水戸の歴史 Part 7 [machi](★0)
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- 146
- ハクジー
- 2010/08/04(水) 10:49:57
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>>144
さ〜て??水戸から大洗まで何分位かかったかなァ〜??それこそ、水浜電車さんは
詳しいと思いますよ・・・。
そ〜ですか?水浜線ですか。私どもは「水浜線」なんて云った事ありませんよ。
「水浜電車」ですよ。四軸のボディー車もありましたが、二軸の小さいのも走って
ました。どちらかと云うと、小さい方が多かったかな??浜田から上水戸までの町中
は、減速してましたが、浜田から大洗までは、路面ではないので、結構スピードは
出していました。二軸車は、スピードを出すと前後に大きく揺れるんですよ。凄く
混んでいて、デッキにぶら下がったり、後ろの車外にぶら下がったり、結構面白かった
ですけど、平戸橋の鉄橋を通過するときは怖かったですよ。千波湖近辺の自宅から
茨城高校へ通っていた頃は、勿論、偕楽園を横切って歩いて通ったんですが、水浜電車
の定期券を買って、水戸駅から久保町まで、乗ったものでした。車掌さんが、頭の上に
ぶら下がっているヒモを引っ張って「チンチン」と二つならすと走り出します。
「チン」一つですと止まります。今の電車の様に、パンタグラフなんて有りません。
電車の屋根から長い棒が出ていて、先にキャスターがついて、上の電線に接触してました。
時々はずれて、車掌さんが後ろの窓から首を出して、ポールのヒモを引っ張って
直してました。今の時代この様な電車を見られる所は有ったかな?
長文になりましたけど、つい懐かしくなり、書き込みしてしまいました。
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- 147
- 2010/08/04(水) 20:08:31
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>>145さん
開発公社の書店の本の情報ありがとうございます。
10000円では買えませんが(^^;是非立ち読みしてきたいです!
水浜電車の本もあるとは嬉しい情報♪♪
ありがとうございました!
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- 148
- 2010/08/04(水) 21:58:32
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水浜電車の本とはこれのことかな?
http://shopping.hobidas.com/shop/hobidas-syoten/item/77705073.html
定期的にこの板で話題になってるね。
著者の中川浩一さんは元茨城大学教授で茨城県内の鉄道史に長けた人物だったが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B5%A9%E4%B8%80
水浜線と同じシリーズで湊線を出版する前に亡くなられたのが残念でならない。
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- 149
- 2010/08/04(水) 22:11:08
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>>148
博物館などで鉄道関係の展示があると先生のコレクションが並びますね。
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- 150
- 2010/08/04(水) 22:25:11
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>>ハクジーさん、こんばんは。
早速ハクジーさんの書き込みを子供に読んで聞かせてやりましたよ。
発車の合図は『チンチン♪』で、停車は『チン♪』と一回と聞き『へぇ〜!そうなんだぁ♪』と、とても喜んでいました。
今日、本町商店街を歩いていたら、バスがバス停に入った途端『チンチン♪』と鳴ったので驚いて振り向くと、そこには鐘のモニュメントで遊ぶ子供たちが…
思わず二人で顔を見合わせて笑いました。
実際に路面電車に乗った経験もないのに、懐かしい気持ちになって不思議でした。
ネコパブリッシングという所から出ている『茨城交通水浜線』という本をみたら、水浜電車は12.9〜25km/h位で走ったようですね。
二軸の電車が前後に揺れて、楽しくのんびり走っていた所を想像しながら、自由研究がはかどりました。
水浜電車が無くなる頃、車の渋滞等で邪魔者扱いだったのは本当かな〜?と子供が言っていました。
車両とか記念館とかが残っていないのは残念ですね。
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- 151
- 2010/08/04(水) 22:52:05
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元々このスレは水戸マターリに歴史の話は書くなという事で作られた。
でも水戸の歴史というタイトルが付いてあっても歴史話はない。要するに水戸っぽは歴史嫌いなんだ。
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- 152
- 2010/08/05(木) 00:23:02
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歴史って古文書や教科書に載ってなければいけない物なのか?
