1987年のプロ野球を語ろう [sc](★0)
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- 2011/12/06(火) 02:55:39.32
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「閣内不一致」
87年6月6日、事の発端は札幌円山球場で起きた。阪神は2連敗中、ここまで11勝29敗。この日も5位・大洋に2−4とリードされていたが
8回表に絶好機を迎えた。先発・新浦壽夫を攻め立て先頭の真弓にバース、岡田とクリーンアップ3人が出塁し無死満塁。
しかし六番・佐野仙好は左飛で一死、この後だった。
この日先発で出ていた新人の七番・八木裕、3年目の八番・嶋田宗彦をそのまま打たせて、結果は八木の内野ゴロの1点だけで追いつけず。
試合は3−6で敗れた。
その夜の宿舎、吉田監督の部屋を打撃コーチ竹之内雅史が訪れた。柏原純一と田尾安志が代打で残っていながら勝負を捨てたかのように
若手にそのまま打たせたのが不満だったという訳だ。しかし吉田は、若手育成の方針はコーチ会議でチーフ打撃コーチの並木輝男にも
確認済み。話し合うなら並木も交えるべきと言って聞かなかった。竹之内はならばと並木を伴おうとしたが運悪く外出中、しかも
門限ギリギリに戻って来た。怒りが収まらない熱血漢をヘッドコーチ・土井淳が「指揮官は一人、組織の中の者として・・・」と説得。
しかしそれを振り切った竹之内は翌日の試合前に吉田に口頭で「辞めさせていただく」と告げると単独で帰阪、厳罰も覚悟の上だった。
吉田はそれでも「意見はコーチ会議で堂々と」の持論を曲げなかった。そして会議後に反対してきた事が許せなかった。対して竹之内に
してみれば、起用されないベテランの気持ちを代弁しようという気でいたのか。しかしこの一件だけでこれだけの直接行動に出るとは思えず、
前々から吉田采配に不満を抱えていた事が窺える。この前後あたりから「一蓮托生内閣」は綻んでいった。
6月8日、吉田は球団社長の岡崎義人と竹之内の処遇について話し合いを行った。岡崎は出場停止を経ての復帰か、もしくは二軍への
配置転換を提案。だが吉田はこれを拒否、理由はどうあれ立派な職場放棄だと思ったからだ。
ただでさえ前から軋轢が生じていた吉田と岡崎。竹之内は16日に退団したものの、吉田は突然チームを去るような人間に甘い岡崎ら
フロントに一層不信感を強めた。
吉田も非常に苦しんだ低迷の87年だったが、頑なとも言えた負けん気の強さは全く変わらなかった。藤本定義、星野仙一、岡田彰布、
そして吉田とやはり少々アクが強いと言われるぐらい個性的な監督でなければ阪神ほどの球団を優勝に導けないという事なのか。 (了)
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- 2011/12/08(木) 18:11:00.87
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前年に優勝出来なかったのに何でぬるま湯キャンプになるのかが不思議…
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- 2011/12/08(木) 21:27:07.11
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だけどラッキーゾーンだったから
投手力だ守りだとなると、編成そのものが間違ってた
後ファームがタイガースはほぼ機能してなかった
村山はそれを危惧し、マスコミを使い少年隊と煽り一応の成果はあったが、85年の破壊力は格段に落ち、バース・掛布と飛車に角にどんどん抜け、暗黒時代となった
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- 446
- 2011/12/08(木) 21:28:05.72
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前年がストライクゾーンの改定やら掛布の骨折やらと躓きが多かった
それでも3位なんだから…という油断だろうな
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- 447
- 2011/12/08(木) 21:34:22.86
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確かに掛布の骨折は痛かったが、結局翌年には掛布の復活が最大の補強やと、今の金本みたいに衰え著しいのに煽ったマスコミも悪い
87年なら、ホーナーを獲得出来た
考えてみればヤクルトのヘッドは元阪神監督安藤
取れなかった訳ではない
1右 真弓
2遊 和田
3一 バース
4三 ホーナー
5二 岡田
6左 中野
7中 大野
8捕 木戸
掛布は代打
こうすれば、別に無理に少年隊なんてする必要もないし、競争意識は確実に芽生えた
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- 448
- 2011/12/08(木) 21:42:31.64
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でもそれやるとキーオを取らないって事になるからね
86年は池田も故障で5月に居なくなってる
投手のキーオ補強は間違ってなかった
でもチーム内の緩みはどうにもならんかったんだろう
その投手陣も蓋を開ければ池田・工藤・伊藤文が大誤算だった
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- 449
- 2011/12/08(木) 23:02:17.56
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やっぱり当時を知るトラキチにとっちゃこの年は絶対忘れることの出来ん忌まわしい年なんだな・・・
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- 2011/12/09(金) 07:46:11.09
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>>447
87年オフにホーナーを取るってこと?本人はメジャー志向強かったらしいし無理じゃなかったかなあ?
