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八戸の新聞社も同じような募集してるね。

人それぞれ311には思うところあるからなぁ。
ttp://cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/form/sinsaiepi/sinsaiepi.htm

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  • 210
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>>203
おう、自分も涙がでた。
ありがとう。

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  • 212
  • 恋するゆきんこちゃん
  • 2012/02/14(火) 13:35:18
石巻大川小学校のことを、思うと、言葉にならない。あと5名…教員、子供たちが早く見つかりますように、祈っています。

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岩手県内陸
異常な縦揺れに立っていられず、普段なら机の下に入るところだが外へ出た。
いつもの横揺れではなく突き上げる揺れに怖くなり、2時間は家に入れなかった。

こんな強く異常な揺れなのに、どうして沿岸部では逃げてくれなかったのか、と暗澹たる気持ちになる。

だが、震源地から離れたところのほうが瓦が落ちたりものが崩れたりと「見える異常」があるので、
案外沿岸のほうは地震だけなら被害は少なかったのか?とも思う。
沿岸の人はあまり異常さを感じなかったのだろうか?

震災前の非難訓練で半数近くが参加してなかったという記事を見ていたから嫌な予感はしていたが
当たって欲しくなかった。逃げて欲しかった。

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  • 214
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  • 215
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宮城県岩沼市
地震の時はだだっ広い駐車場にいたので、物が落ちたり倒れたりの室内よりは恐怖感は薄かった。
それどころか、一種の興奮状態になり、知らない人に話し掛けたりした。そして何故かラジオを聴くとかワンセグを見る事に気が廻らなかった。
母と家に帰り、余震の恐怖の中、明るい今のうちにと家内外の片付け、そして買い出しに忙しく動く。
暗くなり、もうする事も無い中ようやく落ち着いてラジオを聴く。
各地の津波被害に初めて触れ、ようやく妙なテンションが醒め、事の重大さに気付くのはこの頃。
そして、この頃既に山元町の叔父と従兄弟は津波で亡くなっていた。
後日、夫と息子の死を知らせに来た叔母を前に母と私もぼろぼろ泣いた。

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  • 217
  • 青鹿
  • 2012/02/14(火) 21:55:31
元気が出たり心が安らいだ曲、は皆さんからありました。
歌がこんなに励みになるとは思いませんでした。

>>195
紹介ありがとう。
お住まいのあの日の様子をもう少し聞きたかったと、、、・

>>196
生きていれば病気・ケガあり得るわけで、、、めったに無いことですが。
「ひとえに風の前の塵に同じ」

>>201
どの親も泣いて、子供たちは小さいながらも噛みしめて歌ったんじゃないかと、。
わかりやすい詩がいいです。

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  • 2012/02/15(水) 08:49:57
歌っていえば、ぽぽぽ〜んをたまに聞くと
当時を思い出してうつになるのは俺だけ?

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  • 225
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  • 2012/02/15(水) 09:57:24
私は地震があって、テレビにL字情報が出るとウツになります。
5月頃まででしたっけ?テレビに出続けていたのを思い出す。
ポポポはアニメだったせいかあまりに奇妙な感じのせいか、トラウマにはなってないみたい。
雑談スマソ

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  • 226
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  • 2012/02/15(水) 11:32:16
私も、ぽぽぽぽ〜んを聞くと、当時の異様な雰囲気を思い出します。

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  • 227
  • RareBear77
  • 2012/02/15(水) 12:36:51
ぽぽん"だけ"のネタはこの辺にしてください。

(続けますと趣旨違いの勘違いさんがお見えになっちゃいます)

体験スレですから、それを絡めたご自身の体験を語っていただけると幸いです。

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  • 228
  •  
  • 2012/02/15(水) 16:58:10
@東京足立区
移住先の広野町から前日の10日に6号海岸線沿いを通って
一旦、東京にもどっていました。
さあ残りの荷物を運んでしまおうって感じで…。

地震の時は国会中継を見てました。(今も見て怒りに燃えてます。)
12階のマンションは信じられない揺れで…
両隣の住民もあわてて廊下にでてきて久しぶりにご挨拶しました(笑