生きた戦争体験を素直な気持ちで拝聴できるなんて素晴らしいことだろう。
50〜70年前の事だって立派な歴史だ。
古文書の僅かな解釈の違いや他人より僅かばかりの知識の多さをひけらかす。
机上でしか物事を論じられない連中が多すぎる。
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- 153
- 水浜電車
- 2010/08/05(木) 00:52:40
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>>143
フォローありがとうございます。
お尋ねの水戸駅から大洗方面の電車の所要時間についてですが、廃止近くの
時刻表を見ると概ね40分前後かかっています。下市のはずれにあった浜田電停までが
いわゆる市内電車区間で、町なかを走るため運転本数も多く、水戸駅から浜田
までは11分程度で結んでいました。ちなみに現在のトヨタカローラやエコスの敷地が
電車の車庫のあったところです。
ご参考までに廃止間際の昭和39年10月の時刻で当時の運転時刻を一部推定を交えて
再現してみるとこんな感じです。
水戸駅前発大洗行き一番電車 水戸駅前6:37発→柵町6:38→三高下6:39→一高下6:41→
東柵町6:43→本一町目6:45→本三町目6:46→本五町目6:47→浜田6:48着 6:50発→
谷田6:52→六反田6:54→栗崎6:56→東前7:00→大串7:02→稲荷小下7:03→塩ケ崎7:04→
平戸7:06→磯浜7:08着 7:09発→大貫7:11→曲松7:14→東光台7:17→大洗7:19
当時の運賃は、水戸駅から浜田まで20円、磯浜40円、大洗50円でした。
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- 154
- 水浜電車
- 2010/08/05(木) 01:08:33
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>>146
ハクジーさん、お久しぶりです。
当時の電車の様子を教えていただきありがとうございます。
夏のこの時期にあの電車にゴトゴト揺られて大洗に海水浴に行けたなんて、
いい時代でしたね。私も子供の頃、お隣の勝田で湊線に乗って阿字ヶ浦へ
友達と泳ぎにいったことを思い出します。
昔のトロリーポールの電車は日本ではもう現役のものは残っていません。
それこそ、ハクジーさんのお住まいから近い明治村にある京都市電の保存車両
があるくらいだと思いますよ。町なかから海辺の街へ向かうチンチン電車といえば
最近なにかと話題になる富山ライトレール(富山・岩瀬浜間)がありますが、
あれはもともとJR線だったし、車両も近代的過ぎて水浜電車とはまったく趣が異なりますね。
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- 155
- 水浜電車
- 2010/08/05(木) 01:27:15
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>>150
自由研究はかどってよかったですね。
NEKOから出ている水浜電車の本は、著者の中川先生が過去数十年間の著作の内容を
集大成した、渾身の一冊という感じです。あれを読まれたのでしたら、水浜電車
に関してはかなり詳しい知識を得られたのではないかと思います。
水浜電車の実物は残っていませんが、大町の水戸市立博物館に戦後増備された
やや近代的な水浜電車の精密な模型が収蔵されていて、鉄道関係の歳時がある
時に公開されることがあります。常設ではないので滅多に見られないのが残念
なところです。
また水浜電車とは異なりますが、仙台市の地下鉄の車庫がある富沢駅に
仙台市電博物館というのがあって、そこに保存されている電車達は水浜電車と
同じ新潟鉄工所製でほぼ同時期の製造のため雰囲気はかなり水浜電車と似通ってます。
仙台は水浜電車の廃止後、電車を譲渡した先でもあったのですが、水浜電車は
ワンマン対応の設計でなかったために車暦が浅い割りに仙台市電の廃止(昭和51年)を
待たずして全てその前に廃車になってしまったのが残念です。電車はバスに比べて
耐用年数が長いため、水浜電車の戦後生まれの車両と同じか少し古いくらいの電車が
今でも全国あちこちで現役で活躍しています。
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- 156
- 昭和33年生まれ
- 2010/08/05(木) 14:57:58
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水浜電車が車にとって邪魔者だったというのは本当だと思います。伊勢甚と島津の間の
片側二車線のところに電車の線路があったのですから。ただ、当時は追い越し車線が
今のように車の流れる車線ではなく、電車がこないときに走る車線だったような
気がします。線路の近辺は石畳だったので追い越し車線にでると車ががたがた揺れた
記憶があります。
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- 157
- ハクジー
- 2010/08/05(木) 20:38:04
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水浜電車さん!さすがです。水戸駅前を出て、途中急カーブで左折、右下に
水戸黄門こと義公さんこと光圀さんの生誕地の小さな石碑を見て、坂を上り
水郡線を見下ろす高い鉄橋を渡り・・・・でもその頃は、柵町、三高下、
一高下なんてあったかなァ〜?でも、この辺りの私の一番記憶に残っている
のは、やはり艦載機の空襲のことです。当時旧制中学一年生で、勉強しないで
酒門の山?に兵隊さんと横穴掘りをしておりましたが、その酒門に行くのに
水浜電車を使いました。ちょうど水郡線を渡って、戦後に出来たと思われる
一高下辺りで、艦載機に襲われ機銃掃射を受けました。ちょうどあの辺は崖下
でしたので、丁度その崖に、防空壕が掘ってあり、その穴に逃げ込みました。
千波湖の畔で艦載機に狙われた時と同じ、怖かったァ〜〜!
