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- 砂漠のマスカレード ★
- 2021/06/11(金) 19:39:51.20
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当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。
【写真】「世界で一番強い国はどこか? 」中国製AIの衝撃回答
日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。
このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。
この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。
秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。
■最初は布教を許していたが…
秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。
この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/18eb9427a939883a22f35c495b73131d05897f21?page=1
6/8(火) 15:01
配信
前スレ 2021/06/11(金) 14:13
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1623397414/
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- 944
- 2021/06/12(土) 09:43:55.71
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>>935
1隻で5万人運ぶとか、なんでそんな単純な発想になるか、信じられん。きっと民族が違うんだろうね。
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- 945
- 2021/06/12(土) 09:45:37.07
-
>>943
オランダ人のアジアでの植民地獲得なら、ポルトガル人よりうまくやっている
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- 946
- 2021/06/12(土) 09:47:08.79
-
>>942
資料も分かるが
人間が何をやろうとしたか?
その動機、使われる方法
ってのは昔も今も変わらんと思う
奇麗ごとを言う奴ほど恐ろしい
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- 947
- 2021/06/12(土) 09:47:17.39
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>>944
年間1隻しかこないのに、どうやれば5万人を輸送できるか謎ではある
当初、日本との貿易は全てのポルトガル人に開かれていたが、1550年にポルトガル国王が日本との貿易の権利を独占した[1]。以降、年に一度、一隻に日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のキャプテン・マジョールの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。
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- 948
- 2021/06/12(土) 09:49:56.13
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>>1 >>947
年間1隻のポルトガル船だけで、日本が保有していたかなりの量の銀を運んだ
南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された[1]。金、中国の磁器、ジャコウ、ルバーブ、アラビアの馬、ベンガルの虎、孔雀、インドの高級な緋色の布、更紗、フランドルの時計、ヴェネチアガラスなどのヨーロッパ製品、ポルトガルのワイン、レイピアなどが、日本の銅、硫黄、漆器、武器(日本刀等)と交換された[2]。日本の漆器は、ヨーロッパの貴族や宣教師を魅了した[3]。
ポルトガル船の主要品目に硝石は含まれない[2]が、古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する古土法、主にカイコの糞を使う培養法による硝石製造が五箇山等の各地で行われ国産化が進んだ。
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- 949
- 2021/06/12(土) 09:50:03.63
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>>942
今の不動産屋のルーツをたどれば、人買·仲介商人だからね。下人なんてあちこちにいて、奴隷社会·農奴社会だよ。
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- 950
- 2021/06/12(土) 09:51:21.72
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>>941
奴隷を、立派なポルトガルの正装船で
ポルトガルに運ぶわけじゃないぞw
東南アジアなどの植民地に、ぼろい船で
下請け業者が運ぶに決まってるじゃん。
人口が100万人しかいないポルトガルは
大航海時代に世界制覇したものの
植民地経営では人手不足で困り果てていた。
そんな基本的なこと、ごまかそうとするなよ。
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- 951
- 2021/06/12(土) 09:52:34.95
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>>949
今の胡散臭い実業家連中もその名残あるもんね。不動産売買とか人材派遣業とか。電話一本あればゴルフしながらできる商売。
