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  • 2012/04/09(月) 22:56:52
>>493
お子さんも素晴らしい陸曹に、きっと
なって下さるでしょう。

私は床屋なので、責めてもの奉仕と考え
避難所に通っては、みなさんのアタマを刈っていた昨年の今頃・・・
つくずく思いました。自分には、他に出来ることがない、何一つない

自衛隊、本当に凄かったです。
日々の重労働の他に、調理もする。湯気の立つ白いおにぎりは
一瞬にして皆を笑顔にしてしまった、魔法の様でした。
茫然とした、うつろな目の婆さんの背中に手を当てがい、ゆっくり、ゆっくりと話を聞いていく。

またある時は外で
コンサート・・・何故かは解らんのですが「星条旗よ永遠なれ」
ピッコロ隊の音色は今も、多分一生、耳に残ります。美しかった

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  • 500
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  • 2012/04/09(月) 23:07:46
ひとときは 神をも恨みし人々の
数多集へり 塩釜様元朝

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  • 501
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  • 2012/04/09(月) 23:14:10
>塩釜
どうして今"塩竃"になったのかわからない。

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  • 502
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  • 2012/04/10(火) 00:18:51
今さらかもしれませんが…岩手県北部なもんで、地震=津波、という感覚はなかったです。
宮古や久慈の親戚訪ねて、津波の現状や恐ろしさはわかってたつもりでした。(漁具を流された程度で人災はなかった)

ただ、会社をやめた方がその後大船渡にいて、一旦避難したがなんかを取りにまた海辺に行って行方不明、というのをついこの間聞きました。(そんなに親しくはなかったけど、知ってる人が死んだのかと思ったら泣けました。)
内陸の人間でも防災教育は大事なのかも、と感じましたよ。内陸の人間は地震=津波じゃないです。でもいつ何時どこで遭遇するかわからないから、普段の気持ちが大事なのかなぁと。

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  • 503
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  • 2012/04/10(火) 00:27:14
>>499さん

あの頃
理容、美容の方々のボランティアありがたかったよ

頭べたべただと病気になりそうだった(実際不健康らしい)
シャンプーやさっぱりカットでかなり元気でた

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  • 504
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  • 2012/04/10(火) 12:15:30
>>502
母の実家が宮城県の沿岸部です。
そちらでは代々漁師をしておりますが、それでも地震=津波の意識はそんなに高くなかったようで。
地震のあとも逃げることなく家の片付けを始めたとかで津波が来てから焦ったとのことでした。
意識の持ちようの部分もありますが、無事だったとはいえ代々漁師をした家の人間ですらこういうことがあるので、
内陸沿岸を問わず普段の意識は高く持っていなければなと、502さんの書き込みを見て思いました。

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  • 505
  • RareBear77
  • 2012/04/10(火) 19:15:02
あのとき、全国の赤キャップ諸氏が東北板に終結したのを覚えているかい?
ある程度、非常時対応は考えてはいたのだけど、、、。

いざとなったとき、本当にありがたかった。


今だから、言おう。
去年の今頃、仕事上どうしてもアルカリ単1電池が20本必要だったんですよ。
でも、どこに行っても売っていない・・・・。

そんなおり、近畿板の管理人「近畿雀」さんがミミをそろえて20本用意してくれたんです。
まじ、うれしかったですわ。

「はたはた君φ」さんも、「これしか・・」といいつつも用意してくれました。
改めて、ありがとーです。

ちょっと、管理人間の絆を感じましたですよ。

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  • 506
  • RareBear77
  • 2012/04/10(火) 19:18:43
あら、誤字ったな。
喘息のせいにしてちょ。

集結ね、集結。

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  • 507
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  • 2012/04/10(火) 23:40:25
初めて書き込みます

@宮城県大崎市
いずれ来ると言われていたけれど、地震に対して何の備えもない状態の被災はほんとに切羽詰まってた。

3月11日は夫が13日から長期出張があったため、岩手は花巻市実家に、夫帰宅後向かうはずだった。
少しの作り置きおかずと豚汁、ご飯。
それを残して空っぽだった冷蔵庫。それがのちに、後悔のもととなる。

地震がきた時は、2階寝室で子供達の寝かしつけをしていた。前日にも大きめの地震があったし、以前にも大きな地震は経験していたので「ああ、またか…」と、のんきに構えてたら、激しい揺れに立ち上がれず動揺してしまった。
「う、動かないで!」と、叫ぶのが精一杯で、床に伏せた身体はゆれのままに動く。生まれて初めて地震でいのちの危険を感じた。
揺れが収まったと同時に、階下和室に避難した。寒くて仕方なかったが、ふとんで子供らをくるんだらあったかさと安心からか、長男と次女は眠ってしまった。
長女は余震のたびに怯えていたので背中にくくりつけ、外に出たら雪が降っていた。

