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  • 2012/02/12(日) 13:53:51.69
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください


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  • 2013/02/22(金) 21:38:26.87
>>86
鎌足は生前には藤原姓を名乗っていない
実質的な藤原氏の祖は不比等だろう
不比等の母親は上野国の地方豪族車持氏の出、つまり毛野氏だ

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  • 88
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  • 2013/02/22(金) 21:57:40.39
中臣氏も尊卑分脈からだけでは推し測ることの出来ない難しい氏族ですよね。

九州・宇佐津臣(宇佐国造)の一族に仲津臣(なかつのおみ)という氏族がおり、この氏族が常陸に移動して鹿島神宮宮司の多臣(おおののおみ)氏と、
常陸・那賀国造(なかくにのみやつこ)氏とに分かれます。
那賀国造氏は同時に那賀臣(なかのおみ)氏、仲臣(なかのおみ)氏、そして中臣氏とも称しました。

また、那賀国造の「那賀」は、宇佐国造一族である仲津彦の「仲」に由来するものと思われます。

そしてこの宇佐津彦(宇佐国造)、仲津臣氏、多臣氏、那賀国造(=那賀臣、仲臣、中臣)氏の共通先祖に天種子(アマノタネ)命という神がいます。

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  • 89
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  • 2013/02/22(金) 21:59:13.01
>>87
天智天皇から大職冠と藤原姓を与えられたのは鎌足
通例で中臣と呼んでいるだけで藤原鎌足でもあるんだよ

だいたい、藤原が朝廷で重んじられるようになったのは鎌足の軍事行動によってだ
それでは鎌足の軍事力はどこから来ていたと思うのか?
車持氏は名の通り、天皇の輿を担いだ一族だが傑出した大和朝廷の軍事氏族ではない。

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  • 2013/02/22(金) 23:20:22.92
>>89
軍事行動って何を言ってる?

中臣氏は「壬申の乱」でボロ負けしてたろ
近江方の中心人物だった中臣氏族長の連金は乱後に処刑されてる
頼みの大伴氏も大海人皇子側に付いたしな

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  • 2013/02/23(土) 14:57:26.06
中臣鎌足は弓削大連・物部守屋の曾孫か玄孫くらいだと思います。

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  • 92
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  • 2013/02/23(土) 15:46:41.79
>>88
へぇ、面白いね。
ところで、中つながりで、天智天皇(中大兄皇子)には、何か氏族的なつながりがないのかな。

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  • 93
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  • 2013/02/24(日) 13:56:28.92
>>89
確かに壬申の乱後の中臣氏・藤原氏の立場はかなり微妙なものになったし
両氏はこのまま歴史の舞台から消えてしまう可能性もあった
大伴氏が天武側についた事がこの乱の勝敗を決めたともいえるから
父を裏切った大伴氏に対する不比等の恨みは相当のものだったろうね

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  • 2013/02/24(日) 14:03:31.82
すまん>>93>>90に対するレスね

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  • 2013/02/26(火) 01:12:52.96
天武十三年(684年)の「八種の姓」で毛野一族である「東国六腹」は
そろって朝臣の姓を与えられているね
当時、朝臣を与えられた面々を見ると畿内の大豪族ばかりなので、
地方豪族にすぎなかった毛野氏に朝臣が与えられたのはかなり異例な事だね
なんでなんだろ?壬申の功臣だった?そんな話は聞いたことないけど

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  • 96
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  • 2013/02/26(火) 01:29:46.43
さらに不思議なのは
毛野氏に朝臣の姓が与えられた時、中臣氏にも同じ朝臣の姓が与えられたが
壬申の功臣であるはずの大伴氏に与えられた姓はワンランク下の宿禰だったという事だ

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  • 97
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  • 2013/02/26(火) 01:49:30.57
神別系で優遇されたのは中臣藤原氏と石上朴井の物部氏だけだから。
同じく神別系の大伴は除外された。

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  • 98
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  • 2013/02/26(火) 09:40:30.81
久米、大伴は同族な気がします。
また大伴、物部、中臣は緩やかな同族かと。

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  • 99
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  • 2013/02/26(火) 22:02:29.59
>>95-96
おまえはなにをいってるんだ?
不思議でもなんでもないだろ。
上毛野氏も下毛野氏も、北関東と畿内の両方に繁茂してる立派な大豪族だぞ

