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  • 2014/10/26(日) 13:41:54
潮干狩り

何か落ちてるかも
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  • 2015/04/04(土) 19:44:04
現象

現象という言葉は小学生でも知っているわけで
わたしも何の不都合も無く何十年の間、日常的に使うことが
できていたわけです
ところが哲学で「現象」という言葉に出くわしますと
どうにも気持ち悪いことになってしまうわけです

現象学での現象の内容を、日常でで使うことは、まずありません
普通に現象と言えば例えば発光とか燃焼とか、モノやコト、
場合によっては人間の振る舞いなんかを表現するときに、
それを現象と呼ぶわけです
現象を「この意識」や「この感覚」と等価に扱うのは哲学ぐらいのもんです
心理学や認知科学でも、「この意識」のことは棚に上げ
すでに当たりまえのように一般化されたものとして扱っているように思えます

この哲学特有の問題意識は、何かしら大事なことなんでしょうか
つまり、「この意識」のありようについて反省の目を向けるなら
独断を避けることが可能となるのでしょうか
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  • 2015/04/04(土) 20:08:20
あなたが理解する一切は意識現象でしかない、とか説いても
大半の子供はなんのこっちゃ分かりません
つまり哲学の問題意識というのは、発達段階あるいは
経験値に依存しているように思えますが、それでも
大抵の人が不思議にもそのうち分かるようになります

しかしそのような問題意識が発生しないとしても
生存のために不利になるとか、そんなことは恐らくありません

ひょっとすると大きな勘違いというか、数千年に渡る巧妙なペテン
空前の夢物語、とんだ茶番

そうであって欲しいような欲しくないような
もしそうであっても、暇になれば潮干狩りをするのですが
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  • 2015/04/11(土) 19:22:44
四月には人事異動なんかがあったりします
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  • 2015/04/11(土) 19:26:50
慣れた職場から離れるのは寂しい気もしますが
根が飽き性なので、ちょうど良かったか
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  • 2015/04/11(土) 19:28:20
どうも頭が回りませんので
つぶやくことしかできません
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  • 2015/05/06(水) 23:15:03
動かない機械は動かない
動く機械は動く

動く理由は、動かない理由が無いことに尽きる
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  • 2015/05/11(月) 18:10:50
仕事休みの良い天気でしたので
久しぶりに親父の墓参りなんかに行ってみましたが
その帰り道、若くて純朴そうな女性がいきなり横から
「すいません」と言ってきたので、根が親切な私は
つい立ち止まってしまいもした(薩摩ふう

話を聞くと、果物を買ってくれってー話で
見ると何だかへんてこりんな、グレープフルーツかこれ
断るのも面倒になり、相手の笑顔に負けて1個買ってしまいました
値段は210円でおました

帰って調べたら、最近流行りのキャッチセールスらしいです
地道なのか狡猾なのかよく分からん不思議な商売があるもんです

いま食ってみましたが、思いの外、なかなかいける
ちょっとうれしい誤算
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  • 2015/05/17(日) 17:36:41
「カラスは黒い」は帰納なのか

ヒュームとかいうおっさんが2ch界隈では大人気で
たぶんカントとウィトゲンシュタインの次ぐらいに名前が
よく出ているように思います
私は不勉強で、この人の書いた物を読んだことはありませんが
普通に言われてるのは、帰納を否定した人として有名なのだそうで

帰納なんてのは錯覚に過ぎない
今日まで太陽は昇ったが、明日は昇らないかもしれない
明日太陽が昇ることの論理的な必然性はない

ですとさ

しかし明日、太陽が昇るような世界こそが論理を保証している
とは考えなかったのでしょうかね
これは「自然の斉一性によれば」ぐらいの生ぬるい話ではないわけです

「明日、太陽が昇る」という“落書き”が記号として成立する、
つまり論理を媒介として言語として機能する、そのために
明日も太陽が昇る“ような”世界が、そもそも前提なのです