その後はテレビの津波の映像に固まって…
でも福島県浜通り、いわき方面の事が全く報じられず…
あげく、原発事故…ず〜っと起きてた気がします。

家は大丈夫か…隣のおばあちゃん大丈夫か…
心配で心配でたまりませんでした。
約1月後、常磐道が四倉まで開通した日に
やっと様子を見に行くことができました。

マスクにレインコートに帽子の完全武装、
車の窓なんてぜったい開けない…
自宅に行くのに水や食料かかえて…それも日帰りだけど(笑)
開通したとはいえ、あちこちガタガタしていて
ジェットコースターっぽい常磐道を降りると警察の検問があった。
他県の警察で地震被害の状況、岩とか落ちて通行止めなってないか聞いたけど
あんまりわかってなかった…地理がわかんないから、仕方ないね…

それから月一で日帰り重ねてますけど
田植えの季節に涸れた田んぼ、
だれも取らない柿の実
関連企業の事務所になったスーパー
作業員の町になってる…

広野は避難解除になったから帰れるというけど
原発は本当に…もうこれ以上暴れない?
余震があったら…壊滅しない???
温度が上がったってニュースや、浜通りに地震があるたび
ものすごく不安で泣きたくなります。

命の犠牲にくらべたら、どーって事ないって自分に言い聞かせてるけど…

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  • 229
  •  
  • 2012/02/15(水) 19:57:06
岩手一関に住んでます。一関も地震の多い所で、30年以内に宮城県沖地震が来ると
いうのは常に頭にありました。
あの日は国会中継中にTVの緊急地震速報が出て、「あ、地震来るんだ・・・。」と
思ってるうちに揺れがきて、その辺で携帯(au)の地震メールが鳴っていたと
記憶してます。
家は一関ICにわりと近いのでひっきりなしにパトカーや消防車などのサイレンが
聞こえてきて「この先どうなっちゃうんだろう」と不安になったりもしました。
一関ICからは気仙沼や陸前高田に向かう緊急車両がたくさんあったでしょうから
ガソリンスタンドでなかなかガソリンが入れられませんでしたが県外ナンバーの
緊急車両や警視庁の車、自衛隊の車などをみると「ホントに遠くから来てくれて
ありがとうございます(涙)」って感じでした。
停電して余震が酷いので車中泊が3日続きました。車の中で寝ていると窓が凍ってきて
寒かったです。でも月がきれいでしたね・・・。
14日だかに電気が通った時は泣きたいくらい嬉しかったですね。

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  • 230
  • 青鹿φ
  • 2012/02/15(水) 20:13:01
>>208 (>>162,186 のつづき)
HCの臨機応変な計らいで揃えることができた、、役所も見習って欲しいところ。
「家に寄って」と声をかけてくれた方は神様だね。
ガソリンまだ心配なかったのかな?

>>209
tvやラジオの震災関連から一時期逃れたい気持ちがあったが、
(あれは興味をそそるような番組制作側が悪い)
続けてもらいたいと思っています。

>>212
1年で一番川の水が少ない時期らしいし、3月からは釣り解禁にも、、、。

>>213
訓練高揚のためにも避けては通れぬ疑問であろうけれども、、。
「忘れた頃の災害」に遭って逃げ遅れた人に非はないと考える。

>>216
家に帰ってきて後片付け、灯り・暖房の準備、夕飯、、
家族それぞれの出来事を聞いたりして、それからラジオに耳傾けるといい時間、。
自分も重大さを知るまでは時間がかかりました。

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  • 231
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  • 2012/02/15(水) 20:19:52
>>229
おととしまで一関に住んでいました。

2008年の岩手宮城内陸地震もそちらで体験して、人生で体験した中で最大の揺れだと当時は思いましたが、
東日本大震災はまるで比べものにはなりませんでした。

去年の五月に一関を通って気仙沼に行きましたが、
普段なら軽トラやトラクターがのんびり走る国道284号線を
自衛隊の車輪が次々と通る光景は頼もしくもあり悲しくもあり…。
気仙沼や陸前高田の知り合いも何人か亡くなりました。
新聞に名前を見つけた時の衝撃は、一生忘れられないと思います。

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  • 2012/02/16(木) 20:32:00
@仙台市
地震後の数日間は?生きるための行動?が続いたなぁ。
停電断水情報ナシのうえ余震多発で寝る気にもなれず、
早朝の薄暗いうちから自転車で給水所やスーパーやホームセンター回り、
飲食物得るためにとりあえず並ぶ。
一箇所に並んだら物資を得られるまで半日かかり、
待ち時間は前後にいる人たちと情報交換、どこのスーパーは自由に買える、
どこのコンビには入れ替え制で10品制限、納豆があった豆腐があっただの、
そのうち店員が出てきて「トイレットペーパー乾電池は売り切れました!
水はお一人2本まで!次の入荷は未定です!」とメガホンで言い出す。
それでもみんな、何か買えるならと並び続けてた。
書いていたら、ついこの前のように思い出されてきた。
3月11日は点検の意味もこめて、非常用のライトと食料で過ごそうと思う。

