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  • 266
  •  
  • 2010/05/10(月) 06:23:13
 新水戸会館にあった映画館は昭和38年の暮れに火事で焼け出されたオデオン座が
移転した先でしたね。映画には興味がなかったので入ったこともなく建物自体
意識したこともありませんでしたが、例によっていつの間にか取り壊されて今は
駐車場になってますが。水戸の映画館も昔からのは銀星以外全滅してしまいました。

ここまで見た
  • 267
  •  
  • 2010/05/12(水) 00:26:44
ちょっと話題振っても良いですか。

父に聞いたのですが、父が子供の頃、
水戸には「じゃんけん」の独自の掛け声があったそうです。

「じゃんけん、ぽん!」ではなく
「あんしょー、えし!」と言ってたらしいです。

どういう意味なのかは分からないそうですが…

ちなみに父は下市の人間で、1950〜1960年頃の話です。
この掛け声使ってた人いますかね?

ここまで見た
  • 268
  • ハクジー
  • 2010/05/12(水) 07:09:05
>>267
は〜い・・ここにいます。「あんしょー、えし」そうです。その通りです。私は
大東亜戦争始まる前に(1941年)水戸に引っ越してまいりましたが、当時からその様な
かけ声でした。私も、未だにその意味はわかりません。今でも、「じゃんけんぽん」より
「あんしょー、えし」の方が云いやすい様に気がしますよ。
「ちくだっぺ・・・」って判りますか??それから、尻上がりで「これ、くれっか?」
尻下がりで「うん、くんちェ」・・・・・。

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  • 269
  • ハクジー
  • 2010/05/12(水) 07:28:57
>>266
前スレにも出た事ありますが、水戸の映画館で、私の知っている映画館は、戦後に
上水戸の方に「銀星座」泉町に「平和館」下市の本一丁目と本三丁目の間に一軒、
本三丁目と浜田の間に一軒、全てバラック造りの映画館、椅子は木製の長いす、
「銀星座」「平和館」は土間でしたよ。それからよく通ったのは仲町にあった火事
になったと云う「オデオン座」、黒羽根町にあったコンクリート造りの「セントラル
劇場」(洋画専門)大工町にあった「東宝劇場」ちょっと歌舞伎座調の当時としては
結構立派な「松竹映画劇場」南町常陽銀行前辺りになるのかな?「むつみ映画劇場」
そして、東照宮前の「東映劇場」と角のビルの地下にあった名前は忘れましたが、いや、
聞いて思い出した「ロマンス座」でしょうか?私が行った頃(昭和33年頃)は普通の
映画でしたね。そう云えばポルノ映画の看板が出ていたのも知ってます。

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  • 270
  • 昭和33年生れ
  • 2010/05/12(水) 10:48:35
「あんしょー、えし」は私が小学生だった昭和40年代前半には普通に言ってました。

ここまで見た
  • 271
  •  
  • 2010/05/12(水) 19:36:18
>>266
ハクジーさん、フォローありがとうございました。宮下銀座の入り口にあった
東映には何度かいったことがあります。学生時代、今の家内を初めてデートに
誘ったのはここでしたし、時代は下って「Always3丁目の夕日」を見て昭和ノスタルジー
にしばし浸った後、ほどなくして閉館するなど一番思い出深い映画館でした。

 ところでハクジーさんの昔話もみどり橋を渡ったところで踏切待ちの状態でしたが、
東照宮の裏手の奈良屋町って例の昔の踏切を渡って線路の南側の金光教あたりまで含まれていたのでしょうか?
踏切が閉鎖になった今でも昔の木造家屋が当時の道沿いに僅かに残っています。

>>270
 私は昭和38年生まれで日立の宮田で子供時代を過ごしました。
「チッケッタ」ってたまに言うことがありましたが、大抵は「ジャンケンポン」でした。
それから「呉れ」という意味で日立では「くんちぇ」ではなくて「くんちょ」と言ってました。
方言も町が変われば少しずつ違うんですね。

