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2022.06.24

神立 尚紀カメラマン・ノンフィクション作家

皇族、そして、明治維新以降の身分制度の上位者であった華族は、戦前まで、様々な特権を与えられていた。

権力者への忖度が常識となった現代日本の感覚からすれば、彼らには、戦時中、戦場に出ることを回避する特権が与えられていたと思うかもしれない。だが、実際には、彼らは軍人となり、先頭に立って戦うことを求められていた。

海軍兵学校や陸軍士官学校で共に学び、最前線で共に戦った者たちの証言から見えてきたのは、彼らの、権力者の傲慢さとは無縁の、清廉で勇猛な戦いぶりだった。


皇族男子はすべからく軍人たるべし

「昭和9(1934)年、海軍兵学校に入校した弟のために、一斗缶にいっぱいの煎餅を詰めて送ったことがありました。田舎の、どこにでもある煎餅です。そしたら弟の同期生に徳川家の若殿様がいて、そんな庶民的なお菓子は召し上がったことがないのか、うまい、うまいと全部食べてしまわれたって」

と、宮崎その(1909-2009)は語った。そのは旧姓宮野。「弟」は、大阪府立八尾中学校(旧制)から一年浪人し、広島県江田島の海軍兵学校に六十五期生として進んだ宮野善治郎で、「徳川家の若殿様」とは、十五代将軍徳川慶喜の孫・徳川熈(ひろむ)のこと。
徳川熈の名は、学習院海軍出身者の集いであった「水櫻會」(現在の水泳部OB会の「水桜会」とは別)の回想録やインターネット上では「煕」と、異体字で記されることが多いが、当時の海軍辞令公報や本人の署名で確認でき、墓石にも刻まれている字は「熈」である。

宮野善治郎(1915-1943)は、のちに零戦隊の指揮官となって活躍するが、大阪府中河内郡龍華町(現在の大阪府八尾市)に生まれた生粋の庶民で、幼くして父親をスペイン風邪で亡くし、6歳年上の姉・そのが切り盛りする小さな和菓子屋を手伝いながら中学校を卒業した苦労人である。海軍の奉職履歴の「族称」欄には「平民」と記されている。

クラスメートとなった徳川熈(1916-1943)は、征夷大将軍を退き公爵となった徳川慶喜の九男・男爵徳川誠の長男として東京に生まれ、横浜正金銀行勤務の父の仕事の関係で、アメリカ、フランスで幼少期を過ごす。母・霽子(さえこ)は、南北朝時代の南朝の忠臣・名和長年の子孫、男爵名和長憲の長女である。
帰国後は学習院初等科、中等科を経て海軍兵学校に入校した。昭和8(1933)年から16年までの長きにわたって軍令部長/軍令部総長を務めた元帥海軍大将伏見宮博恭王は父方の伯父、高松宮妃喜久子は従姉にあたる。――生まれながらの貴族と言っていい。

学習院は、現在は私立学校だが、当時は文部省ではなく宮内省が所管する官立学校で、主に皇族、華族のための教育機関だった。

海軍兵学校(海兵)は、将校たる海軍士官(士官のうち軍隊指揮権を持つ者のみを「将校」と呼んだ。主計科や軍医科の士官は「将校」ではない)を養成するエリート校で、当時、一高、陸軍士官学校(陸士)と並ぶ天下の難関校とされていた。

大元帥として陸海軍を統べる明治天皇の、「皇族男子はすべからく軍人たるべし」との方針(皇族海陸軍従事の令。明治6年)のもと、戦前の皇族男子のほとんどは海兵、陸士のいずれかに進み、旧大名や公卿、明治以降の勲功者などからなる、当時の貴族である華族たちの多くも、それに倣った。

大名や武士階級出身の華族にとっては、軍人への道に進むのは武門の流れを正しく継承するものであったし、明治以降に日本にも伝えられた「ノブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige=高貴なる者の責務)という、西洋流の道徳律を実践するものでもあっただろう。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/96384?page=1&imp=0

多くの皇族・華族が戦没
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/96384?page=2

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  • 2022/06/26(日) 13:02:01.91
>>237
桂小五郎の養子の子は宮内大臣で皇室の藩屏だろ。A級戦犯になったぞ。
ちなみに山縣有朋の子孫はフィリピンで戦死してる

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  • 2022/06/26(日) 13:07:44.95
死んだら終いや
英才教育受けたならしっかり生き残らな

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  • 2022/06/26(日) 13:08:25.31
宮崎そのとかいうから、HKTスレかとオモタ

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  • 2022/06/26(日) 13:33:06.01
>>239
木戸幸一のことを言ってるなら宮内大臣じゃなくて内大臣だろう
宮内大臣は会津松平家の松平恒雄が1936年から敗戦の年まで長期間勤めている

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  • 2022/06/26(日) 13:37:15.18
>>231
どこぞの政党党首の伯父さんみたいに手先になれば帰ってこれたろうに根性あったんだな。

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  • 2022/06/26(日) 13:40:49.64
トーホグの太鼓叩きの孫である東條英機の倅どもは内地でヌクヌク暮らして、戦後は三菱の重役や航空将補にまでなっているのにな

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  • 2022/06/26(日) 13:42:04.60
ないない。

今も昔も上級は特別待遇で
箔付け。

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  • 2022/06/26(日) 13:43:31.74
須くの使い方・・・合ってんじゃん

最近見たことないわ

大抵、単体で使うバカしか見ない
そんでバカを指摘したら、あーだこーだ

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  • 2022/06/26(日) 14:32:28
>>242
内大臣か

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  • 2022/06/26(日) 15:31:22
>>97
当時の今川は70万石で動員兵力2万以上はあった
桶狭間でも三国同盟により後方の憂いなく全軍に近い2万以上で出陣したってのはどの研究者の見解もそう大差はない
ただ2万が義元の近くにいたわけじゃなく、各地に分散してたから今川本隊は5千くらいだったと言わてる

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  • 2022/06/26(日) 17:41:32.28
>>244
盛岡藩、南部侯の家臣の家柄である原敬が初めて華族以外で首相となり日本の政党政治が本格化大正デモクラシーが花開く

同じく盛岡藩の板垣征四郎が石原等と満州事変を起こし日本は孤立化を歩み、盛岡藩の東條が陸相となり海相の盛岡藩の医者の家柄の海相及川古志郎を押し切り日本は開戦を決意する

案の定ズタボロに負けた日本は盛岡藩の米内を引っ張り出して終戦へ動き出すのであった

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  • 2022/06/26(日) 18:28:11.76
原敬って保護者の山縣有朋が失脚だか引退だかするとすぐに暗殺されちゃうんだよな。
その辺が温い時代の育ちというか、ボンボン生まれというか。

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  • 2022/06/26(日) 18:30:29.32
海上自衛隊は特に陰湿で自殺が多いんだよな

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  • 2022/06/26(日) 18:32:27.17
関西人の鈴木貫太郎が御聖断を仰ぎ大分人の阿南が急に言を翻して反対派を抑えている間、米内は黙りこくってたんだっけ

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  • 2022/06/26(日) 18:56:02.89
>>250
奇兵隊で揉まれた山縣有朋と比較してもなぁ。原敬なんか賊軍の子孫なんだからボンボンでも無いだろ

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  • 2022/06/26(日) 22:19:39.47
といっても召集された兵よりはよほどマシだな

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  • 2022/06/27(月) 04:55:26.16
>>254
軍人軍属230万も死なせといて、兵の質のせいにするとか
非正規や派遣に責任を擦り付ける正社員メンタルそのものだな。実に浅ましい

お絵かきランド
フリックラーニング
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