WindowsはUNIXに比べて制限だらけ、なんで? [sc](★0)
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- 634
- 2009/11/29(日) 09:32:10
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>>633
言っての通り自由度の高さを望んでいる。
目くらましの態度とるのが工作員ではないだろうか。
自在がないと自由も実現できない。
資金の自在を放棄することもない。 相互サービスの世界だから間接的に自由を増すことが出来る。
だが、風評被害などを言う前に、風評で過大な利得を生み出したことをも考えるがよい。 意識野狭窄を起こさせるようなアプローチは自らに跳ね返ってくるだろう。
別に、俺は自分の手持ちの資源でWindowsを忌避はしていない。
ノートパソコン選定に伴いプリインストールでついてきたWindowsの旧バージョンは残して使っている。
手持ちの既存リソースも必要に応じて最大限に生かすつもりだ。
内蔵ハードディスクからのOSデュアルブート、外付け優先のOS選択によるブート、USBメモリを使ってのイブ起動。
仮想OS環境のゲストOSも内蔵HDDからの読み込みだけなく、ネットワーク経由の読み込みでもやっている。
さらに、リモートデスクトップ環境も、相互にシンクロしたPC操作のできる環境も用意した。
別に、今どき特別のことではない。
いってのとおり方策・手段を相対化し、それぞれの優劣観を相対化することはできる。 広い視野を持つには必要なことだ。
しかし、ある立場にたって実践するときは、それが必然であるような選択を行って、アナーキーな相対的価値観を越える必要が生じる。
その時はそれぞれ好きな方を選べばよいわけだが、現実的にはそれが自身には普遍とみえるような拾捨選択を行わなければいい加減なものになるだろう。
その感じを述べる者に対して、価値相対的な批判を加えることは当事者の意識の狭窄に気づかせるのには役立つが、それ以外の絶対的な意味はない。
当事者は独自の立場で事態を乗り越えなければならないのだから。
ことをなすのに、ルールーでいくか、趨勢でいくか力でいくか、話し合いでいくか、そのポリスティックミックスは固定していない。 問題の質と大きさによる。
手段が先か目的が先かということも、微妙である。
手立てに見込みがないと目的へ向かうことにためらわれるし、目的・目標の打ち立てが常に明確に立ち現れる訳でもない。
我々は、気づいたときにはいつも宙ぶらりんのかつ具体的な状態にある。
そして、その収拾に向かって枠をはめたり、さらにはその枠から外れようとする。
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