしも、わが声聞、聖弟子たちよ、 この五つの構成要素(五蘊)を観察すれば
自己が所有するところも、自己をもってするところも無い、ということを知る。
かくのごとく観察しおわれば、世界を知る。 感受作用も、感受する対象も無くなり、変転することもない。
ただ、みずからこのように識知する、 涅槃に達した。
わが生はすでに尽きた。 清浄なる行は、すでに完成した。
造作する働きはすでに見られ、 後の生存を受けることはない、と

五蘊皆空経

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  • 12
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  • 2009/07/26(日) 15:26:46
辞めよう、辞めよう、舎利弗よ。もし、この如来にしか理解出来ない法を説いたら、増上慢の比丘は怪しみ驚き、地獄へ墜ちてしまうであろう「法華経・方便品」

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  • 13
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  • 2009/07/26(日) 15:38:54
わたしは、世界全体の父であり、衆生の諸の苦しみや悩みを救う者であります。
しかし、凡夫は心が逆さになっているので、それを救う適切な手段として、
実際には生きているのに死んだことにしているわけなのです。
なぜならば、いつでも仏に遇えるとなれば往々にして、わがままな心が生じて、
気持ちがたるんで五官の欲望に執着してしまい、ついに悪業の道に堕ちてしまうからです。
わたしはいつも、衆生がどれぐらい仏の道を行じているのか、あるいは怠けているのかを知り尽くしていますから、
相手に応じた適切な方法によって、さまざまに法を説き分けるのです。
しかし、わたしが常に念じていることは変わりません。それは、どうやって衆生を仏の道に導き入れて、
一刻も早く仏の悟りを成し遂げさせるのか、ということだけなのです。

妙法蓮華経

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  • 14
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  • 2009/07/26(日) 15:51:47
< 俺は良スレ  >
< 発見したぞ!! >
< ジョジョー!!!!!>
 ∨∨∨∨∨∨∨∨
 O_O_OO_
〈`∀´/〉
  ̄T`⊂) 
   \"\ ∧_∧
    \ (´∀`)
  ギラン*|ヽ<∨ゝ`ヽ
     ||| o > |
    ⊂ニ⊃  / /
     |(⌒| ̄" J|
     "T ̄ ̄ ̄"|
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
<韓国面を    >
<  持っている! >
<やめれー!!  >
 ∨∨∨∨∨∨∨∨
どどどどど〜〜〜〜!!
≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡
=)二ニ警]_ニ警]_ニ警]_=
=(;・∀・);・∀・);・∀・)
○<y>○<y>○<y>○
=ノ ̄ヽ、ノ ̄ヽ、ノ ̄ヽ、=
し≡(_)≡(_)≡(_)

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  • 2009/07/27(月) 05:27:27
もろもろの世間において何ものか最も富み、
何ものか最も貧しき。
悲母堂にあるこれを名づけて富とし、
悲母あらざるを名けて貧しとす。
悲母あるとき名けて日中とし、
悲母死する時を名けて日没とす。
悲母あるときを名けて月明とし、
悲母亡き時を名けて闇夜とす。
このゆえに汝らつとめて父母に孝養せよ。
かくのごときの人は、
仏を供養する福と等しうして異ることなき福を得べし。

心地観経

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  • 16
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  • 2009/07/27(月) 05:28:54

怨むことなき教を仏教となし、

争うことなき教を仏教となし、

誹ことなき教えを仏教とする。


宝蔵経

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  • 2009/07/27(月) 05:31:35
人は世間愛欲の中にありて、

独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。

まさに行きて苦楽の地にいたりおもむくべし、

身みづからこれに当たり、

代わるものあることなし。

無量寿経

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  • 18
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  • 2009/07/27(月) 05:55:57

さらに、一切の有情は、その本質において、妙なる法を内に蔵する。

なぜならば、すべてのものは、この正しき理を覚える時、自己と他者のために、

誰でもが理解できる言語を活用して、その真理を再現して伝達できる。

これは観自在菩薩のごとくである。

理趣経

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  • 19
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  • 2009/07/27(月) 06:25:58
仏典を検索できるサイトは、ないのでしょうか?
見つからん。○| ̄|_


