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  • 1
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  • 2009/02/21(土) 01:17:21
前スレ
クリシュナムルティと共に
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1194895603/

前前スレ
クリシュナムルティとか・・・・・・
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1180782879/

前前前スレ
クリシュナムルティと・・・・
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1164713902/

ここまで見た
  • 800
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  • 2013/03/27(水) 07:06:22.08
>>797
思考を観察していると、観察していることさえいつのまにか忘れて、怒涛のごとく溢れている状態になっていることに気づきますね。
普段からこういう状態なんでしょう。
今年から瞑想を始めて、最近は肩の力がよく抜けるようになりました。

ここまで見た
  • 801
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  • 2013/03/27(水) 08:15:28.83
>>800
思考は概念であり、言語ですが、思考を観察しているとそのうち概念以前の動きに気づけます。
ここで思考との同一化が外れます。
確かクリもこれに言及していましたね。

瞑想は良いレッスンになります。
要は一切何もせず、ただ全面的に感受することです。
つまり全ての抵抗を解除することです。
実はこの抵抗、つまり心的ディフェンスが「恩寵」を閉ざしているんです。
一切は「恩寵」でしかなく、「恩寵」はいつもあり、ただあるもので、得ることも勝ち取ることも出来ない、
つまり無条件に我々とともにあるのですが、思考との同一化による苦痛、苦悩、心配や後悔、
不安や恐れがこれを塞ぐのです。

これが理解できればクリのみならず、様々な存在が齎すコメントが見えてきます。
クリのコメントも、宇宙人イタコのワクワクも、ほっとするも引き寄せも、指し示すところは同じなのです。

ここまで見た
  • 802
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  • 2013/03/27(水) 08:33:03.17
>>800
あとこれを参考にしてください。>>697

思考を観察すると思考はその動きを和らげるものです。
もし観察していて思考が暴れまわるようなら、それは思考を思考が判断しています。
その時は判断している思考を注視するのです。

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  • 803
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  • 2013/03/27(水) 08:42:19.97
何故観察(注視/意識/気づき)を行うと思考は和らぐのか。
意識することはつまり愛することと同じだからです。
感じることも愛することです。
意識すること、気づくことにより、愛がそれを包括するんです。
判断はそれそのものを癒したり変容させることは出来ません。
癒し、変容させることが出来るのは愛だけです。
ですから安心して観察し、注視し、気づき、意識してください。

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  • 804
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  • 2013/03/27(水) 10:25:06.87
思考の観察って、普通にヴィパッサナ瞑想やん。

カバットジンの本一冊読めば済む。

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  • 805
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  • 2013/03/27(水) 10:26:28.49
エックハルト・トールとかね。そっちのほうがわかりやすい。
クリシュナムルティより親切だし、本人も「教えても無駄だった」とか
くだらないことは言わないでリラックスしてる。

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  • 806
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  • 2013/03/27(水) 10:28:25.78
そういえば、大野純一さんがケン・ウィルバーの本のあとがきで、
エックハルト・トールに言及してたね。
「トーレ」になってたが。

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  • 807
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  • 2013/03/27(水) 10:44:53.45
自分の思考を観察するのに、なぜ××だの○○だのの本が要るのさ?
それ読まないと、観察できないわけ?

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  • 808
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  • 2013/03/27(水) 13:25:10.62
その類の本を読まなかったら思考を観察することにすら気づかなかったし
読めばモチベーションもあがるからな
みんながみんな君のように本も読むことなしに、思考を観察したり瞑想できたりしないんだよ

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  • 809
  •  
  • 2013/03/27(水) 13:32:04.39
俺も本とか読むに決まってんだろ。2chさえ読むってのにw
自己観察って「自己観察すれば、悟りが開けるんだ。よっしゃ、観察するぞぉ」
みたいにできるもんか? 「観察すると○○になって・・・」みたいな
暗示にかかって、歪みのない観察とは程遠い条件付けられた想像に陥るんじゃね?