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  • 2013/02/26(火) 23:00:05.89
>>99
上野、下野、車持だけならまだ分かる
大野、池田、佐味なんてそんなに立派か?
畿内やその周辺にももっと有名豪族がいただろ
大伴とか忌部とか尾張とか吉備とかさ

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  • 2013/02/27(水) 00:51:14.73
>>100
毛野氏は一族の結束が強かったから
六氏族すべてに同等の姓を与える必要があったってことだろうね
まあ、それだけ一族の力が強かったってこと

武力については蝦夷と接する土地柄だから言わずもがなだけど
財力についても他の豪族をはるかに凌いでいたようだ

例えば、下野国では持統天皇の病気回復を願って
平城京内の七大寺に比肩されるほどの壮麗な大伽藍を持った
官寺「下野薬師寺」を建立しているし

「公地公民」では率先して奴婢六百人を解放している
普通、奴婢は畿内の大豪族でも十数人程度だったといわれているから
いかに下野一族の勢力が大きいものだったかわかるよね

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  • 102
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  • 2013/02/28(木) 14:39:00.67
カバネってのは個人に与えるんじゃなくて
一族全体に与えるんだから何もおかしくないだろ

出世頭が一人いれば一族全体が余沢にあずかるって仕組みじゃん

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  • 103
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  • 2013/02/28(木) 21:50:39.19
>>102
そう、その出世頭が下毛野古麻呂だね

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  • 2013/03/01(金) 18:13:27.18
オビ=ワン・毛野氏

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  • 105
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  • 2013/03/02(土) 10:21:00.10
下野古麻呂って何者なんだろう?

最終的な冠位と役職は「式部卿大将軍、参議、正四位下」

・式部卿 ・・・ 文官の人事を担当した式部の長官
・大将軍 ・・・ 最大で三万人の兵士を統率する指揮官
・参 議 ・・・ 国の最高決定機関である「朝政の議」に参加できたのは大臣、納言、参議のみ

出世競争で差別されていた地方豪族出身者が、これほどの高位にのぼるのはきわめて異例だ
古麻呂以前には例がないし、古麻呂後でも古麻呂の上を行ったのは吉備真備以外にはいない

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  • 106
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  • 2013/03/04(月) 01:30:08.29
持統天皇即位以前の古麻呂は無名の下級官僚にすぎなかった
それが持統朝になると一転めざましい活躍をみせるようになる

既に持統天皇や草壁皇子と親密な関係のあった藤原不比等からの
推挙があったかもしれない
古麻呂は生涯、不比等と行動を共にしている

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  • 107
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  • 2013/03/04(月) 22:41:22.90
大野東人は?

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  • 108
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  • 2013/03/05(火) 00:42:32.11
>>107
おっと、同族の大野東人を忘れてた
ご指摘感謝

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  • 109
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  • 2013/03/05(火) 23:57:55.69
斉明六年(660年)唐・新羅連合軍の侵攻により百済が滅亡。
中大兄皇子は百済の遺臣「鬼室福信(きしつふくしん)」の要請により
人質「余豊璋(よほうしょう)」に織冠を与え、護衛兵5千余人を付けて送り返す。
さらに天智元年(662年)日本より送られた救援軍は余豊璋を国王とし百済を復興。
翌年、二万七千の主力軍が新羅に向けて出撃。
前軍の将軍は「上野稚子(かみつけぬわくご)」。
稚子らは新羅の二城を奪うなど緒戦は優勢であった。

このとき青年となっていた古麻呂はすでに出仕していただろうか、
同族の上野稚子の活躍を誇らしく思いながら見守っていたに違いない。

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  • 110
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  • 2013/03/08(金) 09:53:47.98
>>105
だから地方豪族じゃないと何度いえば…

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  • 111
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  • 2013/03/10(日) 10:45:19.32
ところが、何を血迷ったのか余豊璋が鬼室福信を謀反の罪で殺害。
この内輪もめにより百済軍は空中分解する。
日本軍は指揮系統が不明瞭なまま唐・新羅連合軍に単独で対峙しなくてはならなくなった。