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  • 20
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  • 2009/07/27(月) 07:49:33
修業するぞ 修業するぞ 修業するぞ 出来るだけハードな修業するぞ
救済するぞ 救済するぞ 救済するぞ 救済するぞ

麻原彰晃

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  • 2009/07/27(月) 08:44:33
「フン!無駄!無駄!無駄!無駄!無駄!無駄!無駄!」ディオ語録

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  • 2009/07/27(月) 10:11:39
それ故に、
この世で自らを島とし、
自らを頼りとして、
他人を頼りとせず、
法を島とし、
法をよりどころとして、
他のものをよりどころとせずにあれ。
大パリニッバーナ経

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  • 2009/07/27(月) 22:05:41
般若心経
しきふいくう
色不異空
  /⌒ヽ ∩  ∧ ∧
 ( ^ω^)ノ ̄7 ( ゚Д゚)ノ
/ 7V7Z′/ / 7V7Z'
Lノト-イヘ ̄ ⊂Lノト-イヘ ̄
 /、_」ツ^i  ∧ノ∧|ノ∩
.<、_[ニニ] ∩*゚ー゚)ノヾ
∠ノ( ´∀)/?(y ハノ
 / 7└┘フ ノノ)エニ( ̄
⊂L_ノー-{ ̄ / y )
 ノハ__」 ∠_/L_1
`(_ノL_ノ∠ノ (__)
∠ノ L_)
ものがあっても、感じる心がなければ、ないことと同じであり、

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  • 24
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  • 2009/07/28(火) 07:56:00
内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、
このようによく気をつけて行なっている人、
の識別作用が止滅するのである。

【経集・彼岸に至る道の章】

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  • 25
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  • 2009/07/28(火) 08:09:23
般若心経
くうふいしき
空不異色

魚イルノカ?   /ヽ
 ∧ ∧  /' ヽ
(´・ω・)/'   ヽ
 ( つ@o     ヽ
 ̄ ̄υυ~|    
〜〜 〜 ~~~゚ ~~ ~~~~
  〜  〜  〜

ないということも、感じる心があれば、そのものは
あるのと同じである。

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  • 26
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  • 2009/07/28(火) 08:18:41
まるで…沼


………ざわざわ………

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  • 27
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  • 2009/07/28(火) 08:52:00
大いなる哉、心や。
天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。
日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕むものなり。
天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、
四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。
大なる哉、心や。      

『興禅護国論』 

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  • 2009/07/28(火) 08:56:11
「一方で、瞑想を妨げる、五つの条件がある。
大王よ、禅定を妨げる、五つの蓋は何のことか。」

「第一に、貪りに囚われる、貪欲蓋である。
喩えるなら、金を返すために、金を借りると、
返しても、返しても、苦しくなるようなものだ。」

「第二に、瞋りに囚われる、瞋恚蓋である。
喩えるなら、嫌いなものでも、食べなければ、
病になり、好きなものも、食べられないようだ。」

「第三に、眠りに囚われる、昏眠蓋である。
喩えるなら、金を盗んで、牢に捕われた者が、
金が有っても、金を使えないようなものである。」

「第四に、焦りに囚われる、掉悔蓋である。
喩えるなら、奴隷が、自由を求めるあまりに、
ますます、不自由を感じてしまうようなものだ。」

「第五に、疑いに囚われる、愚痴蓋である。
喩えるなら、酔って、不安を忘れようとして、
ますます、覚めて、不安を覚えるようなものだ。」


『沙門果経』

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  • 2009/07/28(火) 09:00:45
「私の死んだ後、比丘は、このようにせよ。
他を帰依処とせず、自己を帰依処としなさい。
自我を帰依処とせず、法則を帰依処としなさい。」

「周りを灯明とせずに、自らを灯明とせよ。
自我を灯明とせずに、真理の法を灯明とせよ。
アーナンダよ、そのためには、如何にすべきか。」

「このように、正念して、正智すべきである。
身に対して、正しく念じて、渇望を断じなさい。
受に対して、正しく念じて、渇望を断じなさい。
心に対して、正しく念じて、渇望を断じなさい。
法に対して、正しく念じて、渇望を断じなさい。」