東柵町の辺りに今のケーズ電器の本家である加藤電器屋さんがあり、井熊羊羹
の工場があり、本一丁目の急カーブ、丁度そこに常陽銀行下市支店がありましたね。
本五丁目が曲の手に急カーブ、本一丁目と本五丁目の間に本三丁目があったんですね。
稲石肉屋さんだったかありましたね。渡辺写真屋さんもその辺でしたね。あの有名な
俳優さんご夫婦。浜田までの間に二軒ほど映画館がありました。
あの様な急カーブを曲がれる電車ですから、小さいボディーなのは当たり前ですね。
曲がるとき、車輪とレールの擦れる音が大きかった。あの音はどんな風に表現したら
判って頂けるでしょうか?
今日は水浜電車の一部の思い出を書いてみました。
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- 158
- 自由研究中
- 2010/08/05(木) 21:25:11
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>>水浜電車さん、ありがとうございます!
水戸駅から本三丁目まで9分というと、今の約二倍くらいですね〜。
ちなみに、水戸駅から水浜電車大洗駅の辺りまで、今バスで行くと35分くらいだそうです。
幕末と明治の博物館のバス停までで、問い合わせてみました。運賃は680円。
昭和39年のおそばが一杯50円、タクシーが2km100円とわかったので、大洗まで50円と言うのは、そこそこの値段だったと考えていいんでしょうか。
富山ライトレールや、現在も運行している最新式の路面電車画像をみて、子供は少しガッカリしたようです^_^;
そうそう、仙台市電保存館、行ってみたいと思っています。130形になった後の記録だけでもあればいいんですが。
水戸市立博物館の模型、常設でないのが残念です…。いつか見れたらいいなぁ。
今日は、雰囲気だけでもと思い、ALWAYS三丁目の夕日のDVDを見せてあげました。
『わぁ〜路面電車が走ってるよ!』と大喜びでした。昭和の雰囲気にも、目を輝かせて見入っていました。
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- 159
- たぁ
- 2010/08/05(木) 21:43:23
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子供の頃の話なので今はあるかわかりませんが、水戸のサカドの手前にあるジョウショウジってお寺の下の沼があり、そのわき道を奥に進んでいって左手側の斜面にいくつかの防空壕の跡がありました。
子供の頃なので怖くて奥までは入れませんでしたが、子供ながらに異様な雰囲気と恐怖で引き返してしまいましたが、知ってる方いらっしゃいますか?