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  • 237
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  • 2012/02/16(木) 21:02:35
21世紀の日本で、食い物やガソリンを手に入れるために行列が出来るとは思わなかった。
今になって思うと、
「ホントにガソリンは足りなかったのか?」
「食料はどこに行ったのか?」
という検証は必要かもしれない。
供給が滞ったのは事実だと思うが、需要は適正だったのだろうか。
ないない、ということに煽られて、不必要な需要を生んでなかったのか。
今後、このような事態になった時、この経験は活かされるのだろうか。

なんてことを考えてみる。

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  • 239
  •  
  • 2012/02/17(金) 00:51:04
宮城県仙台市若林区荒浜から数十キロ。

うちの家では少しでも揺れを感じたら外に出る習慣を付けていた。
あの日は早朝勤務だけして家でくつろいでたんだ。
少しの揺れを感知し、母と婆さんに声を掛け家を出た。
出て間もなく激しく歪む地面。
アパートが崩れるんじゃないかと思った。

!!

母と婆さんが家から出て来ない。
まだ揺れる中アパートへまた戻ると、母は廊下に座っていた。
婆さんは家具に挟まれていた。
必死の思いで助けおんぶして外へ連れ出した。

ヘリが飛んでいる。
「津波が来ます。」
逃げる手段がないうちら。
知らない人にマンションに招かれる。
助かる。

徐々に家を元通りにし、普段の生活に戻ったのもつかの間。
婆さんは震災の疲れで亡くなった。

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  • 240
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  • 2012/02/17(金) 00:56:50
>>237
必要だったよ。次の予震に備える為にも。

水を汲むにしても、食料を確保しに行くにしても車が必須だったから。
水は1ヶ月出なかったし、給水所は何人家族だろうがならんだ人の分しかくれなかった(6L/人)
買物も一人5点とか、とにかく一家総出で動かなきゃなかった。
先が見えない中で、移動手段を確保する為に必死だったよ。
避難所は飽和状態で頼れそうもなかったし。
TVで放送された仙台や女川石巻にどんどん物資が届く中、町の半分が浸水した
うちの町は町民に物資提供を何回も呼び掛けていたよ。
報道から漏れた知名度低い町では何もかもが足りてなかった。

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  • 241
  •  
  • 2012/02/17(金) 02:19:21
>>237
地震やそのあとの津波で住むところを失って、着のみ着のまま避難所へたどりついた
被災者の方々が一番大変だった、というのは大前提として、ですが…

避難するほどの直接的な被害がなくて、自宅にとどまった人たちというのも、
最初の一週間くらいはかなり大変だったんですよね
ほとんどのところでガスが停まったし、停電も回復までに数日かかったし、さらに
水まで停まって完全に詰んだところもあったし
あっちこっちのスーパーやコンビニ、ホームセンターなどを駆け回って、なんとか
食料や燃料などを確保することで頭がいっぱいになってましたっけ
スーパーはどこも長蛇の列、買えるものは数量制限あり…状況が状況だから、
火を使わずに食べられるものが欲しかったけれど、選択の余地はほとんどなく…

うちはすぐ近くに小学校があって、そこが避難所になっていたので、町内で開いてる
店を探して自転車で走り回りつつ、避難所近隣の住人にも食料配布があれば
とても助かるんだけど、と(ないものねだりとわかってはいますが)思ったこともありましたよ

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  • 242
  •  
  • 2012/02/17(金) 12:34:39
ライフラインに関しては地域によって激しく温度差がありますね。
大震災後、奥山仙台市長が唯一やったのが「ガスの復旧に1ヶ月かかる宣言」
うちは、キャンプ用ガスコンロや食料の備蓄で温かい食べ物にははさほど不自由しなかった。

でも電気と電話が復旧するまで1ヶ月、水道が復旧するまで2ヶ月。
ガソリン、灯油が通常の値に戻り、生活物資が手に入るようになるまで3ヶ月かかった。
つまり6月、凍死する心配がなくなるまでは、灯油は10l2000円のままだった。
石油の供給が安定するまでは半年かかったかな?

