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  • 1
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  • 2011/10/05(水) 17:31:20.26
仏教界の最左翼、ノンポリ、最右翼の特色をプラス面、マイナス面
ふくめ語り合いましょう


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  • 2
  •  
  • 2011/10/05(水) 17:46:51.37
日本でポピュラーな人たち

☆テーラワーダ
マハーシ長老、グラナタナ長老、スマナサーラ長老、プラユキ

☆禅
道元、慧能禅師、白隠、馬祖道一、鈴木大拙、ティク・ナット・ハン

☆チベット仏教
ラマ・ケツン・サンポ・リンポチェ、ロブサン・テンジン、チョギャム・トゥルンパ、
カル・リンポチェ


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  • 3
  •  
  • 2011/10/05(水) 17:48:47.54
☆プラス面
テーラワーダ
悟りまでの道がシンプル・システマティック

チベット仏教
体系化、豊富かつ効果的に網羅された瞑想法の数々
現代科学や心理学とも接点をもちやすい世界観


何ものにもこだわらない

☆マイナス面
テーラワーダ
一歩間違えると教習所

チベット仏教
一歩間違えるとファンタジー


一歩間違えるとマゾヒズム

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  • 4
  •  
  • 2011/10/05(水) 19:14:16.71
>>3
その流れでいくなら、禅のマイナス面は

一歩間違えると享楽主義


だろw

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  • 5
  •  
  • 2011/10/05(水) 20:17:32.93
禅がなぜ享楽主義?
一週間すわりっぱじゃん。

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  • 6
  • 太郎
  • 2011/10/05(水) 20:53:48.70
>1
アンタ悟り開いてる人?
或いはクドウシャで道を見つけるのに3卓で決着着けたいんかいな?

もしそれらでないなら随分有閑もて余してるんだな。チベット密だかテラワダとか言わず
、自分にとって必要なモンだけ選べば済むでしょ。
スレタイは
登山絵図眺めロマンチストvs山岳研究家vs登山者、に変更。


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  • 7
  • 太郎
  • 2011/10/05(水) 21:02:25.73
>3
登山者が登山道のプラス面とマイナス面考えて山選ぶかよw
ソレが自分の山だと思うからソコを歩むんだろ。

宗教オタクでも目指してんのか。

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  • 8
  •  
  • 2011/10/05(水) 22:40:53.14
なかなか面白いスレじゃないかな?

山登りに例えると、オレの印象だと、

テーラワーダ→地図とコンパス用いて、一歩一歩確実に登る。
チベット→あたりの風景や花を愛でながら、夢見がちに登る。
禅→どやされたり、棒で叩かれながら、懸命にがんばって登る。

って感じかな。


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  • 9
  •  
  • 2011/10/05(水) 23:24:20.34
>>3
まともな師に出会うことが大前提ということか。
我流でつまんでたらろくなことにならない。

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  • 10
  •  
  • 2011/10/06(木) 02:15:29.07
>>7
>宗教オタクでも目指してんのか。
比較宗教学には興味ありますね。ほんとうは世界中の宗教の類型まで
視野に入れたかった。
一方で有神的、無神的、アミニスティック、パンシイスティック、
他力、自力、民族宗教、普遍宗教、すべてに興味があります。

どっちかというと万教同根的、エキュメニストです。
人間が60億いれば60億の山があるという言い方もできるし、実は1つの山しかないとも言える。
仏教でも風土と文化、民族気質によって取られた形態が違う。
しかしその共通点と相違点を考察することは興味がある。人間と言うもの、ひいては
仏教と言うものが理解できるとおもう。

また、三つのものを提出したからと言って、信仰心や求道心がないと決め付けないで貰えますかね。



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  • 11
  • 太郎
  • 2011/10/06(木) 03:28:22.76
>>8
> なかなか面白いスレじゃないかな?

