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- 167
- 2008/11/08(土) 12:28:59
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全席指定でないとデッキからぶら下がって乗らなければいけないような状態だったとは親父の談
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- 168
- 2008/11/08(土) 17:34:38
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あの頃、余剰寝台車がこんなに有ったとは・・・と
厨な疑問だった
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- 169
- 2008/11/08(土) 20:42:36
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>>164
その中でも大社は凄かったよな。
名古屋発で小浜線経由だったもんな。
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- 170
- 2008/11/08(土) 21:34:57
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1966年の時刻表では
何と、米子・九州間の急行が毎日3本もあった。
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- 171
- 2008/11/08(土) 21:40:39
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811D「なかうみ」米子6:20→小倉14:06
804D「やえがき」米子9:55→熊本21:08
801 「しまね」米子21:55→博多7:35
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- 172
- 2008/11/08(土) 21:55:50
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>>166
古い時刻表をお持ち?
「但馬スキー」とか「だいせん銀嶺」はどうですか?
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- 173
- 2008/11/08(土) 22:37:00
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>>172
ごめん、冬の時刻表はないんだわ
ちなみに先週前弁天町で古本市があって、
そこで買ったのが75年7月の時刻表。
本当は70年代頃の奴が欲しかったけど、
その頃のやつは高いね
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- 174
- 2008/11/08(土) 23:34:57
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>>173
ありがと。
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- 175
- 2008/11/09(日) 21:13:47
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'76/12時刻表よりスキー臨急ほか(下りのみ)
播但線 但馬スキー1〜3号、但馬銀嶺4号、但馬の味覚号
福知山線 大山銀嶺号
山陰線 設定なし
余談だが、京都発12/26〜1/1まで山陰号のBネが不連結となっている。
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- 176
- 2008/11/09(日) 23:34:35
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但馬スキー3号
大阪1810→2147江原
但馬銀嶺4号
大阪1917→2259江原
いずれも金曜運転
マイカーでスキーなど一般的でなかった時代
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- 177
- 2008/11/10(月) 02:49:56
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>> 175 176
ありがと。DCではなくてPCだった気がしてます。
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- 178
- 2008/11/10(月) 08:25:19
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PCだったな。「かんなべ」のサボを買っているが今は昔の伝説
スキー列車だった。
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- 179
- 175
- 2008/11/13(木) 22:01:28
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76/12版では1・2号が土曜日、3・4号は金曜運転。
9613D 大阪803→城崎2150(姫路→城崎は季節臨の但馬2と同じ時刻)
9605 大阪1232→城崎1659
9609D 大阪1810→江原2150
9619 大阪1918→江原2259
オマケ
9604 城崎1308→大阪1710(但馬スキー1号、日・月曜運転)
9616D 城崎1440→大阪1833(但馬スキー2号、日曜運転)
9606 江原1640→大阪2025(但馬スキー3号、日曜運転)
スキー専用扉を持つ乗合いBUも、全但バスのオリジナルだったね。
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- 180
- 2008/11/14(金) 11:01:23
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塚口の三菱電機伊丹工場(行政区域は尼崎市)引き込み線に凸型のバッテリー
機関車?が居たな。
塚口はPC時代の1−2,3−4レ方向転換駅で煩くて中々入れてくれなかった
記憶がある。三菱電機も煩かった。
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- 181
- 2008/11/14(金) 11:13:24
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黄色とオレンジの入れ換え機は何度か見たけど、
あれってバテロコだったのかなぁ。
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- 182
- 2008/11/16(日) 22:16:33
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>>180
塚口といえば大物車いたよねえ
阪急の車窓からよくみえなのだが何が居たのかな
餓鬼の頃だからS55年以降と思うが。
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- 183
- 2008/11/16(日) 23:27:04
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これっすね。
ttp://www25.big.or.jp/~t_fukuda/album-1/album-021.htm
実はこれと同じ頃(厳密には、吉岡心平が撮る2〜3年ほど前)、
やっぱりおれもこれが非常〜に気になって、
細かいディテール写真を激写しまくった事がある。
自転車で行ける環境、しかも柵もなんもなしの無防備とあっては、
撮らないわけにはいかなかった。
おれが撮ったのは56年春?かと思うが、ずっと気になってた末に
撮りに行ったのは間違いないから、その少し前からあそこに
転がってたような気がしますな。
…なぜかそん時の写真が行方不明なんだこれが orz
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- 184
- 2008/11/17(月) 16:49:27
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>>182
阪急車窓から交流ELが工場南端に2両ばかりいたのを見た事がある。
伊丹工場で電装していたのかな?
