-
- 765
- 2012/12/17(月) 23:40:31.41
-
博多行まつかぜが踏切まではみ出して停車していた。国道から入ろうとする車はたまったものではなかっただろう。
-
- 766
- 2012/12/18(火) 09:08:16.14
-
そもそも宝塚に全ての優等列車が停車していたのは何故?
非電化時代(30年程前)は、確かに宝塚は温泉や歌劇場もあって、ちょっとした観光地でもあったけど、
宝塚の街自体さほど人口が多かった訳でも無いし、そもそも阪急の牙城で、福知山線を日常使う人なんてまず居なかった。
ホームの長さすら足りない駅に、踏切まではみ出してまで停めていたのはちょっと不可解。
-
- 767
- 2012/12/18(火) 19:15:19.13
-
阪急宝塚線や今津線を介して集客。
大阪に出るより安上がり。ただし自由席は座席にありつけない可能性有り。
加えて当時でもバス路線のターミナルとしての機能もあった。
-
- 768
- 2012/12/18(火) 22:03:43.97
-
実際、今津線で宝塚に出て、そこから急行に乗って福知山まで行った事が何回かありました。
結構乗車する乗客が居た記憶があります。
-
- 769
- 2012/12/18(火) 22:42:37.44
-
まつかぜの、線内唯一の中間停車駅且つみどりの窓口のある駅が宝塚だったんだよな。
三田、篠山口、谷川、柏原なんて格下も良いところ。尼崎なんて問題外だった。
-
- 770
- 2012/12/19(水) 18:01:27.45
-
電化前の福知山線については、知れば知るほど超ローカル線だったんだと思う。
しかし、大阪に列車が乗り入れていて、少なくとも宝塚まではそこそこの住宅街だったにもかかわらず、なんで国鉄末期までローカル線のまま放置していたんだろうか?
国鉄自体が東京中心・地方冷遇の方針で、関西は当時は私鉄が圧倒的優位だったのは知っている。
関西の国鉄路線でも、近代化が大幅に遅れた路線はあるけど(例えば関西本線や片町線など)、福知山線ほどではなかったと思う。
旧型客車列車が1〜2時間に1本走るだけで、81年にようやく宝塚まで複線電化された福知山線は、当時でも信じられないような状態だったように思う。
尼崎港支線とかいう、これまた仰天するような支線も抱えていたし。
今の福知山線を見ると、もっと昔から近代化や沿線開発の余地はあったように思うんだけど・・・
-
- 771
- 2012/12/19(水) 20:41:37.06
-
国鉄時代だから国策に基づいて発展していった。奈良は県庁所在地、片町線は軍需路線。
でも福知山線は主に陰陽連絡さえ出来れば後は必要なかったのだと思う。
-
- 772
- 2012/12/19(水) 21:59:59.33
-
電化計画自体は昭和40年代からあったものの、進展しなかったという話もあります。
宝塚までの福知山線沿線は、伊丹以北は畠や空き地の方が多くて、宅地化されては
居なかったし、国鉄が宅地開発できなかった事を考えると、仕方ないのでは?
-
- 773
- 2012/12/19(水) 23:21:19.66
-
福知山線のルートは宝塚まででも市街地からは外れていたんだ。
でも、それって、沿線人口がもともと少なかったから近代化が大幅に遅れたままだった、と考えるべきなのか、
それとも、福知山線が使い物にならないから周りの宅地開発も進まなかった、と考えるべきなのか?