> 山登りに例えると、オレの印象だと、

> テーラワーダ→地図とコンパス用いて、一歩一歩確実に登る。
> チベット→あたりの風景や花を愛でながら、夢見がちに登る。
> 禅→どやされたり、棒で叩かれながら、懸命にがんばって登る。

> って感じかな。

俺は、頂きの景観を山別、登山道別《アプローチ別》に言ったのだけど。
急斜面の在り方、岩山の多少、なだらかで長い等々、滝があったり、なかったり物の怪が出たりw
だけどソの山登りの喩えはオモロイw

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  • 12
  • 太郎
  • 2011/10/06(木) 03:56:25.27
>>10
クドウシャ視点でないなら有閑的だな、と言ったんだよ。だからクドウシャであるかもしれない事は視野に入れている
人の宗教、仏教理解の助けになるような分類や比較ができるならソレは結構ですね。
宗教や仏教に対する表面的な恐れを取り除くには比較と分類は役に立つかもしれない。
だがクドウシャ的ではないね。絵図と登りの違いこそ宗教的な実存の何たるか。ソの意味ではアナタの仰る様に山は只一つだろう。
だがソの時、分類は枯れ木も山の賑わいにならず、比較は他山の石にもならないに違いない。

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  • 13
  •  
  • 2011/10/07(金) 23:46:58.91
阿含宗桐山教祖の逮捕歴

昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署

十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署

二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課

二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪


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  • 14
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  • 2011/10/08(土) 18:44:43.04
>>12
三人称的な視点のない瞑想はすでに被投されている文化の覆いに目眩ましされかねない。
一人称的な瞑想実践がなければ、地図を眺めるロマンチストや研究者にしかなれない。
両方大事だと思うな。

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  • 15
  •  
  • 2011/10/09(日) 01:19:33.33
っていうか>>12は有閑すぎるだろ。

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  • 16
  •  
  • 2011/10/09(日) 05:48:41.69
つか、基本的に有閑的であることが哲学者や修行者の条件じゃないか?

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  • 17
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  • 2011/10/11(火) 08:18:53.76
ttp://www.voiceblog.jp/hidoihidoiwa/1566683.html

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  • 18
  •  
  • 2011/10/12(水) 00:15:10.16
チベット仏教の著作を読むと、悟る為の方法論そのものではなく、
悟った後の世界観や認識について言及しているものが多い。
これって「悟ろうとしている我」が薄い1つの証左ではないかな。

なにせ、方法論は山ほどある宗派にもかかわらず、ってところがすごい。

テラワダの場合あくまで「悟るために〜〜する」っていうスタンスで語られることが多いように
見受けられる。初期経典は俗世否定的な論調だしね。
そこには「我」があるが厭離の心をかきたてられる。

禅はどちらもあまり語らない。透明な感じだね。

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  • 19
  •  
  • 2011/10/16(日) 21:52:37.01
>>2
スマナサーラって人は仏教哲学者であって、悟った人ではないのでは

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  • 20
  •  
  • 2011/10/16(日) 21:55:12.22
っていうか、テーラワーダ至上論者というか。

たくさんある道の一つとしてテーラワーダを賛美しているのではなく、
他所をけなさなきゃ保てないんだよね。

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  • 21
  •  
  • 2011/10/16(日) 22:06:53.58
殉じるとはそういうことでしょう。
表面的な言葉じりを捉えず、言わんとしていることを謙虚に聴いてはどうですか。
その分ではどの方面でも同じことです。
どうも悟りへの実践ということになると、人の意見に批判的な言葉が見受けられます。
足を引っ張りたいのですか。

ここまで見た
  • 22
  •  
  • 2011/10/16(日) 22:21:27.94
スマナサーラ氏の他宗派批判を読むと、
殉じるとはそういうことでしょう。
表面的な言葉じりを捉えず、言わんとしていることを謙虚に聴いてはどうですか。
その分ではどの方面でも同じことです。
どうも悟りへの実践ということになると、人の意見に批判的な言葉が見受けられます。
足を引っ張りたいのですか。
、といいたくなります。
テーラワーダそのものはいいとおもってますよ。大好きです。



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  • 23
  •  
  • 2011/10/16(日) 22:24:27.84
何がしたいのですか。
意趣返しのつもりでしょうが、そうして考えと行動が分離しているうちは先が思いやられますね。

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  • 24
  •  
  • 2011/10/16(日) 22:30:40.52
そう絡まないでくださいよ。
俺はテーラワーダも禅もその他もいいとおもったところは
素直に耳を傾ける。
ただ他宗派批判が「殉じるとはそういうこと」とは思えないから
そう書いたまで。

