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  • 2012/02/12(日) 13:53:51.69
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください


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>>69
武蔵っていう国境みたいなのがいつ決まってきたのかっていうのは興味
がある。もちろん、国造云々の時代は、各豪族の縄張りみたいなもので
ある程度線引きしたものであったんだろうけどね。今自分たちが思い描く
国境っていう概念ができたのは天武朝の国境画定事業であって。

>武蔵国は律令制期に知々夫(秩父)国を加える前からかなりの広域エリアを有していたから、
 当然国造に匹敵する、或いはそれに準ずる規模の豪族はいくつか存在したと思いますよ。
→これは面白い。となると、どういう選定理由で国造職をヤマト王権は決めていたのかとか、
 そもそも国造職は一人だけだったのか、とか色んな疑問がわいてくる。
 これ以前だと「県」との関係とかどうなんだろ。

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  • 2012/03/13(火) 02:51:39.06
『遊牧騎馬民族と東国武士 』
著者:保坂俊三
出版社:中央公論事業出版
item.rakuten.co.jp/book/1076854/

593 名前: 天之御名無主 投稿日: 01/10/01 19:52

以前図書館で「遊牧騎馬民族と東国武士」という本で興味深い内容を読
んだ。遼東半島に居た倭人が拓跋氏に捕らえられ、海で獲った魚を拓跋
に供給していた。これが禿髪氏。その後拓跋氏は魏を開いたが、禿髪氏
は同じ鮮卑であり、源が同じということで皇帝から「源」の姓を賜り、
将軍職を与えられるなどたいそう出世した。禿髪とはちょんまげの事。
つまり、日本の東国に入植した、出土品から見て異民族に思える騎馬集団、
のちの武士は禿髪氏の事である、というような内容だった。参考までに。

http://mimizun.com/log/2ch/min/989770047/

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  • 2012/03/13(火) 07:44:33.37
>>70
> 武蔵っていう国境みたいなのがいつ決まってきたのかっていうのは興味がある

氏姓制度時代の北武蔵エリアは本当に元から武蔵国だったのかっていう疑問もあるね。
後発開発地域で5世紀末になるまで大型古墳が存在しなかったっていうことは、当然より強大な先進地域である毛野国のテリトリーであったからということであるのかもしれない。

それから、国造封建については1人が任命される場合もあれば、一国に2人(以上)任命される例などもあったみたいだし、
上で挙げた「武蔵国造の乱」のような覇権戦争その他理由で交代する例もあったみたいだ。
国造封建は成務朝期に多い。やはり日本武尊絡みかな。
国造の任命については元からの在地豪族が任命される場合もあれば、中央朝廷から派遣されて(封をうけて)任命される場合もあったようだ。
つまり、のちの鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府の守護地頭や大名の任命の仕方とおんなじ。

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  • 73
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  • 2012/06/19(火) 05:11:33.82
ああ、わかりやすく歴史で書くとな。日本史の史実はホントはこうだ。

そして坂東武士そのものは
承久の段階でもう坂東の軍団の合計3割 10万以上は占めてた坂東武士一計そのものだろ



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  • 2012/08/13(月) 23:18:36.09
>>62
ならば、5世紀後坂東武士がとりかえすんですな。

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  • 2012/09/02(日) 16:09:44.18
>>2
前スレ
【毛野】関東に大王あり【武蔵】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1105834872/

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  • 76
  • 2012/09/13(木) 05:50:00.94
>>3
コノハナサクヤ姫と関係ありますか?

