1987年のプロ野球を語ろう [sc](★0)
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- 422
- 2011/11/23(水) 22:18:45.12
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>>421
野手転向説が流れたのは、この頃だったかな?
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- 423
- 2011/11/23(水) 22:58:56.73
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巨人は日本シリーズで西武に敗北(2勝4敗)。仮に阪急とやってたとしても、勝てなかったのかな?
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- 424
- 2011/11/26(土) 23:29:31.98
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>>421
ほとんど二軍にいたんじゃなかった?
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- 425
- 2011/11/27(日) 05:22:32.47
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低迷というか、そもそも殆ど使われてなかったよね。
この年から巨人ファンになったから、
斎藤が投げてるのを見たのは翌年以降だったもん。
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- 426
- 2011/11/27(日) 11:46:15.26
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>>419
やくみつるはそん時の松本を江川のついでに添えられた埴輪って揶揄してたなw
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- 427
- 2011/11/27(日) 12:07:59.07
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斉藤がプチブレイクしたのはその翌年だっけ?
右打者の肩口からすごい曲がるカーブを投げる
サイドPを見て誰だ?と思った。
この球ってブレイクしてからはあんま投げてなかった気がする。
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- 428
- 2011/11/27(日) 12:14:28.24
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>>425
前年、前々年は結構投げてたよ。1985年は12勝をマークしている。
ただまだ西本、江川、加藤、槙原が主力だったので5番手あたりのピッチャーだった。
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- 429
- 2011/11/27(日) 14:39:42.64
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内容はどうあれ、何だかんだで二桁本塁打の掛布
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- 430
- 2011/11/27(日) 17:33:52.95
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宮本と斉藤は王政権下では本格化できなかった。
めぐり合わせの問題だろうが、この2人が本格化した
藤田巨人は手をつけられない強さになってもうた。
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- 431
- 2011/11/29(火) 22:58:24.73
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江川西本加藤のエースがほんの2,3年の間に
斉藤桑田槙原に世代交代したのは凄かったな。まあ槙原は他の二人より
早く主力として活躍してたけど
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- 432
- 2011/12/01(木) 23:02:02.46
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真弓 ホームラン23
バース ホームラン37
掛布 ホームラン12
岡田 ホームラン17
減ったとは言え、あんなぶっちぎり最下位になるホームラン数ではない
ピッチャーも
キーオ 猪俣 仲田
池田 工藤 伊藤 遠山
で中西に山本
やはり気の緩みだったのだろう
後は開幕戦のヤクルトの荒木の完封
あれで猛打の幻想が崩れた
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- 433
- 2011/12/01(木) 23:20:08.88
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そうそうこの年から野球見始めたから
宮本、齋藤、香田
このあたりの存在すらよくわからなかった
齋藤って投手は名鑑みると成績いいのになんで見かけないのだろうと
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- 434
- 2011/12/03(土) 23:18:20.12
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>>432
下位打線の弱さもあったんじゃないかな?