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- 952
- 2021/06/12(土) 09:53:28.15
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>>1
江戸時代の平均的農民は幕藩領主によって土地緊縛されているとこ
ろから、広義における農奴と規定する定説が認められている。本百
姓と世襲的な借家・小作関係にある譜代下人等も存在し、家父長的
奴隷制として規定することがある。地方によっては家抱、門屋、庭子、
内百姓、名子と呼ばれ、強い隷属性を特徴とし、村内での地位は水呑
百姓以下だったとされる。傍系家族・下人も含め名主家族そのものを
広義の農奴の一存在形態とする見解もある。
日本における農奴制
律令制度では五色の賎は百姓の3割を占めており、私奴婢は子孫に相続させることが可能であった。
室町期の在地領主などが欠落(かけおち)した百姓、下人などを連れ戻すことがあった。百姓は年貢を完納している場合、もとの領主に拘束されることはなかったが、下人は無条件に本主の下に戻された。
戦国時代、下人だけでなく百姓の人返しが分国法、人返し令書、朱印状として発布され、欠落の返還が拡大、強化された。
江戸時代に入ると逃散は厳しく禁じられ、移住も原則として認められなかった。
江戸時代の平均的農民は幕藩領主によって土地緊縛されているところから、広義における農奴とみなし、生産物地代負担という点から、狭くは隷属とする定説が広く認められている。
地主制度への移行
明治期、地租改正によって土地の私的所有権が成分法で確立されたが、高額な税率によって地主制度が形成された。
1947年、GHQは地主制度を解体するために農地改革を行った。財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く、GHQの威を借りる形で行われた。全農地面積の約47%が買収され、小作農家に売り渡された。
芸娼妓解放令が有名無実なものとなると人身売買に対する法的規
制が後退し、他人を売るより子孫を売る方が罪が軽く「和売」が行
われていた。[60]明治から昭和にかけての人身売買について牧英正
は、農村の慢性的貧困、父権の強さが人身売買を発生させる温床と
なる構造上の理由を説明している。[61]
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- 953
- 2021/06/12(土) 09:54:18.10
-
>>947
だから、筆者もそんなことはいってなく「ポルトガル人か主導して」としか書いてない。書いてないこと取り上げ笑い者にするって馬鹿のやること。
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- 954
- 2021/06/12(土) 09:54:22.77
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>>938
昭和時代は、中学校の歴史教科書や高校の山川歴史教科書に
秀吉のバテレン追放令は奴隷売買に怒ったのが理由だと
明記されていたんだけどなあ。
最近はひどいな。
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- 955
- 2021/06/12(土) 09:54:37.57
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>>896
昨日NHKの日本人の名前でやってたけど、東日本と西日本の分け目は関ヶ原と言っていた。
岐阜、愛知は東日本だぞ
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- 956
- 2021/06/12(土) 09:54:58.22
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今の日本も秀吉が登場する前の状態と似てるんだろうな
本当に瀬戸際だよ
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- 957
- 2021/06/12(土) 09:55:41.25
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>>2
今から2000年近く前にパレスチナにあったゴルゴダって丘のあたりで磔刑にされて脇腹槍でつかれて死んだって話しだけどな…
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- 958
- 2021/06/12(土) 09:56:02.81
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>>85
ネトウヨ(嫌韓)がわざと書いてるの?
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- 960
- 2021/06/12(土) 09:58:32.85
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この時代別に日本人だけが標的にされたわけじゃないやん
ポルトガルなんかはオスマン帝国なんかもおったわけやし
日本人がーって騒ぐけど世界大戦争の駒にすぎない
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- 961
- 2021/06/12(土) 09:58:50.67
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>>1
戦国時代は日本中、奴隷だらけの奴隷商天国であったから数千人消えても気づくことはないという意見だが
年にポルトガル船1隻で5万人は到底運べない
>当初、日本との貿易は全てのポルトガル人に開かれていたが、1550年にポル
>トガル国王が日本との貿易の権利を独占した[1]。以降、年に一度、一隻に
>日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のキャプテン・マジョー
>ルの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。
数万人の奴隷を生かすために、ポルトガル人は大量の食料を周辺地域から金銭で調達しないと
いけなくなり儲からなくなるだろう。明は倭寇の人狩りもあり、顧客にならないだろうし、東南アジアには