結局、日本史上初の対外戦争であった「白村江の戦い」は惨敗という結果に終わった。

敗戦の原因は、余豊璋の度重なる軽率な行動もあったが、
日本の救援軍が豪族の私兵の寄せ集めに過ぎず、
国家による軍団制が完成していなかったことが大きい。

毛野一族にとっても多くの私兵、そして将軍上野稚子を失うという
大きな痛手を被る戦であった。

ここまで見た
  • 112
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  • 2013/03/10(日) 11:09:02.97
余豊璋は無能

ここまで見た
  • 113
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  • 2013/03/11(月) 07:16:38.64
崇神の皇子、トヨスキイリヒコは東国を収めるように命じられる。
トヨスキイリヒコの孫の御諸別の代に、
崇神の孫である景行が、
御諸別に「汝の父彦狭島王、任する所に向かい得ず、早く葬る。故に汝が東国を領めよ」
と命じたとある。
時系列的には不自然ではなく、
毛野がヨスキイリヒコ並びにその子孫を始祖とするのもまた不自然ではない。

ご都合主義的に書紀を利用してきた、従来の逆皇国史観はおいといて、
日本書紀の記述は案外正確。

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  • 114
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  • 2013/03/13(水) 01:02:36.53
>>111の続き

「白村江の戦い」の敗戦処理で国内が混乱する中
唐からの使節団と共に、満を持してあの男が帰ってくる。
学問僧として渡唐していた不比等の兄「定慧(じょうえ)」である。

孝徳天皇の後胤だといわれる定慧を父・鎌足は彼の安全のため唐に留学させていた。
しかし、定慧の外交能力を必要した鎌足が呼び寄せたのだ。
また、年老いた父を持つ若い不比等のためでもあった。

もちろん、定慧の母親は不比等と同じ車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)。
毛野氏である。

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  • 115
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  • 2013/03/16(土) 17:50:25.13
定慧の出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」という。
還俗して名を真人に戻したが、今もなお、その命を狙われる身。
そのまま中臣氏でいるわけにはいかなかった。

定慧帰国前のある晩、鎌足は粟田百済(あわたのくだら)を自分の屋敷に招いた。

百済「ところで内臣殿、私に内々の頼みとは何でございましょう?」

鎌足「実は近々、長男の真人が唐から戻ってくる。
  その真人を百済殿の子息として迎えてはくださらぬか?
  無論、貴殿及び粟田一族の悪いようにはせぬ。
  このような事を頼めるのは身内である貴殿しかおらぬのだ。」

粟田氏は中臣氏と関わりの深い春日氏の後裔氏族である。
個人としても粟田百済は大事を共することができる人物であった。

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  • 116
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  • 2013/03/17(日) 05:06:58.74
>>115
面白い話だが、
>粟田氏は中臣氏と関わりの深い
ことを論証できないとただの思いつき、妄説に終わってしまう。

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  • 117
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  • 2013/03/17(日) 05:31:31.34
>>111
お前の妄想には興味ない。

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  • 118
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  • 2013/03/17(日) 10:23:18.32
粟田氏限定というよりも、同氏を含めた和邇・久米氏族と中臣・藤原氏族との結び付きについては確かに注目すべきものがあると思われます。
鹿島神宮宮司家の多氏・仲臣(中臣)氏のルーツである宇佐氏(宇佐国造氏)と神功皇后の出身氏族である息長氏との関係や、
春日氏の本拠地がのちに藤原氏の氏神である春日四神を勧請してその鎮座地になっていく過程には大変興味深いものがあります。

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  • 2013/03/17(日) 20:20:32.38
>>118
>春日氏の本拠地がのちに藤原氏の氏神である春日四神を勧請してその鎮座地になっていく過程には大変興味深いものがあります。

考えられるのは、藤原史と粟田真人との関係。
それ以外の結びつきには首をひねってしまうが。

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  • 120
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  • 2014/03/26(水) 18:48:55.91
「特に関東地方は朝鮮人の非常に多い所ですからね。
奈良朝以前の大和朝廷の時代から、平安朝初期にかけて何度も大量に集団移住しています。
とりわけ、この武蔵国、今の東京都、埼玉県は朝鮮人の拓いた土地ですから、朝鮮の服装をしていてもいいんじゃないですかね。今のような白い衣装の─」
「僕はいわゆる坂東武士というのは、朝鮮人の血が非常に濃厚に入っていた、ということを最近考え始めたんですけれどね。
従来の日本人と違って坂東武士は、荒々しくて勇敢で強情っ張りでね、そういうところは、やはり朝鮮的性格だと思ってるんです。」
海音寺潮五郎『覇者の條件』より