丁度86→87でラビットが廃止されたと聞くし。
阪神はその影響を一番受けたのだと思う。
阿波野が加入したにもかかわらず最下位に沈んだ近鉄にもいえる。
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- 435
- 2011/12/04(日) 02:33:46.97
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あの時は、阪神は吉竹と田尾をトレードして、よっさんが、田尾は二番、バントはさせまへんといって、田尾不振で自滅
キャンプもベテランは任せとったらよろしい⇒調整不足、開幕広島に三連敗(北別府大野川口)
シーズン中盤、優勝無理や、八木や若手を使おう⇒監督とコーチ不和 コーチ退団(勝てる試合をしていない)
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- 436
- 2011/12/04(日) 14:58:21.83
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この年は北別府が10勝14敗と不振。前年の投手部門タイトル総ナメが嘘のようだった
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- 437
- 2011/12/04(日) 15:25:38.57
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まあ確かに下位打線が弱かったのと、結局掛布やバースがいなくなかった穴埋めが無かった事が全て
後地味だが、佐野や長崎や弘田や柏原がものの見事に衰えた
若手の切り替えが急務状態に陥ったのも原因
来年そうなる気がするんだが
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- 438
- 2011/12/04(日) 15:29:50.50
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開幕戦は甲子園のヤクルト
久しぶりの地元開催で、元首位打者の田尾を獲得しピッチャーは柱の期待かかったキーオ
しかし外人特有の揺さぶりにやられ、ベテラン若松に2ホームランの完封負け
前年は何だかんだで追いついての負けだから先に期待が出来たが、余りの完敗でしかも打撃が持ち味のチームが打てないと言う最悪の開幕戦となった
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- 439
- 2011/12/04(日) 22:49:13.35
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この年からだったかその一年前だったかで、低めのストライクゾーンを
球一つ位低く取るようになったが、阪神はその対策を怠ったのも低迷の
原因と言われていたな。
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- 440
- 2011/12/05(月) 02:19:17.03
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佐野や長崎や柏原が劣ろえたんではなく、使い方が悪いと言って、吉田と並木やったか、一枝やったかが揉めて、コーチやめたんだよな
痛烈な監督批判して
田尾の失敗が、後の高橋慶や佐々木とかの獲得に繋がるから、このミスは痛いよな
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- 441
- 2011/12/05(月) 03:21:40.74
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「看板倒れ」
阪神はぬるま湯キャンプの影響か、開幕カードの新任・関根潤三率いるヤクルト3連戦を初戦を荒木大輔の前に5安打1得点で1−7で敗れるなど
1勝2敗で負け越し。前年の開幕4連敗同様の厳しい船出、しかもこの87年の場合は相手のヤクルトが前年ダントツ最下位だったのが拙かった。
ここから4月下旬以降は最下位まっしぐらに落ちていった阪神だったが、吉田監督が攻撃で押し切ると言った「看板」と言われていた打線は
86年から既に錆びついていた感があった。
本塁打こそトップの中日と28本差しかない140本(リーグ5位)だったがチーム打率.242はリーグ5位・大洋の.259にも遠く及ばない。
3割打者は.320のランディ・バース1人(セ12人中)で、他の主力は真弓明信がセ23位、岡田彰布が同27位、掛布雅之が同32位と大不振。
過去に猛打を誇ったカルテットも、4人合計で85年163本塁打427打点→86年101本塁打273打点→87年76本塁打235打点といったように
急激に数字を落としていった。
この年は当初二番起用していた移籍の田尾安志も期待に沿えず、5月には早くも北村照文や大野久との併用になった。
主力の打撃低下も問題だが、高齢の柏原純一、佐野仙好、長崎啓二らのパワーダウンも響き、弘田澄男の引退に吉竹春樹の放出も
自慢だったはずの打線の貧打に拍車をかけていた。
85年にはセ・トップの141を記録して主軸の猛打を引き出した犠打も87年は半減。元来少なかった盗塁もわずか40個では1試合平均3.5得点
の総得点437でも仕方がなかった。
真弓は「(85年の日本一で)あと何年かはタイガースの時代が続くと思っていたんですけどね」と言い。岡田は「86年の骨折で(四番の)
掛さん(掛布)の衰えが思ったよりも早かった」と寂しくつぶやいた。
岡田は現在オリックスの監督、真弓は11年シーズンまで3年間阪神の監督を務めた。岡田は阪神で5年間で優勝1度を含むAクラス4度も、
オリックスでは盗塁と犠打が少なく2年連続のBクラス。真弓も盗塁の少なさに加え、結果のなかなか出ないベテランへのこだわりが
強過ぎたのかチーム内外から批判を受け優勝する事なく退陣。あの頃の阪神に似た課題を前に85年のV戦士は指揮官として苦しんだ。
(了)
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- 442
- 2011/12/06(火) 00:10:25.24
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掛布 .227 12本 45点 引退した衣笠が .248 17本 48点