福知山線中間駅で唯一の全優等停車でみどりの窓口のあった宝塚も、当時はまだまだ人口は少なかったとはいえ、
西谷や波豆の地域の人が大阪に行くには、福知山線をあえて使わず、バスで宝塚まで出て阪急を使っていたというエピソードも聞いたことがあるし。
いずれにせよ、大阪と山陰を結ぶことが大きな目的であって、中間駅は有っても無くてもどうでもいいような存在だったんだろうな。
国鉄は採算性を考慮していなかったし、もっと酷い大赤字ローカル線が問題になっていたから、福知山線は放置していても特段問題にもならなかったのかもね。
-
- 774
- 2012/12/20(木) 05:43:29.47
-
>>773
その通り
だから、三菱電機はあんな大工場を作ることができた
三菱電機社員昔は寮住まい多く福知山線使わなかった
-
- 775
- 2012/12/20(木) 05:44:46.64
-
>>768
自分は阪急桜井→石橋→宝塚→福知山線の急行でした
-
- 776
- 2012/12/20(木) 09:30:52.17
-
>>773
概ねそうだろうと思う。
ただ、西谷地方からのバスは、昔も今も、宝塚行より武田尾行の方が多い。
宝塚行で有利なのは直通である事、運賃が若干安い事。
でも相当なくねくね道を行かなければならないし、朝方だと拡張前の176号線に合流するから、しょっちゅう遅れていた。
-
- 777
- 2012/12/22(土) 21:25:27.20
-
福知山線というのは、国鉄を象徴するような路線だったんだなと思う。
中央集権で東京中心、かつ採算は考慮の対象外の国鉄では、福知山線は関西から山陰へ向かうためのルートとして存在さえしていればよい。
そのため、地域間輸送という概念は端から無く、近代化も全く着手しないまま国鉄末期まで放置。
大阪駅に旧型客車が80年代半ばまで乗り入れていたり、駅もダイヤも不便なまま。
これが、国鉄の赤字ローカル線切捨てと分割民営化が現実的となり、地域ごとに経営の自由度が増し、かつ利益追求をしなければならなくなり、福知山線は全線電化・複線化と一気に通勤路線に変身した。
-
- 778
- 2012/12/22(土) 21:33:54.99
-
そうだね。
そうした路線で、JR最悪の大事故が起きた、
しかも原因が、国鉄時代のような「たるみ」的なものではなく、
むしろ、必死にダイヤに乗せようとした結果っぽいというのは、
大変象徴的な事なんだよね。
-
- 779
- 2012/12/22(土) 22:53:55.23
-
少なくとも福知山線が新三田まで複線電化となったのは、三田・名塩ニュータウンの開発があったから、と記憶する。
-
- 780
- 2012/12/23(日) 07:07:15.96
-
戦時中、中山寺駅から 今の伊丹の自衛隊がある方向に軍事用の支線があったんですね。
確かに南東方向に緩くカーブしてる道(線路跡)があります。
-
- 781
- 2012/12/23(日) 08:21:45.65
-
島根県からまつかぜに乗って大阪まで帰ってくるとき、福知山からがものすごく
長く感じた・・・。
-
- 782
- 2012/12/23(日) 10:22:57.79
-
旧客から電車化までの間に12系の時代があったらしいね。乗ってみたかったな・・
-
- 783
- 2012/12/23(日) 11:44:12.96
-
逆に自分は旧客に乗りたかった・・
環状線に乗ったとき隣の1番線に12系+DD51の
青と赤のコンビが鮮やかな列車に気づいて興味を持ち
乗りに行ったのが昭和61年のこと。
福知山で旧客というものに生れて初めて接したときの感動は忘れない。
乗って行きたかったが、小5だったので、鉄道旅も
親付き日帰り限定だったため、引き返さざるをえなかった。
二度と旧客に乗れなくなってしまった。
(国鉄時代+通常運用終了以降の旧客列車は
自分のなかでは別物なんで)
ただ、それの残滓みたいなものには乗れた。
和田岬線にスハフ42が連結されたとき。
デッキや貫通扉を開けっ放して、ほんのわずかの短時間、
山陰線で乗れたであろう旧客での旅に思いを馳せた。
-
- 784
- 2012/12/23(日) 13:06:32.62
-
今から思うと
旧客車の発車のときの独特の揺れが何ともいえなかった
-
- 785
- 2012/12/23(日) 17:05:46.99
-
>>784
時間差だな。
今なら地デジとワンセグで味わえるくらいになったorz
-
- 786
- 2012/12/23(日) 18:57:05.02
-
福知山線の昭和50年代からの動きは概ね下の通り。
郵便・荷物車付旧客→荷物車付旧客→旧客のみ→旧客+50系→12系+50系→12系→武庫川沿旧線廃止→電化開業
(ひょっとしたら荷物車と50系がかぶってたかもしれない)
開業前の西宮名塩及び名塩トンネルをDD51牽引の12系客車がすっ飛ばして行ったのもまた良かった。
-
- 787
- 2012/12/23(日) 19:01:18.74
-
福知山線経由で大阪駅へ旧客が入ったのって
臨時列車ふくめたらいつが最後?