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- 185
- 2008/11/18(火) 21:42:20
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>>181
バテロコですね。どこかに写真があったような・・・
シキ400は、しょっちゅう横を通りかかり、足回りとかをゆっくり見たことも何度かありましたが、写真は撮ってないんですよね・・・
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- 186
- 2008/11/28(金) 20:27:00
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つい、キリシタン・バテレンという言葉が頭を…w
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- 187
- 2008/11/30(日) 22:43:28
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福知山線のスレがあったとは、、、。
昭和41年生まれで北伊丹駅の近くに20年くらい住んでたが、DF50.DD54の
時代から知っている。北伊丹は無人駅だったし、伊丹駅も昔の駅舎は
明治時代に作られたもので、対面ホームは階段のぼって橋渡って行ってた。
宅急便のない時代で伊丹駅の貨物受付に荷物を持って行ってた。
あと、尼港線の廃止、1日前に朝、早起きして行ってきたが、車両はぎゅうぎゅう
詰めで、誰か網棚に乗ってる奴もいて(本当の話)、当然、外の景色なんて
見えなかった。平日だったので、学校にはぎりぎり間に合ったのを覚えている。
福知山線がこんなに発展するなんて思ってもみなかった。昔は、大阪に出るだけで
すごく遠いところの感じがしていたのに、今は半分くらいの時間でいけるんだから。
でも、あの客車の、のんびりした気分も今になってみると良かったなと思う。
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- 188
- 2008/12/04(木) 15:14:28
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福知山線を通らない急行「大山スキー」号w
DD51単機牽引で原型の14系座席車5〜6連だった。
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- 189
- 2008/12/05(金) 11:26:45
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大阪在住ですが、福知山に爺様婆様がいたせいで、
昭和50年〜平成5年まで、頻繁に利用しました。
新旧様々な列車が行きかう様は、ガキんちょにも物珍しく、
あれこれ選んで乗ってましたが、
同じくらい惹かれたのが、武庫川渓谷の景色です。
いつかこんなトコ歩きたいな〜とか思ってたら、
本当に歩けるように。
嬉しさが高じて、(廃線跡の)壁だけ残った保線員詰所だったか、
落ち葉を掃除して3週間ほどキャンプしたのもいい想い出です。
地元の人が勝手に「住み込みボランティア清掃員」と勘違いして、
餃子差し入れてくれたり・・、懐かしいな。ムチャ寒かったですケド。
得体のしれない風来坊ながら、福知山線を愛してるってのは伝わったみたいでした。
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- 190
- 2008/12/05(金) 17:49:23
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塚口駅の三菱電機引き込み線が廃止になった後に、
三菱電機構内に電化されたわりと立派な試運転線みたいな線路が敷設されてた時期があったよね。
線路の途中には急勾配区間もあり、終点は高架になってたよね。
確か、小さな車両も止まってた。
あれって何だったの?リニアモーターカーの実験線とかだったの?
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- 191
- 2008/12/05(金) 19:22:13
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そう。鶴見緑地線や12号線のタイプの車両を開発してた実験線。
終点は、高架と言うよりは、上路式ガーダーみたいな感じだったと思うよ。
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- 192
- 2008/12/14(日) 21:01:16
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>>191
ご教示ありがとうございます。
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- 193
- 2008/12/15(月) 04:24:05
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東海道本線をオーバークロスするために思い切り遠回りしてたあのカーブ、大好きやったなぁ。
急行「だいせん1号」(「まつかぜ」でないところが悲しい))の最後尾車に乗って尼崎を通過。
ぐるっと大回りしながら坂を駆け上がる。あの光景を最後尾から見るのが好きだった。
郷里が福知山やったからほんと良く乗った。
よく乗ったのは大阪9:50発上記の「だいせん1号」。福知山到着は11:57。
これ、全線電化まであまり変わらなかったけど、これって急行「出雲」が福知山線経由だった
頃の、ほぼそのままみたいなんよね。昔からそれなりに利用客のある時間帯だったんだろうな。
爺さんの家についてすぐ昼飯、ってえのがお決まりだった。
帰りは9:15福知山発の急行「丹波2号」。午後から帰る時には香住発の普通列車。
福知山発14:32。列車番号失念。なぜかDF50牽引だった記憶があります。
福知山に帰る時に、普通列車に乗った記憶がない。なんでだろう?