ここまで見た
  • 272
  • ハクジー
  • 2010/05/12(水) 21:24:35
>>271
あの踏切を渡ってすぐの右側に子供相手の何でも屋さんがありあしたが、そのお店で
淀川長治編集長の「映画の友」を高校時代に買ってました。そのお店のおばさんが。
毎月取っておいて下さいました。この雑誌は好きでしたね。ところで、その踏切を
越して国道を渡り、左側に、はっつくばって登って行かないと滑り落ちてしまいそうな
急坂を見て、右手にガスタンク(昔の)を見て、町の方へ行くと左に黒羽根町への
登り坂、角に関山酒店と小室床屋さんがあって、その角で奈良屋町娼婦街を見ると、
ねーさん達が立って見ているんですよね。三の丸小学校の友達に、その先、かなり
先ですけど、市毛弓店の息子がおりました。今は大旦那でしょうね。それと、その
花街のお店を開いている、親父がお相撲さんでしたが、その息子も高校までの友人
もいました。そこへ遊びに行くにはどうしても、町中を通らねばならなかったので
すが、学帽をかぶった高校生でも「遊んでいかない〜」なんて声を掛けてきましたよ。
それぞれのお店の入り口には、当時の進駐軍の為に、「Off Limit V.D.]なんて書いて
ありましたね。なにしろ今の裁判所は戦後は、米進駐軍の司令部でしたから・・・・。
その道路は一本道で、途中十字路があり左へ登ると、黒羽根町へ・・右へ登ると、今の
東照宮の正門前に出るんです。その途中に市毛弓店があるんですが、その市毛さんの所を
右に坂を下りると、また小さな飲み屋があり、入り口を開けて、通る人に声を掛けて
いました。
何しろ、あの奈良屋町の花街は低い所にあり、郵便局の方へは、突き当たりの階段を登って
行きました。また、右に曲がって銀杏坂にもでました。

ここまで見た
  • 273
  •  
  • 2010/05/15(土) 10:44:13
イントネーションで思い出したけど、いばらきではハムレットをハ〜ムレツト〜とほとんどの人が言うらしい。
おいしそうねと東京と千葉で言われたとか。

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  • 274
  •  
  • 2010/05/15(土) 21:57:48
>>272
 昨日の昼休み、宮下銀座の藪清で昼食を取った帰りに奈良屋町界隈を散策して
きました。踏切を渡ったところにあった樽井菓子店のあたりは、跡形もなくなって
よくぞこんな狭い敷地で商売が出来たなとおもえるほどの線路と道路の間が狭まった
ところです。関山酒店は今は宇野酒店と改名し、屋号がせきやまと書かれているのみです。
隣の床屋さんはまだやってます。市毛弓具店も営業中です。
 遊郭や連れ込み宿だったであろう建物の多くは更地になるか新しい住宅に建て
替えられたところが多くなっています。今や奈良屋町と言われてもどこなのか解らない
水戸市民がほとんどだと思います。

ここまで見た
  • 275
  • ハクジー
  • 2010/05/16(日) 06:59:57
>>274
まちこさんはどちらにお住まいなのでしょうか?そして、何故、樽井菓子店なんて
名前ご存じなんですか?私はいつも学校の帰りにあの店に寄って遊んでいました。
ただ、名前が思い出せなかったんです。ちょっと背の低いおばさんがおりました。
そう云えば、国道を挟んで、向かいの角の家も、樽井さんじゃなかったかなァ〜?

でも、確かに今は奈良屋町と云っても知らない人が多いと思いますが、私達は、
奈良屋町と云うだけで、何故か恥ずかしかったですね。踏切の南側も、確か奈良屋町
と云う町名だったと思います。千波へ向かって踏切を越えると、右側に仲田時計屋
さんがあり、そこから、みどり橋へ向かう道路と二股に分かれていて、右へ行くと
行き止まりの道路ですが、一番奥に有ったのが、金光教ではなかったでしょうか?

ここまで見た
  • 276
  • 274
  • 2010/05/16(日) 18:03:25
>>275
 奈良屋町の地名は昭和41年の上市の住居表示で事実上消滅しましたが、40年代初めに
踏切が閉鎖されて離れ小島のように取り残された美都里橋側の僅かなエリアだけが
昭和51年の駅南の住居表示まで「奈良屋町」が存続したそうです。先週、私用で
生まれて初めてあの南側の一画に足を踏み入れる機会があったため興味を持ったのです。
もともと、奈良屋町は江戸時代に千波からの渡し舟や遊覧船の船着場があったところらしく
明治になって常磐線が開通し、町が分断されても古い町名がそのまま引き継がれた
ようです。
 千波大橋の影になって忘れ去られたような場末感漂う一帯、戸数僅か数戸しかない
のに51年まで奈良屋町と称していたことに個人的に非常に興味を覚えました。
 なお、現在も奈良屋町時代からあると思われる家屋が2世帯残っています。

 樽井菓子店は昔の住宅地図で確認しました。このお店は昭和50年代半ばまでは
あったようなので、私も何度か店の前は通っているはずですが、ついぞこの店の
存在を意識したことはありませんでした。
 あの辺で目立ったのは国鉄ストアでしたが、これも国鉄が解体した昭和62年ごろに
姿を消したと思います。宮下銀座に移転した仲田時計店も今はもうありません。