-
- 788
- 2012/12/23(日) 19:50:02.17
-
定期なら武庫川沿いの旧線廃止直前の86年7月。
大雨によるダイヤ乱れか何かだっけで通常入らなくなった大阪口まで乗り入れた。
イベント関連ならば94年頃か?
-
- 789
- 2012/12/23(日) 22:17:31.30
-
旧客でもう一つ面白かったのは、緩急車の手動ブレーキの前の席。
手動ブレーキ操作したくていつもうずうずしていた。
-
- 792
- 2012/12/25(火) 19:57:53.61
-
>>790
どうも。書いた後で、同時使用は無かった様な、という気がしていました。
-
- 793
- 2012/12/25(火) 20:00:06.71
-
昭和40年代後半、58系急行列車の中に、1〜2両連結されていたキハ26が、とてもスマートで格好良かったのを覚えています。
-
- 794
- 2012/12/27(木) 22:04:49.28
-
40系快速の話題はなし?
短編成だったが旧客の合間を颯爽と走る赤い気動車はここの住人にはあまり印象なし?
-
- 795
- 2012/12/27(木) 22:38:33.94
-
すでに12系時代になってたがその40系の快速は乗ったことあるよ
「快速」って赤い幕出してたよね
-
- 796
- 2012/12/27(木) 23:01:24.18
-
40系は赤一色、バリエーションも少ないし、馬力が強い訳ではない。66系に比べると中途半端で見劣りがした。
-
- 797
- 2012/12/27(木) 23:35:12.54
-
>>796
キハ47という車輌についての印象を聞いてるんじゃないと思うんだが?
-
- 798
- 2012/12/28(金) 03:39:44.33
-
快速あったね
停車駅は尼崎、伊丹、宝塚、三田とかだっけ?
丹波ハイキング号とかもあったはず
-
- 799
- 2012/12/28(金) 09:10:46.36
-
車輌の味わいという点では客レには劣るが、一日数本のレア感と、
客レに比べたスピードという点で当たればラッキー感があったな。
-
- 800
- 795
- 2012/12/28(金) 10:41:08.70
-
丹波ハイキング号も乗った。
10月の廃止直前に丹波1号とだいせん1号を篠山口で乗り継いで
どちらも車補に列車名を書いてもらった。
だいせん1号が篠山口駅に入線してくるとき
先頭車両がホームに掛かったくらいから
「ささやまぐち、ささやまぐち、ささやまぐちー、」の繰り返しが始まった。
無知な当時は違和感あったけど、
放送が旧客時代対応のままだったんだとあとから知って嬉しくなった。
7月の旅行では大阪から12系普通列車に乗って
車販で篠山口の弁当を買って食べた。
三田駅のホームが木の上屋で柱用の駅名板がホーロー製の筆文字だった。
唯一腕木式が残ってた武田尾駅も訪問した。
上記はぜんぶ8ミリビデオと写真で記録を残してあります。
-
- 801
- 2012/12/28(金) 11:01:24.17
-
国鉄時代の当時はまだ客車列車の発車手順に車掌が関知せず
当務駅長が直に機関士に出発の合図を送る「出発合図」で発車させていた
武田尾駅の腕木信号機にも出発合図機がつけられていた
機器そのものもそうだが、あの「ヴー」という音とそれに呼応する汽笛に
国鉄とノスタルジーを感じる。
現代でもブザーの音だけは「出発指示合図」で聴ける駅があるが
(ジリジリベルでなくブザーの場合は音はまったく同じなので)、
「出発合図」はなかなか聴けない。
また、最近のブザーはブザー本体も音のコードが低い。
旅客列車で残ってるのは小倉駅の日田彦山線のワンマン列車程度とか。
その在来線の博多駅&小倉駅のブザーはコードの高いなつかしい音。
博多駅の回送発車時だけど0:23から↓
http://www.youtube.com/watch?v=huAO5dM39F0
-
- 802
- 2012/12/28(金) 11:09:29.37
-
汽笛のほうの音量が大きいので注意してください
-
- 803
- 2012/12/29(土) 01:00:25.96
-
出発合図って、車掌がホームで押すのはなかったっけ?