人口が十分にあるから、わざわざ遠くから運んで割高な奴隷に需要はないだろう
考えられうる輸送法の限りで、水・食料コストを安くし、輸送コスト分割高で(マレー語などの)語学ができない奴隷にさえ需要がある地を探して届ける方法はなく採算がとれない
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- 962
- 2021/06/12(土) 10:00:07.45
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>>954
今の教科書にも秀吉の九州征伐がきっかけで長崎が教会領になってることに気付いて日本人が奴隷として海外に売り飛ばされてたことに気づいて大友宗麟や大村純忠のような庇護者が死去したのをきっかけに追放令が出されたとあるけどな
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- 963
- 2021/06/12(土) 10:00:32.95
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>>959
現に黒人を奴隷として、連行しまくってるじゃないか。
人を畜生以下に扱うことに何の抵抗もない
侵略キチガイだろ、当時の白人。
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- 964
- 2021/06/12(土) 10:00:44.49
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>>1
イエズス会は奴隷貿易禁止をポルトガル国王に求め実際に王令が発布され1571年には禁止され非合法化された
人身売買禁止までに薩摩に来航したポルトガル船は18隻しかない
ポルトガル船の目的は絹を売ることであるため、薩摩に特定の年だけ来航しない理由はない
最盛期の奴隷購入が法律で禁止されるまえの1543年から1570年までだとポルトガル船はわずか18隻しか来航していない
数百人載せたと書いているのは、キリスト教を敵視していたことで知られている元僧侶の大村由己だ
船の中を見る機会もなく中立で客観的な資料としての信頼性は全くない
適当な船室に多く見積もって数十人程度の購入した奴隷を閉じ込めたとして、18隻分全て合わせても数百人程度だ
そもそもポルトガルの記録で日本人奴隷は希少で、力のあるアフリカ人水夫が好まれたが、当時の日本人は
繊細で攻撃的なことでも知られており奴隷としては敬遠されていたはずだ
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- 965
- 2021/06/12(土) 10:00:44.97
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戦国時代の日本で奴隷になろうが日本で暮らそうが
そんな大差無さそう
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- 966
- 2021/06/12(土) 10:01:32.61
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>>962
素晴らしい記述だな。
ちょっと安心した。
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- 967
- 2021/06/12(土) 10:02:11.28
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>>963
ポルトガルの記録で日本人奴隷は希少で、力のあるアフリカ人水夫が好まれた
ポルトガル人、アジア人、アフリカ人の船員は戦乱で捕獲され奴隷となっていた日本人を買うことがあり、ときにはアジア人奴隷、アフリカ人奴隷が日本人の奴隷を所有した。こうして売られた奴隷の多くが日本人女性であり、故郷から離れた乗組員や奴隷に妻・家族、妾をもたせ懐柔するために奴隷の購入は許容された。ポルトガル領の奴隷の大部分はアフリカ系だったが、少数の中国人、日本人の奴隷の存在が記録されている[4][5][6]。
ポルトガルの人口は少数であるため、ポルトガルの海外進出は大量の奴隷を獲得して初めて可能になった。また奴隷の人種についてはアフリカ系が好まれた。15世紀後半から16世紀にかけて、ポルトガルの奴隷への依存度が問題視されることはなかった。奴隷は稼いだお金を貯めて自由を買うか、代わりの奴隷を買うことを許されれば、自由になることができた。女性の奴隷は、主人が結婚することを選べば、自由になれた[7]。
アフリカ人奴隷はマカオの戦いで命をかけて勇敢に戦い、ポルトガルへの忠誠心をヤン・ピーテルスゾーン・クーンに称賛されるほどだった。
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- 968
- 2021/06/12(土) 10:03:29.26
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>>1
スペインの植民地支配の一例
ブルゴス法は1512年12月27日、スペインのカスティーリャ王国ブルゴスで公布された。アメリカ大陸におけるスペイン人の行動、特に西インド諸島の先住民(カリブの先住民)に対する行動を規定した最初の成文化された法律であり、先住民への虐待を禁じ、彼らがカトリックに改宗することを期待した。この法律はカスティーリャの慣習法が完全には適用できない西インド諸島をスペインが征服後に制定された。
ブルゴス法の適用範囲は、当初はヒスパニオラ島に限定されていたが、後にプエルトリコとジャマイカにも拡大された。
労働条件・規則
ブルゴス法ではエンコミエンダでの労働条件や規則を以下のように一様に規定している。
カリブ先住民に対してキリスト教を理解させ、強制でなく自発的な改宗を促す(脅迫等による一過性の改宗でなく、恒久的なキリスト教の浸透)
カリブ先住民に決められた広さの住居の建設と提供、与えられた土地を含む財産の保証をする
カリブ先住民に対する侮辱や虐待を禁止する
児童労働の禁止(及び教育中の労働禁止)をする
出産後3年間の育児休暇を保証する
結婚した先住民女性に対し労働を強いることを禁止する
未婚の女性を両親から離すことを禁止する
5ヶ月の労働後に(連続した)40日間の休みを提供する
1日に十分なパン、野菜、肉、魚を提供する
酋長・族長の家族を優遇する