ここまで見た
  • 810
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  • 2013/03/27(水) 13:48:41.60
人による
人によるということも観察してわかったほうがいいかもね
自分にある尺度で他人を計ろうとしてしまう観念とかね

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  • 811
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  • 2013/03/27(水) 13:59:42.46
思考を観察するっていう時点で思考と観察者が癒着してるんだよな。
思考にまわるエネルギーが全部観察に回ってはじめて限定のない気づきが可能になるんだから、
感覚や思考の元栓の閉め方を教ないで観察観察いうのは教説に不備がある。
自動的に流れがとまると言えば止まるんだが、それって無意識に勘のいい奴がそっと自分の気づかない所で元栓閉めてるだけの話。
止と観を兼備してない教えだと凡人には観察だけじゃ無理だな。

歪むのは感覚と思考であって観察自体は歪まんはず。
ただ観察対象に制限はないのに本の影響で思考を観察すればいいとか限定されてしまう場合はあるかと思う。

ここまで見た
  • 812
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  • 2013/03/27(水) 14:18:00.39
元栓の閉め方教えてくれよ

ここまで見た
  • 813
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  • 2013/03/27(水) 17:19:42.98
オナニーするだろ。
その際にこの世から摩擦刺激が生み出す快感以外なくなるような状態が凡人が唯一到達できてる制感の状態だ。
このような状態をオナニーしないでもってくるのが、止だよ。
一点集中のシャマタ瞑想だ。
何かの対象に集中してる状態では、対象と自分が二つある、
どれだけやっても主体と客体は分裂したままだ。
ある程度対象に集中したら、自分の集中した状態に集中すればいい。

多分それなりに思考の観察してればできてるんだろうが、集中の状態を強烈に身につければ、
エネルギーが思考に行く余裕がなくなる。
そうすれば思考を観察しようとしても思考が浮かばなくなる道理となる。

wikiにだってヴィパッサナ瞑想をする条件は少なくとも初禅に入ってるとある。
しかし初禅は尋と伺つまり思考が残ってる状態だからここら辺で観察すると思考の観察云々になる。

そこからさらに入って二禅になると尋と伺つまり思考が消えた状態だからここら辺でやれば思考の観察云々はナンセンスとなる。

ここまで見た
  • 814
  •  
  • 2013/03/27(水) 18:47:23.05
>>803
ですから安心して・・・
これをKは頑なに言わなかったな。
理由は明白ではあるがスパルタ教師だと思うw

ここまで見た
  • 815
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  • 2013/03/28(木) 00:42:14.61
> 意識すること、気づくことにより、愛がそれを包括するんです。

これ、必ずそうですか? 何か前提がありませんか?

ここまで見た
  • 816
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  • 2013/03/28(木) 02:08:08.04
>>815
やってごらんになれば解る。
試しに今、全身を意識してみてください。
意識を全的に(クリ翻訳表現w)身体に置き、身体を意識し、それとともに居てみる。
そのとき何を感じるか、それが答えです。

ここまで見た
  • 817
  •  
  • 2013/03/28(木) 02:16:57.98
>>812
元栓は今に居ることだ。
今、この瞬間は思考が湧かない。
今、この瞬間から移ろうとき思考が湧く。
それを見てみて。
そこから観察が出来る。

私の場合、思考に巻き込まれてんなぁ、と気づいたときは
いつも先ず今に意識を置くことから始めてるよ。
今に居る方法などないんだが、解らなければ今見えているモノ、
パソコンでも携帯でも何でも良いからそれとともに今に留まることだ。
これは感情でも気分でも身体でもなんでもいい。
それとともに留まれば今に居ることになる。

今と言っても過去未来の間の今ではない。
ずっと今の今だよ。

ここまで見た
  • 818
  •  
  • 2013/03/28(木) 02:47:28.40
>>816
むかしはたしかに意識に愛があったときもあるのだが、今はない。
だからたずねている。

ここまで見た
  • 819
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  • 2013/03/28(木) 02:58:45.59
>>818
愛はあったりなかったりするものではない。
そして意識することや気づきは愛でしかない。
恐らく君の場合は意識するのではなく、判断しているのだろう。