これが4番打ってるんだもん勝てない
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- 443
- 2011/12/06(火) 02:55:39.32
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「閣内不一致」
87年6月6日、事の発端は札幌円山球場で起きた。阪神は2連敗中、ここまで11勝29敗。この日も5位・大洋に2−4とリードされていたが
8回表に絶好機を迎えた。先発・新浦壽夫を攻め立て先頭の真弓にバース、岡田とクリーンアップ3人が出塁し無死満塁。
しかし六番・佐野仙好は左飛で一死、この後だった。
この日先発で出ていた新人の七番・八木裕、3年目の八番・嶋田宗彦をそのまま打たせて、結果は八木の内野ゴロの1点だけで追いつけず。
試合は3−6で敗れた。
その夜の宿舎、吉田監督の部屋を打撃コーチ竹之内雅史が訪れた。柏原純一と田尾安志が代打で残っていながら勝負を捨てたかのように
若手にそのまま打たせたのが不満だったという訳だ。しかし吉田は、若手育成の方針はコーチ会議でチーフ打撃コーチの並木輝男にも
確認済み。話し合うなら並木も交えるべきと言って聞かなかった。竹之内はならばと並木を伴おうとしたが運悪く外出中、しかも
門限ギリギリに戻って来た。怒りが収まらない熱血漢をヘッドコーチ・土井淳が「指揮官は一人、組織の中の者として・・・」と説得。
しかしそれを振り切った竹之内は翌日の試合前に吉田に口頭で「辞めさせていただく」と告げると単独で帰阪、厳罰も覚悟の上だった。
吉田はそれでも「意見はコーチ会議で堂々と」の持論を曲げなかった。そして会議後に反対してきた事が許せなかった。対して竹之内に
してみれば、起用されないベテランの気持ちを代弁しようという気でいたのか。しかしこの一件だけでこれだけの直接行動に出るとは思えず、
前々から吉田采配に不満を抱えていた事が窺える。この前後あたりから「一蓮托生内閣」は綻んでいった。
6月8日、吉田は球団社長の岡崎義人と竹之内の処遇について話し合いを行った。岡崎は出場停止を経ての復帰か、もしくは二軍への
配置転換を提案。だが吉田はこれを拒否、理由はどうあれ立派な職場放棄だと思ったからだ。
ただでさえ前から軋轢が生じていた吉田と岡崎。竹之内は16日に退団したものの、吉田は突然チームを去るような人間に甘い岡崎ら
フロントに一層不信感を強めた。
吉田も非常に苦しんだ低迷の87年だったが、頑なとも言えた負けん気の強さは全く変わらなかった。藤本定義、星野仙一、岡田彰布、
そして吉田とやはり少々アクが強いと言われるぐらい個性的な監督でなければ阪神ほどの球団を優勝に導けないという事なのか。 (了)
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- 444
- 2011/12/08(木) 18:11:00.87
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前年に優勝出来なかったのに何でぬるま湯キャンプになるのかが不思議…
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- 445
- 2011/12/08(木) 21:27:07.11
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だけどラッキーゾーンだったから
投手力だ守りだとなると、編成そのものが間違ってた
後ファームがタイガースはほぼ機能してなかった
村山はそれを危惧し、マスコミを使い少年隊と煽り一応の成果はあったが、85年の破壊力は格段に落ち、バース・掛布と飛車に角にどんどん抜け、暗黒時代となった
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- 446
- 2011/12/08(木) 21:28:05.72
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前年がストライクゾーンの改定やら掛布の骨折やらと躓きが多かった
それでも3位なんだから…という油断だろうな
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- 447
- 2011/12/08(木) 21:34:22.86
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確かに掛布の骨折は痛かったが、結局翌年には掛布の復活が最大の補強やと、今の金本みたいに衰え著しいのに煽ったマスコミも悪い
87年なら、ホーナーを獲得出来た
考えてみればヤクルトのヘッドは元阪神監督安藤
取れなかった訳ではない
1右 真弓
2遊 和田
3一 バース
4三 ホーナー
5二 岡田
6左 中野
7中 大野
8捕 木戸
掛布は代打
こうすれば、別に無理に少年隊なんてする必要もないし、競争意識は確実に芽生えた
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- 448
- 2011/12/08(木) 21:42:31.64
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でもそれやるとキーオを取らないって事になるからね
86年は池田も故障で5月に居なくなってる
投手のキーオ補強は間違ってなかった
でもチーム内の緩みはどうにもならんかったんだろう
その投手陣も蓋を開ければ池田・工藤・伊藤文が大誤算だった
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- 449
- 2011/12/08(木) 23:02:17.56
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やっぱり当時を知るトラキチにとっちゃこの年は絶対忘れることの出来ん忌まわしい年なんだな・・・
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- 450
- 2011/12/09(金) 07:46:11.09
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>>447
87年オフにホーナーを取るってこと?本人はメジャー志向強かったらしいし無理じゃなかったかなあ?
