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  • 2010/11/23(火) 11:37:36
かつて中村武志が横浜時代に「川村に聞けばどんなことでも教えてくれる」って言ってた。
これに松家や加藤武治がいた当時の横浜投手陣の偏差値は無駄に高かったなw


そういうわけで高学歴の野球選手について語りましょう。
プロアマ特に問いません。

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  • 2010/12/13(月) 11:56:46
鹿児大ってマーチ以下じゃないの?
まあセレクションでマーチに入るよりはるかに頭はいいんだろうけど

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  • 2010/12/13(月) 15:35:24
>>65
加藤の後輩って県ベスト8の丸山か
あれはいいピッチャーだった
神奈川じゃなかったら甲子園いけただろうに

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  • 2010/12/13(月) 16:16:27
>>68
その弁当屋も潰れてしまった…。

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  • 2010/12/13(月) 16:21:29
>>70
受験科目が全然違うから(特に文系の場合)偏差値だけでは
私立と国立の難易度を比べられないだろ。

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  • 2010/12/13(月) 17:08:47
慶応大学の福谷投手に期待したい。
愛知県知多半島の東海市にある進学校、横須賀高校出身で
野球部では珍しい理系の理工学部に進学。
今シーズン(10年秋)は5勝を挙げ防御率も2位。
150km近い直球を投げる投手で将来性も十分。
慶応のエースとしてはもちろん、ひょっとしたらその後も・・・
高学歴理系投手の今後が楽しみだ!
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000501005110001

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  • 2010/12/13(月) 23:41:32
>>73
国立はセンターレベルの理数をちょいとやるだけじゃん。
理数系をまったく勉強せずに受験した俺でも1Aと生物は平均点越えたぞ
東大クラスならさすがに違うと言えるけど

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  • 2010/12/15(水) 00:28:59
板違いになっちゃうけど、文系でも
旧帝と筑波(体育は別でも)、一橋、広島+横国、金沢、岡山、熊本
あたりならって感じか。

そして、話を戻すと。
杉本(元オリ):筑波基礎工(理系だが)、北川(同):横国教育
ぐらい。
因みに鹿大の花増は体育教員資格あったので恐らく教育の体育課程だろう。

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  • 2010/12/17(金) 22:17:06
マウンドに立っている杉本は依怙地な感じがした。

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  • 2010/12/18(土) 14:10:22
選手じゃなくて審判員だが山崎が北海道大学、柿木園が神戸大学出身だな。
それぞれパリーグの審判員だけどね。

ちなみにニッポン放送の松本秀夫によれば
武蔵小杉近辺にはパリーグの審判が多く住んでいるらしい。
毎年新丸子で忘年会やるそうだ。

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  • 2010/12/18(土) 14:42:31
1950年代の大投手、野球殿堂入りもした荒巻淳は現在の大分大学出身、
同時期、東映フライヤーズのセカンドだった稲垣正夫は千葉大出身。

>>78
神戸大学にはヤクルトの投手、塚本浩二もいるね。


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  • 2010/12/18(土) 20:16:32
勉強ができる奴ってのは普通に尊敬できる
嫌なことでもコツコツ努力できるってことだから
好き勝手ばっかやってる典型的な体育会系の筋肉バカとは違う
松家にはホント頑張ってほしいわ

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  • 2010/12/18(土) 21:34:18
勉強を「いやなこと」と思ってないんじゃないの?

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  • 2010/12/19(日) 01:45:04
>>65
高校が青木にどうして指定校枠を与えたのかまで
知ってるの?当時の高校教師と知り合い?
それとも憶測?

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  • 83
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  • 2010/12/19(日) 11:24:00
運動部員(吹奏楽なども)が指定校枠で入ってくる際の慣例
同じ成績だったら部活動やってて上でも続けるという子を推薦する。

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  • 84
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  • 2010/12/19(日) 12:37:40
広岡の学生時代は、体育会系が大学の授業に出る自体異例だったらしい

あと元西武金森が早稲田に一般入試で現役合格してるな。受験勉強を3ヶ月ほどしかしなかったらしい

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  • 85
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  • 2010/12/19(日) 14:57:35
一茂も立教高校に一般入試で合格なんじゃね?
中学では野球やってなかったし。