いまだにテント暮らしのハイチの苦労を思えば、半年で2chできるまで復旧しただけでも十分。

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  • 243
  • まいね
まいね

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  • 244
  •  
  • 2012/02/17(金) 18:31:06
下着姿で非難する女性がかわいそうだった
仙台のアーケード前でゴルフボール程度の
大きさのおにぎりを3個で1000円で売ってたヤクザ
人間のクズだと思った

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  • 245
  • 青鹿φ
  • 2012/02/17(金) 19:27:55
>>224-226
携帯からの緊急地震速報が苦手。
tv・ラジオからのアラームにも弱いです。

>>228
12Fならば揺れがより強かったでしょう。
地元沿岸のニュースだけ見ていたもので、深刻な原発を知ったのは1週間近くなってからでした。
家畜ばかりか手塩にかけた田畑まで荒れてしまって、、、せつないですね。

>>229
せいぜい2、3時間はあっても、日単位の停電は近頃ありませんでした。
電気に全部頼らないよう、他エネルギーへ分散しておくか、代替え発電を備えたいですね。
(とその時思うのですが… orz)

>>231
>岩手宮城内陸地震
2008年6月に落橋した祭畤大橋が再建開通したのは2010年12月とあります。
今回の大震災で失った莫大なものを取り戻す時間、、、長い道のりですね。

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  • 246
  •  
  • 2012/02/18(土) 06:39:58
地震当日はトラックの運転手をしてました
地震のとき塩釜で荷卸の最中で激しい揺れにあいました
揺れがおさまり急いで多賀城の会社に戻ろうとしたが渋滞で進まず
いつもなら10分程度で着くはずが1時間近くかかった記憶が
その時ラジオは聞いていたがあまりの揺れのため頭がパニックになってて
あまり憶えてなかった ただ憶えてたのは大津波警報が出てた事くらい
やっとの思い会社の目の前に来たところ目の前から真っ黒い津波が来ました
ヤバイと思い急いでUタウンして逃げたがすぐにトラックは津波に飲まれた
運転席まですぐに浸かり窓を開けて荷台に上がりそのまま流された
そこから見た景色は地獄絵図でした 流されてる人々 あちらこちらで助けを求める人々
本当に地獄でした 夜になって近くのコンビナートの爆発の炎が凄まじい物でした
夜が明けてから歩いて太白区の自宅に戻った
本当にこの様な震災はもう来ないでほしい沢山です
今でも揺れると心臓がドキドキして焦ります

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  • 247
  •  
  • 2012/02/18(土) 09:52:23
>>246
太白区って仙台の人か。流される人々を見たんだね。すごいな。

ここまで見た
  • 248
  •  
  • 2012/02/18(土) 17:10:29
私は宮城野区の高砂橋の上で地震に合いました。
高砂橋は、仙台で一番海よりの橋です。「どん、どん、どん」と
なんども橋の上なので、バウンドして、車ごと転倒するかと思いました。
しかしどうにか持ちこたえ、橋から降りることが出来ました。
しかし、橋の上だから異様に揺れたのだろうとあまい考えをしていました。
そして最初にいつもいくカワチに行きました。
カワチの人が、「津波がくるから45号線を越えなければいけない」といいます。
そう聞いても信じられません。川沿いには子供がいっている学校もあります。
そこで東京インテリアとスポーツデポの間の道で様子を見ることにしました。
45号線に向かう道は渋滞していて、私がいたところには6台ほどの普通車と
大型トラックが様子見をしていました。
そしてなんども来る余震を感じながら、知らないおじさんと
大丈夫だろうかと話し合ってました。
おじさんの娘さんは新港でフェリーに乗ることになっていたそうで心配していました。
そして、おじさんが、「ちょっと見てくると」車を海の方へ走らせました。
そして慌てて戻ってきて「津波きたよ」といいました。
そしておじさんは何故か45号線のほうに進んだのです。娘さんを気にしたのでしょうか?
その時、私はいつも給油している太陽石油にパシャっと水が当たるのが見えました。
高さ50cmくらいに見えました。慌てて車に乗ると
さっきまで渋滞していた産業道路を逆行して岩切に抜ける45号線を超える大きな
橋を登りました。それを超えたとき私は生き残ったと思いました。
そのあと、そこから近い小学校に避難し子供の学校に電話しました。
非常時でも学校同士はつながるんですね。
そして津波が来ているので今は迎えにこないようにと言われました。
そこで実家に戻り次の日の昼頃子供を迎えにいきました。
すると学校には避難した人、慌てて迎えていった人のたくさんの車が累々と
浸水した状態でありました。
そして子供を探し出し、車で実家に連れて行きました。
家は床上20cmの浸水でした。