安藤がヤクルトコーチってのも別に強みにはならんだろうし
安藤がホーナーと強い信頼関係を築いた上でヤクルト退団で阪神に戻ってきてた、なら話は別だが
そして「少年隊なんて要らない」と言いつつ貴殿のスタメン案にはしっかり3人とも入っている件
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- 451
- 2011/12/09(金) 15:26:04.42
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この頃の阪神は、よっさんが将来に向けて「土台作り」なんて口にしていたものだけどね
作ろうとする前に、足元が決壊した感じだった
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- 452
- 2011/12/09(金) 17:01:46.63
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江川引退には当時4歳児だったにも関わらず本当に落胆させられた
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- 453
- 2011/12/09(金) 17:19:14.08
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禁断のツボ
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- 2011/12/09(金) 18:22:51.45
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いきなり日本一だからな
土台もクソもなかった
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- 455
- 2011/12/09(金) 18:27:45.40
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少年隊以外にいなかったから
はっきり言うなら他球団なら和田も大野も中野も二軍
だけど後が横谷だ宮内だ山口だ
独立リーグクラスだからね
しかもじゃあその次となるともう佐野だ柏原だだから
だから吉竹や北村のトレードは意味がなかった
MBSの赤木もいい加減だからな
今年安藤元会長と実況した時、若手の柴田がヘマばっかりしてるの見て
『塀際の魔術師北村さん。守備はすごかった吉竹二軍監督』
当時
『吉竹も北村も非力ですからねえ』
喉元過ぎればかよ
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- 456
- 2011/12/09(金) 18:50:04.80
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吉竹を出してしまったのが解せないね
交換相手の田尾は中日でも西武でも喧嘩別れして出された人
いくら田尾が阪神志望でもお家騒動の元祖で何も起きないわけがなく…
選手としても峠は越えていた
一方の吉竹は西武の準レギュラーで黄金時代を担う一員に…
もっとも阪神のトレード下手は毎度の事だけどね
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- 457
- 2011/12/09(金) 19:12:32.31
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弘田、長崎、柏原とベテラン打者を取って(それなりに)再生させちゃってたからな
つい目の前の成果(優勝)目当てに手を出すのもわからないでもない
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- 458
- 2011/12/09(金) 19:22:41.31
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>>457
田尾の場合はまさに成功体験の呪縛ってやつだろうな。トラキチも関西マスコミも
この年の開幕前は大はしゃぎだっただろうからね。
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- 459
- 2011/12/09(金) 19:53:02.96
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数年先の大野のトレードもそうだけど
なんでこのチームはセンターラインの選手を簡単に出すのかねぇ?
