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 鈴木宗男参院議員が、9日までに自身のブログを更新。G7サミットで予定されている岸田文雄首相とゼレンスキー大統領の会談などにふれたうえで、「ゼレンスキー大統領がロシアを挑発しなければ、ウクライナ戦争は起きなかった」と主張した。

 鈴木議員は、ウクライナ側に対し岸田総理が裂帛(れっぱく)の気合で「停戦、和平」を言うべきだとし、「ロシアの侵略とか国際法違反と言うが、ならばゼレンスキー大統領が自爆ドローンでロシア人を殺そうとした行為やブタベスト覚書の再協議、核を戻せと言う話がウクライナ戦争の発端ではないか」として、ゼレンスキー大統領の態度について批判した。さらに、「プーチン大統領は自制していたが、ロシア人を守るために、特別軍事作戦を行なったのである」などと持論を展開した。

 ブログには6日の法務委員会での岸田総理とのやりとりの議事録が掲載され、鈴木議員が、G7サミットで岸田総理にウクライナ戦争停戦、和平に向けて大きな役割と発信をしてほしいという質問と答弁について書かれている。

6/9(日) 14:32配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/c8860d27408b0f94c647bf8f6814b38884f9e2ba
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240609-00000036-chuspo-000-7-view.jpg

★1:2024/06/09(日) 23:46:23.34
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1717985393/

ここまで見た
  • 801
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  • 2024/06/12(水) 23:04:38.18
>>773
なんでロシアがクリミアを併合するに至ったのかというと、米国の東欧政策が悪かったんである。

前提1:クリミア半島にある軍港セバストポリはロシア全体の安全保障のために欠かせない要衝。
でも、ロシアとしてはウクライナから借地できればそれでよかった。
1997年にロシアとウクライナは、2017年までセヴァストポリをロシアが貸借することで合意していた。

前提2:クリミアは元々帝政ロシア領なので、住民の6割がロシア系。
フルシチョフがクリミアをウクライナの行政区分に組み込んだ。
1992年、クリミアはウクライナからの独立を求めたが叶わなかった。
自治共和国になることでキエフ政権と妥協が図られた。

前提3:1992年から米国は一極覇権主義政策を推進している。
NATOの東方拡大、EU拡大、カラー革命はその一環。

続く

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  • 802
  •  
  • 2024/06/12(水) 23:05:18.91
>>801の続き
>>773
■2004年、オレンジ革命
2000年代に東欧で起きたカラー革命は、米国による工作が疑われていたり、裏付けが取れたりしている。
2004年にウクライナで起きたオレンジ革命は、米国の関与が裏付けられている。
それで誕生した米国傀儡政権は、セバストポリの借地について2017年以降の契約を更新しない、と発言した。

■2010年、大統領選挙
再びウクライナで大統領選挙が行われ、ウクライナ東部から支持を得たヤヌコビッチが大統領になった。
ヤヌコビッチはセバストポリの租借期間をさらに25年延長した。

■2014年、政変
2014年にウクライナで起きた政変は、米国がウクライナのネオナチ政党であるスヴォボダを使って起こした政権転覆で裏付けが取れている。
スヴォボダの公約は「クリミアの自治停止」。
キエフのマイダン広場で群衆は「ロシア人とユダヤ人を○せ!」と叫んでいた。
それで、身の安全を図るため、クリミアの住民はロシア政府と連絡してウクライナからの独立とロシアへの編入に関する住民投票を実施した。

参考
○『ウクライナにおけるナショナリズムの暴走』、森彰夫、東北公益文科大学総合研究論集第 26 号
○『ウクライナ危機の起源 ―歴史、安全保障、地域の特性―』、松里公孝

続く

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  • 803
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  • 2024/06/12(水) 23:08:51.42
>>802の続き
>>773
引用
ユーロマイダン革命は、2013 年 11 月、EU とウクライナの連合協定調印を、その直前 になって当時のウクライナ大統領であるヤヌコヴィチが取りやめたことに端を発してい る。腐敗したヤヌコヴィチ政権下での閉塞状況を打破する一助として、EU との関係強化 に期待する向きもあり、調印延期はヤヌコヴィチ大統領への抗議運動に即つながった。そして瞬く間に暴力化していった。
(中略)
これらのグロテスクな映像は、クリミアおよびドンバスの人々に、「明日は自分たちが この暴力の標的になる」と思わせた。暴力から逃げなければならないという切迫した恐怖感が、ウクライナからの離脱を彼らに決意させたと考えられる。

『ウクライナ危機の起源 ―歴史、安全保障、地域の特性―』、松里公孝

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