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  • 2013/05/07(火) 23:30:58
会津若松の人は容保公のことをどう思ってるのだろう…

鳥羽伏見の戦いでは多くの部下を見捨てて江戸へ逃亡
会津の秀才神保修理に罪を被せて自害させ、年若き白虎隊士を死に追いやり、家老達を詰め腹を切らせ、頼母一族の女子供皆自害…
そして自らの降伏決断が遅れたせいもあるだろう、その罪を減じる為に萱野権兵衛にも一人で腹を切らせる…

会津藩滅亡の後も、家臣達が斗南へ移住して苦労する中、自らは華族に取り立てられ東照宮の宮司で何不自由ない生活…

会津に迫って来た時に潔く腹を切って、自らの首と共に家臣、領民達を守る手もあったはずじゃが…
しかも余所から来た外様の殿様…

まあ会津に何の関係もない西国出身の俺が言うことでもないが…

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