北条早雲(伊勢宗瑞)画像(岡山県井原市・法泉寺蔵)
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高越山城に建つ早雲生誕之地碑
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北条早雲の出自とされる高越山城(岡山県井原氏地域創生課提供)
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戦国時代の関東覇者で、小田原に本拠を置いた北条氏五代100年の祖である北条早雲の出自は、伊勢の一介の素浪人から戦国大名となった下剋上の始まりで、戦国時代の幕開けとなった人物とされている。
近年の追究で、室町幕府の政所執事伊勢家の庶流で、父・盛定は備中国荏原荘(岡山県井原市)の備中高越山城主である。早雲も室町幕府(足利義視)の申次衆(将軍への取り次ぎ)に抜擢されている。政所執事とは、幕府の徴税責任者である。
ところで早雲は生涯、北条早雲とは名乗ってはいない。実名は「伊勢新九郎盛時」といい、嫡子の氏綱は相模国の支配者であった管領・上杉氏に対抗するため、名高い鎌倉幕府執権、北条氏の後裔であることを主張し、2代目から「北条」と改名することになる。よって新九郎は「北条早雲」の俗称があてられ、先学では法名の「伊勢宗瑞(そうずい)」と表記することが多い。それでも以後、一般的な呼称のため「北条早雲」を用いる。
早雲と今川義忠との関係は、京都において応仁の乱(1467〜77年)が勃発する時期、優柔不断な8代将軍、義政の弟・義視が将軍候補に迎えられたが、京が動乱の中、将軍の花の御所(室町亭)を警護したのが今川勢を率いる駿河守護の義忠であった。
このとき、危険が迫った義視と近習の早雲は伊勢に逃れている。2年後、義視は京へ戻っているが、早雲の足取りが不明だったこともあり、伊勢の素浪人説の契機になったといわれる。
この乱期に、幕府内での地位が高かった早雲の父の影響もあり、妹(姉の説もあり)が文明元(1469)年に義忠の正室として嫁ぎ北川殿といわれた。今川氏と姻戚を深めた早雲と四代北条氏にわたり、今年はその史跡を訪ねる。(静岡古城研究会会長 水野茂)
産経ニュース 2018.1.14 10:41
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伊達と徳川が北条に組みしてたら秀吉に勝てた
島津と連絡取り合って挟撃してれば天下は北条になってた
戦国一年貢が安い素晴らしい国だったのに残念だ
北条時政なんかよりよっぽど氏素性はまともなんだよな
どちらも桓武帝後裔伊勢平氏やが
伊勢氏はなんで足利家の執事になったんだろうな
>>116
清和天皇も垣武天皇の子孫やで、
>>114
>今では「自分の名前を書けた」程度だと明らかになってる。
またまたその場しのぎのデマカセを。
( ´?`)ノ<素浪人といえば花山大吉だろう。
おからが大好物なんだぞ。
>>113
戦国一どころか現代日本より負担が少ないというw
岡山の謀将菅直人
戦国の幕開けは、畠山義就でしょ
>>20
何か、いろいろ、認識が違うな。
鎌倉公方が関東を牛耳ろうとって、もともと、関八州と甲斐、伊豆の実質的支配を任されたのが鎌倉殿であって、関東を元から牛耳っていたよ。
鎌倉公方家が代々狙っていたのは都の公方の座だよ。
都の公方を親、子を鎌倉の公方にして、親子での全国支配を目論んでたの。
それを命がけでいさめたのが代々の関東管領上杉家。
それで鎌倉公方に誅戮されたりしている。
あと、堀越公方は都の公方から、鎌倉公方を牽制するために派遣された人物で、鎌倉公方から別れたわけではない。
血統から言うと、鎌倉公方の叔父に当たる人だけどね。
それと鎌倉公方足利家と関東管領上杉家の対立は下克上とは全く違うぞ。
関東管領は鎌倉公方の補佐役だけど、同時に鎌倉公方の監視役でもある。言わば、都の公方の手先みたいなもの。
つまり、享徳の乱というのは都の公方と鄙の公方の代理戦争みたいなもの。
田布施システム(明治犬維新150年)
金日成は日本人。日韓の併合後に平壌で生まれたから。