ここまで見た
  • 277
  • ハクジー
  • 2010/05/16(日) 20:02:37
>>274
そうですね。千波湖がまだ下市の方まであった頃の大昔は、舟付から奈良屋町辺りまで
渡し船があたかもしれませんね。この場で、このようなお話が出来るなんて感動もん
です。宮下銀座に移転した仲田時計屋さんのことも知っておられるんでしたら、よほど
あの辺にはお詳しい方だと思います。私よりは、まだまだお若いとは存じますが、何故か
昔の友達に会ったような感じがしてなりません。あの樽井さんのお店には、高校時代の
学生服の詰め襟に、学年とかクラスのバッジが売っていて、よく買ってつけてましたよ。
オシャレのつもりで・・・・・。それに、IHS(茨高)とか、その他各校のバッジも
もあって、よく買いました。 そのために、あの辺には、わりとヤクザ屋さんが多く住んで
いて、そこの子供達によくいじめられ、バッジを取り返されました。挙げ句の果てに、
お金ではなく、「バッジを持ってこい!」「何々を持って来い!」とか、脅されました。

ここまで見た
  • 278
  • 昭和33年生れ
  • 2010/05/20(木) 11:14:21
小学校高学年の頃の休日の過ごし方  なかにわ(おもちゃやさん、見るだけ)‐‐川又書店(見るだけ)‐‐
伊勢甚(屋上でゲーム)‐‐川又楽器店(キラキラした楽器をながめる)‐‐アサヒ模型店(100円位の模型を買う)
‐‐家に帰って模型つくり  または、一日中三角ベースの野球をやってました。
みなさんはどうでした?

ここまで見た
  • 279
  • ハクジー
  • 2010/05/20(木) 12:55:40
>>278
昭和33年生まれ・・・私とは25歳違う訳ですね。
さて、小学校高学年の頃といいますと、昭和19年から終戦の年の昭和20年はじめ
の頃でした。隣組(現代の町内会みたいなもの)の子供会がありまして、殆ど昼間は
学校から帰りますと、防空壕堀をやってました。朝は早くから隣組の組長さんの家へ
新聞を取りに行って、新聞配達。昼間は先ほどの防空壕堀、夜は、「撃ちてし止まん、
火の用心」「米英撃滅火の用心」と拍子木を叩いて、部落を回っておりました。
遊び事は、自分の基地を作って、立てこもって、何やらしてました。おもちゃはと
云えば、自分で作った竹とんぼ、杉鉄砲、紙鉄砲、水鉄砲、メンコ、べいごま、
新聞紙で兜を作ってかぶり、雪が積もれば崖を滑り降り、田圃の中を「雪〜の進軍、
氷を踏んで♪」と歌って行進をして遊んでました。
当時は、もう空襲が酷くなり初めてましたので、艦載機に狙われたり、B29に
脅されたり、それは、それは今では考えられない事ばかりでしたよ・・・・・!

ここまで見た
  • 280
  •  
  • 2010/05/20(木) 21:54:21
>>278
なかにわ、懐かしい…

クリスマスプレゼントは、あそこで買ってもらってた…
ミクロマンとか。

ここまで見た
  • 281
  • えふ
  • 2010/05/21(金) 18:46:43
最近、南町のお店で商店街マップを入手しました。水戸駅から大工町のちょっと先までの
現在のお店が記載されています。旧町名マップも付いていました。
スキャンしてみましたので、興味のある方はPicassaからダウンロードしてください。ttp://picasaweb.google.com/ef2010ef/
但し、印刷用の高解像度版をA4に印刷しても細かすぎて見えないでしょう。

ここまで見た
  • 282
  •  
  • 2010/05/21(金) 19:40:56
>>281
これどこでもらえましたか?

ここまで見た
>>278
 私は昭和44年生まれ。
 アサヒ模型。何だか聞き覚えがあります。どこでしたっけ。雷神さんの近くの裏通りにあった模型屋さんでしたか?記憶がはっきりしません。
 水戸一中の傍にも昭和50年代中頃まで模型点がありましたよね。日航?模型とかいったような。
 上水戸のフードストッカー(昔の上水戸駅)の近くにも鈴木模型店という駄菓子屋さんとの間の子のようなところがあって小学生のころ入り浸っていました。いつの間にか閉店し、今では更地になっています。
 他に城東小学校の前にOK商会?、名前は忘れましたが附属中学校の前にも模型店がありましたがクリーニング屋さんに転身し更に閉店。今でも建物はあります。
 堀町の方にも模型も置いている駄菓子屋といった感じのお店が2店ありました当然閉店しています。
 なかにわ玩具店も懐かしい。私も子供時代クリスマスか誕生日のプレゼントを買ってもらいました。でも昭和50年代前半で閉店してしまいましたね。
 少し新しいところでは袴塚のぎゃるそん。数年前に閉店しましたが、中学〜高校時代の溜まり場でした。大工町にはガリバーというお店もかつてはありました。昭和の終わり頃閉店の筈。

