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  • 2014/08/26(火) 15:08:38.81
ある古代の農業用水路について
現在ではコンクリートで覆われて現物は残っていない。調査研究をしている郷土史家や出来損ないの社会科教師もいない。よって代わりに私が説明する。私も調査などしていない。
記憶だけが頼りである。暇な方は憤慨しないで読んで下さい。 まず下準備として地理院の地図を開いてください。拡大して栃木県那須郡那珂川町の東部の方にもっていきますと、
入郷川があります。川の北端にある丸いものは農業用の入郷溜です。溜から約600メーター南に農業用水路の水口がありました。ここからは人工の工作物になります。並行して
赤道(道路)がありました。途中で沢水を取り込み(T字)、約100Mで小さな沢に交差します。ここに木製のU字溝があったと思われます、昭和の初め頃までは水車小屋もあり、
小麦やそばを挽いていたそうですが開始時期は不明です。溜池はヒシ(菱)で覆われていましたからヒシも挽いていたかもしれません。木製U字溝が沢を越えた先には再度手掘り
の水路となり少し先の水田に注がれていました。純粋な意味での用水路はここまでです。後は緩やかな棚田形式で水は下流に流れます。少し行きますと、また沢に交差します。二
つ目の最初のものよりも、やや長いU字溝があったと思われます。そしてまた棚田形式で水は流れて最後に入郷川に戻ります。総延長約1.2キロ、これでも一応は農業用水路では
ないでしょうか。溜池とセットになっいる所に由緒正しさを感じないでしょか。 溜池は、あくまで緊急時用で滅多にぶち抜くことはありません。十年か二十年に一度になります。
何時できたかですが那須十二郷の成立は奈良時代までということで確定していますから広く見て飛鳥・奈良・平安時代になるでしょう。
実際に造った人は、溜池については村人総出、農業用水路については初めの水利権者になるのではないでしょうか。これは現在の管理状況から類推できます。 指導者は那須氏と、
そのもとで働く日本人や新羅系渡来人の技術に明るい人になるでしょう。 木製のU字溝を造る大工か船大工はいたことに期待します。入郷川はその後に盛谷川→大内川→武茂川
そして那珂川となって太平洋に注がれます。

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