安藤がヤクルトコーチってのも別に強みにはならんだろうし
安藤がホーナーと強い信頼関係を築いた上でヤクルト退団で阪神に戻ってきてた、なら話は別だが
そして「少年隊なんて要らない」と言いつつ貴殿のスタメン案にはしっかり3人とも入っている件
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- 451
- 2011/12/09(金) 15:26:04.42
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この頃の阪神は、よっさんが将来に向けて「土台作り」なんて口にしていたものだけどね
作ろうとする前に、足元が決壊した感じだった
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- 452
- 2011/12/09(金) 17:01:46.63
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江川引退には当時4歳児だったにも関わらず本当に落胆させられた
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- 453
- 2011/12/09(金) 17:19:14.08
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禁断のツボ
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- 454
- 2011/12/09(金) 18:22:51.45
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いきなり日本一だからな
土台もクソもなかった
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- 455
- 2011/12/09(金) 18:27:45.40
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少年隊以外にいなかったから
はっきり言うなら他球団なら和田も大野も中野も二軍
だけど後が横谷だ宮内だ山口だ
独立リーグクラスだからね
しかもじゃあその次となるともう佐野だ柏原だだから
だから吉竹や北村のトレードは意味がなかった
MBSの赤木もいい加減だからな
今年安藤元会長と実況した時、若手の柴田がヘマばっかりしてるの見て
『塀際の魔術師北村さん。守備はすごかった吉竹二軍監督』
当時
『吉竹も北村も非力ですからねえ』
喉元過ぎればかよ
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- 456
- 2011/12/09(金) 18:50:04.80
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吉竹を出してしまったのが解せないね
交換相手の田尾は中日でも西武でも喧嘩別れして出された人
いくら田尾が阪神志望でもお家騒動の元祖で何も起きないわけがなく…
選手としても峠は越えていた
一方の吉竹は西武の準レギュラーで黄金時代を担う一員に…
もっとも阪神のトレード下手は毎度の事だけどね
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- 457
- 2011/12/09(金) 19:12:32.31
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弘田、長崎、柏原とベテラン打者を取って(それなりに)再生させちゃってたからな
つい目の前の成果(優勝)目当てに手を出すのもわからないでもない
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- 458
- 2011/12/09(金) 19:22:41.31
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>>457
田尾の場合はまさに成功体験の呪縛ってやつだろうな。トラキチも関西マスコミも
この年の開幕前は大はしゃぎだっただろうからね。
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- 459
- 2011/12/09(金) 19:53:02.96
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数年先の大野のトレードもそうだけど
なんでこのチームはセンターラインの選手を簡単に出すのかねぇ?