この年の布陣は左翼・柏原or佐野 中堅・田尾 右翼・真弓でスタート
どう見ても守りの野球って布陣ではない
田尾を再生させるにしても守りの負担が余りに大きすぎたのではないかと
いくら85年が打ち勝ったとはいえ、中堅は弘田を中心に吉竹・北村と守りの人で締めていた
優勝の経験が何かを狂わせてしまったんだろうな
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- 2011/12/09(金) 22:56:40.37
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>どう見ても守りの野球って布陣ではない
よそも外野守備に注力してない時期だからね。攻撃を指向しても悪くはない・・・と思う。
1987年のおもな布陣(左から)
巨人:松本−クロマティ−吉村
中日:大島−平野(彦野)−川又
広島:ランス−長嶋−山崎
ヤクルト:杉浦−荒井(小川)−広沢
大洋:アドゥチ(加藤博)−屋鋪−ポンセ
で、この年の日本シリーズでクロマティがやらかすと・・・
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- 2011/12/10(土) 08:48:36.83
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弘田も長崎も柏原も、本当に峠を越えた訳でなく、世代交代の流れで来たから、環境を変え、やはり観客の緊張感や高揚感で刺激が入り変わったんだと思う
しかしそれは刺激であって、その刺激を覚えたフロントが、そこを強化しだしてから悲劇が始まった
つまり楽を覚えたって事
それこそ
金森 古屋 高橋慶etc
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- 2011/12/10(土) 20:46:08.08
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ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Toys/3270/bpbori/ese-t.txt
これ思い出した
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- 463
- 2011/12/11(日) 09:03:22.82
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田尾は西武に移籍した85年からパッとしなくなったな その前年まで中日でよく3割打っていたのに
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- 2011/12/11(日) 10:35:30.92
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>>459
結局今振り返って見りゃ土台作りなんて言ってた吉田の監督復帰早々
なまじ優勝、日本一になってしまったことで、その後の20年近くの運を
思いっきり先食いしてしまったって感じだったな。
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- 465
- 2011/12/11(日) 10:41:07.23
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そう考えると、85年の猛打優勝伝説が無ければ、
意外と90年代とかに一度くらいは優勝してたかも知れんね。
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- 466
- 2011/12/11(日) 11:46:19.95
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大洋の遠藤が好調で
シーズン序盤から快調に飛ばして勝ち星を積み重ねていってたっけ.............
この年途中でのアキレス腱断裂がなければこの年何勝までいってたんだろうか.......
その大洋は古葉監督の初年度
期待されてたんだけどね...........
そういえばすぐに退団していったレスカーノって一体なんだったんだろ?
まぁその後釜があのパチョレックだったんだけど
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- 467
- 2011/12/11(日) 12:51:40.29
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>>466
前年のドラフトで阿波野を取り逃がしたことが完全にケチのつき始めだったな。
そういや大洋時代はウェーバー制のクジ引きになって以降1位で競合した選手は
89年の佐々木以前は84年の竹田以外全て外し外れ1位もこの年の盛田以外は結果的に
全て残り滓だったからな(竹田にしても事実上同じ結果だったが)。
古葉もドラフトに於けるチームの余りにクジ運無さ杉の積み重ねに泣かされたってことだな。
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- 468
- 2011/12/11(日) 13:00:03.92
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遠藤がケガしたのって、巨人が優勝する直前だったから、
増えたとしても1つか2つくらいじゃないかな。
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- 469
- 2011/12/11(日) 14:05:38.83
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>>463
1985年の田尾は5月末までは快調に3割打ってたな
広岡いわく、「田尾『パリーグの投手の癖がわかるんですよ』」
で、投手側が癖を修正してきたとたん一気に打率急低下。
広岡氏の結論:癖とかを盗んで打っても本来の実力がなくちゃだめ
87年の話とはスレ違いでスマソ
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- 470
- 2011/12/12(月) 20:25:39.87
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結局古葉野球は、山本衣笠がいてこそ出来た
大洋にはいなかったって事
ポンセは外人だし、田代は山本衣笠タイプではない
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- 2011/12/12(月) 23:18:05.16
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>>461
ただたんにストライクゾーンが低くなって
80年代前半までの選手の多くが沈没したからじゃない
弘田らはまだゾーンの影響で落ちるボールが本格的に流行る前だったから
復活しやすかっただけで
高橋慶彦とか簡単に落ちるボールにやられてた記憶がある
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- 472
- 2011/12/12(月) 23:22:45.03
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>>470
浩二衣笠にも況して北別府を柱とする強力な投手陣がいなけりゃ不可能だったからな。
その投手力が当時の大洋には完全に欠落してたんだから話にならなかったって感じだった。
田代は古葉になってから殆ど干されたな。偶に代打で起用されただけだったし。
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- 473
- 2011/12/13(火) 04:50:08.40
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まあ遠藤、斎藤明夫と軸は有能なピッチャーはいた分最下位はなかったけど、結局頭数が少なかった
後粘りの古葉監督でさえも、大洋の伝統淡白は変えられなかった
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- 2011/12/13(火) 04:53:40.56
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でも急激だったからな
柏原も長崎も佐野も弘田も
移籍一年目に、大観衆と言う麻薬を打っていきなり覚醒し、まるで麻薬が切れたかの様に一斉に衰えたからな
永尾も山川も
だから若手の成長が不可欠だったんだが
本当にいなかった
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- 475
- 2011/12/13(火) 09:50:15.43
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古葉監督はスパイ野球できなかった、って書かないあたりみんな優しいな。
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- 2011/12/13(火) 22:06:03.37
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>>474
佐野は生え抜きだろ。誰と間違えたんだ?