レスの意見内容に反論されるならともかく、焦点のぼやけた「姿勢批判」
にはこんな返ししか返ってきませんよ。
意趣返しと捉えるのは、キミの考えと行動が分離してるからです。
じっくり、キミのレスの動機を考えてみなさい。

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  • 25
  •  
  • 2011/10/16(日) 22:34:19.45
はは。テキトウな。
まぁかんばって。

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  • 26
  •  
  • 2011/10/17(月) 20:13:38.58
>殉じるとはそういうことでしょう。
どうでしょうね。
自分の殉じようとした道が、間違いだらけだということに、
薄々気づいているように見えるのですが。

だから著作のあちこちに予防線を張る(おそらく自派のお偉いさん対策)。
自派の伝統アビダルマ解釈に不満を抱いている節が、著作に散見される。
「私の言う事は正しく、スリランカの奴らは間違っている」と
はっきり言いきることができないために、歯切れの悪さが出る。
プッタタート比丘のように迷信は、すっぱり切り捨てればいいのにね。
どうせ自派(シャム派)は、カーストによる出家差別の歴史を持つ、
汚れた派閥なんだから。

一度、護教論者としての赤い靴を履いてしまったがために、
血を吐いて倒れるまで、そのまま踊り続けなければいけない。
哀れですね。佐藤哲朗さんあたりが止めてあげれば良いのに。

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  • 27
  • 太郎
  • 2011/10/23(日) 02:10:45.14
>20,22,24,26
主ら、スマナサラ氏の気質をそのまま踏襲しておるぞ。

ここまで見た
  • 28
  •  
  • 2011/10/23(日) 02:28:25.82
暇人乙w

ここまで見た
  • 29
  •  
  • 2011/10/23(日) 02:52:05.42
>>26
あなたは「仏教は邪教」スレッドに時々現れる「スマナサーラトラウマ」
の人ですねw
スリランカでは仏教でもヒンズー教でもキリスト教最大派閥のカトリックでも
カースト別になってます。だから宗教界全部です。
ちなみに別にシャム派を弁護するわけではありませんので。

「スリランカ.タミル人社会におけるカーストと民族」 川島耕司
http://libw01.kokushikan.ac.jp/data/1001669/0000/registfile/0586_9749_146_02.pdf
「スリランカのカトリック・コミュニティと宗教的ナショナリズム」
http://libw01.kokushikan.ac.jp/RING/data/1002370/0000/registfile/1884_6963_002_02.pdf






ここまで見た
  • 30
  •  
  • 2011/10/23(日) 03:06:16.21
スリランカ内戦の原因を作ったのは植民地主義者とキリスト教徒です。
ちなみに私は仏教徒ではなく、いかなる団体にも属してはいません。
           ↓
       
「民族・宗教分断政策 デバイド・アンド・ルールとは何か?」

デバイド・アンド・ルールは民族間を分断し、民族同士が力を結集しないように、
あるいは民族間を争わせて宗主国が統治しやすいように、宗主国への抵抗を和らげる植民地支配政策のひとつです。
職業や宗教による民族分断の手法もあり、例えばヒンズー教徒と回教徒を仲たがいさせるなどあります。
 第二次世界大戦以前、イギリスはアジア植民地支配の覇者でした。インドでは一定のインド知識層を優遇して懐柔し、
民族内で差別化したり、インド独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織をつくり、宗教間で対立するよう仕向けました。
インドやミャンマーでも現在、後遺症に悩んでいるといわれています。

インド
http://zeroplus.sakura.ne.jp/u/1998/0606.html
ミャンマー
http://www.badauk.com/sinjiru/Islam_10.html
スリランカ
http://blogs.yahoo.co.jp/pinkorangedesert/48249920.html
パレスチナ
http://www.ijournal.org/IsraelTimes/mepeace/plo.htm


ここまで見た
  • 31
  •  
  • 2011/10/28(金) 21:41:50.32
仏教は心の科学っていうけど
儀礼や勤行があったらそらもう普通に宗教なんじゃ・・・

ここまで見た
  • 32
  •  
  • 2011/10/28(金) 22:13:53.91
宗教ではあるだろ。同時に科学でもあるという。

ここまで見た
  • 33
  •  
  • 2011/10/29(土) 00:10:26.30
仏教=宗教∧科学

ここまで見た
  • 34
  •  
  • 2011/10/29(土) 08:12:13.40
>スリランカでは仏教でもヒンズー教でもキリスト教最大派閥のカトリックでも
>カースト別になってます。だから宗教界全部です。
>ちなみに別にシャム派を弁護するわけではありませんので。
他宗教でもやっているからといって、シャム派がやっていいってことにはならんのだが。
シャム派のカーストによる出家差別をお釈迦さんが肯定するとでも?

