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- 2
- 2015/01/04(日) 03:30:35.44
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うんこちんちん
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- 3
- 2015/01/04(日) 05:10:01.27
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どうせ生産的な活動がどういうものかもわかってないんだろう
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- 4
- 2015/01/04(日) 22:55:45.56
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ニートで精神科受診のお方が言うと説得力あるけど、逃げに芸術を使ってない人もたくさんいるんだよ。家から出ないバカには分からんだろうけど。
100年に一度の芸術家だとか自演までして宣伝してたよなwww
おまえに芸術を語る資格なし。
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- 5
- 2015/01/05(月) 14:46:31.60
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時代に即応できる障害者が増えただけ
それが>>1の芸術だったんだな
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- 6
- 2015/01/05(月) 16:56:40.30
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実際は売れない奴が言い訳に使うことが多いね(´・ω・`)
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- 7
- 2015/01/05(月) 21:32:40.12
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50円でも一枚も売れなかった>>1の言い訳
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- 8
- 2015/01/06(火) 06:04:04.85
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>>1
エロ動画でもみて
きもちいい〜とか言ってればいいだけの人生
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- 9
- 2015/01/06(火) 13:48:05.93
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価値基準の逆転がおきた。
フランスでいえばルイ王が追放されるまでは、絵画は知識人などといった
高等な人がたしなむ文化だった。しかしナポレオン以後、絵画は大衆の
機嫌をとるための金もうけの道具になってしまった。貧乏画家の最低限の
生活のためじゃなく、金もうけのためだ。
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- 10
- 2015/01/06(火) 13:50:41.85
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王やその取り巻きの高等な知識人が下野し、あるいは野に隠れ、
美術、音楽、物語といった文化は「大衆」という架空の、しかし
もっとも多くの人間に好まれるように変質をせまられた。
国王自身はどうかしらないが、その近辺にいる者はたいていは、
大抵は、教養のある知識人である。彼らが見入る美術は相当な
高度なものであった。だが大衆相手では・・
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- 11
- 2015/01/06(火) 13:52:30.16
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フランスの大革命の後、宮廷料理人もまた引きずりおろされ命と生活の代わりに
料理をふるまわねばならなかった。それが今われわれがフランス料理と呼ばわっている
調理方法である。ちなみに支那では辛亥革命後におなじく宮廷料理が下野し、
伝わった。それが今の中華料理である。
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- 12
- 2015/01/06(火) 13:57:27.79
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何が言いたいのかと言うと
芸術には二つの種類があるということ。
一つは高度な感性と教養をもった人に喜ばれるもの。
いま一つはその時々の最大多数の者に喜ばれるもの。
芸術家を志す以上、彼らはこの二つのうちのどちらか一つを求道するであろうと
思われる。しかし現在は君主がおらぬ。どいつもこいつも金貸しや金持ちの
言いなりで、君子が見当たらぬ。ゆえに高度な芸能を見に付けた人達は
必要最低限の糊口をぬぐうこともできず、世をさ迷うばかり、宝の持ち腐れも
いいところ。それが本当に才能がある限り。
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- 13
- 2015/01/06(火) 14:01:51.81
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よって現在の芸術と言えばテレビで見あきたような顔ばかりが羅列される
こととなる・・日本画などを極めた者はさぞかし居づらいでしょうね。変な
恰好をして現代アートなるものの主催者としてなにかありがたい物でも作ってると、
大衆に勘違いさせて金を取るのが関の山ではないのか。
絵を描いても見せる者がいない。
そんな時代なんだろう。それが勘違いや自尊自大でなく
ほんとうに才能がある者にとっては。
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- 14
- 2015/01/06(火) 22:10:01.00
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あなたが拝め奉る「ほんとうの才能」とは、一体どこのだれが判断できるものなのでしょうか?
判断基準は、あなた自身の好みですか?それとも芸術の世界には、それを判断できる神様のようなものでも存在すると、信じていらっしゃるのでしょうか?
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- 15
- 2015/01/06(火) 22:44:57.01
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下らん
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- 16
- 2015/01/07(水) 08:04:18.08
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科学の成果と同じだよ。
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- 17
- 2015/01/07(水) 14:38:25.01
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芸術とは時代に媚びるものではなく、自分自身がより人間的に生きたいと望む精神から生まれるもの。まずは自分との戦いから始まり、生きる糧を得る手段は人それぞれ。
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- 18
- 2015/01/08(木) 13:10:02.41
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芸術とは云々言うのがすでに陳腐で押し付けでしかない。
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- 19
- 2015/01/08(木) 21:31:02.23
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>>18
押し付けがましかったのなら申し訳ない。
私はそう考え制作に励んでいます。
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- 20
- 2015/01/10(土) 01:08:28.85
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逃げも攻めも当てはまる。
とある「ここ」から逃げるということは、別の「ここ」で新たに戦う、攻めると同義だ。
あと、日本文化としての「型」の概念とは違うが、
>>12
の「高度な感性と教養」を必要とする芸術は一つの型だと思う。
ここでいう感性とは、訓練できる目利き、教養とは言葉通り「当時の貴族社会で必要とされた一般教養」
の域を出ていない。そこではそれがわからないと優等生とは言われなかったわけだ。
それらを価値があるものとして大事に守るのを反対はしない。個人的にはむしろ共感するな。
しかしながら、「本当の才能」とやらが何を指しているかによって、「高度な感性と教養」の話は関係が
なくなるぞ。
二つに分けて芸術を語ってたが、それは上下関係ではなくジャンルの違いでしかないんじゃないか?
自己評価だけでいいならそれもいい。でももし多少なりとも社会性を意識した話であるなら、どちらを選択
しても認められるから「本当の才能」と評価するのが筋かなと。
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