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  • 508
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  • 2012/04/11(水) 00:09:56
>>507 つづきです

前後して、子供達を避難させた直後外に出たら、隣家の給湯器が倒れて水が吹き上げていたので、慌てて伝えに走った。
その時、4号線を眺めたらものすごい渋滞。夫は帰ってこれるか、不安になる。
そのあと、子供達が眠り、あたりを見るために外に出た時、アスファルトに見慣れぬ亀裂が走っていた。

近所の人たちは、外に出て呆然としていて私も立ちすくんでしまっていた。
見知らぬかたに何度か声をかけてもらい、励まされて中に戻ったら長女も眠っていた。
その時にようやくラジオの存在を思い出し、リビングダイニングに。
キッチンは割れた食器が散乱していたが、思ったよりひどくはなかった。L字金具で固定してた棚も倒れずにいた。
ラジオを抱え、和室でスイッチを入れると津波10m超到達、と聞こえてきた。
夫の実家は海から近くはないが高い波が到達している状況に心配になった。

辺りが暗くなり始めた頃、夫が帰宅。裏道を使ったら渋滞には巻き込まれずに済んだようだった。
当然ながら停電して辺りは本当に暗く、我々は 結婚式に使った特大キャンドルを明かりにした。
夕食は、ほぼ空の冷蔵庫にあったひやご飯にお湯とケチャップをかけて娘たちに、菓子パンを長男に、大人は味付けが途中だった豚汁を食べた。
子供らがアレルギーがあり、かなり限定された食料もなくなってしまい、明日はどうなるのかわからず、体を寄せ合って眠りについた。

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  • 509
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  • 2012/04/11(水) 10:59:07
>>508 続きです

翌朝は5時に目が覚めた。
食べ物や情報を求めて、近くの公民館に夫がいくと、暖かなおにぎりを家族分もらって帰ってきた。うちは非常用の調理器がなくオール電化だったため、暖かい食事は本当に有難いものだった。海苔と塩のおにぎり、空腹だった子供達はあっという間に食べ切ってしまった。

公民館で得てきた情報は、
国道は混んでいて移動が難しいだろうという事と公民館の非常用貯水池が半分ダメになったということ、近所のコンビニは開いていたが多分もう品物はないだろうということ。

たくさんのアレルギーがあり、食べ物が限られた娘たちを考えるとここでこのまま避難生活は難しいと判断。北上して岩手に行くことに。
その旨を区長さんに伝え、残っていた塩や海苔、砂糖、米を渡し、「気をつけて」と送り出されて岩手へ向かう。

途中、動いている信号があったがほとんどが止まっていた。そのために4号線はほぼハイウエイ状態。信号が動かない場所では車が混雑、国道に入りにくい状態。道中、ガソリンスタンドでも混雑していた。
所々、アスファルトは盛り上がっていたり、酷いところは段差があったり。早々に補修もされた場所もあった。

ガソリンスタンド渋滞を除けば、予想より移動はスムースに思えた。
移動中、一関付近で高速と並走している箇所で何台も消防車が走っているのを見た。埼玉、千葉…たくさん。
ワンセグでは、気仙沼の火災や津波で水浸しの宮城沿岸の地域が映っていた。

岩手、水沢金ヶ崎あたりになると車が少なく感じられた。ガソリンスタンドやコンビニ、大型量販店には車や人は見たけれど宮城県県北より少ない感じだったのは片側二車線だったから?

実家には昼過ぎについた。
停電して暗かったけれど、田舎も田舎なので当面の米や野菜の蓄えはあって、ガスも電気とは別につないだガスコンロがあって調理は大丈夫だったという。
祖母が早速、暖かな味噌汁や作り置きのおかず、なぜか赤飯を作っていたので娘たちは大喜びで食べた。長男は、食べながら地震怖かった、と身振り手振りで祖母に話していた。

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  • 510
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  • 2012/04/11(水) 13:36:44
>>509 続きです。長々すみません。

実家では、弟たちの勤め先の話を聞いた。
上の弟の勤め先では、釣り上げていた材料が落ちてきたらしい。けが人はなく、電気が使えないうちは休業らしかった。
下の弟の勤め先は食品加工で、やはり電気がないと仕事ができないので、しばらく休業となった。
上の弟のお嫁さんは、勤め先から出たあとに職場の天井が落ちたといっていた。

