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  • 282
  •  
  • 2011/01/22(土) 19:30:33
>>279
私としては一番覚えてなければならないところですが、忘れてます。 藤田帳簿店とか
鬼沢青果店は知ってます。 その間ぐらいにあったかな??

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>>280-282

ありがとうございます。
エイズの時の厚生省の課長だった郡司さんは
水戸の郡司薬局の息子だと聞きました。

弘道館が空襲で燃えそうになった時のことをしるした日記に
郡司薬局の郡司さんが登場したので
水戸に昔からある薬局なんだなと思いました。

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http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12927683910160
水戸・弘道館に空襲焦げ跡、市民バケツリレーで消火 

元市収入役の回想録発見



ここに南町一丁目と書いてありますね

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  • 285
  •  
  • 2011/01/23(日) 16:34:13
>>284
素晴らしいものを見つけて下さいましたね。 S20年8月2日の水戸空襲の様子。
実は、私も今日は実際に体験した、そして、その焼夷弾をオモチャにして遊んだこと
などを記そうかと思っていたところでした。 夕べ当時の様子をいろいろ考えており
ました。

当時は未だ中学校に入ったばかりでした。私の家は、千波湖の南側、ちょうど元湖楽
の坂と、早川さんの梨畑の間の当時は南台と称した30戸あまりの集落の一軒に住んで
おりましたが、その集落の回りは杉、松等の林に囲まれておりました。
夜中、空襲警報発令中で、静かだったのですが、あのB29の不気味な爆音が聞こえ
初めてすぐでした。シュルシュルと云う不気味な音とともにドカドカと云う爆発音とも
云えない、しかし確かに何かの落下音でした。何と頭上を思ったより低空で通過して
行く大きな飛行機、そして、今考えれば、爆弾ではない焼夷弾の落下です。気の強い私の
母(その時は私は既に父を亡くしておりました)は一人で家に残って、先にトビクチの付いた
長い棒を持っていろいろやっていたようですが、丁度私の家の南側が掘りみたいになった
田んぼでしたが、そこへ降りて、木の根元にうずくまっておりました。また、シュルシュルと
云う音が頭上で聞こえましたが、その時は全く夢中で判りませんでしたが、田んぼを隔てた
家に、大きな欅がありましたが、焼夷弾を何個か束ねた鋼鉄製の幅3センチ、長さは2,3
メートルあったでしょうか、そのベルトが、その欅にぶら下がっておりました。

その焼夷弾が、長さ60センチ程、径が8センチ位の六角形の筒で舌センチ位の所に、信管が
あり、火薬が二つパックされて、その信管を挟んでありました。その外部に、小さな押しボタンが
飛び出しておりました。その筒の頭部に蓋があり、下からの圧力で飛び出て、開くように
なっておりました。そして、その蓋に、2,3メートルもあると思われる青い布が付いておりまし
たが、これが、焼夷弾が真っ直ぐに落下する為の装置だったのですね。(つづく)

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  • 286
  •  
  • 2011/01/23(日) 16:39:40
(訂正)六角形の焼夷弾の下3センチ位の所に、・・・・・・

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  • 287
  • ひさしぶり仮面
  • 2011/01/24(月) 15:32:08
書類を整理していたら、千波町東久保分筆図というのが出てきました。
昭和20年台のようですが、ひょっとしてハクジーさんがお住まいだった
ところでしょうか?昭和19年の書類だと、東茨城郡緑岡村大字千波字東久保
となっています。関東住宅株式会社と那珂郡絵沢村(旧美和村)の小室さん
という方が売買をしているようです。内容はよく分かりませんが、住人と思われる
個人名では山口三郎(元水戸税務署長?)、渡辺覚、江幡清、野口徳三などの
名前があります。

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  • 288
  •  
  • 2011/01/24(月) 18:05:08
>>287
そうです。その通りです。小室さんが売買致しておりました。小室さんも住んで
おられましたよ。ただ、私は、その小室さんが売り出す以前、昭和16年に、私の
叔父の紹介で、ここに土地を求めたようでしたが、その頃は、2.3軒の家が
ありました。一軒立派な大きな2階建ての家がありました。今もあるかなァ〜?
「ひさしぶり仮面」さん、どうして、この様な書類をお持ちなんですか?何か
凄く懐かしくなって来ました。

