【平等主義の欺瞞】 人間は平等ではない [sc](★0)
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- 2011/02/17(木) 17:49:23
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革新思想のルーツに平等主義があるが、機会にせよ結果にせよ平等な社会などはありえない。
平等を大義名分に革新派が行ったのは略奪、虐殺、弾圧だけであるが日本はお国柄か革新派は勿論、
保守派までもが欺瞞的な平等主義に毒されている輩が多い。
平等主義者の価値観として階層否定、階級闘争、労働信仰、努力信仰、才能信仰、人間性善説、
理性至上などが上げられるが根底にあるのは他者への嫉妬だ。
こういう欺瞞的な平等主義者は現実よりも理想を重視する。
階級社会こそが人間社会の本質であり、資本主義社会は資本家中心の社会であるという現実を直視できない
哀れな御仁である。
こういった危険な革新派に対抗するために、日本の保守派が洗脳を解きグローバルスタンダードに舵を切れば、
階層肯定、階級友好、拝金信仰、血筋信仰、運信仰、人間性悪説、欲望至上といったな本来の保守派の
価値観が身についてくるであろう。
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- 聖徳太子
- 2012/08/22(水) 20:05:29.25
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「妙法蓮華経」という経典は、思うに、さとりに向かうあらゆる善をおさめとって、これをさ
とりを得るための一因となす実り豊かな田地であり、限りある寿命を永遠の生命に転ずる不死の
妙薬である。
釈迦如来がこの人間世界に出現された意義を述べるならば、まさしく、人びとにこの「妙法蓮
華経」を説いて、あらゆる善がさとりの一因に帰するという道理を身につけ、無二の大いなる仏
果を得させようと願われたからである。
しかしながら、人びとが過去世から積んできた善は微々たるものであり、かれらの心は無知で
あり、能力も愚かで劣り、五つのけがれがすぐれた教えを信ずる人となることを妨げ、六つの心
の覆いが智慧の眼を覆っているから、これらの人びとは、直接、一乗教の説くところの因果の大
理を聞く能力がないのである。それゆえに、釈迦如来は時宣にかなって、まず最初に、鹿野苑
(ミガダーヤ。現在のサールナート)において、声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えをそれぞれ説き、人
びとの求めに応じた教えによってかれらにさとりを得させたのである。それ以来、如来は無相の
理を説いて、すべての人びとがこれを修めるようにすすめるとともに、ときにはまた中道を説
いて、それぞれの人を指導したのであるが、それでもなお各自の能力を考えて、三乗の教えによ
って仏果を得ることを説いて、人びとを仏道に入れるべく養育してこられたのである。
その結果、人びとは年月を経過するにしたがって、仏の教えを受けて修行したから、しだいに
かれらの了解が深まって、如来が王舎城(ラージャグリハ。釈尊当時のマガダ国の首都)で説法した
もうたとき、一大乗の教えを聞くに適する心を起すにいたり、ここではじめて、如来がこの世
に出現したもうた大いなるみこころにかなうこととなった。そこで、如来はあらゆる徳性を具え
た身体を動かし、みずから口を開いて、あらゆる善がさとりの一果に帰するという理<万善同帰
の理>を説き明かし、もって無二の大いなる仏果<莫ニの大果>を人びとに体得させられたのであ
る。
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- 聖徳太子
- 2012/08/22(水) 20:05:59.95
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「妙法」というのは、原語で薩達磨(サッダルマ)という。そのうち、「妙」というのは、粗雑を
絶ったという意味のことばであり、「法」というのは、この経に説くところの、あらゆる善が一
因となってさとりの一果を得る教えのことである。すなわち、この経に説く一因によって一果を
得るという一乗の教えは、かつてその昔に、さとりの因と果に関して粗雑なものを説いたところ
の、声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えに比べて、はるかに超えてすぐれているから、「妙」と呼ぶ
のである。
「蓮華」というのは、原語で分?利(プンダリーカ)という。この花の性質は、花と実が同時に
実ることである。そのように、この経も原因と結果が同時に成立することを明らかにしており、
それは蓮の花と同じ意味をもっているから、蓮華が譬えに用いられているのである。
「経」というのは聖教の一般的な名称であり、仏のことばをたたえる呼称である。しかしながら、
「経」というのは漢語であって、原語は修多羅(スートラ)という。「経」の意味は、「法」または