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  • 2012/09/15(土) 10:08:44.18
>>15
>関東人が、朝鮮(高句麗、新羅、百済)系であることを示す
>証拠はいくらでもあるが、縄文系であることを示す証拠は何も無い。

大嘘。
関東ではD2の比率が高いが、朝鮮にはD2はまずない。
むしろ中国・朝鮮に多いO3の比率は西日本で高い。

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  • 2012/09/15(土) 19:57:51.72
畿内古墳人は
渡来系古墳人の中でも渡来形質が特に際立っている集団である

畿内古墳人は
韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し
縄文人から最も離れている

関東・東北南部古墳人は
渡来系古墳人の中で縄文人グループに最も近い

『日本人のきた道』 (池田次郎・京都大学名誉教授 自然人類学)

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  • 2012/09/17(月) 20:13:06.64
三毛野命
若三毛野命

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  • 2012/10/12(金) 21:18:16.84
>>79
神武天皇のことか
けぬってどういう意味なんだろうな

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  • 2012/12/01(土) 18:07:21.65
http://seiji.yahoo.co.jp/vote/result/201211270001/

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  • 2013/01/14(月) 00:24:35.20
百姓上毛野貞並

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  • 2013/02/06(水) 14:19:45.67
>>80
だから神武天皇の乳母氏族が毛野國の人だったんじゃね?
昔の皇族の名前って母親の氏族名か乳母の氏族名つけるじゃん

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  • 84
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  • 2013/02/09(土) 02:41:45.64
中臣=藤原氏も元は軍事貴族で畿内から関東に遠征し通婚して常陸や房総に地盤を得たのかな
だから鹿島神宮=春日大社のつながりがある

あるいは元々地方の勢力だったのが連合政権を作り、首都周辺に集住し豪族層を形成する
後の室町時代、江戸時代を考えても官僚層は地方に地盤があるね

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  • 85
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  • 2013/02/22(金) 13:49:37.69
>>84
中臣氏は神官の家系で元々軍事貴族ではないだろう
中臣氏の中でも、毛野氏の後ろだてを得た藤原氏が、後々政治的軍事的に突出した力をつける事ができたが

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  • 86
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  • 2013/02/22(金) 21:09:41.94
>>85
藤原はむしろ大伴に近いんじゃね?
中臣鎌足の父中臣御食子辺りまでは神官やってたらしいんだが
中臣鎌足の実母が軍事氏族の大伴氏出身
鎌足が母方の縁で軍事力を身につけてもおかしくない

ここまで見た
  • 87
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  • 2013/02/22(金) 21:38:26.87
>>86
鎌足は生前には藤原姓を名乗っていない
実質的な藤原氏の祖は不比等だろう
不比等の母親は上野国の地方豪族車持氏の出、つまり毛野氏だ

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  • 88
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  • 2013/02/22(金) 21:57:40.39
中臣氏も尊卑分脈からだけでは推し測ることの出来ない難しい氏族ですよね。

九州・宇佐津臣(宇佐国造)の一族に仲津臣(なかつのおみ)という氏族がおり、この氏族が常陸に移動して鹿島神宮宮司の多臣(おおののおみ)氏と、
常陸・那賀国造(なかくにのみやつこ)氏とに分かれます。
那賀国造氏は同時に那賀臣(なかのおみ)氏、仲臣(なかのおみ)氏、そして中臣氏とも称しました。

また、那賀国造の「那賀」は、宇佐国造一族である仲津彦の「仲」に由来するものと思われます。

そしてこの宇佐津彦(宇佐国造)、仲津臣氏、多臣氏、那賀国造(=那賀臣、仲臣、中臣)氏の共通先祖に天種子(アマノタネ)命という神がいます。

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  • 89
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  • 2013/02/22(金) 21:59:13.01
>>87
天智天皇から大職冠と藤原姓を与えられたのは鎌足
通例で中臣と呼んでいるだけで藤原鎌足でもあるんだよ

だいたい、藤原が朝廷で重んじられるようになったのは鎌足の軍事行動によってだ
それでは鎌足の軍事力はどこから来ていたと思うのか?
車持氏は名の通り、天皇の輿を担いだ一族だが傑出した大和朝廷の軍事氏族ではない。

ここまで見た
  • 90
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  • 2013/02/22(金) 23:20:22.92
>>89
軍事行動って何を言ってる?