ここまで見た
  • 284
  •  
  • 2010/05/21(金) 21:27:46
>>278,>>283
 アサヒ模型懐かしいですね、昭和仮面さんのご記憶のとおりで雷神前からも近いお店でした。
大工町2丁目の通りから2本南側の通り、現在は元山町のエリアですが、私が初めてお年玉を
握り締めてやっとのことで探し当ててたどり着いた昭和50年当時、まだ近所の住宅の表札には
10年以上前の表札の新大工町の表記が残っていました。90年代の後半以降、既に子供たちは
プラモや模型には興味を失いゲーム漬けの日々。最後は在庫も僅かとなり平成13年に閉店となりました。

ここまで見た
  • 285
  • 284
  • 2010/05/21(金) 21:49:20
 私は子供の頃から鉄道の模型をやってました。ゲージはHO。
 Nゲージ(9ミリゲージ)の台頭とともにマイナーな存在となってしまいましたが
昭和50年代まではまだ鉄道模型の主流であり、水戸市内でもいくつかの模型店で取り扱い
がありました。水戸でHOを手広くやっていたのは伊勢甚百貨店の玩具売場にあった
鉄道模型コーナーでしたが、30年以上前でも機関車が一台数万円もするので子供に手が出せるはずも無く
やがて売場ごと消えていきました。
 私が好んで利用したのは新大工町のアサヒ模型と銀杏坂のヒロセ電関店でした。
どちらも1台数百円で紙製の電車の車体キットや車両の部品を多く扱っており、小遣いの少ない子供にも
どうやったら楽しめるか一緒になって考えてくれる店でした。そのヒロセもオジサンが亡くなって
オバさん一人の経営となって2、3年後、平成13年に閉店となりました。
鉄道模型に関しては今は赤塚のユタカ模型が県内でも随一の品揃えです。
 昭和の時代から今も残っている模型店は奈良屋町の大一模型くらいでしょうか。

ここまで見た
  • 286
  •  
  • 2010/05/21(金) 22:45:53
大一模型の(今の)おじさんはいい人だ。
少し前のことだけど、子供のおもちゃを直すのにモーターを買いに行ったのよ。
在庫がなくて…と言ったあと、何かから外した中古のモーターを出してくれた。
お金とらないって言うんだけど、悪いから少しだけ置いてきた。

昔のおじさんもいい人だったし、人柄まで受け継いでるのかなぁと。

ここまで見た
>>284-286
 アサヒ模型、私はガンプラを目的に友達とあちこちの模型店の情報交換をしていて辿り着いたような気がします。
 もっともガンプラは直ぐにやめてしまい、100円くらいで買える安価な軍艦の模型に趣味を移しました。アサヒ模型でも買いましたよ。
 最近までお店があったような気がしていましたが平成13年閉店とは知りませんでした。昭和42年住宅図にも載っていますから老舗です。
 私の「最近」も10年単位で区切るようになったとは。オジサンになったということですね。

 ヒロセ商店は今のそば兵衛のところでしょうか?昭和42年の住宅図にも「ヒロセ玩具店」として既に存在しています。
 アイドルのブロマイドとか、安い模型とかを売っていた小さなお店でしたね。プラモデルで「あまがえる」とか「屋台の蕎麦屋」とか「あかとんぼ」とか渋い品揃えでした。
 鉄道模型もあったとは気付きませんでしたが、私は三の丸小だったので時々覗いていました。
 これも比較的「最近」まであったような気がしていたのについの間にか蕎麦屋に。
 その場所に足を踏み入れてみたくて、そば兵衛にも何度か食べに行きました。

 大一模型は同級生が本当に直ぐそこ(プライバシーの配慮して詳しく書きませんが)に住んでいたのでガンプラ目当てに何度か行ったことがあります。
 ガンプラそっくりのパチモン「ガルダン」を初めて見たのもその店だったかもしれません。
 あんな裏通りで今でも営業しているとは失礼かもしれませんが「凄い」と思ってしまいます。それだけ人柄とか品揃えが良いのでしょう。