なぜなら、「帰納を否定する」という底の浅いトリックを信用するならば
「明日、太陽が昇る」という落書きが、明日になったら
「今日は、太陽が昇らない」という意味になることも否定できないからです

哲学に限りませんが、自己破壊的な格言が世の中には受けるようです
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  • 2015/05/18(月) 18:26:32
デカルト、無用にして不確実  (by パスカル)

怖え・・・
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  • 2015/06/03(水) 19:01:41
最近なんだか貧しい上昇志向に囚われてしまって
こんなことじゃ駄目ですね
もっとおおらかに生きたい
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  • 2015/06/03(水) 19:08:53
以前に2chでエネルギー保存則について討論めいたことを
した記憶があるのですが、人によって「エネルギー」についての
認識の違いが著しく、まるで話が噛み合わないわけです

最近、省エネルギー法を勉強する機会があって、
省エネ法に於ける“エネルギー”の定義には太陽光や地熱は含まれないそうです
ウランも風力発電も含まれません

エネルギー、自由すぎる
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  • 2015/06/12(金) 19:08:50
分析的判断と総合的判断

数学の証明は全てトートロジーだ、などとまことしやかに言われ
“教養人”に於いて、それは常識となっているかのようです
何年か前に2chで、幾何学の定理はトートロジーなどではありえない
とぶっちゃけたら、鼻で笑われました

最近たまにカントなんぞをちら読みしたりすることもあって
この大先生が「数学の諸命題は分析的ではない」なんて書いておりまして
少しばかり心強く感じているわけです
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  • 2015/06/12(金) 19:27:44
幾何学の諸定理がトートロジーではない
そう私が判断した理由はですね
幾何学の公理は平面そのものではない、ということなんですが
何が言いたいか伝わりますかね・・・

幾何学では、図形を平面上で自由に移動させたり回転させたりして
それは「当該の目的に関して前提状況と同等である」ことを認めていく
そういった手続きを次々と続けることで証明したい事態にまで
状況を移していくわけです

もっと簡単に説明しますと
平面上で、角度とか線分を含む図形を移動させるのですが
移動させてしまったらもう元の図形ではないわけです
しかしそれは、当該の目的に対しては平面上で等価に移動させることができる
平面にはそのような性質がある
そのことは、公理には含まれていないわけです
公理以前の、世界のあり方そのもの
観念論的には、世界の捉え方そのもの
その背景情報が、証明の各段階に於いて暗黙的に加わることでこそ
証明という作業は可能となるだろう

そんな風に考えたわけです

こんな説明で納得する奴はおらんわな・・・w
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  • 2015/06/12(金) 20:01:19
分析的判断といいますと
前提の中に結論の情報が含まれているような
そういった種類の証明を真だとする
そのような判断であるのだと思います

それはたとえば、
私は男子校の生徒である→ゆえに私は男である
のようなことでしょう
(まぁ、これも無条件に真だとも言えんか)

しかし三平方の定理が公理に含まれているかと言えば
とてもそんなことは言えない

カントは「7+5=12」という例によって、7と5という概念と
その和という概念だけからは、12という概念は導けない
そんなことを書いています
たぶんカントは、数式の背景にある、この計算を可能とする
情報の源泉を見たのでしょう
そこから引き出される情報は、ア・プリオリな総合的判断によるものだ、と

なかなかやるな、カントくん
と感心したわけですが・・・

しかしどうやらこの洞察も近代数学では落ち目というか、「違う」と判断されて
部屋の隅に追いやられ、消えていく運命であるようです
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  • 2015/07/01(水) 19:41:17
世間様に遅れること2年、「舟を編む」なんかを読んでみました

国語事典を作る人々を巡るお話ですが
ほのぼのとして、まあまあ面白かったかな
しかし最近の作家さんは、楽しく読ませるのが
みんな上手いですね
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  • 裏表のある素敵な人@拓の月◆
  • 2015/08/16(日) 21:07:59
こんなところに良スレが
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  • 2015/08/20(木) 21:03:22
そう言われても何も出てこないわけだがな