中臣氏は「壬申の乱」でボロ負けしてたろ
近江方の中心人物だった中臣氏族長の連金は乱後に処刑されてる
頼みの大伴氏も大海人皇子側に付いたしな

ここまで見た
  • 91
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  • 2013/02/23(土) 14:57:26.06
中臣鎌足は弓削大連・物部守屋の曾孫か玄孫くらいだと思います。

ここまで見た
  • 92
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  • 2013/02/23(土) 15:46:41.79
>>88
へぇ、面白いね。
ところで、中つながりで、天智天皇(中大兄皇子)には、何か氏族的なつながりがないのかな。

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  • 93
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  • 2013/02/24(日) 13:56:28.92
>>89
確かに壬申の乱後の中臣氏・藤原氏の立場はかなり微妙なものになったし
両氏はこのまま歴史の舞台から消えてしまう可能性もあった
大伴氏が天武側についた事がこの乱の勝敗を決めたともいえるから
父を裏切った大伴氏に対する不比等の恨みは相当のものだったろうね

ここまで見た
  • 94
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  • 2013/02/24(日) 14:03:31.82
すまん>>93>>90に対するレスね

ここまで見た
  • 95
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  • 2013/02/26(火) 01:12:52.96
天武十三年(684年)の「八種の姓」で毛野一族である「東国六腹」は
そろって朝臣の姓を与えられているね
当時、朝臣を与えられた面々を見ると畿内の大豪族ばかりなので、
地方豪族にすぎなかった毛野氏に朝臣が与えられたのはかなり異例な事だね
なんでなんだろ?壬申の功臣だった?そんな話は聞いたことないけど

ここまで見た
  • 96
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  • 2013/02/26(火) 01:29:46.43
さらに不思議なのは
毛野氏に朝臣の姓が与えられた時、中臣氏にも同じ朝臣の姓が与えられたが
壬申の功臣であるはずの大伴氏に与えられた姓はワンランク下の宿禰だったという事だ

ここまで見た
  • 97
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  • 2013/02/26(火) 01:49:30.57
神別系で優遇されたのは中臣藤原氏と石上朴井の物部氏だけだから。
同じく神別系の大伴は除外された。

ここまで見た
  • 98
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  • 2013/02/26(火) 09:40:30.81
久米、大伴は同族な気がします。
また大伴、物部、中臣は緩やかな同族かと。

ここまで見た
  • 99
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  • 2013/02/26(火) 22:02:29.59
>>95-96
おまえはなにをいってるんだ?
不思議でもなんでもないだろ。
上毛野氏も下毛野氏も、北関東と畿内の両方に繁茂してる立派な大豪族だぞ

ここまで見た
  • 100
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  • 2013/02/26(火) 23:00:05.89
>>99
上野、下野、車持だけならまだ分かる
大野、池田、佐味なんてそんなに立派か?
畿内やその周辺にももっと有名豪族がいただろ
大伴とか忌部とか尾張とか吉備とかさ

ここまで見た
  • 101
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  • 2013/02/27(水) 00:51:14.73
>>100
毛野氏は一族の結束が強かったから
六氏族すべてに同等の姓を与える必要があったってことだろうね
まあ、それだけ一族の力が強かったってこと

武力については蝦夷と接する土地柄だから言わずもがなだけど
財力についても他の豪族をはるかに凌いでいたようだ

例えば、下野国では持統天皇の病気回復を願って
平城京内の七大寺に比肩されるほどの壮麗な大伽藍を持った
官寺「下野薬師寺」を建立しているし

「公地公民」では率先して奴婢六百人を解放している
普通、奴婢は畿内の大豪族でも十数人程度だったといわれているから
いかに下野一族の勢力が大きいものだったかわかるよね

ここまで見た
  • 102
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  • 2013/02/28(木) 14:39:00.67
カバネってのは個人に与えるんじゃなくて
一族全体に与えるんだから何もおかしくないだろ

出世頭が一人いれば一族全体が余沢にあずかるって仕組みじゃん

ここまで見た
  • 103
  •  
  • 2013/02/28(木) 21:50:39.19
>>102
そう、その出世頭が下毛野古麻呂だね

ここまで見た
  • 104
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  • 2013/03/01(金) 18:13:27.18
オビ=ワン・毛野氏

ここまで見た
  • 105
  •  
  • 2013/03/02(土) 10:21:00.10
下野古麻呂って何者なんだろう?