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- 969
- 2021/06/12(土) 10:03:36.07
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>>965
それって侵略を正当化する、白人の理屈そのまんま。
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- 970
- 2021/06/12(土) 10:03:59.74
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>>1
キリスト教弾圧したり朝鮮に攻め込んだ悪いやつ晩年はオツムがイカレタ
的な教え方いい加減やめようぜw
その頃世界は大航海時代で白人が世界中を植民地化しまくってた
キリスト教布教で日本来たやつらは日本を植民地化するための斥候だった 神社仏閣壊しまくった人身売買しまくってた
でも日本が強すぎて諦めた
事実なんだから書けやw
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- 971
- 2021/06/12(土) 10:04:33.49
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>>1
1537年に奴隷の売買は禁止されていた
サブリミス・デウス(ラテン語:Sublimis Deus[1]、またはSic Dilexit[2] )は、1537年6月2日に教皇パウルス3世が公布した勅令。西と南のインディアンと呼ばれるアメリカ大陸の先住民とその他のすべての人々を奴隷にすることを禁じている[3]。アメリカ先住民は、たとえ異教徒であっても、自由や私有財産の権利を持つ完全に理性的な人間であると述べている。
内容
『サブリミス・デウス』の文言は、広範に適用される宣告だった。アメリカ先住民だけでなく、すべての未知の民族に適用されるよう構成されている。主な箇所は以下の通りである。
不肖ながら、地上で主の力を行使し外にいる主の群れの子羊たちを、我々に委ねられた群れに引き入れよう
と全力で努力しています。しかしながら、インディアンは真の人間であり、カトリックの信仰を理解する能
力があるだけでなく、我々の情報によれば、その信仰を受けることを強く望んでいると考えます。これらの
弊害に対する十分な救済策を提供したいので、我々は、これらの我々の手紙、または公証人によって署名さ
れ、教会の高官の印章で封印された翻訳は、原本と同じ信用を与えることを定義し、宣言する。これまでに、
またはこれからいかなる反対があったとしても、前記のインディアンおよび、後にキリスト教徒によって発
見される可能性のある他のすべての人々は、たとえイエス・キリストの信仰を持たない者であっても、決し
て自由や財産の所有を奪われない。また、彼らは自由かつ合法的にその自由と財産の所有を享受することが
でき、またそうすべきであり、いかなる形でも奴隷にされてはならない。これに反することが起こった場合、
それは無効であり、何の効果も持たない。
— パウルス3世『サブリミス・デウス』
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- 972
- 2021/06/12(土) 10:06:13.12
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>>1
日本がフィリピンを攻めた場合、スペインほど植民地支配はうまくいかなかったろうと想像する
マニラの戦い (1570年)
背景
スペインはポルトガルが独占していた香辛料貿易に風穴をあけるために、1560年代後半、スペイン人とメキシコ先住民の兵士を従えたミゲル・ロペス・デ・レガスピをメキシコからフィリピンへ派遣した。フィリピンでは1405年にスールー諸島、1520年にミンダナオ島でイスラム王朝が建国されており、ルソン島の都市国家の首長の多くもイスラム教に改宗していた[1]。レガスピ上陸時のルソン島、ビサヤ諸島の総人口は100万人から150万人だったが人口密度は低かった[2]。
ポルトガルはオスマン帝国の同盟国であった東アフリカのアダル・スルタン国、南アジアのデリー・スルターン朝、東南アジアのマラッカ・スルタン国と交戦をしており、強大なオスマン帝国と同盟関係にあったイスラム王朝とキリスト教国は対立関係にあった。
スペインは、8世紀以降、ウマイヤ朝カリフの下でイスラム教徒に侵略されていたスペインを再征服し、再びキリスト教化するための700年にわたる戦争を終えたばかりだった。奪われた領土の奪還の過程は、レコンキスタとして知られている。かつてスペインを侵略したイスラム教徒に対するスペイン人の憎悪もあり、イスラム教化されつつあったフィリピン諸島でのスペイン人の活動は新たな火種となった。
その後
1571年、レガスピはスペイン人280人と現地人600人の全軍を率いて上陸した。数万人のムスリム民兵の抵抗を打ち破ってマニラを占領し、同地に居留地を築いた。5月19日、レガスピはマニラ植民地に「市」の称号を与え、1572年6月19日に正式に裁可された[4]。このとき、マニラ市の人口は250人程度であった[5]。
パンパンガ族(英語版)はなおもスペインに抵抗したが、バンクセイ海峡の戦い(英語版)で大敗、首領のタリック・スライマーン(英語版)が戦死した。その後、抵抗は終息へ向かった[5]。
ビサヤ地方のバランガイ(パナイ、ボホール、セブ)はスペインに征服されることはなかったが、協定、平和条約、相互同盟によってスペインの勢力圏に組み込まれていった[6][7]。
スペイン帝国に従属する道を選んだビサヤ、ルソン、ミンダナオのバランガイの領主、王族、ラジャナート、マギノー等の支配階級は、スペイン領フィリピンの世襲貴族であるプリンキパリアとなり、納税を免除され投票権を持ち(貴族にだけ認められる)ドンまたはドニャの称号で呼ばれることを許された。プリンキパリアは各地域の首長、判事、知事であるゴベルナドルシーリョ等の任期2年の役職を歴任するようになり、スペイン帝国の一端を担っていく[8][9][10][11]。
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- 973
- 2021/06/12(土) 10:06:13.37
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>>970
それ壊したん信長ちゃうん?