「こうすれば、現在にも、わたしの死後にも、
周りを灯明とせず、自らを灯明に出来るだろう。」


『大般涅槃経』

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  • 2009/07/28(火) 09:10:39

法(真理)の施しは、一切の施しに勝つ。

法(真理)の味わいは、一切の味わいに勝つ。

法(真理)の喜びは、一切の喜びに勝つ。

渇愛の滅尽は、一切の苦しみに勝つ。


『法句経』

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  • 2009/07/28(火) 09:16:38
菩薩 − そのようにここに自己が寂静に住する者 −
彼は、昔の仏により〔正覚へ〕授記されたものである。
「私は等至〔に入定〕した」とか「〔等至から〕立った」という
〔諦執による〕慢心が無い。なぜかというと、
〔蘊など一切〕法の〔、勝義として空たる〕自性を遍知し〔、心一境に専注し〕ているからである。
そのように行ずるなら、諸々の善逝の〔説かれた〕智恵を行ずる。
彼は〔諦執による〕行無きことが行であるとよく知っているから、
およそ行ずる法 − それをもまた、〔勝義として〕認得することにならない。
これが、最上の般若波羅蜜を行ずることである。


『宝徳蔵般若経』

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  • 2009/07/28(火) 09:25:50
比丘よ、

常に意識を傾注している者として、歩くように。

常に意識を傾注している者として、立つように。

常に意識を傾注している者として、坐すように。

常に意識を傾注している者として、臥すように。

常に意識を傾注している者として、この身体を曲げるように。

常に意識を傾注している者として、この身体を伸ばすように。

上に、横に、後に、地上における赴く所のかぎりにおいて、

諸々の法(もの・こと)と心身を構成する五つの集塊(蘊)の生滅の道理を、

まさしく、 あるがままに観察する者――

このように住する熱情ある者を、寂静の生活者を、心が高ぶらない者を、

心の寂止において適正なる者を、常に気づきある者として学んでいる者を、

そのような類の者である比丘を、賢者たちは「常に自己を精励する者」と言う。


『自説経(ウダーナ)』

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  • 2009/07/28(火) 09:42:16
阿難よ、知るがよい。如来のさとりは、はかり知れない尊い智慧をそなえ、

人々を限りなく導くのである。その智慧は実は自在であり、何ものにもさまたげられない。

わずか一度の食事によって限りない寿命をおたもちになり、しかも喜びに満ちあふれ、

お姿も清らかで、輝かしいお顔も気高く、少しもお変わりにならない。

なぜなら如来は禅定と智慧をどこまでもきわめ尽し、すべてを思いのままにする力を

得ておいでになるからである。

阿難よ、わたしはこれから

そなたのために詳しく説くから、よく聞くがよい。


『無量寿経』

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  • 2009/07/28(火) 10:07:00
口奄訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶
オン カカカ ビサンマエイソワカ


真言

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  • 2009/07/29(水) 08:23:30
色は匂へど 散りぬるを

我が世誰ぞ 常ならん

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見じ 酔ひもせず


『夜叉説半偈』

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  • 2009/07/29(水) 08:31:44
心が動くと、真我は、心の作用と同化して、

心が止まると、真我は、心の作用と分離する。

分離をした、本来の真我は、純粋観照者である。


『瑜伽経』

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  • 2009/07/29(水) 08:46:36
貪れば貪るほど、自らの欲は適わなくなり、

怒れば怒るほどに、自らの心は怯えてしまう。

酔えば酔うほど、自らの頭は悪くなってしまう。


『宝行王正論』

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  • 2009/07/29(水) 08:53:03
「入出息を整えられると、四念処を修める。
四念処を修められると、七覚支を修められる。
七覚支を修められるとき、離解脱を修められる。」

「では、入出息を整えるには、如何するか。
長く吸っていれば、長く吸っていると考えて、
短く吐いているなら、短く吐いていると考える。」

「心が動いているなら、心が動いていると、
喜びを感じていれば、喜びを感じると考えて、
憂いを感じているなら、憂いを感じると考える。」

「心を止めているなら、心を止めていると、
無常を観じていれば、無常を観じると考えて、
離欲を観じているなら、離欲を観じると考える。」

「では、四念処を修めるには、如何するか。
身体を認めるときは、不浄を観じると考えて、
感覚を見とめるときは、皆苦を感じると考える。」

「何を行うときも、何を為しているときも、
意識を認めるときは、無常を観じると考えて、
法則を見とめるときは、非我を感じると考える。」


『入出息念経』

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  • 39
  •  
  • 2009/07/29(水) 15:53:40
H


