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  • 2012/02/12(日) 13:53:51.69
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください


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  • 2014/08/26(火) 20:45:13.63
>>848
やっぱりあなたは、毛野氏の時代感覚が間違っているようですね。
毛野氏は、古墳時代より前に関東を支配していた部族で、実際のところ、行田市や下野国府(栃木市)といった大和朝廷の支配地から排除された形跡があります。
毛野氏の勢力の強い地域は、古墳時代以降の遺跡より、弥生、縄文、石器時代の遺跡と重なります。
それに、東山道や中山道ともずれた道沿いに展開しており、大和朝廷の官制道路ができる以前から住んでいることは明白です。

関東平野には古墳時代に、すでに大和朝廷の支配が及んでいて、飛鳥・奈良・奈良時代の遺跡で毛野氏との関連性を語るのは時代が合わないのです。

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  • 2014/08/26(火) 20:55:37.65
そりゃ古墳などの遺跡とは合わないだろ
和って文字を使うところからして後世の創作が混ざってるだろうからな

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  • 2014/08/26(火) 21:02:18.51
例えば蘇我とか物部ってのは宗教からみか知らんが文化人気取りで
相手が卑族だと思えばこそ付ける名称
卑弥呼あたりともこの辺は繋がる

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  • 2014/08/26(火) 21:08:23.41
次から次へと変なのが湧いてくるスレ

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  • 2014/08/26(火) 21:12:51.57
蘇我はよく知らんが、物部は、毛野にとっては侵略者。

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  • 2014/08/27(水) 02:57:22.88
>毛野氏は、古墳時代より前に関東を支配していた部族で

奈良時代から平安時代初期850〜1000まで
上毛野氏は朝廷のあらゆる部署であらゆる雑用をやってるんだが、
働き蜂みたいに活動してますけど、
関東だけじゃなくて日本のいろんなとこで長官してるし。

「古墳時代以前の豪族だった」と過去形にしないでくださいね。

ただ板東平氏の活躍以降、忽然と消えるのが不思議なんだなー。
ぽつぽつ中央の残存っぽいのは出るけど。豪族とか武士団として活動してる形跡は
1000以降ないのな。

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  • 855
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  • 2014/08/27(水) 06:13:47.94
招婿婚によって中央から新たな婿を招き、氏族名が変わるからだよ。
中央と繋ぎをつけるためには絶えずその時々の中央の第一線にいる氏族と姻戚を持っている必要がある。
毛野氏に限らず古族ならみんな辿っている道。

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  • 856
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  • 2014/08/27(水) 07:03:23.42
毛野の子孫は、 東国の六腹、つまり、上毛野、下毛野、 大野、佐味、池田、車持氏という「朝臣」を賜っている。
奈良時代の「 大宝律令」(701)に従い、上毛野の”毛”をはずし、上野国、下野国となったほか、和銅の好字令などにより、蝦夷に繋がる地名は和風の地名に表記を変えている。
本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河・相模と共に佐斯国(サシ)と呼ばれ、後に佐斯上(サシガミ)・下佐斯(シモザシ)に分かれたとされ、元の地名を連想することすら難しい場合もあるようだ。
古代の毛野は地域名であって、氏や姓という観念すらない頃の部族連合だったから、今はどんな氏族になり姓を名乗っているのか、調べることすら難しい。
候補としては、大野、池田、太田などになる。

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  • 857
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  • 2014/08/27(水) 08:56:59.88
続 古代の農業用水路
水口よりやや上流に小さな水田があった。所有者は誰かなと思い登記簿謄本交付申請書を登記所に郵送したところペラ一枚の表示登記の写しが返送されてきた。最後の所有者欄に益子忠太とある。
元水戸藩郷士である。代々同じ名前を名乗り登記簿の名義変更をしていないらしい。Wikiなどを見てみると常陸益子氏は下野益子氏と同様に和歌山の紀氏に繋がるらしい。ただし、入郷川沿いの古代
用水路と益子忠太や毛野氏は、まったく関係ないと思われる。

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  • 858
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  • 2014/08/27(水) 15:25:33.38
秀郷と源氏=新田義重・足利

850くらいから急激に衰退した?とすれば、
関東の天災(富士山噴火)・貞観地震が致命的だったのかなと。

源氏は頼信を起点に
上野国八幡荘(碓氷郡高崎市)と勢多郡山麓が最初で
新田郡<>足利荘を取られるわけだな。

桓武平氏への接続がよく分からん、
886年まで普通に上毛野氏が中央の記録にもばんばんでるのに<まだ衰退してないのが分かる
940年代の将門記に上毛野氏がほとんど出てこないのはなぜか?