そういえば、客車列車は草野、南矢代は通過だったな。懐かしい…。
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- 194
- 2008/12/15(月) 21:22:40
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>>193
香住発の普通列車は742だぬん
75年の時刻表では福知山1430発になってるけど、
香住発なので多分これだろう
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- 195
- 2008/12/16(火) 21:49:20
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旧型客車の室内(座席)は、
従来型:ニス塗り、背布団なしの板状、鎧日よけ、
更新型(急行用):白(灰)色、背布団あり、頭持たせ有り、ロール式日よけ
という違いの記憶があるのですが、事実はいかがだったのでしょうか?
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- 196
- 2008/12/17(水) 12:34:53
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俺の知ってる国鉄福知山線といえば、黄色い103が走ってた時代だな。
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- 197
- 2008/12/17(水) 19:06:39
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>>195
福知山線と山陰線二限定して
>従来型:ニス塗り、背布団なしの板状、鎧日よけ、
→これはオハ61系
>更新型(急行用):白(灰)色、背布団あり、頭持たせ有り、ロール式日よけ
これは スハ43 オハ46/47 スハフ42 それとオハニ36
正確に言えばシェードだけでなくSL時代の煤煙よけ網戸もある。
また窓側席にも肘掛がある。
通路側「頭持たせ」と窓側肘掛が無ければオハ35系(スハ42も)
なお、オハ35系の未更新車は
車体はブドウ色 車内ニス塗り 煤煙よけ網戸標準装備
照明は白熱灯蛍光灯様々 扇風機の装備も様々
10系はオール更新済みのみ
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- 198
- 197
- 2008/12/17(水) 19:08:36
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おっとと・・・
山陰線のオハニ36は未更新やったわw
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- 199
- 2008/12/18(木) 03:47:22
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>>197
詳細レスに感謝。
背布団あり、でもニス塗りというのは実在したのでしょうか?
(この組み合わせがオハ35未?)
青紺色なら更新車、葡萄色なら未、で原則あってますか?
(かなり例外あり?)
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- 200
- 2008/12/18(木) 08:41:55
-
>背布団あり、でもニス塗りというのは実在したのでしょうか?
したよ。
オハフ33の未更新茶色ニス塗りに乗った記憶があるから。
-
- 201
- 2008/12/18(木) 09:37:15
-
>青紺色なら更新車、葡萄色なら未、で原則あってますか?
>(かなり例外あり?)
原則は仰る通り。
少なくとも福知山・山陰で運用されてたのは原則に従っていた
例外なら千鉄や四鉄管内に内部ニス塗り未更新のままの青車体あったよ。
背布団は昭和初期のスハ32系から標準装備だが
戦後に登場したオハ60・61系にそれが無いのは、大正期の
木造客車の椅子をピッチ同じのままリユースしたから。
(台車も大正時代のTR11をこれまたリユース)
車内内張りをクリーム色メラミン樹脂板にして
照明は蛍光灯、窓際に小テーブル装備、車体色は青2号にするのを
国鉄では「近代化」と言うとりました。
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- 202
- 2008/12/18(木) 15:21:53
-
近代化旧型と20系客車は青15号です。
EF58の一部に青2号塗装がいたらしいけど、客車はいなかったはず。
青2号の呼び名はウルトラマリンブルーなので阪神電車の青が近いかも。深い青色。
青15号の方はインクブルーで紺色と言った方が実体に近いかもです。
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- 204
- 199
- 2008/12/18(木) 22:57:30
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みなさんありがとう。
重ねて感謝します。
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- 205
- 2008/12/21(日) 22:04:27
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震災の前まで伊丹にすんでたけど、結局国鉄・JRって乗ったことなかったな。
福知山線?なにそれ?みたいな感じだったのは、伊丹市民ならわかって
もらえると思う。
線路際にある小学校(名前忘れた)で小学校のとき、連合体育大会があって
そのときに「まつかぜ」とか「DD51+旧客」とか走ってて「なんだろこの路線」
みたいに思った覚えがある。今にして思えばこの時代の福知山線に乗りたかったな。
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- 206
- 2008/12/21(日) 22:34:37
-
>>198
下関口ではオハニ36に青2号もあったけど
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- 207
- 2008/12/21(日) 22:43:29
-
三田まで乗車散歩に塚口からよくでかけた。
1両目デッキに立てば 手に届きそうな 赤い機関車がまじかで轟音響かす。
DD54は特に特徴ある走行音に独特な変速音がこだました。
ドアは開きっぱなし。デッキにある国鉄日本地図は見入ってしまってた。