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  • 86
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  • 2010/12/19(日) 19:52:57
>>52
広岡は広島大学への進学を希望していたらしいが、
早大の練習会で目をつけられ、法学部だけ受験した。
ところが一緒に受験した野球部組(セレクション通過組)全員不合格。
宿泊費もないので広島に帰ろうとしてたところマネジャーが
宿泊費と受験料を野球部が立替るから他も受けてくれと懇願され
夜間部(第二法学部?)と教育学部社会学科を受験しいずれも合格。
昼間のほうがよいということで教育学部に入学したとのこと。
日経新聞に掲載された「私の履歴書」に書いてあった。
当時の早稲田は教育学部、夜間部の入試は結構適当だったんじゃないかと思う。

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  • 2010/12/19(日) 20:01:24
佐々木さん、どうして元巨人・横浜の仁志とは和解しないんですか?
2003年夏のある夜のCScxでのプロ野球ニュース。
土橋「佐々木さん、仁志嫌いでしょ?」
佐々木「………」
一説には、仁志が佐々木氏を(挨拶したのに)無視したかららしい。仁志も仁志だが、以来口も利かない、
放送中に仁志がかかわるプレーの映像が流れても
『巨人(横浜)のセカンドは…』
では少し大人げないかしら。
仁志、挨拶しなかったのはライバル校のOBという敵対意識に加え、学力面で
妬みもあったから?まさかとは思うけどね…
仁志がどのような形で早大に進学したかは知らないけど…
来年、仁志はプロ野球ニュースの解説者就任きぼんぬ。そして佐々木氏と公開和解式でも。




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  • 2010/12/20(月) 00:38:04
佐々木はああ見えて気難しい面がありそうだからな。
FA入団の影響で生え抜きの高木や屋鋪らが解雇されたからということで、
駒田ともしばらくの間、口を一切聞かなかったという話が当時のスポーツ紙にあった。

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  • 89
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  • 2010/12/20(月) 23:45:49
佐々木って信也でしょ。
早慶だから不仲ってのはないと思うけど、仁志は向こう気が強くて
評論家とか嫌いなんでしょう。
ましてや選手で実績の薄い佐々木氏とかは。(なのに同じセカンドとかいわれると)
むしろ仁志を買ってる老年評論家って少ないのでは。
(温厚ながら内に秘めたタイプが好きそうな関根氏ぐらいか・・・)

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  • 2010/12/21(火) 15:34:33
実働4年の佐々木

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  • 2010/12/21(火) 18:22:11
佐々木って偏見の塊だろ。
昔、巨人がゴンザレスを中途解雇したとき
(まったく打てなかったため)、プロ野球ニュースで
「ゴンザレスは巨人で一番練習していました、
そんな選手を解雇する巨人は許せません」
なんて言っていたが、プロの世界努力じゃなくて
実績だろと思った。
要するに自分には縁もなかった巨人が嫌いなだけ。
湘南、慶應出の過去の栄光しか頭にない馬鹿爺。
息子は玉川大しかいけず・・・。

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  • 92
  • 名無し
  • 2010/12/21(火) 19:51:11
もと広島の堀場も慶応法学部、ただし丸子実普通科は学区内の進学校上田高校とほとんど同レベル、野球のためあえて、丸子実にした、

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  • T−岡田
  • 2010/12/21(火) 19:52:06
どんでん:早稲田→息子:阪大
負け広  :早稲田→息子:灘から阪大医学部

こいつら2chではネタキャラとして確立してるが、実は頭いい家系なんだよな。

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  • 2010/12/21(火) 20:03:13
どんでんも負広もそれなりに収入があって教育にお金をかけられるからだろう。
幼稚園から私立で塾や予備校にも通わせるだけの甲斐性がないと、難関大に入れるのは困難。

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  • 2010/12/23(木) 21:47:45
ハーバード大学出身の大リーガーって
いるのかな?

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  • 2010/12/23(木) 22:55:53
どんでんは北陽に推薦で進学する際、野球部の練習時間とは別に勉強時間の確保を要求したらしい。
それで家庭教師雇って学校のカリキュラムとは全く別に勉強してたらしい。
馬○で有名だった北陽出身とはいえ、侮れない学力があったはず

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  • 2010/12/24(金) 08:01:21
故山際淳司さんのエッセイ「スローカーブを、もう一球」

〜強豪がひしめく関東大会で勝ち残り第53回春の甲子園出場を勝ち取った高崎高校。
ヒーローもなく、ただひたすら自分達のペースで闘い続けた末の勝利。
猛練習とは無縁で、甲子園など夢にも思わなかった秀才校の快進撃を描く〜