あとスリランカ仏教の名誉のために言っておくと、シャム派のやり方が気に入らず、
分派をつくった奴らもいるから「宗教界全部」ってわけではない。

なんで糞と味噌を一緒にしたがるかな?
シャム・ニカーヤのカーストによる出家制限の歴史は「事実」だから否定できず、
混ぜっ返しや茶化しによって、有耶無耶にするしかないってのはわかるのだが。

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  • 35
  •  
  • 2011/10/29(土) 08:25:12.26
>カーストを作って人間を差別する。
>このようなことについては、お釈迦様はものすごく反対されました。
>どうして人間の間に差別をもうけるのかと厳しく批判されました。
>人間であれば、生まれたときの行動も同じだし、女性の月のものも皆同じ、
>陣痛も同じ、全部同じなのになぜ差別をするのかと。
>また、男女差別も否定されました。
http://www.j-theravada.net/qa/gimon20-21.html
「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)より引用

>カースト差別を否定した仏陀の弟子が、こともあろうに出家教団内にカースト差別
>を持ち込むとはおかしな話だが、宗教的伝統というのは往々にしておかしな成り行
>きで出来あがっている。
http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/chap10.html
「大アジア思想活劇」より引用

ここまで見た
  • 36
  •  
  • 2011/10/29(土) 08:32:26.19
>仏教は心の科学っていうけど
>儀礼や勤行があったらそらもう普通に宗教なんじゃ・・・
言っているのはスマナサーラ長老とその周辺だけでは?
仏教はテーラワーダ、禅、チベット仏教、みな例外なく「宗教」です。
そして、それで何の問題もありません。
「科学」は素晴らしいものだという、現代の常識におもねった発言でしょう。

ここまで見た
  • 37
  •  
  • 2011/10/29(土) 11:20:33.22

>「科学」は素晴らしいものだという、現代の常識におもねった発言でしょう。

「仏教は科学」というキャッチーなコピーは、
「現代の常識」イコール「世間の事実」でもあるわけだから、
そういった現実にもそれなりにおもんばかってるんだろうね。
それはそれで、仏教を現代を生きる大衆にアピールする上で、
方便として、一定の効果を発揮するってことじゃないかな?

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  • 38
  •  
  • 2011/10/29(土) 22:37:32.64
まあ、実際「仏教は科学でもある」とか「科学的アプローチにたえるものである」
とはいえると思う。

たとえばチベット仏教は世界的な神経学者や脳医学者が
EEGやfMRIを用いての瞑想者の研究をする「心と生命研究所」が
20年以上継続している。

テーラワーダにしても禅にしても、発達心理学や深層心理学に留まらず、
臨床心理学にも目覚しい応用をされているのは、それら現場のドクターたちが
10〜20代にみずからがリトリートの参加者だった経験を役立てているからだ。

ただ、スマナサーラ氏がいうのはちょっとそれとニュアンスが違うという気が
なんか宗教は古臭いものというコンプレックからってのと、言葉のインパクトを衒ったって気がするけど。

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  • 39
  •  
  • 2011/10/29(土) 22:42:30.27
あと、カーストについては、やはり「仏教的意識にそぐうものか否か」
ってことが焦点だ。
「キリスト教もやってるから」ってのは逆に「キリスト教と同じレベル」って話だと思う。

俺は、仏教に限らず、キリスト教だってカースト制は本質的に相反しているものだと思う。
「スリランカの宗教界全部」がそうだという主張は、要するに「スリランカは仏教にもキリスト教にも
適さない」と言っているようなものだと思う。