この年の布陣は左翼・柏原or佐野 中堅・田尾 右翼・真弓でスタート
どう見ても守りの野球って布陣ではない
田尾を再生させるにしても守りの負担が余りに大きすぎたのではないかと
いくら85年が打ち勝ったとはいえ、中堅は弘田を中心に吉竹・北村と守りの人で締めていた
優勝の経験が何かを狂わせてしまったんだろうな
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- 460
- 2011/12/09(金) 22:56:40.37
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>どう見ても守りの野球って布陣ではない
よそも外野守備に注力してない時期だからね。攻撃を指向しても悪くはない・・・と思う。
1987年のおもな布陣(左から)
巨人:松本−クロマティ−吉村
中日:大島−平野(彦野)−川又
広島:ランス−長嶋−山崎
ヤクルト:杉浦−荒井(小川)−広沢
大洋:アドゥチ(加藤博)−屋鋪−ポンセ
で、この年の日本シリーズでクロマティがやらかすと・・・
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- 461
- 2011/12/10(土) 08:48:36.83
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弘田も長崎も柏原も、本当に峠を越えた訳でなく、世代交代の流れで来たから、環境を変え、やはり観客の緊張感や高揚感で刺激が入り変わったんだと思う
しかしそれは刺激であって、その刺激を覚えたフロントが、そこを強化しだしてから悲劇が始まった
つまり楽を覚えたって事
それこそ
金森 古屋 高橋慶etc
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- 462
- 2011/12/10(土) 20:46:08.08
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ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Toys/3270/bpbori/ese-t.txt
これ思い出した
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- 463
- 2011/12/11(日) 09:03:22.82
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田尾は西武に移籍した85年からパッとしなくなったな その前年まで中日でよく3割打っていたのに
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- 464
- 2011/12/11(日) 10:35:30.92
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>>459
結局今振り返って見りゃ土台作りなんて言ってた吉田の監督復帰早々
なまじ優勝、日本一になってしまったことで、その後の20年近くの運を
思いっきり先食いしてしまったって感じだったな。
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- 465
- 2011/12/11(日) 10:41:07.23
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そう考えると、85年の猛打優勝伝説が無ければ、
意外と90年代とかに一度くらいは優勝してたかも知れんね。
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- 466
- 2011/12/11(日) 11:46:19.95
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大洋の遠藤が好調で
シーズン序盤から快調に飛ばして勝ち星を積み重ねていってたっけ.............
この年途中でのアキレス腱断裂がなければこの年何勝までいってたんだろうか.......
その大洋は古葉監督の初年度
期待されてたんだけどね...........
そういえばすぐに退団していったレスカーノって一体なんだったんだろ?
まぁその後釜があのパチョレックだったんだけど
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- 467
- 2011/12/11(日) 12:51:40.29
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>>466
前年のドラフトで阿波野を取り逃がしたことが完全にケチのつき始めだったな。
そういや大洋時代はウェーバー制のクジ引きになって以降1位で競合した選手は
89年の佐々木以前は84年の竹田以外全て外し外れ1位もこの年の盛田以外は結果的に
全て残り滓だったからな(竹田にしても事実上同じ結果だったが)。
古葉もドラフトに於けるチームの余りにクジ運無さ杉の積み重ねに泣かされたってことだな。
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- 468
- 2011/12/11(日) 13:00:03.92
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遠藤がケガしたのって、巨人が優勝する直前だったから、
増えたとしても1つか2つくらいじゃないかな。
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- 469
- 2011/12/11(日) 14:05:38.83
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>>463
1985年の田尾は5月末までは快調に3割打ってたな
広岡いわく、「田尾『パリーグの投手の癖がわかるんですよ』」
で、投手側が癖を修正してきたとたん一気に打率急低下。
広岡氏の結論:癖とかを盗んで打っても本来の実力がなくちゃだめ
87年の話とはスレ違いでスマソ
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- 470
- 2011/12/12(月) 20:25:39.87
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結局古葉野球は、山本衣笠がいてこそ出来た
大洋にはいなかったって事
ポンセは外人だし、田代は山本衣笠タイプではない
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- 471
- 2011/12/12(月) 23:18:05.16
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>>461
ただたんにストライクゾーンが低くなって
80年代前半までの選手の多くが沈没したからじゃない
弘田らはまだゾーンの影響で落ちるボールが本格的に流行る前だったから
復活しやすかっただけで
高橋慶彦とか簡単に落ちるボールにやられてた記憶がある
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- 472
- 2011/12/12(月) 23:22:45.03
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>>470
浩二衣笠にも況して北別府を柱とする強力な投手陣がいなけりゃ不可能だったからな。
その投手力が当時の大洋には完全に欠落してたんだから話にならなかったって感じだった。
田代は古葉になってから殆ど干されたな。偶に代打で起用されただけだったし。
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- 473
- 2011/12/13(火) 04:50:08.40
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まあ遠藤、斎藤明夫と軸は有能なピッチャーはいた分最下位はなかったけど、結局頭数が少なかった
後粘りの古葉監督でさえも、大洋の伝統淡白は変えられなかった
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