このエッセイは、私の母校高崎高校のことを描いたもの。
この本が世に出た頃、私はまだ中学生で、
日々の生活の中での最大の目標は、県下でもトップの進学校である高崎高校へ入学することだった。
「賢い上に野球までも全国レベルなんだ」ということで、
ますます憧れを強めた覚えがある。
入ってしまった後は男子校ゆえ、「うるおいのない高校生活」が待っていたけど(苦笑)
この本に書かれている「先輩」たちは、私より4つか5つくらい上の代に当たるのかな?
もうすでにいいおじさんとして、現在はそれぞれの分野で活躍されているんだろうが、
後世に語り継がれる青春を過ごす事ができたというのは羨ましい限りです。

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  • 2010/12/24(金) 10:13:21
>>93-94
その両名は自身も裕福な育ちだな。
とくに負広は、指名の挨拶に実家を訪ねた阪神のスカウトが
豪邸ぶりにたまげたらしい。

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  • 2010/12/24(金) 16:06:43
>>95
スタンフォード大学ならいる

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  • 2010/12/24(金) 20:44:19
上でも少し話題になってるが、国立高校といえば西東京大会準々決勝、
超満員の昭島球場での、佼成学園との延長18回1-1で引き分け再試合となった試合が印象深い。
中でも連投に次ぐ連投にもかかわらず、18回を投げ抜いた市川投手には
子供ながらに強い感動を覚えたもんだ。
その後の再試合から決勝まで、初戦からだと8試合を1人で投げ抜き、
国立を都立として史上初めてとなる甲子園出場へと導いた
“小さな大投手” 市川投手は俺にとっては、いつまでも永遠のヒーローだな。

甲子園出場が決まった日の、国立駅から学校まで交通をすべてストップして行われた優勝パレード。
大学通りに大群衆が群がった、あの熱狂的なパレードで、
選手と握手してもらったり、目の前で深紅の優勝旗を見た思い出は
一生忘れることはないだろう。

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  • 2010/12/25(土) 11:57:02
松家卓弘

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  • 2010/12/25(土) 13:41:05
やっぱホプキンスでしょ

ゲイル・ホプキンス(Gail Eason Hopkins , 1943年2月19日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州出身の元プロ野球選手(内野手)、医師、牧師。
ペパーダイン大学を経て、1965年にシカゴ・ホワイトソックスと契約。
1968年6月29日にメジャーデビュー。1971年にカンザスシティ・ロイヤルズ、
1974年にロサンゼルス・ドジャースに移籍。
1975年にジョー・ルーツ監督に請われて広島東洋カープに入団し、来日。
主に一塁手として出場し、10月15日の読売ジャイアンツとの優勝決定戦では勝負を決する3ランを放つなどセントラル・リーグ初優勝に貢献。
翌1976年もチームの主軸として活躍した。
1977年に南海ホークスに移籍し1シーズンプレーした後、現役引退。
帰国後は選手時代から勉強を重ねていた医者の道を志しシカゴ・ラッシュ医大に再入学、
整形外科医になりその後ミッション系大学で聖書学も教え始めたという異色の経歴を持つ。
広島在籍時には試合前に広島大学で実験を行っていたことや休み時間に医学書を読むなどということもあったという。
現在オハイオ州で病院を開業し、自らも整形外科医として患者の診察にあたっている。
また、地元大学で准教授として聖書学の講義を担当している。

-wikiより


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  • 2010/12/25(土) 13:51:58
マーティキナート著

●「鉄人」衣笠が憧れるタフな男
世界の「鉄人」衣笠祥雄が、自分よりずっとタフな男だと称える旧友がいる。
衣笠の脳裏に焼きついているのは、その男が試合前のロッカールームで本を読みふけっていた姿だ。
スポーツファンには、それぞれ絶対に忘れられない場面がある。私の場合、
イチローがメジャーわずか8試合目で見せた「ザ・スロー」が、脳裏に焼きついている。
あれは2001年4月11日だった。1塁にいたオークランド・アスレチクスの俊足テレンス・ロングが、
ライト前のシングルヒットで愚かにも3塁を狙い、イチローの鋭い返球に刺されたのだ。  
そして選手自身にも、生涯、忘れられない場面がある。  
先週、私は日本野球界の「鉄人」衣笠祥雄と、1975〜76年に広島東洋カープで衣笠とともに戦ったゲイル・ホプキンスと会った。
2人の思い出話は尽きず、静かに敬意を表したかと思えば、笑いが止まらなくなるときもあった。  
衣笠は1975年シーズンを、昨日のことのように覚えている。
「ゲイルの入団が決まってすぐに、当時のジョー・ルーツ監督から、僕が10年間、守っていた1塁から3塁に移ってくれと言われた。
ゲイルが1塁を守れるようにさ。でも、別に気にしなかった。だって、僕のほうがゲイルより足があって(守備範囲が広く)、肩もいいからね」
衣笠はそう言うと、温かい笑顔を見せた。  
ホプキンスはシカゴ・ホワイトソックス、カンザスシティ・ロイヤルズ、ロサンゼルス・ドジャースで7年間、
メジャーリーガーとしてプレーした後、日本に来た。彼は衣笠に反論したりしなかった。
「そう、そう。僕はあまりに足が遅いから、『ゾウ足』と呼ばれていた。今でも電子メールのアドレスに、その名前(zoashi)を使っているよ」