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  • 289
  •  
  • 2011/01/24(月) 19:17:01
(285のつづき)
そして、その焼夷弾は、確かに焼き尽くすための爆弾ですので、威力は普通の爆弾
みたいに炸裂して横に広がるのではなく、土に半分位突き刺さって、その信管が
作動し、圧力を掛けて蓋を突き開け、中に入っている油脂(どろどろしたゼリー状
の油脂)が飛び散り、土と木で出来た家に細かく分かれてへばり付いたようでした。
ですから、母がトビクチの付いた長い棒を持っていたのでしょうか?トビクチでへばり
付いた燃えている油脂を落とした・・・と云う話は後で聞きました。東京のように密集
地帯だったら一溜まりもありません。ましてや熱風で全滅になりますよ。私が住んで
居た所は、密集でしたけど、間が2メートルほど空いていたし、たまたま偶然と云うか
焼夷弾が、その間に落ちていたんです。それと、土の軟らかい所は不発弾が多かった
ですね。それでも我が家のあった30軒余りの家は全く被害を受けませんでした。
周りは松林と杉林が多かったですが、千波神社まで見渡せるくらいの、畑と茶畑だけ
でした。でも、ぽつんぽつんと建っている家が直撃弾を喰らって無残にも全焼、それに
茅葺きの家ばかりでしたから燃えてしまったのでしょうね。瓦屋根では、突き刺さった
のでしょうけど、瓦が割れ、焼夷弾が下に滑り落ち、不発だったなんて云う家もありま
した。不謹慎ながら笑い話ですね。ですから茨城県庁舎が残ったのも、屋上のコンクリート
で突き刺さらず、信管が働かずに、不発弾が多く残ったのでしょうね。(つづく)

ここまで見た
  • 290
  • まちこさん
  • 2011/01/26(水) 06:10:51
ハクジーさんのお話はどれもはじめて聞くものでとても興味深いです。
貴重な証言だと思います。

ここまで見た
  • 291
  •  
  • 2011/01/26(水) 12:23:23
(289のつづき)
・・・とわ云うものの、焼夷弾ばかりではなかったんです。当時焼夷爆弾と云われて
居りましたが、何故か2メートルほどの大きな穴が、それも必ずふたつ並んであいて
おりました。やはり普通の爆弾も落とされていたんですね。私と姉が田んぼを隔てた
前の家の防空壕に避難させてもらっていて、B29の爆音も聞こえなくなった時、
外へ出てびっくりしました。その防空壕の出入り口のすぐ脇にその二つの穴があった
んです。そして、もっと驚いた事は、外に出て辺りを見て、真っ赤、ただただ
その一色でした。そして、爆音が聞こえなくなって外へ出たのに、水戸駅の方で大きな
爆弾の炸裂音、そして、盛り上がる火の玉。私は、これは「水戸駅機関区に落とされた
1トンの時限爆弾だ」と聞かされました。それと、あとは水戸駅から丁度備前町の下の
跨線橋の辺りまで停車していた貨物列車の爆発でした。軍用列車の誘発だったのでしょうか?
(つづく)

ここまで見た
  • 292
  •  
  • 2011/01/28(金) 14:57:33
さて、その後はどうなったか??多分、赤く焼けた空を見ながらただ呆然と家へと
向かったのだと思います。割と私の家は庭が広かったのですが、門と家までは
50メートルぐらいあったかな?門からど家までの道には、茅を束ねた、高さは
せいぜい1メートルぐらいの垣根がありましたが、全部倒れておりました。これも、
母の仕業かなと思ったのですが、一番燃えやすいのに全く燃えておりませんでした。
然も、すぐ近くには、焼夷弾が突き刺さっているんですよ。今でも疑問の一つです。
私のもひとりの姉は、たった一人で御茶園の畑を逃げたらしいのですが、御茶の木に
頭を隠してお尻を出してじーっとしていたそうです。御茶園と云っても今の御茶園と
違いますから周りには何も無く、上から爆弾や焼夷弾が落ちてくるし、周りは真っ赤だし、
さぞかしもの凄い恐怖に襲われて居たのではないでしょうか?当時、そんな話が出ると、
みんな笑っていましたけど、茶畑に頭を突っ込んでお尻を出していた格好は奇妙だったで
しょうね。

笑い話どころではない当時は、家に戻ってただ呆然としておりました。親戚が近くに
ありましたが、そこはたった一軒家なのに、全焼。でも、離れた所に蔵がありましたので、
そこで生活をはじめました。勿論、我が家も含め、近所はみんな井戸だったので、
水の心配はありませんでした。食料も当時の食料ですから、美味い物など有るはずあり
ません。でも、みんな頑張りました。二・三日はだいたいみんな落ち着かないままに家に
閉じこもって居たのではないでしょうか?