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- 160
- 自由研究中
- 2010/08/05(木) 21:55:43
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>>昭和33年生まれさん
ありがとうございます。
そうでしたか、今の京成百貨店のあたりでしょうか。
NEKOパブリッシングの写真をみると、確かに交換する所は狭そうな感じですね。
それから、柵町から駅に向かってくる辺りも…
本町三丁目商店街発行の買い物マップ、というのを図書館で見つけたら、昭和32年の地図が同封されていたのですが、水浜電車のルートに沿って、何やらバスのルートや停留所らしきラインも描かれていました。
それを見ると水戸市内で、バス路線と水浜電車が重ならないルートは、ハミングロードと三高下のあたりだけ!でした。
しかも駅の北口大通り以外にも、北側に並行する通りなど(水戸のNHKがある通り)もバスが縦横無尽にカバーしているような感じでした。
これでは水浜電車の存在価値も、当時は低かったかもね…と改めて車社会の到来を思い知らされた感じがしました。
調べた所、同時期に廃止になった路面電車が各地に多くあったので、やっぱり当時は邪魔者だったんですかね〜。
路面電車の線路付近は、石畳で車がゴトゴト揺れた、というのは、当時を知る方でないとわからない感覚ですね。
なるほど!です。ありがとうございました。
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- 161
- 自由研究中
- 2010/08/05(木) 22:32:40
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>>ハクジーさん
水浜電車に乗って横穴掘りに行った際の機銃掃射では、電車が止まり、降りて逃げたんでしょうか、本当に怖い時代だったんですね…
本一丁目の急カーブ、私と子供はバスを良く利用しますが、バスでもヒヤッとする事がありますから、路面電車なら尚更だったでしょうね。
今は、本一丁目から青物町の交差点(?)まで、一方通行の道路になり、両側の歩道が綺麗に広く取られています。
そのせいか、本五丁目からの商店街の通りよりも、歩いて買い物にくるおばあちゃん達がそこここで立ち話をしていたり、放課後は小中学生が友達と楽しそうに並んで歩く(じゃれあっている?)案外明るい商店街になっています。
本五丁目の電停があった辺りの曲の手は、昨日、古地図を片手に歩いてみて、かなり運行が大変だったんだろうなと再認識しました。
今は本四丁目の角の店が引いた形で、緩やかに本五丁目へ、バスは走って行けるように道が直されています。
今もそこで営業している玩具の石崎は、子供たちが駄菓子を買ったり、ベイブレード(ベイゴマの進化した玩具)などの遊びに集まったりしていると聞いています。
閉店した店も少なくないですが、下町の雰囲気はそのままなのかもしれません。
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- 162
- ポチョムキン
- 2010/08/05(木) 22:47:03
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>159さん
知ってますよ!
ショウジョウジの近くの沼でザリガニ釣りをやった記憶があります。
煮干しをえさにすると、入れ食い状態だったのが印象的です。
崖にある防空壕は実際見たことはありませんが、近所のお兄さんが探検市しに中に入ったところ、
以前その付近を徘徊していた浮浪者が死んでいたのを発見したという話を聞きました。
ほんとうにびっくりしたようで、家に帰って青ざめた顔で塩を振ってたそうです。
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- 163
- 自由研究中
- 2010/08/05(木) 22:50:19
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>>たぁさん
夫がその防空壕跡を知っていました。
小学低学年の頃、高学年の子供たちと昼間に懐中電灯を持って、探検したそうです。
そこに住んでいるというおじいさんがいたそうで…
防空壕の内部では途中で下へと掘られていて、中では二股に分かれていたので、次第に怖くなり、みんなで逃げたと言っていました。
今は、その手前辺りにのみ、ホタルが生息しているので、小学校の行事で観察に行くような所です。
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- 164
- 2010/08/06(金) 15:42:32
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自分の好みじゃない話題で盛り上がってたり、
自分より年少の人が詳しく書き込んでるのを見ると
どうしても水を注さずにはいられない人って一体なんなの?
せっかく楽しく見てたのに・・・
最近、身勝手で理不尽な行動をとる老人が話題になるけど、
ここでもいるよね。発言の内容によっていろんな
プロバイダから書き込んでる困ったオジサンとか。
出てけって言われてんのに他人のフリして粘着して。
やっぱ寂しいだけなのか?
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- 165
- ハクジー
- 2010/08/06(金) 18:51:40
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>>たぁさん
>>自由研究中さん
私たちが兵隊さんと掘った洞穴は正にそれですよ。今でこそ、その面影など
全くありませんが、確かに名前こそ忘れましたが、お寺がありましたし、その
沼か田圃かはっきりとは判りませんが、上に登って行くと確か百樹園が林の中
にあり、離れた所に、前スレでも書きましたが、大貫漬物屋さんがありました。
中学一年でしたから、まだまだ子供でしたけど、その洞穴の土留めに使う、厚い、
長い板を一人で担いで山をおりました。辛かったですよ。その横穴は防空壕では
ありません。軍隊で何か?に使う予定で掘ったのでしょう。奥へ行くと二股に
なっているのも、うなずけます。泥んこだらけになり、鼻の穴はカンテラのスス
で黒くなり、二人で天秤棒でもっこに掘った土石をいれ、外に担ぎ出しました。
結構長い距離でしたよ。
多分、鹿島灘沖合には、米軍の機動部隊が迫ってきておりましたから、本土決戦に
備えたのではないでしょうか??