「常」という。聖人の教えというものは、時代や民俗がどんなに移り変わっても、また賢人がつ
ぎつぎと世に出ても、その教えの是非を改めることができないから、、「常」といい、人びとにと
って守るべき軌範となるものであるから「法」という。
ところで、経典の題目というものは、名づけられた理由が必ずしも同じではない。ある経典は
ただ単に教理を題名としたり、また単に譬えを題名としたりしている。ある経典は教理と譬えを
ならべて題名とするものもあり、ただ単に人名を題名とするものもあり、また人名と教理をなら
べて題名としているものもある。いま、この経は上に「妙法」といって「法」をとり挙げ、下に
「蓮華」といって、「譬え」をとり挙げている。そして、「法」と「譬え」を二つならべて題名と
するから「妙法蓮華」というのである。この題名の原語を完全に記すならば、薩達磨分?利修多
羅(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)というべきである。
聖徳太子著 法華義琉より
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- ニーチェ
- 2012/08/22(水) 20:07:01.02
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仏教の素晴らしいところ
さて、これまで私はキリスト教の問題点をあげ、それが最悪の宗教であることを説明して
まいりました。それでは他の宗教について私がどう考えているのか、これも大事なことなの
で、きちんとお話ししておきましょう。
ご存じのように、仏教という宗教があります。仏教もキリスト教に負けず劣らずたくさん
の信者がおります。仏教というと、キリスト教とはまったく違う宗教というイメージがある
ようですが、実は両方とも同じようなニヒリズムの宗教なのです。
しかし、仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。
仏教のよいところは、「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っていることです。
これは、仏教が何百年と続いた哲学運動の後に現れたものだからでしょう。インドで仏教が
誕生したときには、「神」という考えは、すでに教えの中から取り除かれていたのです。
そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教
と言っていいでしょう。
彼らは本当に現実的に世の中を見ています。仏教では「罪に対する闘い」などとキリスト
教のようなことを言いません。現実をきちんと見て、「苦しみに対する闘い」を主張するの
です。
仏教では、「道徳」という考えは自分をダマすことにすぎないと、すでにわかっているの
ですね。
ここが仏教とキリスト教の大きく違うところです。
これは私の言い方なのですが、仏教という宗教は「善悪の彼岸」に立っているのです。
つまり、善や悪というものから遠く離れた場所に存在している。
それは仏教の態度を見れば明らかです。
仏教が注意しているのは、次の二つです。一つは、感受性をあまりにも敏感にするとい
うこと。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、苦しみを受けやすくなってしまうからです。
そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的なものとして考えたり、難しい概念を使ったり、
論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること。そうすると、人間は人格的にお
かしくなっていくのです。
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- ニーチェ
- 2012/08/22(水) 20:07:31.67
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読者の皆さんも「自分も思い当たるな」とか「ああ、あいつのことだな」とすぐにイメー
ジできるのではないでしょうか。
仏教を開いたブッダはそういったものを警戒して、フラフラと旅に出て野外で生活するこ
とを選びました。ブッダは食事にあまりお金をかけませんでした。お酒にも用心しました。
欲望も警戒しました。また、ブッダは自分にも他人にも決して気づかいしなかった。
要するにブッダは、いろいろな想念に注意していたわけです。
ブッダは心を平静にする、または晴れやかにする想念だけを求めました。
ブッダは、「善意」とは、人間の健康をよくするものだと考えたのです。そして神に祈る
ことや、欲望を抑え込むことを教えの中から取り除きました。
仏教では、強い命令や断定を下したり、教えを強制的に受け入れさせることはありませ
ん。なにしろ、一度出家して仏の道に入った人でも「還俗」といって再び一般の社会に戻る
ことができるくらいですから。
ブッダが心配していたことは、祈りや禁欲、強制や命令といったものが、人間の感覚ばか