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- 477
- 2011/12/13(火) 22:27:42.02
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>>475
スパイ野球をやろうとしたが、結果的にはスッパイだった…ということかw
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- 2011/12/13(火) 23:05:18.98
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古葉ファミリーのような田舎者には横浜の水が合わなかっただけw
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- 2011/12/14(水) 18:26:47.05
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佐野や柏原や長崎や弘田が急に衰えた事は確か
結局キレイなリンゴの所に腐ったリンゴが来ると、リンゴが見事に腐る見本市だった
腐るリンゴが誰とは言わないが
結局田尾がトレードされ、弘田や柏原や長崎は間違いなく腐った
俺ら信用されてないのかと
なまじ実績あるだけに
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- 2011/12/18(日) 11:35:40.97
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>>479
一番腐ったのは佐野だっただろうからな。田尾が来た途端一気に出場機会自体奪われたからな。
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- 2011/12/18(日) 14:57:37.38
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87の田尾はセンターだろ
無関係
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- 2011/12/18(日) 19:58:06.32
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中日の鈴木孝政が打席に立って、打球がセンター前に抜けたが、
センターからの矢のような送球で1塁でアウト
なんとセンターゴロが記録された
これは確か87年だったと記憶している(違ってたらゴメン) もちろん、1001は激怒していた
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- 2011/12/18(日) 20:20:25.48
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>>481
いや無関係な訳ないだろって。あんだけ外野がいたんじゃ田尾が入りゃポジションは違えども当然誰かが
玉突き的に押し出される形になるからな。
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- 2011/12/18(日) 22:08:08.30
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佐野の成績
86年 107試合 .268(332-89) 14本 35打点 (361打席)
87年 100試合 .240(300-72) 10本 33打点 (316打席)
88年 54試合 .246(65-16) 0本 6打点 (70打席)
その他主要外野手の試合数と打席数の推移(86年→87年)
真弓:123試合558打席→119試合500打席
弘田:73試合208打席→5試合5打席
柏原:107試合345打席→57試合100打席
長崎:68試合96打席→60試合64打席
永尾:80試合87打席→29試合29打席
北村:99試合266打席→106試合363打席
渡真利:8試合10打席→43試合141打席
大野:24試合13打席→82試合101打席
田尾:(トレード)→104試合262打席
思ったより佐野の出場機会は減ってないな。
むしろ9月になって渡真利をスタメン起用しなければ86年程度の打席数も確保できていたかも。
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- 2011/12/19(月) 12:01:24.40
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>>482
http://www.youtube.com/watch?v=bhI0b3e92Ek
動画があった。1987/6/16の中日−阪神戦らしい。
いい当たりのセンター前ライナーが、投手シフトで右中間浅目にいた北村の前でちょうどワンバウンド。
これは怒りたくなるが責められんなw
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- 2011/12/19(月) 21:04:43.31
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吉田監督は、今の金本みたいなレフト固定なんてことはしなかった
外野手は大体外野全ポジションを守らせた
佐野が腐ったのは村山時代
て言うかベテランが反発起こしたからな
吉田時代で劣化したのは弘田 長崎 柏原
まあ一時的な大観衆の魔力で乗り切ったけど晩年だったからな
だから吉田監督は渡真利や大野を使ったんだけど
大野は少年隊で良かったが
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- 2011/12/22(木) 09:54:19.66
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この年からビッグコミックスピリッツで「ブラック・アンド・ホワイト」っていう四コマ漫画
の連載が始まったからよくこの年の事柄は覚えてるわ。
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- 2011/12/25(日) 22:48:01.29
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あるクイズ番組でホーナーの走り方があるものに似てるという事で
子供に評判になっていますが?