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- 166
- 自由研究中
- 2010/08/07(土) 12:16:30
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>>ハクジーさん
そうだったんですか!
昭和後半生まれだった子供たちは、防空壕だと思って無邪気に探検していたんですね。
同じ位の子供たちが苦労して掘ったものだなんて、私達世代の親も知らなかったでしょうしね。
今の子供たちから、そこへ行って遊んでいるという話は聞きませんから、おそらく存在を知らないんでしょう。
平和な世が長く続いている証ですね。貴重なお話をありがとうございました。
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- 167
- たぁ
- 2010/08/09(月) 03:29:13
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知ってる方いましたか!
自分は昭和56年生まれ何ですが、小学校低学年の頃に浜田小の生徒と探検に行ってました。
浮浪者が亡くなったって話しも聞いてましたが、怖いもの見たさで行ってました。
入り口の傾斜がきつく、ぬかるんで居るためロープを用意しないと出れなくなりそうになってました。
確かに、奥で二股に分かれていて中にはストーブのような物があった気がします。
横穴も、記憶にあるかぎり2つあった様な感じがします。
奥に行くと、吸気の為か縦穴もあり、火薬屋の『のぶた』の所位の上からから探検したりもしてました。
まさか掘った方とコンタクトが取れるなんて感激です!
家の今年89歳のお祖父さんも、まだ浜田に居るので、何か聞けたら聞いてみます。
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- 168
- 2010/08/09(月) 09:06:02
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今年も終戦記念日が近づいてきましたね親戚などが集まったときにでも
水戸の戦争の記憶を風化させないためにも当時を知る人に若者から
おじいちゃんたちの苦労話やつらい中でも気晴らしになったことなど
話てもらうと孝行にもなりよいこととおもいます。
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- 169
- 2010/08/09(月) 22:14:14
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>>152
なんとチープで抜けな罵倒だ。IQが知れる。一度でも参ったと言わせるような理屈を書いてくれって。
本筋から離れた屁理屈書いて逃げているばかりだ。
>50〜70年前の事だって立派な歴史だ。
どこでこれらの年代の書き込み否定したか証明してってyw
また教科書?古文書?どこにそんな事かいてある。現にある史跡に対して書いているんだwy。
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- 170
- 2010/08/09(月) 23:26:01
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http://9199.jp/phone_page/07256587/
赤塚のcoopの福祉部門のところで戦争の記憶展というのをやってるようです
いつまでかはよく読まなかったものでわかりませんが気になった方は
問い合わせてみてください。
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- 171
- 2010/08/10(火) 22:58:48
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まったく、歴史ってつけたらつけたでいちゃもんつけるし
昔話に花を咲かせようってスレをたてたらいちゃもんつけるし
いったい何がしたいんだか、まったく蝙蝠みたいだね例のEMは...
とこのままだと歴史でも昔話でもないな。
ところで老舗って史跡の一種だよね。
和食とか伝統技能みたいだし。
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- 172
- 2010/08/11(水) 07:12:35
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老舗といえば暫く前のコーヒーのコマーシャルで
神田うのと共演して話題になった水戸の老舗の息子がいたなぁ
どこの店だっけ?