ここまで見た
  • 293
  •  
  • 2011/01/29(土) 20:37:52
空襲直後の話は一休みして、ちょっと脱線します。常磐線の通ってる線(ちょっと表現が
変ですけど)は今も昔も変わりませんが、電化されたこと、線路の太さと長さが変わった
事、枕木が木からコンクリートに変わったこと、そして、列車そのものが超近代的な列車。
そして・・・・・偕楽園のカーブから赤塚までの上り勾配の尾張あたりまで、上野へ向かって
左側は、ず〜っと森でしたが、そこに何本か引き込み線を作り、機関車を避難させて
おりました。それから、吉田に陸軍の通信隊があり、軍隊の通信学校がありましたが、
そこには、二枚羽の単発の練習機(赤とんぼ)とか高等練習機(双発)の飛行機がありまし
たが、その飛行場から誘導路を千波、平須、小吹位まで作って飛行機を避難しており
ました。その避難してあった飛行機を見に行ったことありますけど、殆ど木製に近い
ものでした。腰掛けだって籐でできているものです。燃えてこそいなかったけど、さぞ
かし敵艦載機にやられたのでしょう。見たらだいぶやられてました。艦載機の機関砲の
薬莢が沢山落ちておりました。それを拾ってきたもんです。機関車にしても飛行機にしても
避難したって何の役にもたたなかったみたいです。
その赤とんぼが練習している様子が、まだ目に浮かびますよ。千波湖の西、護国神社の
方から下がってきて千波湖すれすれに飛んで、下市方面に上昇していく姿なんか、子供
ながら「航空隊に入りたい」なんて思いながら見ておりました。

ちょっと脱線してみました。

ここまで見た
  • 294
  •  
  • 2011/01/29(土) 20:44:31
293訂正
字誤り・・・・・自分が名古屋に住んでいるせいか、上から五行目

上り勾配の終わりあたりまで、  尾張 〜 終わり

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  • 295
  •  
  • 2011/02/11(金) 20:36:03
B29は南西方面より侵入し、北東に向かったものと思われます。わたしの通っていた
茨城中学は戦災から免れましたが、茨中から南に引いた線を境に、西側は焼け残って
おりましたね。その線から東側下市方面まで完全に壊滅といった感じだったと思います。
割と下市に友達がおりましたので、空襲直後ではありませんが、当然歩いて下市まで
行きました。途中で道路の真ん中に牛の死骸が横たわっており、お腹が大きく膨れて
おりました。友達の家が竹隈町と、水門町におりましたので行ったのですが、皆さん
家は無くなったものの元気でおりました。防空壕に屋根を作っておりました。その近くに
私のよく言う岡崎味噌工場があって、一本の煙突だけが残り、異様な匂いが流れて
いました。今でもその光景が目に焼き付いているんです・・・・・。
その彼はギターが好きで、焼け跡でよくつま弾いておりました。
その彼も今は千波で大きな自動車の部品会社を開いております。多分代は変わったと
思います。水門町の友人も元気でおりました。終戦日をあと一週間後にひかえた頃の
お話です。

ここまで見た
  • 296
  • まちこさん
  • 2011/02/13(日) 19:11:15
ハクジーさんこんばんは

相変わらず文章の塊の迫力には圧倒されますね。

ところで最後の部分で終戦の予感と言うのは一般の人たちには、
どの位前に知ったのですか。知ったのは何からですか。

当然子供だったハクジーさんは身近な大人から知らされたのだと思いますが。

ここまで見た
  • 297
  •  
  • 2011/02/13(日) 20:13:20
>296
いやいや終戦の予感など持ってはいませんでした。当時の大人たちは全く誰も
終戦の予感なんて持ってはいなかったのでは無いでしょうか?何しろ一億玉砕
の時代ですから・・・・・。ただ、もしかして敵の上陸用舟艇が鹿島灘に襲って
来るのでは無いのか??とか云う話は大人に混じっての話の中にあったような
気もします。

今は、太平洋戦争のDVD沢山出ているので、そんな想像も出来るんでしょうね。
ですから、私が空襲後に下市あたりを歩いていた頃は、終戦なんて考えて
おりません。当然過去の話となったので、あと一週間後って云える訳ですね。

ここまで見た
残り少ないので新スレ立てました

水戸の歴史 Part 8
http://kanto.machi.to/bbs/read.cgi/kanto/1297604707/

ハクジーさん、皆さん 次スレでもよろしくおねがいします

ここまで見た
  • 299
  • まちこさん
  • 2011/02/14(月) 08:54:17
>>297
ありがとうございました。確かに戦争のDVDは沢山出ていますね。
私たちには戦艦大和がとてもかっこよく見えます。
当時の人たちはさらに血沸き肉踊る気持ちだったのでしょうね。
後の本土空襲や敗戦など全く想像出来なかったと思います。


>>298
乙です。

ここまで見た
  • 300
  • まちこさん
  • 2011/02/14(月) 09:26:38
チョコもらった

砂時計アラームタイマー
フリックゾンビ
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