という問題で答えは
「スーパーマリオのマリオ」だったんだが
谷沢は「ファミコン北斗の拳のケンシロウ」と答えていた
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- 2012/01/09(月) 18:19:32.95
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荒木大輔10勝9敗
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- 中日58様
- 2012/01/09(月) 18:37:22.08
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被本塁打29 リーグ最多
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- 2012/01/11(水) 00:08:06.53
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和田、大野、中野、八木
それなりに阪神は新戦力が活躍はしたが、いかんせん長打力のある選手が
八木しかいなかったな
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- 中日58様
- 2012/01/12(木) 20:28:25.82
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阪神はこの年、1軍はチーム打率リーグ最下位で 順位もダントツの最下位だったが、
2軍はチーム打率リーグトップで、順位もウエスタン優勝の中日に3ゲーム差の2位だった。
ウエスタン規定打席以上で 山脇、中谷、中野の3人が三割以上の打率を残した。
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- 2012/01/20(金) 20:44:01.59
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【特許訴訟】サムスンがアップルに敗訴 独の特許権訴訟 [01/20] ★2
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1327058030/
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- 2012/02/07(火) 03:18:21.69
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「落合の大きさ」
長嶋茂雄が引退後すぐ、新監督に就任した75年の巨人は球団初の最下位となったが、当時は「長嶋のいない巨人を率いる悲哀」という
声が出ていた。86年に引退後即ロッテの監督に就任した有藤通世のケースでも似たような事が言えた。だが、この場合は
「有藤も落合博満もいないロッテを率いる大きな悲哀」を背負って指揮を執る辛さがあった。
勿論落合と交換で牛島和彦ら4選手が入団、安定度の高い抑え投手の牛島の獲得だけでなく荘勝雄を先発に回せる投手部門のメリットは
あったが、何しろ落合は2年連続三冠王。代わりの選手を新体制が作れるのかが焦点となった。
「ポスト落合」に指名されたのは前年96試合で打率.274、16本塁打の2年目・古川慎一だった。年齢も24とまだ若く、亜細亜大学時代から
の右のスラッガーに期待が集まったが開幕7試合目で早くも死球によって右手首骨折。残ったただ1人の大砲レロン・リーも39歳の高齢
からの衰えと腰痛に悩まされ6月には登録抹消も経験するなど不振。6月以降の四番は故障明けの古川、高沢秀昭、ベテラン山本功児らが
入れ替わり打つなどしたが、どれも長打力に乏しかった。チーム最多の56試合で四番を打った高沢は自己最多の打率.292、27盗塁を
記録したが11本塁打。古川もチームトップとはいえ12本塁打と寂しく、リーも来日11年目で初めて3割を切って9本塁打41打点と
自己最低の数字を残した。
開幕前の有藤は「落合は確かによく打つが、走れない守れないではチームプレーが成り立たない。いなくなってウチの投手は喜んでますよ」
と敢えて選手を束にしてまとめようという意図が感じられるコメントをしていたが、結果的にチームは打撃部門の全てで前年よりダウン。
中でも本塁打はダントツの最下位だった。大砲不在に悩まされ続け、前年比でも本塁打で67、得点で104の減少。機動力野球に転換し
たことで盗塁こそ58個増加してリーグトップだったが、その走者を還す選手がいなかった。古川や愛甲猛ら大砲の育成は翌年に持ち越され
たが、落合の大きさを改めて思い知ったはずだった有藤は敗因に打撃ではなく101失策の守備を挙げた。それは遠回しに落合放出による
機動力野球への転換は決して間違っていなかったという如何にも“土佐のいごっそう”の有藤らしい総括だった。 (了)
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