ここまで見た
  • 249
  • 248
  • 2012/02/18(土) 17:42:14
>>そしておじさんは何故か45号線のほうに進んだのです。
自己レスですが、産業道路を海よりのほうへの間違えです。
どう考えても津波の来る方へ曲がったのでえっと思ったのを覚えています。

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  • 250
  • 青鹿
  • 2012/02/18(土) 17:42:54
>>236
飲料以外にも水は不可欠ですね。
毎年雨水をタンクに貯めて使おう、と構想するのですがまだとりかかっていません。

>3月11日は点検の意味もこめて、非常用のライトと食料で過ごそう
これ、わが家でも採用したいと思います。

>>237,240
会合でも、「(飲み食いする物が)こんなにあるからね」というとゆっくりするが、
「これだけだから」と云うと我先に飲んでる人がいて、、、報道側も難しいと思う。
そして、食べ物が公平に回らない事実は人災だと思います。

>>238
どうりで、、井上ひさしさんでしたか。
乙です。

>>239
私は帰ったら婆さんが外にいて「こわくて(家に)入れない」と言っていました。
助かったけれども心体が摩耗していて、、、。
お力落としのなきようお祈りします。

>>241
食料物資配布のことなんですが、避難所に泊まらず自宅避難していた方々への待遇、
避難所暮らしの人と同じ
避難所とは多少ならずとも差別された
ここいら辺の状況を掴んでいません。
二度と起こっていけない災害ですが、対応ははっきりしておくべきですね。

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  • 251
  •  
  • 2012/02/18(土) 20:26:20
>>250
俺も雨水を貯めようと思っていたけど、
考えてみると雨樋をガイガーカウンターで測るとものすごい数字が出るよね。
雨水は危険。濾過、除染しなければトイレにも使えない。
放射性廃棄物となった濾過材の処分にも困る。

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  • 252
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  • 2012/02/18(土) 22:51:47
>>249
おじさんと娘さんの無事を祈りたいです。
報道ステーションでだったか、震災後初めてのフェリー入港を見ました。
地震後、大津波から逃れるためにフェリーは沖に出て、そのまま苫小牧へ。仙台港が再開されて北海道から物資を運んで来たそうです。
復旧後第1便目の船長は津波の時にも船に乗っていた方。お互いの安全を気遣い別れた仙台支店長との涙ながらの再会にテレビを見ているこちらも泣きそうになりました。

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  • 253
  • 青鹿φ
  • 2012/02/19(日) 19:05:27
>>242
うちはプロパンなのでガスはokでした。
灯油が10リットルで2,000円だったということですか?
こちらでは確かリッター100円でしたね。

>>244
夜までに毛布とか支給されたか気になりました。
>ゴルフボール程度のおにぎり3個で1000円
お布施並みの値段だね。

>>246-247
内陸でラジオによると、最初は津波3mと、、大津波警報に変わったのは直前だったと思います。
あの初動が気象庁をオオカミ少年化したとしか思えません。
速報のアラーム音が嫌ですね。
助かって良かった。

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  • 254
  •  
  • 2012/02/19(日) 21:20:19
>>253
最初の警報は、NHKを見返してみると14時50分過ぎくらいで、大津波警報が岩手(3m)宮城(6m)福島(3m)ですね。
10m以上に変更になったのは、15時15分過ぎくらいみたいだけど、画面上だけの表示でアナウンサーは話してないので、NHKラジオを聴いてる人には情報が伝わるのが遅れたとは思います。

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  • 2012/02/19(日) 22:05:21
私は東京で勤務している山形県出身者です。

当日は出張で午前中に札幌から飛行機で仙台へ入りました。
会社は泉中央にあり、地震直後は会社の会議室で会議中でした。
地震が起き、それが長くなるにつれて揺れが大きくなり立っているのも、
やっとだったと記憶しています。

その後は情報がまったくない状況で、とりあえず地下鉄の駅まで行きましたが、
地下鉄は当然動いておらず仙台駅まで歩くことにしました。
台原の労災病院でトイレに入ったところ、TVで津波などの情報を得ました。
それから東北電力本店ビルがロビーを開放してくれてて、
そこで休憩をしていたら会社の先輩から、区役所で避難するから迎えに行くと連絡がありました。
区役所でもらったワカメご飯がおいしかったです。
区役所のロビーで寝ていたところ、夜中に寒さで目が覚め震えが止まらず、
ストーブの前で震えが収まるまで温まりました。

