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  • 60
  •  
  • 2002/11/02 07:43
>>59のつづき

いっぽうで、機械に対する人間の制御は依然として残るという可能性がある。
この場合だと、ふつうの人がある種の個人的な機械、自動車とかパソコンとかを
制御できるようにはなるかもしれない。しかし巨大な機械システムを
コントロールできるのはごく一握りのエリートたちだけだろう --
ちょうど今日の状況と同じように。ただし、この状況では 2つのちがいがある。
技術的な進歩によって、その種のエリートたちは大衆に対し、よりいっそう強大な
権力を手にするようになるだろう。人間の労働が必要なくなれば、一般大衆は
過剰で、システムにとって必要のない負荷になる。もしそのエリートが冷酷無比ならば、
かれらは単に余剰の大衆を抹殺するという手段に出るかもしれない。もしかれらが
情け容赦ある人物ならば、かれらはプロパガンダやその他の生物的、心理的テクニックを
用いて出生率を減少させるだろう。ほとんどの大衆が絶滅し、かれらエリートたちだけが
残るようになる。あるいは、もしエリートたちが慈悲ぶかいリベラルであるならば、
かれらは残りの人類たちに対してよき羊飼いとしての役目をはたすことにするかもしれない。
かれらはすべての人の物理的欲求が満たされるようにするだろう。すべての子供は
精神衛生上よい環境で育てられ、すべての人間が健全な趣味に熱中できるようにし、
満たされない人間はすべて“問題”を解決するための“治療”を受けることができるようにする。
もちろん人生はあまりに無意味なものになるため、人々は生物的あるいは精神的な
改造をうけて、権力への要求がとり除かれるか、あるいはその衝動をなにか無害な
趣味に“昇華”させられるようになるだろう。これらの改良人間はそのような社会の中では
幸福かもしれないが、彼らに自由はほどんどない。彼らは家畜と同等の地位にまで
おとしめられることになる。

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