りを敏感にするということでした。
仏教徒はたとえ考え方が違う人がいても攻撃しようとは思いません。ブッダは恨みつらみ
による復讐の感情を戒めたのです。
「敵対によって敵対は終わらず」とは、ブッダが残した感動的な言葉です。
ブッダの言うことはもっともなこと。キリスト教の土台となっている「恨み」や「復讐」
といった考えは、健康的なものではありません。
今の世の中では、「客観性」という言葉はよい意味で使われ「利己主義」という言葉は悪
い意味で使われています。
しかし、「客観性」があまりにも大きくなってしまい、「個人的なものの味方」が弱くなっ
てしまうのは問題です。また「利己主義」が否定され続けると、人間はそのうち精神的に
退屈になってくるものです。
こういった問題に対して、ブッダは「利己主義は人間の義務である」と説きました。要す
るに、問題を個人に引き寄せて考えよう、と言ったわけです。
あの有名なソクラテスも、実は同じような考え方をしています。ソクラテスは人間の持っ
ている利己主義を道徳へと高めようとした哲学者なのです。
ニーチェ著アンチキリストより
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- ニーチェ
- 2012/08/23(木) 20:21:58.90
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平等主義は悪魔の思想
私がこれまでお話ししてきた「聖なるウソ」の目的は、民族を無意識にすることでした。
身分階級の秩序、最高の法、支配する法といったものは、人間がなにも手を加えてい
ない本当の自然の秩序、自然の法則性をただ認めたものです。近代的な理念では、
それらを左右することはできません。
健全な社会であれば、人間は自然と三つの異なるタイプに分かれます。
精神がすぐれている人、筋肉や気性が強い人、そしてそれ以外の凡人。
もっとも凡人が大多数ですね。それ以外の選ばれたエリートは、ごく少数だと思います。
この少数者は、高貴な者の特権を持っています。その特権には、「幸福」や「美」「善意」な
どを地上に実現させることが含まれてます。
また、精神的な人間たちには、美しいものを味わうことが許されています。彼らにおいては、
「善意」は弱さとはならないのですね。
美しいものは、少数者のものです。
だから、「善意」も一つの特権なのです。
汚い手を使ったり、ものごとを悲観的に眺めたりする。ものごとを醜くとられる眼。あるいは、
ものごとの全体像に対して、むやみに腹を立てる。そういうのは下層民の特権です。
「世界は完全である」ともっとも精神的な者の本能は言います。不完全なものやレベルの低い
ものも世の中にはたくさんありますが、そういうものを全部含めたうえで、完全だと言うのです。
もっとも精神的な人間は、強者の自覚を持っています。それなので、他人が「もうダメだ。」と
言いだすところに、迷路の中に、厳しい人間関係の中に、そしてものごとを試してみることの中
に、自分の幸福を見つけます。
彼らは自制を求めます。
精神的な人間は、我慢することを自分の本能とする。そのような重い課題を彼らは特権とみ
なすのですね。そして、弱い人間だったら圧しつぶされてしまうと感じるような重荷を、もてあそ
ぶのです。
精神的な人間は敬われるべきですが、同時に彼らは快活で、愛すべき人間でもあります。
彼らは支配を行いますが、彼らがそうしたいのではなくて、彼らの存在がそもそもそうなのです。
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- ニーチェ
- 2012/08/23(木) 20:23:04.93
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彼らは、「二番目の人」に成り下がることはできません。「二番目の人」とは、もっとも精神的な人
の近くにいて、支配を行うときのゴタゴタした面倒くさい問題を引き受ける人のことです。要するに彼
らは、もっとも精神的な人の右腕となって働いているわけですね。
このように、人間が区別されているのは自然なことです。
これは、人間が意識的に作った制度ではありません。
もし例外があるとしたら、人間が生きていくうえで、一番上にくる法則です。
人間を三種類の階層に分けることは、社会を維持していくために、よりよい形に高めていくために
必要なのです。
権利の不平等こそ、権利があることの条件です。
権利は特権なのです。
もちろんそれぞれの人には、それぞれの特権があるはずです。
平凡な人にも特権があります。そして、もっとも精神的な者たちは、そういった平凡な人が持ってい
る特権を見くびることはありません。
なぜなら、高い場所を目指す生き方というのは、上に行くにつれ冷気が増し、責任が重くなっていく
からです。
要するに、高い文化とはピラミッドのようなもので、広い地盤の上にのみ築くことができるのですね。
だから、大勢の平凡な人たちの存在が大切なのです。
手工業、商業、農業、学問、芸術といった仕事の大部分は、ほどほどの能力とほどほどの欲望によ
って成り立っています。それは、貴族主義とも無政府主義とも関係がないものでしょう。