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  • 2010/12/25(土) 13:53:24
●野球選手になって、医師になって、宣教師になる  
衣笠の伝説を知らない人や、よく覚えていないという人のために、彼の見事な実績をおさらいしておこう。
1970年10月19日から87年10月22日に引退するまで、京都生まれの衣笠は2215試合に連続出場した。
この数字は、96年6月14日にカル・リプケン・ジュニアが更新するまで、輝かしい世界記録だった。
野球殿堂に名を連ねる衣笠は、23年間の現役生活で通算504本塁打、1448打点。84年にカープが4度目のリーグ優勝を果たし、
3度目の日本一を達成したシーズンには、セ・リーグのMVPに選ばれた。
しかし衣笠がとりわけ記憶に残っているのは、75年シーズンだという。
「その年にゲイルがやって来て、僕たちは勝てるんだという信念を植えつけてくれた。
(広島は)それまで一度も優勝していなかったんだ。ゲイルは体のあちこちを痛めていたのに全試合出場して、
ホームラン(33本)と打点(91点)はチーム1位だった」
「あれはシーズン129試合目(10月15日)、後楽園球場でジャイアンツと対戦したときだ。
9回表にゲイルが逆転の3ランを打ったとき、僕は優勝したと確信した。あの瞬間は絶対に忘れない。
僕の野球人生で、まちがいなくトップ5に入る思い出だ」  
もうひとつ、衣笠が昔のチームメイトについて忘れられない光景がある。
練習や試合の前のロッカールームで、ホプキンスが生物学のテキストや医学書を読んでいた姿だ。
「ゲイル、ずっと聞いてみたかったんだけど、医者になろうと思ったのはいつごろ?」
衣笠の目は、あこがれのスターに会ったときのように輝いていた。
「プロの野球選手にも医者にもなれるなんて、どうしてそんなふうに思えたの? 
日本では野球選手なら、目標はそれだけだ。僕にはずっと野球しかなかった」
「18歳でペッパーダイン大学に入ったとき、人生で3つの目標を決めた」とホプキンス。
「野球選手になること、医者になること、宣教師になること。
そして、神のおぼし召しにより、3つとも達成できそうだ」

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  • 2010/12/25(土) 13:55:08
●シーズン終了とともに医学校へ入学  
実際、13年間の野球生活のあいだも、ホプキンスは勉強を中断することはなかった。
現役中の74年には、生物学の博士号を取得している。75年から医学校へ進むつもりだったが、
長年低迷していた広島カープがホプキンスを説得。
1年契約には、75年シーズンの終盤に優勝は無理だと決まったらすぐに、日本を離れてもいいという条件が入っていた。
ホプキンスは、9月には帰国して医学校の新学期に間に合うだろうと考えていたのだ。  
ところが、優勝争いは広島を交えて最後まで白熱した。そしてホプキンスは、医学校に進む計画を延期したことを、
今も後悔していない。
「あの1975年は、僕たちみんなにとって、本当に特別なシーズンだった。最後の巨人戦を終えて広島に戻ったとき、
ある年配の男性が僕のところに来て、『もう死んでもいい』と言った。
平日に急きょパレードをやったのに、40万人も集まってくれたんだ。僕たちは広島の市民に誇りを与えることができた。
だから、帰れるはずがなかったよ。76年も広島で過ごすことにしたくらいだ」  
76年のシーズンが終わるとすぐに、ホプキンスはシカゴのラッシュ医科大学に定時制で入学。
77年も日本で南海ホークスのユニフォームを着た。
引退後の78年から学業に専念し、86年に整形外科のドクター・ホプキンスとなった。

