【太平洋戦争・沖縄戦について語ろう 〜8〜】 [machi](★0)
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- 980
- トゥンジーボーイ ◆
- 2008/11/14(金) 07:54:57
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>>979
ゲンゲレゲンっ、仕事の片付けしてる。
お前、俺の国会図書館所有の学術書を基礎とした質問には逃げたくせに、
自分の要望ばかりわめくな。
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- 982
- 2008/11/14(金) 08:20:20
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∧_∧ ウリの味方は国会図書館の学術書と高良倉吉ニダ!
<;;`Д´> <口に出して説明できないけどとにかくウリが正しいニダ!
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- 983
- トゥンジーボーイ ◆
- 2008/11/14(金) 08:42:19
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腹痛ぇ〜w
だみだ……死ぬ
こらっ!食べたことあるね?答えないとw
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- 984
- 2008/11/14(金) 08:45:29
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対外的に国のシンボルとして掲げる旗が日章旗になったのは薩摩藩の提案による。
http://www.pref.kagoshima.jp/pr/gaiyou/itiban/hatu/hinomaru.html
つまり、慣習法てきに国旗が決まったわけではない。
結局 i58-89-79-189.s04.a047.ap.plala.or.jpが展開しているのは
日章旗が国旗であってもよい「後付の理由」でしかない。
又、『世界的に太陽が赤で描かれることは珍しく(太陽は黄色、また月は白で
現すのが一般的である)、日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことが一般的
であったというわけではない。例えば高松塚古墳、キトラ古墳には東西の壁に日象
・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。
また711年(大宝元年)の文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏を
かたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが
知られるが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、
この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。
これは世俗的にも共通した表現であったようであり、『平家物語』などの記述など
からも平安末期の頃までの日輪の表現は通常赤地に金丸であったと考えられている。』
『対して赤い真円で太陽を表現する系譜は、中国漢時代の帛画に遡る(上の日像幢と
同様に内側に黒い烏を配するものである)。日本での古い例としては、法隆寺の玉虫の
厨子の背面の須弥山図に、赤い真円で表された日象が確認される。また平安時代に
おいても密教図像などに見出される表現であり、中国から仏教とともにもたら
された慣習であると推測される。こうした表現が原型となり、白地赤丸の日章旗が生まれた
と考えるのが妥当であろう。』
以上30分 ネット検索して得た結果。
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- 985
- 2008/11/14(金) 08:51:09
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>>982
おい、気違い
「日本の国旗」をWikiで検索してみな。
お前ら大和のお方が編集してあるから読みやすいだろ。
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- 986
- 2008/11/14(金) 09:03:37
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i58-89-79-189.s04.a047.ap.plala.or.jp寝ちゃったか?
俺も今日は仕事で忙しい。
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- 987
- 2008/11/14(金) 09:13:27
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>>984
突っ込みどころ満載だなwww
薩摩藩の提案が同意を得たのは相応の下地があったから。
薩摩藩は幕府に強制するほどの権力はありませんww
幕府としては徳川の家紋を使うつもりだったが、
薩摩の斉彬が、日本全体の象徴であからには、
古来よりの日の丸が適当であると述べ、
水戸の藩主もこれに同意した。このため日の丸に決定した。
これには、江戸時代初期に幕府の回船の旗として、
白地に赤の日の丸が規格化されていたのが大きな影響を及ぼしただろうね。
さらに言えば白地に赤のデザインは、他のデザインと並行して、
鎌倉半ばから、武士の旗印としてあらゆる陣営に見られるようになる。
ちなみにりうきうドジンのありがたい絵は、19世紀!!に描かれたものでww
しかも地は金www
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- 988
- トゥンジーボーイ ◆
- 2008/11/14(金) 09:18:42
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突っ込みどころ満載…高校生のレスみたいだな
積載オーバーで切符きられないか心配だ
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- 989
- 2008/11/14(金) 09:19:01
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さらに言えば金地の日の丸がりうきうの船旗だとはどこにも書いてないんだよなww
そもそも船章旗という概念が当時の東アジア世界に存在したかどうかww
幕府の反応から見ると存在しなかったようなんだがなww
しかもハーリー船にまで掲げているとあってはねwww