妹は4月から仙台の専門学校に行くことになっていたが、この状況で読めなくなってしまっていた。

母は、揺れのあと、職場の冷蔵庫が止まったので残り材料すべてを炊き出しにして、その後は震災支援のくる人の炊き出しに加わっていた。

夫は、岩手について翌日、出張先に連絡を取るため、自宅に戻る。
祖母が赤飯をたくさん詰めたパック
を4つ、おにぎりにドリンク剤を20本持たせて送り出した。

***

先日、
実家に帰省したら赤飯を作って食べさせてくれた祖母。

食べた夫は「地震の時を思い出す」と、呟きながら食べていました。

あのあともいろいろとありましたが
3月11日12日のできごとは忘れられません。

p.s.
12日は親友の誕生でした。彼女も元気です。地震直後電話がつながった時、「明日、誕生日どころじゃないね」と、言っていたのが何故か頭に残ってます。

今年も祝い忘れててごめんなさい。

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  • 2012/04/11(水) 22:57:33
>>510
最後の一行ワロタ

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  • 2012/04/13(金) 19:58:41
ばあさんは
必至で、んんWWW
大切なおばあちゃんだな

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  • 2012/04/14(土) 09:45:23
作業現場を抱える職場にいた時に地震発生
ライフライン寸断で現場はあえなく停止するも
現場職員の懸命の復旧作業で1週間で部分再開
普段ダラダラしている現場職員が頼もしく見えた

一方で
普段から重度の精神疾患が疑われていた
事務方の管理職が暴走
現場復旧に関する職場の会議に一切参加せず
全て独断で勝手な行動を開始
上司の厳重な注意も黙殺し
混乱している職場に更なるマイナスの要素を撒き散らした
本人はこれで
自身は職場でただひとりの役立つ人間だと信じて疑わず行動
交通遮断の中苦労して職場に出てきた職員に対し
遊びに来る奴は邪魔だからとっとと帰れと延々と罵倒
ある意味地震以上の戦慄を覚えた
有事の備えというのは組織の人事にも当てはまると痛感した
それと
普段からおかしい人は決して有事に役立つことはなく
むしろ普段以上に狂うということも思い知らされた

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  • 2012/04/14(土) 20:19:53
ハロワにて地震遭遇
次は俺の番だと番号札持って座ってたら強い揺れ
机の下に潜れとの職員の言葉があったが机が無いので諦める
目の前で若い女が怯えていた
それを見ていた俺は半笑いしてたと思う
いまだに無職

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  • 2012/04/15(日) 09:30:50
高田マイヤの屋上にいたけど親子が流されてるのはきつかった

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  • 2012/04/15(日) 13:46:11
一生忘れられない光景だな

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  • 2012/04/17(火) 23:38:43
自衛隊の皆さんが救世主に見えた
実際そうだったけどね

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  • 2012/04/18(水) 08:51:01
自衛隊のジープに乗って大浴場へ行った。
助手の隊員さんが歌うたって踊ってくれて
車内を和ませてくれた。ありがとう

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  • 2012/04/18(水) 21:04:04
いやあひどかったなああのとき@大槌

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  • 2012/04/21(土) 14:36:58
>>514  同意

普段から真面目な人は、より真面目になったし、
普段からいい加減な人は、よりいい加減になった。

余震があるたび、連絡が取れなくなってサボってる奴いて困った。
こっちは安否確認出来なければ探しに行かないといけない。

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  • 2012/04/24(火) 11:56:01
遅いレスですが

>>213
> 訓練高揚のためにも避けては通れぬ疑問であろうけれども、、。
> 「忘れた頃の災害」に遭って逃げ遅れた人に非はないと考える。

非難するような書き方になってた。ごめん。
そういうつもりはなかった。
逃げなかったのを責めるんじゃなくて、逃げてくれなくてくやしい、って気持ちなんだ。


友人が亡くなった後、友人が無事だった夢を見て
「俺はバカだなぁ、葬式なんかしちゃったよ!早くみんなに生きてたって知らせなきゃ!」
ってはしゃいで、目を覚ました後落ち込んだりしたもので。

馬鹿な夢を見た。
けど、夢を見られるだけ幸せなのかも、と思ったりもする。

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  • 2012/04/24(火) 12:05:07
間違えました。
531は>>230へのレスです。