890〜940までに何かあって平氏が台頭してきたらしい
まあ平氏といっても具体的には桓武平氏は
「平良将・良文」と「平国香」の系統で争いがある。

坂東平氏は「平良将・良文」が全盛期だったが、反乱したのと、平国香系統が「平家」になることもあって
衰退している?(衰退はしてないが主導権を関東の戦乱を平定した?源氏に取られた)

でも来てもない時代には上毛野・下毛野氏の領地だったはずで。
来てからは一気に平氏・源氏に変わってる
毛野氏と坂東平氏の接続点は890くらいだな。<そりゃそうだ。その頃に平氏が関東に来たんだから
将門以降は芋づる式にいろんなのが来るが、
886年から将門以前の関東の武士団がよく分からんな。

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  • 859
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  • 2014/08/27(水) 15:39:13.77
880年まで毛野氏がいて、900年までに全滅したようにも見える。
毛野氏は何をしていたのか?

余所者が大挙して東国に来る890くらいに何か抵抗しなかったのか?
何かをしたけど、統領がたまたま平氏だったもので
それに従った足軽の毛野氏一派が出てこなかったのか。

千葉と前橋は戦争してるんだな。国香と平良文

嵯峨源氏は兄弟が正3位左大臣を独占するまで絶大な権力を持ってたが
源頼光は東国に来てない。その子の為義も来てない

強いけど来てないから東国には源氏はまだ無関係。

で、平氏は高望が東国に来て、陸奥守とかになって、
秋田とか岩手の反乱を鎮圧したりしてる、
で、ここが違うところだが、
桓武平氏は東国に来て、東北の反乱を鎮圧して
そんで「京都に帰らなかった」<<ここがでかい
他の将軍とかはみんな京都に帰ってるが、桓武平氏の一族は京都に帰ってない。
東国に居座った連中なのが特徴


平国香
889年6月14日)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し、
上総介に任じられ父の高望とともに昌泰元年(898年)に坂東に下向

国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、
在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、
自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、

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  • 860
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  • 2014/08/27(水) 17:06:07.10
将門以前に「武士」なんていない。
将門ですら厳密には「武士」ではないのに。

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  • 861
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  • 2014/08/27(水) 18:16:09.30
武士の定義なんてどうでもいい

武士の定義に完全に合致する旗本八万旗は
250年間吉原で女遊びしてただけ

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  • 2014/08/27(水) 18:25:49.74
私領の開発=私領の公認化=荘園制の確立=武士団の形成の前には

空前の農業ブームがあったと。
だいたいまともな武士団は最初は田んぼを耕してる。
農地も何もなくて、クワだけ持って働いて農地を増やして
それで囲い込みして、それだけだと役人やら中央の変なのに分捕られるので
寺社や公家の持ち物にして、税金を払って8割を確保したと。

荘園制の拡大の後は侵略戦争が勃発するが
田んぼがまだ大したことない時代850〜930は田んぼ耕してたのが関東の平氏だよな。
空き地を開墾してたので、とくに毛野氏と諍いもなかったと。


「膝を守れ」、狭い機内のアイデア商品-乗客けんかで一躍注目
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NAYC9P6K50Y501.html
問題は航空会社が座席の間隔を狭くしていることにあると、同氏は指摘する。

十分に広い=空き地がある場合には乗客同士の戦争はないが
エコノミークラスが増えてきて、座席の余裕がなくなってくると
こうやって醜い争い=武士団同士の抗争が起きると。

単純な反乱・鎮圧でもなく、「座席の間隔が十分広かった」時代が毛野氏から平氏への移行期にあたるので
論争があまりなかったようだな。なぜ平氏と毛野氏が抗争しなかったかというと
これも説明できる。

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  • 863
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  • 2014/08/27(水) 20:53:39.05
続々 古代の農業用水路
重要なことを忘れていた。堰についてである。水口のところに簡単な堰を設けて河川水をよび込まなくてはならない。何故か。渇水期に河川の水面が下がるからである。
何もしないでおくと用水路には殆んど入らなくなってしまう。簡単な堰は誰にもできる。用意するものは、短い杭、長い杭、ある程度の大きな石を数十個の三種類だけである。
まず、河川水をよび込む形で短いを小槌で何本か打つ、次に内側に長い杭を何本か渡す、最後にさらに内側を大きな石で固定する。これだけである。入郷川の水口の簡単な堰は、
この方式で約1500年前後に渡り造り続けられたと思える。簡単な造りなので大水が出ると流されたりします。その度に補修することになります。従って冬季には堰が必要ありません。
しかし私は年末年始の寒い時期に、せっせと堰の補修をしていた記憶があります。スケートが出来るように河川水を溜める必要があったのです。「川ってスケート出来るのですか」
と訊ねる人々がいる。入郷川は水量も少ないので氷点下5度の日が何日か続くとスケート可能になったのである。私は、ここで前に滑るだけではなく後ろに滑ることや、カーブで
足を交差することを覚えた。 朝起きると寒ければ寒いほど嬉しかった日々の少年期であった。