ただのかっこつけのための図柄ではないだろうかねww
りうきうを識別するための旗なら、何らかの記録で言及があって然るべき。
たくさん作られただろうから、現物も一枚くらい残っててもいいんだがなwww
19世紀のことだしww
ちなみに1200年代に甲斐源氏に天皇より下賜された白地に赤の日の丸の旗は現物が残ってますww
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- 990
- 2008/11/14(金) 09:19:58
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>>987
『まず私は、日本の国旗として日の丸を採用したのは、すばらしいことだった
と思います。ただ「日象」という図柄自体は、日本独自のものではありません。
琉球の尚円王の肖像画にも月象とともに、背後の衝立に描かれていますし、広く
東アジアに見られる図柄です。高句麗の古墳壁画にも描かれています。つまり
日象は東アジアで広く好まれていたデザインの一つに過ぎません。日本を代表する
図柄としては、日の丸以外にも皇室ゆかりの菊花紋や五七の桐などがあります。
それらではなく日の丸に決定したのは、島津斉彬の働きかけが大きかったからです。』
以上 検索結果を表示。
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- 991
- 2008/11/14(金) 09:25:12
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>>990
はいまたミスリード。お国の日象とやらは何色ですか?
我が国のは白地に赤なんですがww
国旗制定にあたって力があったのは、斉彬の論理が水戸の藩主を納得させたこと。
日の丸が古来より、日本全体の象徴であるという論理には
それだけの説得力があった。
りうきうドジンの金地の日の丸は19世紀の絵一枚だけの薄っぺらいものだけどwww
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- 992
- 2008/11/14(金) 09:25:28
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>>989
結局日章旗が国旗になったのは「歴史の偶然」
たんなるシンボルにそう熱くなるな。
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- 993
- 2008/11/14(金) 09:27:40
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さらに日の丸のデザインには、現在のものだけでなく多数のバリエーションがあったが、
江戸初期に幕府直轄のコメ回船の旗印として、
白地に赤の日の丸が規定された。命令文も残ってるからねww
これがデザイン決定に大きな影響を及ぼしたことは想像に難くないねww
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- 994
- 2008/11/14(金) 09:27:53
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>>991
別に俺は日章旗が国旗になったのは「薩摩起源」だと言っているだけだが。
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- 995
- 2008/11/14(金) 09:28:45
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>>993
だからなに?
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- 996
- 2008/11/14(金) 09:29:55
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>>992
論破された挙句が「歴史の偶然」かww
日の丸はウリから盗んだものニダ!とかファビョってたのは何だったんですか?
金地の日の丸、しかも19世紀の絵一枚だけを根拠にwww
いちいち突っ込みどころ満載だなwwドジンの行動はw
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- 997
- まんま
- 2008/11/14(金) 09:31:27
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みなさんそんなに「起源」が気になりますか?
というか、なぜ拘っているんですかね。
「諸説あり」で解決しちゃえばいいのに。
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- 998
- 2008/11/14(金) 09:31:49
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>>994
日章旗は日本に昔からある図柄ですが?
薩摩は、徳川の家紋が国旗になるのを嫌がってそれを持ち出してきただけ。
もしかして王国のドジン語と日本語とでは、「起源」の意味が違うのかな?www
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- 999
- 2008/11/14(金) 09:31:50
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>>996
俺そんな根拠なんか示していないが。なに言ってるの?
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- 1000
- 2008/11/14(金) 09:33:22
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>>999
ドジンの区別はいちいちつかない。
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- 1001
- 2008/11/14(金) 09:34:06
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>>1000
楽しかったよ。完
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- 1003
- 2008/11/14(金) 09:35:59
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>>1002
別にこだわってないよ。
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