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  • 2012/04/24(火) 21:36:10
>友人が亡くなった後、友人が無事だった夢を見て
同じような夢を何度か見たよ。
うなされて「早く逃げろっ!」って叫んで目が醒めるんだわ。
震災から一年、無意識に気持ちを精一杯張り詰めて耐えてきたらしい。。心が疲れてる。
正直疲れた。休みたい。
PTSDなんだろうね。

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  • 2012/04/25(水) 06:07:43
@宮城県石巻市(旧北上川東岸)

仕事が夜勤なので、自宅の茶の間にて遅い昼食を取った直後に地震に遭遇。
不気味な地鳴り(初期微動)の後、激しく長い揺れが起こる。
とっさに母親(70代)の上に覆いかぶさり「大丈夫、大丈夫」と話しかけながら揺れが収まるのを待った。
やっと収まってきたと思ったら、更に大きな揺れがやってきたので最悪の事態が頭をよぎる。

何とか揺れが収まり一安心した所で、とりあえず家の被害状況を確認してみようと外に出た所、
防災無線から「大津波警報」の放送が聞こえてくる。
すでに他界している父から、昭和35年の「チリ地震津波」の時は道路が濡れた程度で被害はなかったが、
津波が北上川を遡上して家の前まで到達したがと聞かされていたので、一応避難する事を即決。
家の中の母親に状況の説明と、片付けは後回しにして避難所に行って警報が解除されるまで待機する事を伝え、
(あくまでも津波の被害はないという前提だったので)貴重品等は持たずに防寒着を羽織っただけという
身軽な格好で家を出る。


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  • 2012/04/25(水) 07:22:35
続き(かなり長くなりそうです。よろしかったらお付き合いください)

幸いな事に自宅から数分の所に避難所が2ヶ所あり(しかも国道を挟んで向かい合わせ)
畳敷きの部屋がある市立の幼稚園兼保育所が併設されている福祉会館へ行ったところ、
会館の前で館長さんが「6メートルの津波が予想されているので二階建ての当館では対応できません。
向かいの小学校(四階建て)の三階以上に避難してください。」と指示をしていたので、それに従い小学校へ向かう。

小学校で先生に三階の教室に案内されると結構な人数が既に避難しており、ラジオから被害情報が流れていた。
ラジオの持ち主から岩手県に津波が到達した事(高さ等はこの時点では不明)を教えてもらい、同じ教室にいた
近所の方々と情報交換をしながら200メートルほど先の北上川を眺めていた。
(川岸からの道路が向かいの幼稚園の園庭前まで続いており、小学校から直視できる)

地震からおよそ1時間が経過したあたりで川岸から「波」というより「浸水」という表現がふさわしいくらい穏やかに
水が溢れてきた。「どこまで到達するかな?」と、あくまでも津波の被害はないだろうという前提で気軽に眺めていたが
浸水が止まる気配は全くなく、幼稚園の園庭と国道を越えて遂に小学校の校庭まで流れこんできた。

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  • 2012/04/25(水) 08:29:27
その3

「ちょっとこれはまずいんじゃない?」と思ったのも束の間、目の前の国道では渋滞で動けなくなっていた車が浮き上がり、
人を乗せたまま次々と流れていった。誰も車から降りようとはしてなかった。
幼稚園の隣にある消防団の車庫前で待機していた消防車も流れていく。消防団員は目の前の歩道橋に登って無事のようだった。
水位は更に上昇し、3分も経たないうちに小学校の一階部分は完全に水没した。(後に計測したら約3.5メートルでした)
遂に一部の家も流され始め、船も国道に流れて来ているのだが自分の心は現実を受け入れる事ができず
リアルな特撮映画をながめているかのごとく、何も考えられない、考えてもいない状態がしばらく続いた。(と思う)

その後、多少の変動はあるものの、水位が安定してきたので「命の危険はなくなったかな?」と考え始める。
そこで初めて我に返り「我が家は?」と視線を自宅へ移した。(自宅は消防団車庫の裏)
自宅は二階部分しか見えないが動いている様子はなく「とりあえず建っているけど中はダメだな」と思った。
とりあえずは水が引かないと、どうにもならないことだけは理解できた。

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  • 2012/04/27(金) 02:36:55
そいで?

水が引いてからはどうしたの?
家の中の様子は?

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  • 2012/04/27(金) 18:31:05
あの時は、山の中で炭作っている人、最強だと思いながら生活していた。
津波はこないし、湧き水飲んで、暖かい。そして米を野菜作っていれば
怖いものなしだって。そういうことを何度も思いながら
長いスーパーの列に並んだ。

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