169
♪あれ(荒れ)まつ(待つ)虫(無視)が鳴いている、チンチロ、チンチロ、チンチロリン〜♪
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- 173
- 水浜電車
- 2010/08/11(水) 07:17:08
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>>157
ハクジーさん、懐かしい思い出話ありがとうございます。
水浜電車の電停の名前は時代とともにコロコロ変わっていますよね。
水戸駅前の次にあった柵町は廃止間際の名前で、茨交の本社が茨大前に移転する前は
「本社前」でしたし、次の三高下も戦後一時期「原子力館前」みたいな名前になったことがあります。
たしか三高の北側に東海の原子力関連事業の啓蒙施設があって、そこのPRのために
水浜線らしからぬ近代的な停留所名になっていたようです。
ちなみにこの原子力館はその後、水戸三高の体育館として長らく使用されましたが、
現在では取り壊されてしまっています。
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- 174
- 水浜電車
- 2010/08/11(水) 07:42:38
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>>158
自由研究中さん、昨日うちの子供たちを連れて市立博物館で「昭和の夏休み」という
展示を見てきたのですが、例の水浜電車の模型と電車の車内に掲示されていた
沿線案内地図が展示されていましたよ。29日までやっているそうです。
ところで水浜電車を廃止に追いやった原因の一つである道路の渋滞の件ですが、
当時の交通量調査結果を見ると、その頃の猛烈なモータリゼーションの進展振りが
うかがえます。
千波の6号線(現在の旧国道)の日中12時間の通過車両数は、昭和37年8千台でしたが、
これが水浜電車の上市側が廃止になった昭和40年には1万6千台と僅か3年間で倍増しています。
現在の千波の慢性渋滞から考えれば、まだまだ少なかったのでしょうが、
当時は50号バイパスはもちろんのこと、水戸バイパスもやっと工事に着手したばかりで、
6号や50号を通る車が全て水戸の市街地に流れ込んでいた時代でした。
この状況を受けて水戸市議会からも水浜線の廃止要請が全員一致で可決されてしまったそうで、
いくら当時の自動車保有台数が現在より2桁少なかったといっても
こんな地方にあるささやかな市内電車を廃止させるには十分な交通量だったんでしょうね。
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- 177
- 2010/08/11(水) 14:58:12
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なんだ、またイーモバが涌いたのか。
あいかわらず方々のスレでゴロまいてんのな
お前の居場所はここにはない。
とっとと出てけ、そして二度と来るな!
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- 178
- 自由研究中
- 2010/08/11(水) 18:55:12
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>>水浜電車さん
またまた情報をありがとうございます。
市立博物館、そうですか!ぜひ行ってみます!
1階の図書館に、何度か資料を探しに行った時に企画展の案内を見て
寄って行きたいな〜とは思っていたのですが、自由研究が落ち着いたらね…と
後回しにしていました(^^;
まさに、今、展示されていたんですね〜、嬉しいです!ありがたいです!
道路の渋滞こと、交通量を調べてくださってありがとうございます。
そうだったんですね。本当にあっという間に車社会になっていったんですね〜。
下市商店街のお店の方に聞いたところ、下市ではさほど感じなかったという
お話をしてくださる方が多かったです。
もしくは、ちょうど高校を卒業して地元を離れていた、という方が多くて
当時、目の当たりにしたという方には、まだめぐり合えていません。
本や資料ではわからないことがあると思うので、もう少し頑張って
いろんな人に聞いて歩きたいと思います!
いつもありがとうございます★
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- 179
- 2010/08/12(木) 13:11:13
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水府橋の空襲の跡の話が以前出ていましたが、場所が分かったので連絡しますね。
水戸駅側を背にして、右側の歩道の陸から1or2メートルあたりです。
(説明が下手ですみません。。)
歩道は石畳の歩道なのですが、焼夷弾が当り石畳がえぐれてしまったそうです。
今はそこだけコンクリートで補修してあります。
中央郵便局隣の戦争展示エリアに、被災者の声に詳しく写真付きで説明がありました。
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- 180
- むねりん
- 2010/08/13(金) 14:54:53
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水浜電車の軌道の所に畳1/4位の白い石(稲田石?)が使われいませんでしたか?
子供のとき廃止後掘り返していたこの石の行き先がとても気になっていたのですが、行き先が分かる方いませんか?