ただこんなことはある。
意識したとき、不快感を覚えることがある。
これはあなたの壁になっている錯覚からくる分離感だ。
虚無感や退屈感、孤独感、憂鬱な感じがそれだ。
ここは敢えてそれを無視するのではなく、寧ろ迎え入れるつもりで
それを感じてみることだよ。
感じることが愛の出番となる。

これらとともにひとつになってただ感じ、共に留まればスポッと穴が開く。
その穴からそれらが崩れ去ってゆく。
この体験でこれらの不快感が「フェイク/ブラフ」つまり実体のないものだということが解る。
そんな虚構から逃げていたのだと気づくことが出来る。
すると俄然自由になる。

ここまで見た
  • 820
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  • 2013/03/28(木) 04:57:36.77
訳者の大野龍一さんが暴露本にショックを受けてたようだが信者さんとしては
どうなの?
http://koledewa.blog57.fc2.com/blog-entry-91.html
たしかに聖者面すると無理が来て、普通の人以上に裏ではおかしなことになっていたり
というのは精神世界ではよく聞く話だし、また元々人格障害があるから一時的に
自我を超越できるという考察も納得行くのだが。
こういう所で一時的にきれい事言う人たちも荒れ狂ったりしてるのに
それは無視してるんだよね?

ここまで見た
  • 821
  •  
  • 2013/03/28(木) 05:07:04.76
>>820
それを最初に紹介したのは私だが、すごく面白かった。
クリシュナムルティが癲癇だったってのはありうるだろうね。
はたまた二重人格だった可能性もある。
私の場合はクリシュナムルティに散々苦しめられたクチなので、ある意味痛快だったよ。
恐らく彼は受信機として存在したのだろう。
しかし全て純粋な受信ではなく、たまに彼のエゴを絡ませていた。
そのエゴが教えを聞く者のエゴを徹底的に攻撃した。
エゴを攻撃するのは常にエゴであることが解ればそれを濾過できるが、
濾過できない場合はそれを真に受ける。
ここが彼のコメントを解りにくくした要因だと見ている。

ここまで見た
  • 822
  •  
  • 2013/03/28(木) 05:14:47.08
いや
その暴露本自体は数年前から知ってる。
こういうのは宗教上の悟った人とかにもあること(ヨガ、禅等)
クリシュナムルティを通して働いた叡智がやはりありそうだとの思いも改めて持ったし
何よりグルや宗教上の権威者にされることを嫌がり、各個人が自立することを促がしていた
クリシュナムルティ本人も喜んでいるんじゃないかと思った。

ここまで見た
  • 823
  •  
  • 2013/03/28(木) 05:23:05.17
>>821
> 恐らく彼は受信機として存在したのだろう。

そうですね。

> しかし全て純粋な受信ではなく、たまに彼のエゴを絡ませていた。
> そのエゴが教えを聞く者のエゴを徹底的に攻撃した。
> エゴを攻撃するのは常にエゴであることが解ればそれを濾過できるが、
> 濾過できない場合はそれを真に受ける。
> ここが彼のコメントを解りにくくした要因だと見ている。

なるほど。
受信機として役割をはたしつつ、ある程度真理と云うものや背景にあるオカルト的なものを
クリシュナムルティもある程度知っているようにも見えますね。

ここまで見た
  • 824
  •  
  • 2013/03/28(木) 05:31:42.21
>>823
あのプロセスって言うヤツ?あれはオカルトですよね普通にw
脳に外科的手術を受けるってところもw
受信チップでも埋められたのかとw

しかしプロセスする時は必ず美しい女性を必要とするってあたりは逆に美しくさえ感じましたよw
うらやましいかぎりです(爆)

ここまで見た
  • 825
  •  
  • 2013/03/28(木) 13:39:44.23
> 恐らく君の場合は意識するのではなく、判断しているのだろう。

では、こう言い換えましょう。以前は「感じる」ことができた、
より正確に言えば何もしないでいるとそれが生じたのに、
いつのまにかそれが生じなくなってしまったようなのです。