翌日は仙台市内に住むいとこと連絡がつき、山形に戻るから迎えに行くと連絡があり、
いとこの車で実家に帰り、翌日は新潟経由で東京に戻りました。

今でも長いタイプの地震があると、3月11日の地震を思い出し身構えてしまいます。

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  • 2012/02/20(月) 11:40:41
山形市。子供たちを幼稚園から連れて帰って来た後でした。
持ち帰ってきたクッキーをテーブルを囲んで楽しく食べていたときに揺れ。
ちょっとやそっとの地震では揺れない山形が揺れてる=やばいとそのままテーブル下に。
揺れる中、玄関に掛けたジャンパーからかすかに携帯のアラームが鳴り響いていた。
収まってきたころに急いでテレビをオン。震源は宮城県沖と聞こえたとたんに停電。
終わったと思った。

とりあえずこの後はどうする?と自問自答。
旦那の実家には反射式ストーブがあるから暖がとれる。でもオール電化。
ここはプロパンなので、電気以外は生きている。どっちを取る?
悩みながらも部屋を片付け、避難する準備。
帰ってくる旦那のために懐中電灯などを用意。
結婚式に使ったキャンドルサービスのろうそくを発掘。
動いている間にも何度も余震。そのたびに子供たちがおびえる。
二男は頭にクッションを乗せ、テーブルの下から1時間は出てこなかった。
ちびちゃんは怖がって私の足につかまったまま。
それを引きずりながらもくもくと準備。
幸い暖かいまま残っていた羽釜のご飯をおにぎりにして分ける。

悩んだ結果、旦那の実家へ避難することに決定。
玄関に「実家に行きます。」と張り紙して出発。
車の中で初めてテレビを見る。そこは津波と火災の地獄。
信号の止まった道路を慎重に譲り合いながら進む。
大きな交差点では警察官が交通整理。心から感謝。

暗くなり始めたころに実家へ到着。
持参したおにぎりとおばあちゃんが日中に作っていた煮物で意外と豪華な食事。
暗くなると長男が再び発熱。ストーブのあるところに来て良かった。
24時間経っても熱が下がらず、市民病院へ。結果インフルエンザ。
診察が終わって車を出すころに電気再開。

山を越えただけのすぐ隣で、ほんのちょっとの不便だけで済んでいることに
申し訳無く思いながら過ごしていました。
今は地震直後に無駄に買い込まないように普段からゆっくり備蓄&使用しています。
シーチキンは普段もよく使えるので重宝しています。

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まいね

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  • 2012/02/20(月) 14:54:11
あの日地震直後に七ヶ浜の母と携帯で連絡が取れた@青葉区
両親宅は七ヶ浜でも高台にあるので津波の事は念頭になく取りあえず無事を確認してTELを切る。
そうこうしてるうちに私も息子二人を迎えに行ったり買い出しに行ったりして帰宅は20時過ぎ。
まさか沿岸部があんな悲惨な事になっているなんて思いもよらなかった。
夫が深夜帰宅して『ママはTV見てないかもしれないけど本当に酷い事になってるから
電気ついたら覚悟して見て。』と真剣な顔で言われたので正直動揺した。

携帯もあれっきり繋がらないし連絡もつかないのでひたすら心配するのみだったけど
3日ほどしてやっと母と2度目の安否確認が出来た。
あの日の夜実家までは津波は到達しなかったけど仙台新港の石油コンビナート火災で
避難勧告が出て近所の避難所を回ったけど何処も満杯で断られ、結局自宅に戻って
父と二人でまんじりもしないで夜を明かしたらしい。
でも両親揃って楽天家なので避難所の土手に生えてたふきのとうを摘んで天ぷらにして
食べたそうだw

ガソリンが確保出来てから何度も差し入れに行ったけど母校の小学校の前の田んぼが一面瓦礫の
山となって海岸線の松林がパラパラとまばらになり、海から母校が見えるようになったのは
本当にショックだった。海水浴場にはコンテナが打ち上げられ、セブンイレブンが看板を残して
跡形も無くなり、友人宅は門柱のみ残っていた。
東北有数の海水浴場とサーフスポットが無惨な姿になったのを見て故郷を離れて初めて泣いた。

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  • 2012/02/20(月) 17:10:45
良スレ

あとで私も書き込みます

砂時計アラームタイマー
フリックゾンビ
ここまで見た

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