最終的な冠位と役職は「式部卿大将軍、参議、正四位下」

・式部卿 ・・・ 文官の人事を担当した式部の長官
・大将軍 ・・・ 最大で三万人の兵士を統率する指揮官
・参 議 ・・・ 国の最高決定機関である「朝政の議」に参加できたのは大臣、納言、参議のみ

出世競争で差別されていた地方豪族出身者が、これほどの高位にのぼるのはきわめて異例だ
古麻呂以前には例がないし、古麻呂後でも古麻呂の上を行ったのは吉備真備以外にはいない

ここまで見た
  • 106
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  • 2013/03/04(月) 01:30:08.29
持統天皇即位以前の古麻呂は無名の下級官僚にすぎなかった
それが持統朝になると一転めざましい活躍をみせるようになる

既に持統天皇や草壁皇子と親密な関係のあった藤原不比等からの
推挙があったかもしれない
古麻呂は生涯、不比等と行動を共にしている

ここまで見た
  • 107
  •  
  • 2013/03/04(月) 22:41:22.90
大野東人は?

ここまで見た
  • 108
  •  
  • 2013/03/05(火) 00:42:32.11
>>107
おっと、同族の大野東人を忘れてた
ご指摘感謝

ここまで見た
  • 109
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  • 2013/03/05(火) 23:57:55.69
斉明六年(660年)唐・新羅連合軍の侵攻により百済が滅亡。
中大兄皇子は百済の遺臣「鬼室福信(きしつふくしん)」の要請により
人質「余豊璋(よほうしょう)」に織冠を与え、護衛兵5千余人を付けて送り返す。
さらに天智元年(662年)日本より送られた救援軍は余豊璋を国王とし百済を復興。
翌年、二万七千の主力軍が新羅に向けて出撃。
前軍の将軍は「上野稚子(かみつけぬわくご)」。
稚子らは新羅の二城を奪うなど緒戦は優勢であった。

このとき青年となっていた古麻呂はすでに出仕していただろうか、
同族の上野稚子の活躍を誇らしく思いながら見守っていたに違いない。

ここまで見た
  • 110
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  • 2013/03/08(金) 09:53:47.98
>>105
だから地方豪族じゃないと何度いえば…

ここまで見た
  • 111
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  • 2013/03/10(日) 10:45:19.32
ところが、何を血迷ったのか余豊璋が鬼室福信を謀反の罪で殺害。
この内輪もめにより百済軍は空中分解する。
日本軍は指揮系統が不明瞭なまま唐・新羅連合軍に単独で対峙しなくてはならなくなった。

結局、日本史上初の対外戦争であった「白村江の戦い」は惨敗という結果に終わった。

敗戦の原因は、余豊璋の度重なる軽率な行動もあったが、
日本の救援軍が豪族の私兵の寄せ集めに過ぎず、
国家による軍団制が完成していなかったことが大きい。

毛野一族にとっても多くの私兵、そして将軍上野稚子を失うという
大きな痛手を被る戦であった。

ここまで見た
  • 112
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  • 2013/03/10(日) 11:09:02.97
余豊璋は無能

ここまで見た
  • 113
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  • 2013/03/11(月) 07:16:38.64
崇神の皇子、トヨスキイリヒコは東国を収めるように命じられる。
トヨスキイリヒコの孫の御諸別の代に、
崇神の孫である景行が、
御諸別に「汝の父彦狭島王、任する所に向かい得ず、早く葬る。故に汝が東国を領めよ」
と命じたとある。
時系列的には不自然ではなく、
毛野がヨスキイリヒコ並びにその子孫を始祖とするのもまた不自然ではない。