ここまで見た
  • 826
  •  
  • 2013/03/28(木) 23:13:56.46
>>825
じゃあこんなことをしてみてくれ。
今PCをシャットダウンする。
携帯なら置く。

そのまま座って何もしないで居る。
そのとき何を感じるかを感じる。
退屈感、焦燥感、孤独感、イライラがあるかもしれない。
感じられるものに名づけることもなくそれらを感じつつ暫く共に居るんだ。
ただ感じることだけに意識を置く。
何も感じないのなら何も感じないことを感じる。
それを感じつつ、それがどんな動きをするかを観察する。
正直に感じるんだ。

精神のエラーチェックだと思えば良い。
不良セクタを修復するのは「感じる」ことを通して行われる。
このとき修復しようなど思う必要は全くない。
このときあなたは全く逃避していない。
徐々にその嫌な感じが変化し、薄れてくる。
暫くすると必ずこう感じるだろう。
「おお、これはイイ!」って。
イイ!と感じるその感じは恩寵のひとつだ。
恩寵はいつもあり、抵抗しなければ自動的に感じられるものだ。

折々にこれをやってみることだよ。

ここまで見た
  • 827
  •  
  • 2013/03/28(木) 23:29:04.77
>>826
いや、それが、上手くいかないようなんだよ。以前にそうなったように、
また「徐々にその嫌な感じが変化し・・・」が起こることを期待してしまう。
多分その期待があるために、それが起こらない、んじゃないかと思う。
変化を起こそうとしたり、期待したりすることは、逃避だから。

ここまで見た
  • 828
  •  
  • 2013/03/28(木) 23:33:39.12
>>827
んじゃあ諦めるか。
いいじゃんもう。

ここまで見た
  • 829
  •  
  • 2013/03/28(木) 23:57:01.52
w

ここまで見た
  • 830
  •  
  • 2013/03/29(金) 00:16:57.36
どの本だか忘れたけど、美しい夕日を見て感動して、
翌日もまた感動したくなって夕日を見に行くと、
その期待が邪魔になって感動できない、みたいな話を
クリシュナムルティも書いてたじゃないですか。
笑いごとじゃないですよ、これ。

ここまで見た
  • 831
  •  
  • 2013/03/29(金) 02:15:35.29
諸行無常、人の心情も固定は出来ないでしょう。


さすがに昨日みた「禁じられた遊び」で今日も泣けるか?

ここまで見た
  • 832
  •  
  • 2013/03/29(金) 09:43:57.63
 毎日ごはん食べても飽きないだろ。だから概ね固定できるよ。

ここまで見た
  • 833
  •  
  • 2013/03/29(金) 13:24:18.40
しばらくの間は、じゃないか?

ここまで見た
  • 834
  •  
  • 2013/03/31(日) 00:09:45.75
思考が真理を探究するが、思考に真理は見出せない。
一方、思考しない動物に真理はない。
結局、真理というものははじめからなくて、思考が真理の探究ごっこをしているだけなのではないか?

ここまで見た
  • 835
  •  
  • 2013/03/31(日) 00:56:01.78
真理というか秩序というものが自然にはあって
思考によって秩序を乱しているだけではないかと思う。

ここまで見た
  • 836
  •  
  • 2013/03/31(日) 01:15:16.07
だけど思考しない人間なんていないよね。
便利な道具だと思えばいいんじゃないの。箸、車、カレンダー、メガネみたいな

ここまで見た
  • 837
  •  
  • 2013/03/31(日) 12:34:06.59
Kの「真理」の使い方は独特だと思う。「真に存在するもの」みたいな感じ。

ここまで見た
  • 838
  • 828
  • 2013/04/02(火) 20:57:39.97
>>827
じゃあのさんじゃないけど言い忘れたw
何とか沈静化しようとするからだね。
沈静化は結果であり目的ではない。
要はその感覚と留まることだけだよ。

このページが参考になるかもしれない。
読み捨ててくれ。
http://www.cwo.zaq.ne.jp/presenceprocesswork/index.html

ここまで見た
  • 839
  •  
  • 2013/04/03(水) 11:33:56.05
人間が「神」という人格神を創造したのと同様に、
我々も「真理」という人格を持たない「神」を創造しているだけではなかろうか。