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  • 40
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  • 2009/07/29(水) 16:18:15
「     」

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  • 41
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  • 2009/07/30(木) 11:57:56
汝の第一の軍隊は欲望であり、
第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢餓であり、
第四の軍隊は妄執といわれる。
汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、
第六の軍隊は恐怖といわれる。
汝の第七の軍隊は疑惑であり、
汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、
誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、
また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。

ナムチよ、これは汝の軍勢である。
黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。
勇者はうち勝って楽しみを得る。



『スッタニパータ』

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  • 42
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  • 2009/07/30(木) 12:59:43

知慧なき者に、瞑想は存在しない。

瞑想なき者に、知慧は存在しない。

彼において、瞑想と知慧とがあるなら、

まさに、彼は、涅槃の現前にある。


「ダンマパダ」

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  • 2009/07/30(木) 13:05:18
そこで、
(1)数、(2)追随、(3)接触(4)、据置“すえおき”、(5)省察、(6)還滅、
(7)完全なる清浄、しかして、(8)それら(還滅することと完全なる清浄)を観ること、という、
これが、意を為すことの手順となる。そこで、
(1)「数」とは、まさしく、〔入息と出息を〕数えることである。
(2)「追随」とは、〔入息と出息に気づきが〕随伴することである。
(3)「接触」とは、〔入息と出息が身体と〕接触した場である。
(4)「据置」とは、〔瞑想の境地に〕専注して止まる〔心の統一〕である。
(5)「省察」とは、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観)である。
(6)「還滅」とは、〔煩悩を還滅させる、聖者の〕道である。
(7)「完全なる清浄」とは、〔聖者の〕果である。
(8)「しかして、それらを観ること」とは、注視である。


『清浄道論』

ここまで見た
  • 44
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  • 2009/07/30(木) 13:16:50

菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い

仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか

心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ

明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか


『六祖壇経』

ここまで見た
  • 45
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  • 2009/07/30(木) 13:22:35
「比丘達よ、もし、独り静かな森に赴いて、
心が挫けてしまむならば、私の心を仰ぎ見よ。
仏の心を仰ぎ見るなら、恐怖が消え去るだろう。」

「比丘達よ、もし、仏を仰ぎ見れないなら、
法を仰ぎ見よ、もし、法を仰ぎ見れないなら、
僧伽を仰ぎ見よ、すぐ、恐怖が消え去るだろう。」

「仏と法と僧を念じるなら、恐れは消える。
汝らが抱くべきは、恐れでなく、畏れである。
三宝は、最高の福田であり、至福の源泉である。」


『帝釈相応』

ここまで見た
  • 46
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  • 2009/07/30(木) 13:39:05
我々は、存在として、外に見とめるものを、
認識して、概念として、内に認めるのである。
我々は、存在そのものを、見とめる訳ではない。
そう考えると、世界の実在など考えられなくなる。

世界は、分かれたものが、集められている。
現実というものが、実在している訳ではない。
現実とは、過去による、現在の解釈に過ぎない。
それゆえに、現実が実在するとは、考えられない。

この世界は、現実的である具体的なものが、
確かな法則に従い、連続しているだけである。
たとえ、確かな法則と無関係な状況を作っても、
その結果が、現実に連続することは、絶対にない。

現実は、過去による現在の解釈に過ぎない。
ところが、現実を、実在と錯覚した場合には、
確かな法則に従ってないように、見えてしまう。
しかし、それすら、そう解釈しているだけである。

現実とは、明瞭な真理を覆すものではなく、
更に言えば、曖昧な真理を覆すものでもない。
もし、現実というものが、存在すると考えると、
明瞭と曖昧が融け合さった、現実が消えてしまう。

『中論』

ここまで見た
  • 47
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  • 2009/07/30(木) 14:12:59
さらに、このように、考えないとならない。これ以下、
汝とは、主体たる心のことであり、私は真我のことであり、彼は自我のことである。