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  • 2014/03/26(水) 19:23:38.63
名の謎は解けたぞ

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  • 2014/03/26(水) 19:36:14.24
江戸時代あたりそんなもんを持ち出してロシア辺りと取り引きしてたんだろ

ば〜か^_^

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  • 2014/03/26(水) 19:40:58.61
北方漁港関連ばれてるぞ

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  • 124
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  • 2014/03/26(水) 20:30:53.49
上毛野氏→赤城神社
下毛野氏→二荒山神社

共に豊城入彦命と大己貴命を祀っている不思議

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  • 2014/03/26(水) 20:37:35.96
豊城入彦が大物主信仰を関東に持ち込んだんじゃないかな
神話扱いされがちな豊城入彦だけど、普通に関東に来てたと思うんだが

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  • 126
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  • 2014/03/26(水) 21:03:00.78
毛野氏の子孫かどうかは、話をすればすぐわがっペ?
茨城:だっぺ
栃木:だべ
群馬:だんべ
東京に長く住んで標準語で話しているつもりでも、
興奮すると尻上がりのイントネーションになるのが毛野氏の子孫。
すぐ、わかんべ?

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  • 2014/03/26(水) 21:53:20.37
>>125
茨城の丸山古墳が陵墓って説もあるしな

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  • 128
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  • 2014/03/26(水) 22:44:52.81
豊城入彦前後は関東統治のために結構皇族将軍派遣してたと思うんだよな
ヤマトタケルもその一人
大きな視点で見ると畿内と関東の分割統治のような形態

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  • 2014/03/26(水) 23:25:46.67
縄文人成りすまし工作スレ

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  • 130
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  • 2014/03/27(木) 01:46:04.08
>>120
山口県というのは日本では朝鮮の血液的影響を
もっとも多く受けたものの一つですから、
それももう古代じゃなくて、ごく近代にいたるまで
受けつづけてきたところですから。
そういうことがあって、長州的思考法というのは
ぼくなんかは朝鮮人的なタイプだと思うんです。

司馬遼太郎

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  • 2014/03/27(木) 01:50:06.56
なんか必死だけど今の朝鮮半島民とは
DNAレベルでなんの繋がりもないから

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  • 133
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  • 2014/03/27(木) 09:41:52.36
131
朝鮮半島と関係あったかも疑問
どうみてもいつからかきた朝鮮?系とやらがやたら主張してるのか?

ここまで見た
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  • 2014/03/27(木) 09:43:31.32
130
それで影響あるなら倭寇関連だぞ

海賊の話

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  • 2014/03/27(木) 21:24:49.80
>>128
ちなみに下野足利の地名の由来のに日本武尊の御子の足鏡別王がこの地方を治めた縁か、
豊城入彦命の子孫である鹿我別命が治めたので命名されたらしい

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  • 2014/03/27(木) 21:44:43.17
白村江の戦い迄は半島との繋がりは強かった。

大和朝廷の海外領地の任那も有った。
百済や新羅には頻繁に倭軍が進攻し、高句麗とは半島中部で合戦をした。
百済は王子を人質として大和へ送るなど明らかに服属していた。

半島で一生を終えた倭人の有力者も多く、彼らは前方後円墳を築き、今も眠っている。
そんな中では、「韓子」と呼ばれる日鮮混血児も多く誕生した訳だ。

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  • 137
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  • 2014/03/29(土) 12:28:19.38
>>135
「日本書紀」によると継体天皇6年(512年)に大伴金村は任那4県(上多利、下多利、娑陀、牟婁)(多利には口篇がつく)を百済に譲渡してしまいます。
任那4県に住んでいた倭人の多くは日本に移住することになりました。
任那3県の一つ多利から日本に帰国した倭人は、東国の足利に代わりの領地を与えられました。
隋書俀国伝には、600年と607年に倭王の阿毎多利思北孤が使者を遣わせて朝貢したと記述されており、
隋の事情にも明るい多利思北孤が隋に派遣されたのです。
この方が、聖徳太子ではないかと思われるわけで、足利将軍の血筋の良さが伺える逸話です。

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  • 138
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  • 2014/03/30(日) 20:58:44.92
足利には毛野町と言う名前の地域が残っているらしいね

砂時計アラームタイマー
フリック回転寿司
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