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- 181
- 水浜電車
- 2010/08/13(金) 22:43:30
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>>180むねりん様
水浜電車の軌道撤去は廃止後ただちに着手され下市地区も昭和42年度中に完了
しているようです。その際に大量に発生した軌道の敷石の行方については謎の
部分が多いのですが、一部は当時の関係者が引き取ってその方のご自宅に現存
しています。
ここから先は余談です。
市内電車廃止後の軌道の取り扱いについては路線によって非常に差が大きいです。
我が国で最も一般的と思われるのは、廃止後軌道敷のレールはもとより敷石も合わせて
ことごとく撤去され、軌道敷の跡をアスファルトもしくはコンクリで固めてしまう
やり方だと思います。水戸はこの方法を取りました。
その他にはレールや敷石はそのままにして、上からアスファルトを敷き詰め
覆い隠してしまう方法です。都電はこの方法が多く取られたようで雨上がりの
路面では線路の跡がレールの熱吸収のせいでアスファルト越しに路面に浮かび上がる
ことがあります。
私がかつて暮らしたことがある仙台では同じように路面にレールが埋め込まれた
ままとなっていましたが、路面がカーブする地点や交差点などではタイヤでアスファルトが
削り取られ、市電の廃止から20年以上経過してなお花京院の交差点など市内各地で
レールが路面に浮かび上がっていました。
日本はせっかちなのであり得ない話ですが、欧州では廃止後も架線は撤去するものの
軌道敷はそのまま、何十年も放置しておくケースが各地で見られます。近年の路面電車復活
ブームの中、かつてのレールをそのまま活用して路線が復活する例さえ見られます。
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- 182
- 2010/08/14(土) 12:10:09
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>>172です。
水浜電車さん、いつもながら素早いご回答に感謝します。
いまや、ハクジーさんと水浜電車さんはこの板になくてはならない方になられました。
入船堂の息子さんの出演しているコマーシャルの動画と詳細を見つけました
動画
http://www.youtube.com/watch?v=tEtglTrjNqk
詳細
http://www.suntory.co.jp/enjoy/cm/log/sd27.html
入船堂の息子さんは舞台を中心に活躍されている役者さんということです。
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- 183
- 2010/08/18(水) 00:00:19
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水戸の戦後昭和史
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- 184
- 自由研究中
- 2010/08/18(水) 00:33:21
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>>水浜電車さん
博物館に行って、模型など見てきましたよ。
写真と色が違う?とか言いながら、カメラに収めていました。
仙台を走る水浜電車の車両の写真も、ようやく見つかりました。
水浜電車を通して、江戸から大正時代まで、まだほんの入り口ですが水戸の歴史や市政にまで興味を持ったようです。
資料が集まりすぎてまとめるのが大変ですが、残りは来年ということで長かった夏休み(自由研究)もラストスパートです!
ありがとうございました。
このスレの流れを、個人の自由研究のために昭和史ばかりの話題にしてしまってすみませんでした。
親切に教えてくださった皆さん、ありがとうございました。
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- 185
- 水浜電車
- 2010/08/18(水) 22:00:50
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>>182
これってもう11年も前のCMなんですね。もっと最近のことかと思ってたのに・・・
ところで、水浜電車の敷石の補足ですが、関係者のご家族に再度たずねたところ、
全て社員に有償で頒布したそうです。水浜電車の路面区間は意外に短く、また
全線単線だったこともあり、社員だけでさばけてしまったそうです。
今でも庭石等で残っているだろうとのこと。
またサイズは何種類かあったので、大きさに応じて値段は変えたそうで
1枚百数十円。半世紀近く前の百数十円は今だと千円近い価値かもしれません。
社員全員といっても、昭和41年は茨城交通の社員数がピークの頃でした。
当時は千八百人ちょっといたと社史に書いてあります。そして現在はオートや
県北バスを統合しても390人にまで減っています。
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- 186
- 水浜電車
- 2010/08/18(水) 23:00:41
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>>184
自由研究中さん、夏休みも残すところ1/3とはいえ、まだまだ先が長いですね。
子供たちがうらやましい。
電車の色ですが、ネットや雑誌でたまに見かけるカラー写真は退色が激しく、
実際の色とは違っているようです。
今の湊鉄道線からは想像もつきませんが、昭和46年に茨城鉄道線が廃止になるまでは
茨城交通の鉄道車両の塗装は緑の濃淡で統一されていました。(ただし茨鉄と湊線は
緑の濃淡の間に白帯が入ります)
それから歴史の話題ですが、ここは昭和以降が主流なので特に気にすることはないと
思います。古代や中世の話をしようにも図書館の文献しか資料がないので、むしろ
参加者の記憶をたどった思い出とかの方が盛り上がりやすいみたいです。
博物館のOゲージと思われる模型はそういう意味で当時の塗装を今に伝える
貴重な資料だと思います。
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- 187
- 水浜電車
- 2010/08/18(水) 23:05:59