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  • 2010/12/25(土) 13:56:41
●与えられた才能のすべてを最大限に生かすこと  
そして、外科医として17年間、活躍したホプキンスは今年で60歳。第3の人生を歩もうとしている。
「フルタイムの外科医は引退して、10月1日からは、ウエストバージニア州にあるオハイオ・バリー・カレッジという
小さなキリスト教系の大学で、生物学の教授になる。これが僕にとっての宣教師の道だ。
たぶん野球チームも手伝えるだろう。今週、学長のロバート・スティーブンス博士といっしょに日本へ来たのは、
日本の学生を呼ぶためだ」  
かつては世界一タフな野球選手だった衣笠は、この旧友は自分よりずっとタフで、少なくとも精神的にははるかにたくましいと感心していた。
「僕にはとてもできないよ」衣笠は何度も言った。
「2つや3つの分野のトップレベルで抜きん出るなんて、日本ではありえない」  
だが、ドクター・ホプキンスは「できるはずだ」と言う。
75年に広島が優勝したときのヒーローは以前、次のように語っていた。
「日本でも、まちがいなくスカラー・アスリート(秀才アスリート)になれたと思う選手に何人か会った。
頭脳はまったく問題がなかった。
ただ、彼らは野球しかやっていなかった。ちょうど会社員みたいだね。
昼も夜も会社に身をささげ、家族との楽しい生活を犠牲にしても仕方がないと思い込んでいる人たちだよ」
「日本のチームメイトも友人も、バランスの取れた生活を送っているようには見えなかった。
すべてのエネルギーを、たった1つの目標に注ぎ込んでいるみたいだ。悲しいことだね。
神様は、すべての人にさまざまな才能を与えてくださっているのに。
与えられた才能のすべてを最大限に生かすことは、僕たちの義務なんだ」

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  • 107
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  • 2010/12/25(土) 14:14:35
岡田は雑誌「ナンバー」でのサッカー岡田との対談で
早稲田卒業してないことがバレちゃったけどな。

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  • 108
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  • 2010/12/25(土) 18:47:01
>>85
今年、広島を引退した広池も立教高校に一般入試
元日ハムのデブ矢作もそうだったはず


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  • 109
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  • 2010/12/25(土) 19:18:16
元阪神の山崎一玄の名前がまだ出てないけど
彼も東大行けてた位の学力だったようで
阪神に指名された時東大か阪神かの二者択一だったそうだ
今は阪神の打撃投手
果たして人生の選択としてはどうだったのか・・・?




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  • 110
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  • 2010/12/25(土) 19:59:52
山崎って頭も良かったの?
新庄も一目置くイケメンで、野球も上手くて……
モテモテだったんだろうなぁ。

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  • 111
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  • 2010/12/25(土) 20:11:15
「山崎は東大にも行けた」ってのは都市伝説だろ。
静岡高校自体は確かに進学高だったけど。

それならば厚木高校卒の横浜川村も「東大伝説」があってもおかしくない。


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  • 2010/12/25(土) 20:32:02
最近は高校側が野球ばっかりの学校というイメージを払拭させようとして
色々工作するから解らんな。
履正社の岡田が「自分の出た学校は進学校なんですよ!」と力説していたのは違うだろうと思ったが。

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  • 113
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  • 2010/12/25(土) 21:45:40
東大いけるような頭脳の持ち主ならば、
退団後受験勉強して大学いくだろう。


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  • 2010/12/25(土) 22:09:43
大学いっても大卒の就職先ないぞ。

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  • 115
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  • 2010/12/25(土) 23:12:25
矢作は医者の息子だからな。

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  • 2010/12/26(日) 00:02:25
>>111
静岡県民だけど
静岡高校(地元では静高)は野球推薦みたいなのもやってるから
(今はわからないが、当時は確実にやっていた)。

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  • 2010/12/26(日) 01:10:40
もしほんとに山崎が東大行ってたら、
東大がリーグ戦で4位に上がれたかもしれんな。

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  • 118
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  • 2010/12/26(日) 14:08:32
あの頃は静高から、よく投手が入ってたし。
望月→広島、赤堀→近鉄
彼らの同期でそのまま社会人入りというのも結構いた。
野球部だと進路は監督が地元出身の駒大、専大あたりが多かった。

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  • 2010/12/27(月) 15:56:07
>>1にも出てるが、同世代として(若干自分の方が下だが)
文武両道といったら何と言っても元ベイの川村だな。
厚木高校(県内5本の指に入る公立高校)→立教大
当時の神奈川の公立は推薦なんてなかったし、3年夏まで野球やってて
現在と違って私大バブル絶頂期の立教に現役合格ってのは
並のアタマじゃ絶対ムリだろ。
今だったら、さすがに東大とは言わないが立教以上のレベルは
確実に行けてたはず。

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  • 120
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  • 2010/12/27(月) 16:24:43
昔の厚木高は、学校の授業のハイレベルさについていけず
授業に出ないで相模川の河川敷でぼうとしている生徒がよくいたらしい

お絵かきランド
フリックゾンビ
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