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  • 40
  •  
  • 2011/10/30(日) 10:16:16.53
 山田老師は、原田祖岳老師の最晩年のエピソードをよく引きあいに
出されました。南アジアの上座部(小乗)仏教の伝統を忠実に
守りつづけている僧が、日本の大乗仏教に挑戦するために
やって来たときのことです。その僧は東京のとあるホテルの一室に
日本の僧侶たちを集め、「これから精神を深く集中し、椅子ごと
天井まで上がって、そのまま五十五分間浮いていましょう」と
宣言しました。彼が精神集中を始めると、本当に椅子ごと天井まで
浮いて、五十五分後無事に着地したのです。そして、集まっていた
僧侶たちにこう言いました。「それでは、あなたがたの精神集中が
どんなものか見せていただきましょうか」。
 原田老師の弟子たちはすっかり打ちしおれて帰ってきて、「私は
何もできませんでした」と老師に報告しました。偉大な禅師たちの
系譜を引いて豪放な人柄であった原田老師は、「私もその場に
いたかったなあ。私なら『友よ、長旅でさぞお疲れで、喉もお渇きでしょう。
どうぞ、お茶を一服召しあがれ』と答えただろうね」と言われ、
禅特有のしぐさで、あたかもお茶を入れるかのように手を伸ばしました。
そして、「ふん、天井に隠れて引っぱり上げていた坊主はどこのどいつだ!」
と叫ばれたそうです。

(イレーヌ・マキネス『禅入門 カトリック修道女の歩んだ道』岩波書店
2009年, p.86)

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  • 41
  •  
  • 2011/10/30(日) 10:28:28.67
スマサラーナって人生臭いね

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  • 42
  •  
  • 2011/10/30(日) 11:09:56.91
>>40
何が言いたいんだか、よくわかんない逸話だね
禅僧さんたち、上座部の僧に魔境に導かれたってこと?

>>41
スマナサーラ、キレキャラだよね

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  • 43
  •  
  • 2011/10/30(日) 11:22:20.50
冥福BOX The Liberation Box ってなんだ?

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  • 44
  •  
  • 2011/10/30(日) 13:39:53.92
松原泰道さんも「座禅してたら風もないのにふすまがガタガタいったりとか
神秘体験などいくらでも起る。だが禅はそういうことに意味を求めない」と
言ってたな。オウムに対するコメントで。

よく明恵上人が「裏庭で虫が溺れているから助けて来い」と弟子に言って、
それに感嘆した弟子に対し、「修行をすれば誰でもこんなことができるのは当たり前、
あたりまえのことに対して騒ぐな」と言ったとか。

確かに神秘体験って「だからどうなの?」という話だね。
インドのほうでも「シッディ(神秘能力)は煩悩のなか」といわれているし。
チベット仏教では神秘体験が語られていることがよく見受けられるけど、
大体修行の必然の結果として日常と一体化していて、それが目的化してない。
あくまでも菩提心を養う上での方便だね。


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  • 45
  •  
  • 2011/10/30(日) 13:52:02.83
やはり風土や文化によって、仏教も表現の仕方がちがうんだろう。
根底は同じでも、表現するのは「人」だから。

アメリカでチベットの僧侶と禅の僧侶が対話したとき。
ミカンを指して、チベットの僧侶はミカンの触感とかを語り、
禅の僧侶は「無」とか言い、対話がかみ合わなかった、
でもおたがい正しい、とかいう逸話を聞いたことがある。

ようするに、「日本の松」と「アフリカの熱帯性の樹木」ではまったくその様相はちがうが、
どちらも同じ「植物としての本質」を、正しくまっとうして、それぞれの表現をしているだけ。

禅の祖師が猫を切り倒したり、仏を槍でついたりってのも、その風土が禅を表現しているので、
個人が表現しているのではないんだな。

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  • 46
  • 太郎
  • 2011/10/31(月) 02:18:35.42
実際のカースト制度は無論、話にならないが、精神に於けるカースト制というのは存在する。
ソの層はヒエラルキーとしてでなく、あくまでも精神の区分として実に存在する。
一口に人と言っても、実際ソノ精神内容-形態には上限〜下限には天と地ほど差があるというのは否めない事実である。
そして出家というモノに於いてはソレに相応しい者と相応しからぬ者に確かに別れるのだ。

確か孫子か何かが《小人には褒美を与え決して位を与えてはいけない》とか何んとか言っていたと思うが、まさに卓見だ。
何でもかんでも一くくりにするのは観念的な幻想であるだろう。
人間の性質を区分しないと思わぬ事故が起こる。なので私はソノ区別があっても貶める事にはならないと思っている。

お絵かきランド
フリックラーニング
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