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- 974
- 2021/06/12(土) 10:06:47.63
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>>3
秀吉憎いのって韓国人だけじゃの!?wあ・・・(察し)
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- 975
- 2021/06/12(土) 10:07:46.65
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>>969
その当時
日本に福祉の概念がなかったのが
キリスト教にすがった一つの理由だったと思う
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- 976
- 2021/06/12(土) 10:07:56.14
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>>1
スペインの植民地支配の一例
シクット・ドゥドム(ラテン語:Sicut Dudum)は、1435年1月13日にエウゲニウス4世 (ローマ教皇)がフィレンツェで公布した教皇勅書であり、キリスト教に改宗した、あるいは改宗しようとしているものを含むカナリア諸島のグアンチェ族全ての奴隷化を禁止したものである。シクット・ドゥドムは、前年に発行されたカナリア諸島でのポルトガル人による襲撃を非難するCreator Omniumを強化するためのものであった。
条文
私たちは、この文書が公布されてから15日以内に、かつて前記カナリア諸島
に住んでいて、捕らえられ奴隷にされていた男女の信徒を含む全ての人を、
以前のように自由に復帰させることを命じます。これらの人々は、完全かつ
永続的に自由であり、金銭を要求したり受け取ったりすることなく解放され
るべきです。もし15日が経過してもこれが行われない場合は、その行為自体
が破門の宣告を受けることになり、聖座やスペインの司教、あるいは前述の
フェルディナンドであっても、捕虜となった人々に自由を与え、その財物を
回復させない限り、死をもってしても免れることはできません[1][2]。
— 教皇エウゲニウス4世『シクット・ドゥドム』第4条
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- 977
- 2021/06/12(土) 10:07:59.65
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>>9
そろそろ歴史を客観的に検証して竹島返したら?wwww
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- 978
- 2021/06/12(土) 10:09:13.07
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秀吉の奴隷になるか海外の奴隷になるかの2択やろどうせ
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- 979
- 2021/06/12(土) 10:09:38.17
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>>1
秀吉や家康の時代、キリスト教の宗教施設を破壊したり数十人の処刑程度だったが、徳川秀忠の時代、宗教弾圧が本格化した。幕末勤王志士、水戸天狗党と諸生党の戦いを想起させる幼児・妊婦まで公開処刑する凄惨な虐殺劇の幕が上がる
日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命
による1614年(慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになるが、
家康の禁教令は臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝によっ
て起草されたが、言い回しなど基本的な部分において施薬院全宗が
起草したバテレン追放令にならっている。徳川家康は長崎と京都に
あった教会等の宗教施設を破壊、キリスト教徒は日本各地に散らば
ることになるが弾圧は徹底されなかった。
徳川秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に
改めて禁教令を出し、キリスト教の本格的な宗教弾圧とキリスト教徒に対
して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に好意的で弾圧に乗り気で
無かった京都所司代の板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々
に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される
(京都の大殉教)、この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。
元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において処刑(元和の大殉教)、
中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた。
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度
(檀家制度)によって宗教弾圧は強化されたが、その余波として神式の
葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由が制限され
宗教界全体に影響が及んだ。以心崇伝が関与した紫衣事件では仏教を介
して幕府が天皇よりも上に立つことを公に示すことになった[20]。
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- 980
- 2021/06/12(土) 10:09:57.20
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>>56
おまえの国の教科書アメリカに持っていって公開したら?wwww
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- 981
- 2021/06/12(土) 10:09:58.63
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>>975
キリスト教の宣教師っていいこと言うなあ
進んだ文化だなあと感心して信用して付き合いを深めたら
あっという間に、内乱を起こされ
侵略されて奴隷化される。
その繰り返しが大航海時代。
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- 982
- 2021/06/12(土) 10:11:04.77
-
>>33
それがキリスト教の害悪たる所以
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- 983
- 2021/06/12(土) 10:11:05.52
-
>>975
福祉はともかく、論語的な道徳の概念はあったな
仁って思いやりの事だし
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- 984
- 2021/06/12(土) 10:11:18.09
-
>>1
ポルトガル来航以前より倭寇は大規模な奴隷ネットワークを持っていた
多数の日本人倭寇もカガヤンの戦い(1582年)、マニラの戦い(1574年)で確認されている