からっぽで
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  • 2015/08/20(木) 21:12:06
そもそも哲学というのは何なのでしょう
その本当のところは分からないのですが
実際やっていることは「勝ち負け」です
では何を求めての勝負なのか
真理?  いやぁ。。
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  • 2015/08/20(木) 21:30:05
何年か前は、どこまで思考に潜れるか、みたいなことに情熱があったのです
そこにはだれも見たことのない世界の仕組みがある

だけどそれを拾ってきても、やっぱり誰にもそれは見えない
誰にも見えないということは、真理ではないということ
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  • 2015/08/20(木) 21:37:24
世界最強の頭脳を持つ二人の哲学者が討論をやっている
その内容は周りの誰にも理解できない
しかし当人同士では話が通じている様子
このとき果たして、彼らは意味のあることをやっているのでしょうか

それとも、「彼ら二人だけにしか理解できない」という事態は
そもそも起こりえないのでしょうか
真理には、それだけの力が保証されているのでしょうか
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  • 2015/08/20(木) 22:11:31
~世界に真理が無くても言葉は成立するか~

わたしは、「何が真理か」については分からなくても世界が成立している以上、
真理が存在することは自明だろう、と素朴に思っていたのです
そうとしか思えないわけです

そうでなければ、混沌が混沌のまま、世界と真理がそれとして
その都度、偶然に現れることになる
ばかばかしすぎる

だが待て
真理も世界も所詮は言葉でしかないのだから
言葉が成立する限りのことでしかない、そのことに、真理による保証が
果たして必要だろうか
そもそも、その真理には内容を与えることができないではないか
そのような宙に浮いた話は、わたしが最も毛嫌いし、攻撃してきたことのはず

それとも、内容が無いことは、意味のあることなのか
つまり内容を説明できない言葉は、実際には運用され
力を持ち、人の振る舞いを制御できる、
ひょっとすると、そのようなことがそもそも世界なのではないのか
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  • 2015/08/29(土) 01:00:05
ウィトゲンシュタイン vs ポパー

そんな題名の本を読みました
怪獣どうしが戦ったらどっちが強いんだ
そういう話が世間に受ける
これはまちがいない
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  • 2015/08/29(土) 01:32:00
わたしはウィトゲンシュタインのことはあまり知りませんが
ポパーはもっと知らない

にもかかわらず私の思考傾向が、明らかにウィトゲンシュタインの
影響下にあるだろうことは、自覚的に感じることができます
それは、脳科学とか認知科学やらが、ウィトゲンシュタインのアイデアを
取り込んでおり、それが科学的な常識となり、空気となり、
どしろうとの私の思考にも影響してくるからです

ウィトゲンシュタインのアイデアとは、「言語ゲーム」という
“言葉を発明したこと”に尽きます
この人より先に、似たような境地を捉えていた人はいたのでしょうけど
言語ゲームというネーミングと、その概念を巡っての彼の思考が
抜群にセンス良いわけです

一方で「論理哲学論考」が現代の学術に対して影響を与えているとは
とうてい感じられません
あの本の内容というか、
「ウィトゲンシュタインが伝えたかったウィトゲンシュタインの見えたもの」
が分かるひとは、たぶん世の中にいないでしょう
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  • 2015/08/29(土) 01:44:14
ちなみに、>>121で紹介した本は、わたしのような「事情に疎い輩」なら
買って損はないかもしれませんが、ひりひりするような思考の激突を
期待しても、まったく肩すかしをくらいますので
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  • 2015/11/05(木) 16:11:51
今年の国家資格は全敗

もう人生に残された時間は少ないってのに
しょうがないですねぇ
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  • 2015/11/05(木) 20:05:54
ちょっと哲学ごっこでもしようかと思ったが
なんかもう無理ですね

説明というのは、どれだけのことが可能なのでしょうね
たとえば、足し算引き算の話から、まさに説明だけの力によって
微分方程式までの話を積み上げて理解させることが可能でしょうか

