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  • 砂漠のマスカレード ★
  • 2021/06/11(金) 19:39:51.20
当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは?  作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える!  日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。

【写真】「世界で一番強い国はどこか? 」中国製AIの衝撃回答

 日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。

 このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。

 この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。

 秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。

■最初は布教を許していたが…

 秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。

 この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。

https://news.yahoo.co.jp/articles/18eb9427a939883a22f35c495b73131d05897f21?page=1

6/8(火) 15:01
配信

前スレ 2021/06/11(金) 14:13
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1623397414/

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  • 2021/06/11(金) 19:40:35.27
な?


キリストを見つけ出してガソリンぶっかけて皆殺しにしたほうがいいだろ?

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  • 2021/06/11(金) 19:41:08.93
このバカのおかげで日本は300年近代化が遅れた

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  • 2021/06/11(金) 19:41:30.84
敵国になりうるやつが貿易で儲けるのをやめさせるためだっけ?

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  • 2021/06/11(金) 19:41:59.45
そりゃ島津が警戒したわけだ

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  • 2021/06/11(金) 19:42:14.19
ポリコレ押し付けてくる白人様に教えて差し上げろw

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  • 2021/06/11(金) 19:42:42.23
信長が皇族を滅ぼしておかなかったのが悔やまれる

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  • 2021/06/11(金) 19:43:08.78
いや奴隷になってるけどね

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  • 2021/06/11(金) 19:43:29.45
当時無防備だった大韓民国民を大虐殺殺した糞猿 
マジでムカつくよな

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  • 2021/06/11(金) 19:43:49.65
貧農出世で日本史に名を残した
偉人はたった3人しかいない

豊臣秀吉
伊能忠敬
渋沢栄一

これ一般常識なので丸暗記必須ですの

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  • 2021/06/11(金) 19:43:56.37
時を隔てて今、日本人は経済奴隷として死ぬまで低賃金で働くのであった。めでたし、めでたし

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  • 2021/06/11(金) 19:44:08.99
よく解らないんだけど、当時のキリシタン日本人は、こういうのも大笑いで眺めていたの?

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  • 2021/06/11(金) 19:44:14.42
マニラの戦い (1570年)

背景
スペインはポルトガルが独占していた香辛料貿易に風穴をあけるために、1560年代後半、スペイン人とメキシコ先住民の兵士を従えたミゲル・ロペス・デ・レガスピをメキシコからフィリピンへ派遣した。フィリピンでは1405年にスールー諸島、1520年にミンダナオ島でイスラム王朝が建国されており、ルソン島の都市国家の首長の多くもイスラム教に改宗していた[1]。レガスピ上陸時のルソン島、ビサヤ諸島の総人口は100万人から150万人だったが人口密度は低かった[2]。

ポルトガルはオスマン帝国の同盟国であった東アフリカのアダル・スルタン国、南アジアのデリー・スルターン朝、東南アジアのマラッカ・スルタン国と交戦をしており、強大なオスマン帝国と同盟関係にあったイスラム王朝とキリスト教国は対立関係にあった。

スペインは、8世紀以降、ウマイヤ朝カリフの下でイスラム教徒に侵略されていたスペインを再征服し、再びキリスト教化するための700年にわたる戦争を終えたばかりだった。奪われた領土の奪還の過程は、レコンキスタとして知られている。かつてスペインを侵略したイスラム教徒に対するスペイン人の憎悪もあり、イスラム教化されつつあったフィリピン諸島でのスペイン人の活動は新たな火種となった。

その後
1571年、レガスピはスペイン人280人と現地人600人の全軍を率いて上陸した。数万人のムスリム民兵の抵抗を打ち破ってマニラを占領し、同地に居留地を築いた。5月19日、レガスピはマニラ植民地に「市」の称号を与え、1572年6月19日に正式に裁可された[4]。このとき、マニラ市の人口は250人程度であった[5]。

パンパンガ族(英語版)はなおもスペインに抵抗したが、バンクセイ海峡の戦い(英語版)で大敗、首領のタリック・スライマーン(英語版)が戦死した。その後、抵抗は終息へ向かった[5]。

ビサヤ地方のバランガイ(パナイ、ボホール、セブ)はスペインに征服されることはなかったが、協定、平和条約、相互同盟によってスペインの勢力圏に組み込まれていった[6][7]。

スペイン帝国に従属する道を選んだビサヤ、ルソン、ミンダナオのバランガイの領主、王族、ラジャナート、マギノー等の支配階級は、スペイン領フィリピンの世襲貴族であるプリンキパリアとなり、納税を免除され投票権を持ち(貴族にだけ認められる)ドンまたはドニャの称号で呼ばれることを許された。プリンキパリアは各地域の首長、判事、知事であるゴベルナドルシーリョ等の任期2年の役職を歴任するようになり、スペイン帝国の一端を担っていく[8][9][10][11]。

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  • 2021/06/11(金) 19:44:29.47
>>3
?意味不明

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  • 2021/06/11(金) 19:44:34.89
>>3
江戸時代の日本は十分近代的だったと思うが

お絵かきランド
フリックゾンビ
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