人が、公共の利益のために一つの歯車として働くことは、ごく自然なことです。
彼らを歯車として働かせているのは、社会ではありません。単純に「自分には何かをする能力がある
と感じる幸福感」がそうさせているのです。平凡な人にとっては、平凡であることが一つの幸福なのです
ね。
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- ニーチェ
- 2012/08/23(木) 20:23:39.97
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一つの能力によって専門的な仕事をするのが、人間の自然な本能です。高い文化はこういった平凡さ
の存在を条件としています。だから、平凡な人をバカにしてはダメなのです。
例外的な人間が平凡な人間を、思いやりを持って大切に扱うのは、単なるマナーの問題ではありませ
ん。それは、一言で言えば例外的人間の義務です。
世の中にはみすぼらしくていやらしい人間がたくさんいます。
その中でも一番下等なのは社会主義者でしょう。
仕事に対する意欲、働く楽しみ、仕事を成し遂げたときの満足感。それらに対し、いやらしい悪意を持っ
て攻撃するのが、社会主義者という名の下層民です。
不正は決して権利の不平等にあるのではありません。
不正は権利の「平等」を要求することにあるのです。
これまで言ってきましたように、「弱さ」「嫉妬」「復讐」から、劣悪なものは生まれます。
無政府主義者とキリスト教徒は、結局同じ穴のムジナなのですね。
ニーチェ著アンチキリストより
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- 2012/09/08(土) 20:20:47.43
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- 2012/09/15(土) 12:04:28.65
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「結婚はすべての人のもの」とほざいた、
ゼクシィのCMを制作したリクルート社員は ばかぁ?
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- 2012/09/15(土) 13:52:51.63
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日本人は人権、自由、平等、博愛、寛容、自然法、自然権、法治主義、個人主義といった西欧近代思想が嫌いで嫌いで仕方ないんだろうな。
しかし、日本人は西欧近代思想というものを論理的に否定することなどできない。
仕方がないのから、無理やり西欧近代思想とソ連型共産主義や左翼全体主義を同一視しようとするんだよな。
しかし実際には、日本人のほうが西欧人よりもソ連型共産主義的性質や左翼全体主義的性質が強い。
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- 100
- 2012/09/20(木) 21:31:03.86
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日本が好きなのは「調和」だよな
平等も自由も調和で宥めようとするからジャッジが難しくなる
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- 2012/09/20(木) 23:23:57.36
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◆ついに景気後退か、正念場の日本経済
日本経済の停滞感が強まってきた。海外経済の減速や国内の政策効果の一巡などが
原因である。「2009年4月に始まった景気の回復局面が途切れ、12年4月から後退局
面に入ったのではないか」。民間エコノミストの間では、そんな見方も浮上してい
る。日銀が追加金融緩和に動いたのも、景気下振れへの危機感からだろう。
http://mxt.nikkei.com/?4_6368_11074_1
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- 102
- 2012/09/22(土) 10:02:48.17
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何かスレタイに納得いかないんだが
機会の平等を目指す事自体は何も悪くない
安易に平等を口にする連中の言い分が
「逆に不平等」だから問題なんだろ
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- 103
- 2012/10/06(土) 08:51:06.10
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調和=平等だろ
和を持って尊しとするという価値観は仏教的な平等思想に根ざしたもの