ここまで見た
  • 840
  •  
  • 2013/04/03(水) 18:52:48.06
「創造しているだけ」
だけとは?
そうではない。本気で創造しているのだ。

ここまで見た
  • 841
  •  
  • 2013/04/04(木) 23:23:45.71
>>838
827じゃないが参考になった。ありがとう。

ここまで見た
  • 842
  •  
  • 2013/04/07(日) 11:21:57.84
>>840
「真理」はすでにあるものであって、人間が創造するものではない。
私が言いたいのは、自我が「神」がいると思っているのと同様、
「真理」なるものがあると思っているだけなのかも知れないということだ。

ここまで見た
  • 843
  •  
  • 2013/04/07(日) 12:45:26.56
「真理」の存在に懐疑的になった今、自分が俗物であることに気づいてしまった。
私は真理を夢見る「俗物」だったのだ。
夢を捨てたらどうにもならない俗物性だけが残った。

ここまで見た
  • 844
  •  
  • 2013/04/07(日) 20:09:44.42
ではなぜ自分が俗物だと判断し気づいている者に気づかないのか?
それもまた俗物なのでしょうか?

ここまで見た
  • 845
  •  
  • 2013/04/07(日) 21:34:50.63
ていうか、真理の対立概念が俗だとするなら、真理がなくなれば俗もなくなるんじゃないか。

しかし不毛な議論だな。
「真理はないのではないか」なんて、まさしく思考の遊びだよ。

ここまで見た
  • 846
  •  
  • 2013/04/09(火) 10:31:32.50
>>845
真理に関する議論は、その有無も含めて全て不毛、思考遊びだ。

ここまで見た
  • 847
  •  
  • 2013/04/09(火) 13:24:04.27
>>844
自分の中が聖なる者と俗なる者に分裂していて、聖なる者が真理を求めている。
だが、私はこの分裂状態自体を奇異に思っていて、
分裂状態を前提にした真理の探求をいくら続けてもなにものにも到達しないのではないかと思っている。

ここまで見た
  • 848
  •  
  • 2013/04/09(火) 19:19:31.77
聖なる者はすでに真理の実現者であって何も欠けるこなく、
何も求めることもなくそれ自体に於いて充ちたりたもののはずです。
聖なる者が真理を求めているのでなく、求めているのは俗なる者なのではないですか?
それは黄金の仏陀像のように真理という名のメッキをかけることを求めているんじゃないですか?
分裂状態は実際にそうなんでしょうが、問題は
真理を求める者、救済を求める者が実は最大の障害者であり、それが殺されるべきものだということです。真理を実現していない可哀相で俗なる自分に執着するのは当然ですが、救われるべき自分が死ねばあとは聖なる者だけが残ります。
あなたのやろうとしているのは俗なる者に立脚して聖なる者を殺そうとしているじゃないですか?
聖なる者に立脚して救いだとか真理だとかを求める者を殺せば探求は終了です。
論理的には以上のことなのですが、実際には常に聖なる者に意識を向けることです。
例えばそれは瞑想することであり、俗なるものに気づくことであり、神の名を唱えるようなジャパであったりします。
それ以上のことは聖なる者が色々と燃え広がる炎のように導くはずですよ。

ここまで見た
  • 849
  •  
  • 2013/04/09(火) 19:26:43.08
最後の四行だけでいいような・・・

宗教板は大体前半で終わるから、まあ意義のあるレスだと思うけど

ここまで見た
  • 850
  •  
  • 2013/04/13(土) 22:36:47.46
随分昔の話だが、自我と思しきものが剥がれるという経験をしたことがある。
心を覆っていた殻のようなものにメリメリとヒビが入りその殻が剥がれ落ち、胸の奥から光が現れた。
その光の中に個としての自分はなかったように記憶している。
矛盾する表現かも知れないが、「本当の自分」は自我ではないのではないかと思う。
私にとって「自我」とは心の奥にある光を覆っている殻だ。

お絵かきランド
フリックゾンビ
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