ご都合主義的に書紀を利用してきた、従来の逆皇国史観はおいといて、
日本書紀の記述は案外正確。

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  • 2013/03/13(水) 01:02:36.53
>>111の続き

「白村江の戦い」の敗戦処理で国内が混乱する中
唐からの使節団と共に、満を持してあの男が帰ってくる。
学問僧として渡唐していた不比等の兄「定慧(じょうえ)」である。

孝徳天皇の後胤だといわれる定慧を父・鎌足は彼の安全のため唐に留学させていた。
しかし、定慧の外交能力を必要した鎌足が呼び寄せたのだ。
また、年老いた父を持つ若い不比等のためでもあった。

もちろん、定慧の母親は不比等と同じ車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)。
毛野氏である。

ここまで見た
  • 115
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  • 2013/03/16(土) 17:50:25.13
定慧の出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」という。
還俗して名を真人に戻したが、今もなお、その命を狙われる身。
そのまま中臣氏でいるわけにはいかなかった。

定慧帰国前のある晩、鎌足は粟田百済(あわたのくだら)を自分の屋敷に招いた。

百済「ところで内臣殿、私に内々の頼みとは何でございましょう?」

鎌足「実は近々、長男の真人が唐から戻ってくる。
  その真人を百済殿の子息として迎えてはくださらぬか?
  無論、貴殿及び粟田一族の悪いようにはせぬ。
  このような事を頼めるのは身内である貴殿しかおらぬのだ。」

粟田氏は中臣氏と関わりの深い春日氏の後裔氏族である。
個人としても粟田百済は大事を共することができる人物であった。

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  • 116
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  • 2013/03/17(日) 05:06:58.74
>>115
面白い話だが、
>粟田氏は中臣氏と関わりの深い
ことを論証できないとただの思いつき、妄説に終わってしまう。

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  • 117
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  • 2013/03/17(日) 05:31:31.34
>>111
お前の妄想には興味ない。

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  • 118
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  • 2013/03/17(日) 10:23:18.32
粟田氏限定というよりも、同氏を含めた和邇・久米氏族と中臣・藤原氏族との結び付きについては確かに注目すべきものがあると思われます。
鹿島神宮宮司家の多氏・仲臣(中臣)氏のルーツである宇佐氏(宇佐国造氏)と神功皇后の出身氏族である息長氏との関係や、
春日氏の本拠地がのちに藤原氏の氏神である春日四神を勧請してその鎮座地になっていく過程には大変興味深いものがあります。

ここまで見た
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  • 2013/03/17(日) 20:20:32.38
>>118
>春日氏の本拠地がのちに藤原氏の氏神である春日四神を勧請してその鎮座地になっていく過程には大変興味深いものがあります。

考えられるのは、藤原史と粟田真人との関係。
それ以外の結びつきには首をひねってしまうが。

ここまで見た
  • 120
  •  
  • 2014/03/26(水) 18:48:55.91
「特に関東地方は朝鮮人の非常に多い所ですからね。
奈良朝以前の大和朝廷の時代から、平安朝初期にかけて何度も大量に集団移住しています。
とりわけ、この武蔵国、今の東京都、埼玉県は朝鮮人の拓いた土地ですから、朝鮮の服装をしていてもいいんじゃないですかね。今のような白い衣装の─」
「僕はいわゆる坂東武士というのは、朝鮮人の血が非常に濃厚に入っていた、ということを最近考え始めたんですけれどね。
従来の日本人と違って坂東武士は、荒々しくて勇敢で強情っ張りでね、そういうところは、やはり朝鮮的性格だと思ってるんです。」
海音寺潮五郎『覇者の條件』より

砂時計アラームタイマー
フリックラーニング
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