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  • 2012/09/20(木) 10:55:35
これは北秋津小学校や泉小学校が出来る前の頃のお話なので昭和40年代後半の
頃の事になってしまうのですが、その頃って南小学校に通う生徒って西は荒幡山口
から、東は新秋津駅の方から徒歩で30分かけて来る生徒がいた。中には40分くらい
学校までかかる、という生徒もいたんでなかったか?
特にその生徒が一二年生だったりしたらもしかしたら一時間とかかかる子もいたかも
知れない。
自分の友人にそんな子がひとりいた。
北秋津のお天王様まで歩いて家から学校までの距離の3分の1位だとかって
そいつは良く云っていたから。
昔って本当に小学校の学区が広域だったという気がするのだが、所沢小学校に
通う生徒にはそんな子供はいなかったのではなかろうか?って思うがどうか。
なぜなら北側にはすぐ明峰小学校があったし南側には南小があったから。
プロペ界隈、即ちダイエー界隈の町場に家がある子供らってみんな所沢小学校でしたよね?
西所沢駅近くの生徒も。
所沢小学校には徒歩30分かかる、という生徒はほとんどいなかったのではないか?
やっぱり泉小と北秋津小は必要だったと思う。南小はこれらの2つの学校が出来たときは
市内一のマンモス校だとかって云われていて生徒数の総数が千人を超えてた。で、鉄筋校舎を
早急に作らなければ生徒を収容できない云々していたが、そんな事よりも本当の問題は
生徒の徒歩通学の長距離、長時間通学の危険性に問題があったのではないかって思う。
当時って北秋津の東側や荒幡の方は茶畑が広域に広がっていて通学路も舗装などされてなかったし
道も全体的に藪なんかが多かったから日中でも薄暗い箇所も多かったからね。
南小の通学路には昔は『痴漢に注意』って看板があちらこちらにあったしな
南小は鉄筋校舎を作るために一時的に昭和46年頃から50年頃に校庭の西側にプレハブ校舎が
いくつもあったもんだった。

ここまで見た

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