-
- 804
- 2012/12/29(土) 02:24:12.33
-
「車掌がホームで押す出発合図」はありえないよ
間違えられやすいんだけど、「出発合図」というのは
一般用語じゃなくてちゃんとした業務用語のひとつなんだよ
「客扱終了合図」
「出発指示合図」
「出発合図」
それぞれ明確に規定されている運転扱いだからね
客終合図はヒラ立ち番でも扱えるけど
出発指示合図と出発合図は当務駅長(=いわゆる金筋帽子)
でないと扱えない厳格なもの。
これらはJR化後でも変わってないよ
-
- 805
- 2012/12/29(土) 02:33:52.18
-
「客扱終了合図」 扉を閉める時機をホーム係員が車掌へ伝える合図
「出発指示合図」 列車の出発を駅長が車掌へ指示(→車掌が閉扉操作)
「出発合図」 列車の出発を駅長が直接運転士へ指示
車掌がホームで押すのは単なる発車ベル(=乗降促進ベル)だよね。
束とか発車メロディで多くの駅で盛んにやってることだけど。
ホームが無人かホーム係員が感知してない場合だから、
国鉄時代は無かった扱いなんじゃないかな。
-
- 806
- 2012/12/29(土) 02:37:11.25
-
いや、国鉄時代にはあったかもしれない。詳しくなくてすまん。
でも車掌が押すのは
単なる乗降促進ベルであることにはちがいないと思うよ
-
- 807
- 2012/12/29(土) 02:49:29.08
-
出発合図機が一般化される以前は最も伝統的な方法、
駅長が片手を挙げ「発車!」と声を出して機関士に合図を送ってた。
それが形だけ残ってるのが開業式典やイベントでの出発式。
-
- 808
- 2012/12/29(土) 09:20:09.86
-
>客車列車の発車手順に車掌が関知せず
大阪〜篠山口にC11牽引旧客が区間運転をやっていた頃
上り列車の車掌が途中の何処かでホームに降り立った時に列車出発
列車は車掌が乗務しないまま南下を続け、車掌はタクシーで176号線
を走らせ追いかける。
伊丹でやっと追いついたとか・・・なんかの本(車掌の自伝)で。
-
- 809
- 2012/12/29(土) 10:50:41.46
-
>>800
ようつべの福知山線12系動画でも篠山口停まる前から駅名連呼してるね。
そういう理由だったのか・・納得
あなたの8ミリ是非見たいので公開希望!!
-
- 810
- 2012/12/29(土) 17:53:08.17
-
昭和56年に宝塚まで複線電化した際、駅の改修やダイヤ改正はどの程度行われたんですか?
黄色の103系が走るようになって、本数は少しは増えたと思いますけど、
やはり阪急を利用する人が圧倒的に多くて、当時はあまり乗客は増えなかったような覚えがあります。
宝塚より先は、殆ど変化無しでしょうか。
-
- 811
- 2012/12/29(土) 18:29:44.95
-
とりあえず伊丹駅はその時に今の駅舎になった。
ただし東側はまだまだ東洋ゴムの工場だった。
西側もマンションなどは少なく、鄙びた商店街があった。
列車はカナリア103に客レ、気動車列車とカオス状態。
ダイヤもそれ以前の1時間1本より増発されたがあまり規則性がなかった。
猪名寺駅も電化と同時に開業。
川西池田、中山寺もこの時改築されたように思う。
-
- 812
- 2012/12/29(土) 19:04:14.55
-
>>808-809
レスありがとう。時間がかかるかもしれないけどやってみます。
すでに再生するビデオデッキが無いのでまず買わないと・・)
昭和62年に国鉄因美線の通過授受も撮影してあります
(砂丘車内から郡家→鳥取、美作河井駅で砂丘5号+みささの受けシーン)
-
- 813
- 2012/12/30(日) 20:14:15.60
-
>>805
よく分かりました。有難うございます。
-
- 814
- どんちゃん
- 2013/01/03(木) 16:18:35.42
-
福知山線の旧客で最後に見た急行は「だいせん51号」。
確か1975年の夏だったと思います。
号車と急行のサボが所定の位置にかかっていて、「かっこいい」と思った。
このページを共有する
おすすめワード