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  • 77
  •  
  • 2017/03/24(金) 07:24:20
>>73
元々東京都の公有地、昭和23年(1948)に東京都衛生局清掃本部が事業所を置く
るまでは雑草茫々の荒れ地、戦中・戦後の一時期は地元の悪共が畑作など不法
占拠し区画整理の測量時は補償しろと徒党を組んで都庁舎に押し掛けるなど不
埒な行動に出たとの由(補償は出なかった)、この悪の2代3代が今でも棲み付
いてるとか
事業所はポットン便所から汲み取ったオワイを入れる樽や塵芥等を運ぶ荷車・
駐留軍払下げのトラック・ジープ等の駐車場、作業員詰所として発足した
事業所が閉鎖される頃は時代も変わりゴミ収集車の車庫・燃料スタンド・洗車
機・体育館並みの大型車庫・作業員詰所が在った
この周囲には都の未使用の公有地が沢山ありこれを利用して二軒棟割長屋の都
営住宅(家賃月500円)が沢山作られ昭和23年頃入居が開始されて一挙に人口が
増え第二小学校は教室が足りず1-2年生は午前午後の二部事業が長らく続いた
ただ土地が狭いため高層化は無理で都は早い時期に分譲払下げを決定、これが
ため都内全域の都営住宅入居者は欣喜雀躍したが払下げはこの地域だけに終わ
った
文成小は昭和27年に第二小の4-5年生各2クラスの移動で発足した、先ず各人毎
に木製の椅子を運び、次いで二人で木製の長机を運んだ、校歌・校章はこの5
年生が6年生で卒業するまでに作られた、運用開始と6年制の開校年度が異なる
のはこのため、当時の4-5年生は昭和27年を開校年と思い定めてる
三本足のフルサイズのグランドピアノを先生生徒総掛かりで二階に運び上げた
のはいい思い出、先生2人に呼ばれ総勢4人で暗くなってから配給された当時は
まだ珍しいテープレコーダーを分解し「オ、この部分はマンマ発信機回路ジャ
ン」なんてやってた思い出もある
公園が東上線軌道敷に接する部分には大きな貝殻が数m自然堆積しているので
縄文海進の頃はこの北側が海で波が打ち寄せていたんだと思う
当時目にした野生動物はイタチ・野鼠・ヘビ・ハクビシンでイタチが一番多か
った

ここまで見た

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