前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐、対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった[13]。
後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された。
1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった[14]。マニラの戦い (1574)、カガヤンの戦い (1582)で影響力は低下したが、倭寇の貿易ネットワークはフィリピン北部に及ぶ大規模なものだった。
乱妨取りや文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張し密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこからインドに送られたものもいたという[13]。
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- 985
- 2021/06/12(土) 10:12:20.61
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>>1
秀吉が命じた朝鮮出兵では多数の人狩り、人売り商人が朝鮮半島に渡り、奴隷のお土産の記録もある
文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉に仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に
日本よりもよろずの商人も来たりしたなかに人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後
につき歩き、男女・老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て、歩み候わね
ば後より杖にて追い立て、打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹の罪人を責めけるもか
くやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えば猿をくくりて歩くごとくに、牛馬をひ
かせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり
— 慶念『朝鮮日々記』
と記録を残している[15]。
渡邊大門によると、最初、乱取りを禁止していた秀吉も方向転換し、捉えた朝鮮人を進上するように命令を発していると主張している[16]。
多聞院日記によると、乱妨取りで拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、名護屋に送られた。[17]
薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている[18][19]。
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- 986
- 2021/06/12(土) 10:12:23.59
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>>983
仏教はその理念だよな。
奈良時代の光明皇后の逸話が
今に至るまで語り継がれてるのも、
福祉だろうにな。
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- 987
- 2021/06/12(土) 10:12:40.54
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>>983
思いやりなんかあったら
今頃日本は自殺大国にはなってないんちゃう?
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- 988
- 2021/06/12(土) 10:13:28.62
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>>1
奴隷貿易をしていた倭寇には多数の日本人がいた。スペインには多数の日本刀や火縄銃を使う倭寇戦士の記録がある。指揮官の一人の名前も日本人とされている
マニラの戦い (1574)
マニラの戦い(1574年)(スペイン語: Batalla de Manila en el 1574; Filipino:Labanan sa Maynila ng 1574)
は、マニラ地域の主に現在のパラニャーケで、林鳳率いる中国・日本の海賊と、スペイン軍と先住民の同盟軍
との間で行われた戦いである。この戦いは1574年11月29日に起こった[2] 林鳳の艦隊はパラニャーケに上陸し、
そこからイントラムロス砦への攻撃を開始した。当初、住民は混乱していたが、林鳳の軍隊は彼らを潰走させた。
さらに倭寇はスペイン軍の司令官であるマルティン・ド・ゴイティを殺害したが、マルティン・ド・ゴイティ
の抵抗により、マニラへの攻撃を遅らせることになった。
林鳳の倭寇軍はマニラを包囲したが、フアン・デ・サルセード率いるスペインのマスケット銃士50人の部隊
が包囲を破った。 [1] マニラで敗れた林鳳は撤退し、マニラへの侵攻計画を放棄してパンガシナン州を占領した。
一年後、サルセド率いるスペイン軍が再び林鳳を破った [1]。
スペイン側
300スペイン兵(インカ、アステカ、マヤ等の米先住民を含む)
300イロカノ兵
民兵(数は不明)
倭寇側
62隻の軍艦
4,000倭寇兵[1]
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- 989
- 2021/06/12(土) 10:14:34.43
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>>981
イスラム教は出遅れたね
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- 990
- 2021/06/12(土) 10:15:27.31
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>>936
それはお前の感想だろ
事実として奴隷貿易は発覚し、それによって秀吉はバテレンを追放したわけだ
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- 991
- 2021/06/12(土) 10:15:45.88
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>>987
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈で、
日本の仏心(ほとけごころ)は死にましたw
そして今はアメリカ式コミュ力主義に、それがとって代わったんだよ。
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- 992
- 2021/06/12(土) 10:16:15.58
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>>986
ブッタは人と連むとろくなことない
一人でいるのが一番良いとか言ってたらしいじゃない
それはほんとにそうだと思う
情報収集以外人と連むとろくなことない
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- 993
- 2021/06/12(土) 10:17:26.34
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>>990
秀吉は日本人を守ろうとしたんじゃなく
豊臣商店を守ろうとしただけちゃうん?
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