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  • 864
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  • 2014/08/27(水) 21:09:22.15
農民だらけだなこうして見てみると

ここまで見た
  • 865
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  • 2014/08/27(水) 21:26:46.93
他スレからの引用ですが、

「エミシ」という言葉が、はっきりと「エミシ」と訓むべき言葉として出るのは、
『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年十月の条に載る久米歌の中においてである。

資料1.
  愛瀰詩(えみし)烏(を) 毘ダ利(ひだり) 毛々那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

訓読
  えみしを 一人(ひだり) 百(もも)な人(ひと) 人(ひと)は云(い) へども 抵抗(たむかひ)もせず  (岩波古典文学大系本による)


この 「毛々那比苔(ももなひと)」こそ毛野のことで、毛野とは、たくさんの原住民が住む野という意味でしょう。
毛野以外に「百(もも)」、「諸(もろ)」などの字があてられていると思われます。

御諸別(豊城入彦の孫)、三諸(三輪山)、 三毳山(佐野市)・・などは毛野氏との関連がうかがえます。

ここまで見た
  • 866
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  • 2014/08/27(水) 22:32:55.29
>>843 >>847 >>847
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

調べてみたら
ってこれをコピペするお前はバカ丸出しw

ここまで見た
  • 867
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  • 2014/08/27(水) 22:52:23.64
>>866
>>844は当たらずしも遠からずだと思います。
実際、利根川より北側には古墳も埴輪窯もほとんどありません。
なぜこうなったかと言えば、首狩り族が住んでいたからです。
伊勢崎市の退魔寺には、石田三成の妖怪退治の伝説が残っているほどです。

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  • 868
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  • 2014/08/27(水) 22:57:14.46
バクモンで日光東照宮をやっているけれど、
日光に敗れた赤城の大ムカデと言うのが、首狩り族の象徴です。

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  • 869
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  • 2014/08/27(水) 23:55:03.33
>>867
そう思います。
那須国や下野北中部では首狩り族のみならず族達の人肉食いの習慣が
あったそうです。
北中部部の土地は荒地で干ばつも酷く首狩り・人肉食いが習慣化されいたそうです。
気候の変動などなどに伴い那須国の人肉食い人種が上野国に流れていったそうです。

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  • 870
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  • 2014/08/27(水) 23:55:39.69
推奨NGワード=「那須」

ここまで見た
  • 871
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  • 2014/08/28(木) 07:52:23.72
>実際、利根川より北側には古墳も埴輪窯もほとんどありません。

妄想オナニーばっかすんなよw

ここまで見た
  • 872
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  • 2014/08/28(木) 19:19:18.79
しかも自演

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  • 873
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  • 2014/08/28(木) 20:40:08.77
>>871間違えた。
>>867は、
X 実際、利根川より北側には古墳も埴輪窯もほとんどありません。
○ 実際、渡良瀬川より北側には古墳も埴輪窯もほとんどありません。
これで完璧。

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  • 874
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  • 2014/08/28(木) 21:21:27.86
まあムカデとヘビしかいない地域だしな。

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  • 875
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  • 2014/08/28(木) 22:31:43.11
毛野とは、沢山の一年草や多年草が繁茂している野であるということはないでしょうか。 ?
現在でも二毛作という言葉があります。 植物関連の言葉という気がするのです。

ここまで見た
  • 876
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  • 2014/08/28(木) 22:49:18.37
871
なめんなよ
サル、シカ、クマ、イノシシ、タヌキ、キツネ、モモンガ、フクロウ、キジ、
いるぞ
江戸時代はイノシシ狩りもやってたしイノシシやクマの頭骨はでてきている

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  • 877
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  • 2014/08/28(木) 22:52:46.35
山椒魚だって昔はいたわ
あの小さい手足が生えているやつ
これも時期によっちゃ食料だわ

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  • 878
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  • 2014/08/28(木) 22:54:29.17
タヌキ鍋なんてのも普通にあったわ

ここまで見た
  • 879
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  • 2014/08/28(木) 23:08:26.54
熊がいっぱいいっから熊谷って地名つけたんだべ?
おめら、群馬の首狩り族の様に、 原始「日本刀」,即ち「蕨手刀」1本だけで熊と戦えるの毛?