ここまで見た
  • 288
  • えふ
  • 2010/05/22(土) 04:52:40
>>282
南町二丁目商店街の「逸品」印のお店に置いてあると思います。多分。ttp://www.minamimachi2.com/
私はここのマップページの29番のお店で頂きました。

ここまで見た
  • 289
  •  
  • 2010/05/22(土) 12:25:43
ヒロセ商店懐かしいな
よくNゲージのプラキット車両買ってた

ここまで見た
  • 290
  •  
  • 2010/05/22(土) 14:17:55
>>289
ヒロセ商店が正式な屋号みたいですね。戦後のヤミ市そのままのバラック店舗の
入口にいろいろ書いてあって電関(電気機関車のこと)、やらプラモやら小さい
店なのに商品がぎっしり詰め込まれていて何が出てくるか解らないのが魅力でした。

 グリーンマックスの旧型客車なんかも豊富にあったと思います。高校の学苑祭、
鉄道研究会の出し物でNゲージの運転会をやった時はこのお店で調達してました。
昭和40年代の急行十和田を模型で再現したのが懐かしい・・・もう30年も昔のこと。
あの頃はオジサンも元気で、店に在庫が無くても2、3日で仕入れてくれたりして重宝したものでした。

ここまで見た
  • 291
  • 282
  • 2010/05/22(土) 23:23:24
>>288
ありがとー。

ここまで見た
  • 292
  •  
  • 2010/05/23(日) 09:34:53
>>281
えふさん、貴重な資料のアップありがとうございます。
早速ダウンロードして壁紙にさせていただきました。

 ご存知の方も多いでしょうが、図書館に「水戸の町名」という本があります。
実際には入り組んでわかり難かった町の境界線や町名の謂れ、廃止時期など、
水戸の旧町名のことをかなり詳しく解りやすく解説した名著だと思います。
出版されたのはもうだいぶ前ですが、今も市役所のHPから入手することが
できます。⇒ttp://www.city.mito.lg.jp/view.rbz?cd=1575&ik=0&pnp=14

ここまで見た
  • 293
  •  
  • 2010/05/23(日) 11:33:55
残り少なくなってきたので次スレ立てました。
現在のこのスレッドが実質的に従来からの歴史スレのPart6に
なると思われ、以前の名前に戻しましてあります。

水戸の歴史 Part7
http://kanto.machi.to/bbs/read.cgi/kanto/1274578999/l50

ここまで見た
  • 294
  • ハクジー
  • 2010/05/23(日) 21:27:23
>>293
「水戸の歴史」Part7 乙です。
思いがけなく早めに昔に戻れるようになりましたね。
いろいろな話題に花が咲いているようですが、水戸から遠く離れていると、本当に
楽しく、面白く、また、遠い昔を思い出しながら、楽しんでおります。

これからも、ず〜っと続くと宜しいですね。楽しみに致しております。

ここまで見た
  • 295
  •  
  • 2010/05/23(日) 21:30:56
>>293
戻すのはかまわないが、まるでスピンオフ版が本編に
編入されるような感じがしないでもないな。
どっちかというとここは番外編としたうえでPart6に
統合のほうがよかったかもしれないとおもったけど
スレたて乙です。

ここまで見た
  • 296
  •  
  • 2010/05/23(日) 21:49:59
>>294
 ハクジーさん、水戸にいらっしゃる機会がありましたら是非お会いしたいものです。
江戸時代はじめ近世の歴史のことはたくさんの学者や歴史愛好家が書物に書きとどめて
いるけど、最近数十年の水戸の風物や民俗ってこうして経験者から聞いてみないと
わからないってことって多いですよね。これからもいろいろなお話を聞かせてください。

ここまで見た
  • 297
  •  
  • 2010/05/24(月) 01:44:13
>>271

あんしょう、えし!
良いねえ。生粋の水戸っぽだ。


日立は日製等に出稼ぎの人間で出来た街だから、全国色々な方言が混ざってるよね。

ここまで見た
  • 298
  •  
  • 2010/05/24(月) 21:00:26
「あんしょー、えし!」ってなんか良いですね。

ここまで見た
  • 299
  • ハクジー
  • 2010/05/25(火) 08:05:21
「あんしょー、えし!」力強くじゃんけんをしたもんです。

もう、今は全然聞けないんでしょうかね。 残念です。

ここまで見た
  • 300
  •  
  • 2010/05/25(火) 16:57:59
足を使ったジャンケン(閉じたり開いたりする)のときは
「チッケッタ」と言っていた様な気がする。

フリックラーニング
フリックゾンビ
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