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そういえば、ハクジーさんが昔、酔いつぶれてしまったことがあるらしい
元白銀町のバー「そしある」がいつの間にか閉店になっています。建物はそのままですが。
そして、海野クリーニング店も常銀横の店は閉まっていて、旧・奈良屋町に下っていく
坂道の方の店だけになってしまったようです。
昔からの店も徐々に徐々に消えていきますね。個人商店はこの30年くらいで
劇的に減ったと思いますが、古地図でも頼りにその変遷でも追ってみようかと
思います。週末あたりに・・・
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- 188
- 2010/08/18(水) 23:18:15
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風俗店の変遷とかおもしろいんだけどピンク板じゃないから
まずいよね。
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- 189
- 2010/08/19(木) 00:30:11
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>>188
面白そうだけどな。
オレは読みたい。
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- 190
- 昭和33年生まれ
- 2010/08/19(木) 10:54:29
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海野クリーニングの五軒町の本店はまだやってますよ。
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- 191
- ハクジー
- 2010/08/19(木) 10:58:23
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水浜電車さん 本当にいろいろと思いであるお話をお聞かせ下さり、ありがとうございます。
ただ、驚いた事に、何故私が酔いつぶれてしまった、元白銀町のバーの名前をご存じだったん
ですか?私、以前にそのバーの名前書きましたっけ?今朝、水浜電車さんが、「そしある」と
云われたので、思い出したんですよ。何故でしょうか?海野クリーニング店も確か、私の
三の丸国民学校の時の友達が開いていたクリーニング店でしたが、戸田君と云ったと思い
ましたが?「そしある」・・・・・私、前にこの名前書きましたっけ?
ちょうど、その店のトイメンが鬼沢青果(果実店)の裏口でしたよね?私と同年配の息子さん
がおりましたが、お元気なんでしょうね? ごめんなさい!個人的な話になってしまいました。
>>184
自由研究中さん この文面ですと、これでお終いと思われますが、その様な事の無いように、いつでも
いらしって下さい。そしていろいろお話しませんか? 皆さんで・・・・・。
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- 192
- 2010/08/19(木) 11:17:13
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>>189
じゃ、すこしだけ
前に少し聞いた話だと昭和50年代あたりまでちょんの間とか
連れ込み宿がのこってたとのことです。
戦後しばらくのあいだは売血して性病しらべてもらってOKだと
その金で風俗街にしけこんだもんだともききました。
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- 193
- 2010/08/20(金) 00:18:02
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>>192
売血ってそんなにもらえんの!?
今換算でせいぜい1000円くらいかと思ってた。
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- 194
- 自由研究終了
- 2010/08/20(金) 08:07:17
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>>水浜電車さん、ハクジーさん
ありがとうございます。
自由研究の話ばかりになって申し訳なかったなぁと思い、あのように書きましたが、こちらのスレは今後も楽しみにしています。
昨日やっと、自由研究が終わりました〜。
でも自由研究ばかりやっていたので、読書感想文と絵の宿題が残っています・_・;
下市が本当に栄えていたのは、明治17年の大火までだったんですね。江戸仕掛なんて楽しそうで、街並を模型でもいいから見てみたいです。
そういえば、下市の年表に、毒蛾の大群が町を襲ったとあったんですが、ご存知の方はいますか?
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- 195
- 2010/08/20(金) 09:36:38
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売血なんていうと、ガキの頃に読んだ川崎のぼるの漫画「男の条件」を思い出す
ドヤ街に身を落とした主人公とドヤ街の住人のやり取りで
「仕事にあぶれたなら売血しろ」というと「黄色い血なので売れねぇんだ」との返事
栄養不足で血液成分に影響が出てくると黄色い血といったらしい。
また主人公の友人が売血してきて飯を食わしてくれる
その友人は二人分の一晩の宿代と飯代で売血した金はなくなるといっている。
漫画に描かれている金額まで思い出せないが宿代、飯代も100〜200円くらいだったと思う。
そこから推測すると売血代金は500円〜700円くらいではなかったかと思う。
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- 196
- 2010/08/20(金) 12:46:24
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昭和22年の那珂川の洪水を知っている人いませんか。
調べても水戸の浸水流域がどうしてもわかりません。
戦後の混乱期だからデータも写真もないのだろうか。
このときは水戸駅も洪水の被害にあったとか。
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