そうして平等を実現するには自由を限定的な物にしなければならなくなる
そして完全な平等を実現するのは不可能だから
比較的平等な傾向が強いという状況を維持するだけなのが好ましい
自由と平等は相互矛盾をはらんでいて両立するのは不可能
自由を追求すれば他人の平等を脅かさねばならなくなるし
他人の平等を尊重すれば自分の自由を自制しなければならないから
白人国家においては自由を採用して平等を無視する傾向が強いわけだけど
(ドイツにおいては精神基軸が自由、正義、統一で平等は基軸になっていないし)
(フランスにおいては自由と平等は矛盾してて両立できないから自由を重視しようってサルコジが言ってた)
日本では逆に平等の為に自由を無視する傾向が強いのは確かだな。
調和=平等って事もわからないチョンはバカ過ぎて話しにならないけどね
だいたい日本は法治国家で順法精神を重視してるし
法治主義が嫌いなのは人治主義の特亜の方だ
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- 104
- 2012/10/06(土) 09:00:27.29
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まあ自由より平等重視っていうのは共産主義の典型だな
そして労働格差は少ないけど労働環境は劣悪だ。
有給休暇があっても和を乱すのは平等を損ねてよくないという理由で
誰も有給休暇で休もうとしない
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- 105
- 2012/10/06(土) 19:43:10.77
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>>103
調和=平等ってのは「曖昧」なんだよ
調和ってのは本当に全ての人が納得済みなのか?
実は特定の誰かが無理をしてるんじゃないのか?
そこを精査せずに「上手くいってるからいいか」
ってやってるのが、従来の日本的調和概念で
そこに散々ツッコまれてきたのが近年なんだよ
俺も日本的調和思想は好きだよ、日本人だし
けど今後は、裏付けによる理論武装は必至だろうな
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- 106
- 2013/12/16(月) 20:14:51.21
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私たちの目・耳・口をふさぐ秘密保全法案:清水雅彦 - 法学館憲法研究所
http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20120723.html
カジノ議連の主な顔ぶれwwww法案成立は確実
http://www.log-channel.net/bbs/poverty/1382942111/
「 東 日 本 大 震 災 で 亡 く な っ た 人 達 の “ 遺 体 " で 裏 ガ ネ を 作 っ て い た 警 察 3 万 体 9 0 0 0 万 円 」
http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2011/04/post-9f7c.html
4月25日発売の写真週刊誌『フラッシュ』(5月10・17日合併号)が、大スクープしている。
http://www.amazon.co.jp/FLASH-(フラッシュ)-2011年-5月10-17日合併号-光文社/dpB00B7E7N76
東日本大震災で亡くなった方の遺体の検案(「変死体」扱いのため、警察が検視し、
医師が死因を決定する検案を行う)で、医師に遺体1体につき3000円払ったことにして、裏ガネを作っているというのだ。
この記事を書いたのは、本紙でもお馴染みのジャーナリスト仲間の寺澤有氏だ。
以前から、記者クラブ制度の問題もそうだが、警察の裏ガネ作りについても精力的に取材している。
寺澤氏は6年以上前、会計検査院に警視庁会計文書について情報公開請求し、入手した約38万枚を分析。
その過程で検案における裏ガネ作りの可能性に気づいていたが、被災地を取材した際、
実際に検案した医師の証言を得ることができ、今回のスクープに結実した。警察庁は1体に3000円払うといっているのに、
今回記事に登場した医師は約20体検案したが、一銭ももらってなければ、今後、もらう予定もないと証言したからだ。
従来の警察の裏ガネ作りといえば、捜査協力への謝礼の架空計上が真っ先に思い浮かぶが、いくら何でも遺体の検案、
それも未曽有の大震災におけるもので、未だ関係者は大きな心の傷を負っていることを思えば、
さすがに警察に対してこれまでにない反発の声が挙がってもおかしくない。
それだけに、警察はこの記事に対し、いつも以上に過剰に反応をしたようだ。 2011年4月30日掲載。
寺澤有のホームページ「インシデンツ」 http://www.incidents.jp/profile.html
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