まばらな乗客 灯る薄暗い電灯。シートは ニス光りする木の座席。
生瀬の駅から望めた暗い小さな随道入り口がなんともいえなかった。
行きはよいのだが 帰りの時間が全く読めなくって 心中不安になったあの
小学生な頃。
今は通勤経路で偲ばれる場所がいくつかある程度。
あの最初の随道入り口は周辺が荒れて今や残念ながらのぞめません。
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- 208
- 2008/12/22(月) 00:04:38
-
そのトンネル抜けてちょっと先、木之元地蔵の南付近は、どうやら
廃線敷きを国道拡幅工事に転用する?みたいで、いろいろいじり始めたね。
直接に拡幅用地として使うのか、工事基地か何かに使う気なのかどうかはわからんけど。
昔話じゃなく現状の話でスマソ。
-
- 209
- 2008/12/22(月) 23:46:10
-
非電化時代の中山寺や生瀬には、跨線橋が有りませんでしたね。
客車に乗ってこれらの駅に着くと、乗客が駅舎方向に向かって線路を横断するところで、踏切の警報音を
間延びさせたような音で、列車接近を知らせていました。
今では全く面影がありませんが・・・
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- 210
- 2008/12/23(火) 00:19:31
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>踏切の警報音を間延びさせたような音で、
MBSの名番組、「駅舎 気ままに途中下車」のオープニングを思い出しますなw
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- 211
- 2008/12/23(火) 19:21:32
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ひきつけてやまない 道場〜武田尾〜生瀬
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- 212
- 2008/12/23(火) 20:27:46
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不思議なのは武田尾〜生瀬間の渓谷にキャンプしに来る椰子ども
彼奴どもは一体どんな道を通って渓谷に来ていたのか?
何のことは無い、単なる線路内不法侵入。
当時(S47年ごろ)の新聞記事が未だに鮮明に印象に残っている。
あの幾つか有ったトンネル内で轢かれて死んだ馬鹿がいたこと。
本人は駅の時刻表で自分の乗ってきたのが最終列車と思っていたらしいが
実はその後に来る「だいせん51号」の存在を知らなかった。
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- 213
- 2008/12/23(火) 20:31:45
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運悪く第一当事者になってしまった機関士
予定外の遅れに付き合わされた乗客一同
その応対に苦慮したであろう乗客専務
その方々の受けた迷惑を考えれば死者を敢えて馬鹿呼ばわりする
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- 214
- 2008/12/23(火) 21:32:14
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あの区間、列車乗ってるだけでこわごわしいものがあったのに。
何十年たった今、旧線ハイクでも前から列車がきそうな錯覚にもなるとこ。。
本数まれとはいえ、営業線であって長いのは数百m近くある、待避箇所もないに
等しいあの狭い真っ暗トンネルを徒歩で通過するのはよほどな根性だな。
まさに命がけだ。
ただ年代が年代。そこに限らずトンネル歩行も眼もつぶってた時期があったのも事実だしな。
今はホームから下りて 撮影なんぞしたら 大変なことになるが、昔の写真みれば主要駅構内でも
明らかに線路上でのものがあって、駅員も見ないことにしてたという時期もあったんだしな。
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- 215
- 2008/12/23(火) 22:10:37
-
そうは言っても馬鹿なことは馬鹿なこと
正当化は無理。
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- 216
- 2008/12/23(火) 23:03:14
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当時は新聞編集者や記者も今と違い、気骨はあった模様で
あの、日本の社会秩序崩壊を画策しているA紙ですら
確か「通行禁止のトンネル内で・・・・」とか書いていた。
あの事故が今起こったなら、
やれ、よく見える警告看板の設置がが不備だったとか
やれ、なぜ警備員を置かなかったとか口を極めて国鉄(Or JR)を非難したことは
想像に難くない。
やれ、
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- 217
- 2008/12/24(水) 11:56:55
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非電化時代の朝の生瀬〜宝塚間は、高校生がデッキの手すりにつかまって
カラダが乗り出してる状態で生瀬橋の鉄橋を渡ってたもんな。
宝塚駅につくとまだ停車してないのにホームに飛び降りるのな。
今では考えられん。
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- 218
- 2008/12/24(水) 12:59:42
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>>207
ご近所ハケン 自分も鉄友と駅の手巻式発車表で時間を確認して三菱の塀沿いの
踏切で54が伊丹方から迫るのを見てたクチ もうちょい早かったら宮原折り返しの
ロコが拝めたらしいが・・ほんと999の客車を彷彿とさせる,トイレでは下が見えて子供
心に垂れ流(ry が汚いとつくづく思ったあの頃・・
専門誌の過去記事などでもよく見かける,デッキから身を乗り出してるのは昔なら
ではの光景 琴電の特集で高校生がデッキだけではなく窓からハコ乗りしていた写真
を見たときは笑った
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