できるわけがない
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  • 2016/08/27(土) 17:47:26
まぐれでエネルギー管理士に通りそうです
しかしもう仕事休みたいね
旅に出ようかしら
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  • 2016/08/27(土) 17:56:18
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

最近はほとんど本を読まないのですが
以前から気になっていたテーマでしたので
思わず買ってしまいました。

“見るのに目は必要でない”

そうですよね、やっぱり。
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  • 2016/09/11(日) 04:57:23
サイモン・シンの暗号解読には、いろいろ面白い話が書いてありますが
そこで紹介されている解読作業というものは結局のところ
未知の記号羅列を既知の言語記号に対照させていく
全てそのような作業です
つまり暗号が意味を持つためには、言葉という活動が意味を表現している
ということが前提なのです

では言葉が意味を表現するのはどうしてなのでしょうか
記号の配列パターンそのものには、意味を生み出す作用などありません
しかし記号とその配列パターンが結果として、犬でも猫でもない我々の前に限り、
論理を照らし出し、論理を通して世界が見えるのです

ところが論理そのものの成り立ちは言葉では説明されません
「論理は主観や慣習の産物である」などという念仏は単に、
「納得しやすい思いつき」に過ぎませんし、何も言っていないのと
同じことです
なぜなら、その主観や慣習が「何であるか」どころか、それらが
論理の源泉であるためには「どのようであるべきか」すら全く分からないのです
そもそも何かを説明するためには無条件に論理を使うしかないからです

論理とはいったいなにごとなのでしょうか
概念成立の活動一般でしょうか、カテゴリー機能でしょうか
もし論理がそのようなものとしてしか説明できないのであれば、
論理によって宇宙人に何かを説明することは、不可能です

論理を普遍とするための機械、つまりそれ自身が意味であるような
そんなおもちゃが要るでしょう
ばかばかしいと思いますか?
しかし人間も、おもちゃみたいなものですよ
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  • 2016/09/18(日) 18:57:04
~現在という“現象”は、どうして観測されないのか~

「客観的な現在」つまり「物理的な現在」というようなものが
果たしてあるのでしょうか
少なくない数の科学者が、「現在とは意識が作りだしたものだ」とか
「脳が作り出す“今”という虚構だ」とか、無責任に言い放ちますが
では、どのような物理的過程によって脳あるいは意識が今を作り出すのか
と問われたら、まともに答えられる人は世界中に一人もいません
驚くべきことです

物理的過程には時制がありません
物理で扱う「ある時刻t」が一秒前なのか100年前なのか、そして今なのか
そんなことは問題にしないのです
物理は現在とは何であるかについて、見事に無視します

一方で、「今しか無いよ」と言い出す哲学愛好家も少なからず存在します
過去は実在しないし、時間は観念が作りだした虚構である、というわけです
彼らの言う「いま」とは何のことでしょうか?
所与としての「いまここ」?
そりゃあまあ、そうなんでしょうけど、それは何一つ説明しないのです
つまり、「現在だけがある」ことを認めない人に対しては、一切の説得能力が無いのです
彼らにできることは「分かってないなあ」という寂しげな遠吠えだけです
「いや分かってますよ」という反論は、彼らの心には届きません
なぜなら、そこに論理が働く仕掛けが無いからです
現在中心主義を主張するなら、過去という“虚構”がどうやって構成されるのか
示さねばならないはずですが、それを試みたところで無能をさらけ出すだけです
それが怖いので、誰もやろうとはしないのです

私は、現在を覗くことができるでしょうか
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  • 2016/10/01(土) 20:46:33
パラドクスは論理によるものであり
自然には矛盾もパラドクスも無い

・・・などと、どうして独断できるのか
根拠不明ですね

むしろ矛盾とパラドクスを研究することで
自然の本質も見えてくるはず
そう考えるのが“自然”です

なぜなら、我々は、論理がどうしてこのようにあるのかすら
知らないからです
フリックラーニング
フリックラーニング
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