「汝らは、彼の為に、輪廻に苦しめられた。よって、汝らの苦悩を、全て彼に背負わせて、
彼の安楽を奪い取り、地獄に落とすべきである。」

「ああ、汝らが、利己を追求している間に、無数の劫、無量の時が、過ぎ去ってしまった。
その間、汝らは、膨大な苦悩を得ただけである。」

「故に、私の要請に従い、汝は利他を為せ。仏の法が、決して、汝らを裏切らないように、
私の教えは、決して、汝らを裏切ることはない。」

「彼は楽しいばかりで、他は苦しいばかり、彼は尊く他は卑しい、彼は動かない他が働く。
このように見抜いたら、汝らは彼らに嫉妬せよ。」

「彼を楽から離して、彼に苦しみを与えよ。彼が、いつ何をするか、その欺瞞を観察せよ。
彼らは、自らの楽の為に、汝らの苦を厭わない。」

「他の罪は彼に着せ、彼の罪は仏に報せよ。他の者の名声を称えて、彼の名声を曇らせよ。
卑しい奴隷のように、彼を衆生の為に酷使せよ。」

「彼の為に、他を害した、全ての汝の罪を、他の為に、彼を害して、全て償わせるべきだ。
彼を汝の支配に置け、命に背くなら罰を与えよ。」

「ああ、心よ、私が、このように言っても、汝は、彼を許そうとするだろう、覚えておけ。
汝が彼を罰しない時は、私が汝を罰するだろう。」


「入菩提行論」

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  • 48
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  • 2009/07/30(木) 14:16:46
更に、ヴェーダを学ぶ者には、このように説く。

「アドワイタ哲学では、一つの実在を説く。それは、アートマンであり、無自性ではない。」
「実体なき空をして、実在と考えても構わない。」

「真我が実在している、無我などではない。」
「自我が消えて、真我が現われると考えるか、我が無くなると考えるか、その違いに過ぎない。」

「サーンキャ哲学では、二つの実在を説く。プルシャとプラクリティ、一元などではない。」
「実体のない空を、主体と客体に分けても良い。」

「完全に客体を離れると、主体は独存する。」
「客体が消えるときに、主体も消えてしまう。その独存を、主体と呼ばず、空と呼ぶのである。」


「入菩提行論」

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  • 49
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  • 2009/07/30(木) 14:20:16
「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、
つまり、真我なるものは、存在するのですか。
それとも、真我なるものは、存在しないですか。」

「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。
無我を観じられないと、真我を感じられない。
これは、確めるべきであり、語るべきではない。」

「布?婆樓経」

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  • 50
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  • 2009/07/30(木) 14:36:58
この世界は、我が意識による、幻想であり、この世は、我が物ではない、非我に過ぎない。
このように、仏陀は、非情な真実を説き明かす。

我は存在するとか、我が物が存在するとか、これらの見解は、真理から見れば誤りである。
智慧をして見れば、両者は共に存在していない。

五蘊とは、我意識から生まれたものであり、自我の意識とは、真実から見れば幻想である。
種が幻想なら、どうして、芽が真実になろうか。

五蘊というものは、真実のものではないと、このように考えると、我意識が絶たれていく。
自我意識が絶たれると、五蘊は存在しなくなる。

例えば、鏡の中の者が、実在しないように、自我が映した五蘊も、実際は存在していない。
我に捕らわれなければ、蘊も捉えられなくなる。

例えば、鏡を見ないと、己が見えないよう、五蘊に映さなければ、自我を観ることもない。
蘊に捕らわれなければ、我も捉えられなくなる。

仏陀から、このような、教えの極意を聞き、長老アーナンダは、智慧の眼を得たのである。
そして、自らもまた、他の比丘衆に説いている。

五蘊に囚われるから、我意識に捕らわれる。自我に捕らわれるから、カルマが生じてくる。
そのカルマによって、苦しみの生存が生まれる。

あたかも、火の車輪が、次々に巡るように、業の輪には、始りもなければ、終わりもなく、
交互に因果を為して、我と業と生を巡り続ける。

自他に於ても、過去や現在や未来に於ても、自我が生じないため、自我が滅ぼされていく。
それから、業が滅して、それゆえ、苦が滅する。

「宝行王正論」

お絵かきランド
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