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  • 880
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  • 2014/08/29(金) 09:04:48.75
>>873

利根川と渡良瀬川を知らない上に、

>実際、渡良瀬川より北側には古墳も埴輪窯もほとんどありません。
妄想加速してんなw

恥の上塗りバカ丸出しw

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  • 881
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  • 2014/08/29(金) 09:05:57.94
「熊の胆」という薬を広めたのは熊谷の人々ではあるまい。周辺は能無しの集まりか。

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  • 882
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  • 2014/08/29(金) 22:48:39.43
そういや、数年前の東国スレで、
毛野には多くの領民を養うに足るタンパク質供給源が存在しない。
せいぜい渡瀬遊水池があるくらいだがあんなものでは大勢の人間を養うには全然こと足りない。
その点が江戸湾や太平洋を要する南関東と違う、従って毛野が大国であった等有り得ない。
という論旨を展開するコテがいたな。
それなりに筋が通った論理展開だったと思う。

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  • 883
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  • 2014/08/29(金) 23:56:27.92
>>880煽ってるおまえもバカっぽい。見てて恥ずかしい。
もう来ない方がいいよ。

ここまで見た
  • 884
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  • 2014/08/30(土) 00:37:21.57
>>882
縄文時代は、関東は海の底。毛野国に海岸線があったんだよ。
その後、海岸線は遠くなったが、魚は塩漬けにして運べばいいだろ。

ここまで見た
  • 885
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  • 2014/08/30(土) 01:51:57.85
つーか内陸民に塩製品を交易用途として加工して運ぶから沿海部で巨大な貝塚ができるほどの加工が行われたんだけどね。

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  • 886
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  • 2014/08/30(土) 02:09:46.27
wikiより
渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)は、
足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に
渡良瀬川下流に作られた遊水池である。
着工年/竣工年 1905年/1989年

古代には存在しないな

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  • 887
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  • 2014/08/30(土) 02:42:18.91
谷中遊水池

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  • 888
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  • 2014/08/30(土) 07:11:11.66
上野は、武蔵や下野の銅(下野はかなり後)に負けた。

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  • 889
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  • 2014/08/30(土) 07:32:56.50
縄文時代後期は寒冷化に伴う環境の変化により、木の実、動物などの食料が減少した時代である。
さらに東京、神奈川一帯では箱根山の噴火や富士山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、それに伴い急激な人口減少が起きている。
そのため東京、神奈川では縄文時代晩期の遺跡はほとんど見当たらない。
その際、寒冷化に伴う食料資源の減少が少ない海産物を中心に食料の確保をしたため、この貝塚ができたとされる。
その頃、海産物や塩、黒曜石のナイフ、鏃や釣り針などの道具を海岸に住む海人から調達し、山人の持つ穀物や毛皮等と物々交換し、濡れ手に泡の利益をあげていたののが、後に毛野と呼ばれることになる勢力。毛野は古代東国の総合商社だ。

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  • 890
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  • 2014/08/30(土) 07:41:04.45
群馬県は熊谷県だったんだな。

熊谷県:
現在の埼玉県の大半、群馬県のほぼ全域にあたる

熊谷が空襲を受けたのはこのとばっちり=古い地図を見てでかい県の中心だとアメリカで勘違いされた。

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  • 891
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  • 2014/08/30(土) 08:05:32.94
関東平野は弥生時代をすっ飛ばして古墳時代になったとはよく言われるな

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  • 892
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  • 2014/08/30(土) 08:13:27.96
>>885
その交易相手の
>内陸民
とは海岸(荒川河口)からのルート及び距離からいって毛野ではなくて、北武蔵勢力のことではないのか?
北武蔵勢力は毛野を倒すにほどに力があったわけだし。

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  • 893
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  • 2014/08/30(土) 08:41:35.17
海人になったつもりで一度、帆立船で荒川を遡上してみてくれ。

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  • 894
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  • 2014/08/30(土) 09:15:30.94
自分は系譜上は紛れもなく海人族(和邇族)の血を引いているんだが海は苦手だw

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  • 895
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  • 2014/08/30(土) 09:42:23.20
海賊のメッカは瀬戸内。 古代東国の総合商社とは、山賊の巣窟という意味か。 まあ伊勢商人の源とは、とても思えないわな。

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  • 896
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  • 2014/08/30(土) 09:45:57.17
瀬戸内海はたいした難所もないド素人向けの海だよね。

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  • 897
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  • 2014/08/30(土) 09:47:00.03
日本近海沿岸高校の最大の難所は鹿島灘だから。

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  • 898
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  • 2014/08/30(土) 09:48:12.15
試しに鳴門の渦潮で泳いでみてくれ。

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  • 899
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  • 2014/08/30(土) 09:54:59.78
じゃあ短頭絶壁のお前は黒潮に逆らって泳いでみろ。

砂時計アラームタイマー
フリックラーニング
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