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  • 1
  • まゆしぃKoO
  • 2015/01/07(水) 18:40:41.97
【玉手箱22】神秘の宝石騎士団
     r、
     | l   ____
  ,-‐-、-,l、'´___`゙¨ヾ、、
  l X !_|」)   _\\_l l
  j  Y゙ ノr'´ ̄  .\\| ト、
  [二二ニ7______[_`トュ'l l
  _!     |_,.--───-、_`¨‐- 、
 (_|    i/  ノ‐レ-、/|  `ヽ、 ヽ           
.   |     } / | ,,.=、レ' !_/| / _ノ            
   !    | l |." ヒノ  'lj`レ' ̄             
.  /|     .l「i-ッ"    、 ''l |            
  ,!-l     ヽ、 ヾ__ ー , イ | 
//ノト、 ! l {| ヾ `、)ー'´レヘノ,r==、           
  { ハ_ー - /) |  ヾy<}ー-/´ノ、|!      
  |ヾ、ヾ、 ヾ',、!、   二--'´   〉、
 _/) {| ヽ、  '、,>、  ̄ ̄   _/ _'z
 |_}  ヾ,,_ , ',    `~ヽ、,_,_ノニ=~ ヽ            
/ノ     ~"=;_'、        〈/.λ   〉           
|!         !、 ,      〉'´   /   ◎協賛と支援:本家 神秘の宝石騎士団さん   
          〉=======|ヾ_/             
            /        !ヘ)       本家宝石(宝石91さん)のURL
          /   / |       |'         http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1416210219/l50
前スレ  【玉手箱21】神秘の宝石騎士団
 (open2ch)
前々スレ 【玉手箱20】神秘の宝石騎士団
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/occult/1419817782/l50

ここまで見た
>16の続き

悔いのないように生きるとは言うけど、
言葉のままに採るとそれは、自分が悔しい思う感情があることを認めようとしないで生きるということ。
そして、目の前の鏡に八つ当たりを加え、自分の悔しいという感情を認めずに否定するのでは、
悔いのないように生きることのほうが、幼稚で子供で傲慢な態度と言えるのではないか。
悔いのある人生のほうが、立派で大人な態度ではないか。それは、悔しいという感情を自分の感情として受け入れているということ。
悔しくて涙を流すことのほうが、立派なのではないか。それは、自分の人生に、自分が責任を持とうとしているとても立派なまじめな態度ではないか。
光を見つめる人生ではないか。

そう、前者は、悔いのないように生きる、という言葉の意味を、曲解して捉え、
悔いを「消す」ようにして生きるというふうにしてしまっている。
自分の感情を自分の感情として処理できずに、
消そうとする行動は、みっともないんじゃないだろうか。
現実のほうが自分に合うように変えてしまおうとする態度は残酷なのではないか。現実の悲鳴というのかもしれない。
自分の邪な心を中心に考えるのではなく、一歩引いたところから、自分を俯瞰で客観的に見つめられる思考が必要なのではないか。
自分を律していれば、現実は天使との出会いを約束している、時には。鬼とも出会うけど、鬼は友達。現実に起こることはすべて恵み。同時に苦しみでもある。
表裏一体、不二一体という。相反するもの同士は実は分けて考えられるものではなく、一つにつながっているものである。
緊張とリラックスは不二一体。恋と愛も不二一体。与えることと求めることも不二一体。独立心と依存心も不二一体。自力心、他力心も不二一体。
グラデーションのようにその二つの間に強弱があるだけ。恵みと苦しみも不二一体。天国と地獄も表裏一体。労苦と快感も不二一体、表裏一体。
過ぎたるは及ばざるが如し、行き過ぎるから良くない。調度いい加減を知る。中庸。

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>17の続き

苦しみを否定しようとするほど、かえって苦しみの元となる、
苦しみを引き受けよう、飲み込もうとすると、かえって苦しみは軽減される。
生きている限り苦しみは続くものだから。
こちらが上手に対処の仕方を覚えるしかない。
ストレスはかかるものだから、痛みは伴うものだから、とげは刺さるものだから、
少しずつ克服できるように努めていること。
苦しみを否定ばかりしているのでは、いつまで経っても学べることも学んでいけない。
自己中心的、傲慢なお子様のまま。それでいいのかい?光を見よう。闇は友達にして。愛と光を求めよう。愛を与えよう。与える心、求める心も不二一体。表裏一体。
正しいこと、善のことを選ぼう。なるべく。

ここまで見た
正しい努力・善意の努力、悪意の努力

正しい努力・善意の努力とは、相手、物事の性質・本質を理解することに努め、理解したうえで
少しずつ苦手を克服していこうとすること。

悪意の努力とは、相手、物事の性質・本質を理解しないまま自分の理想を押し付け、
思い通りにしようとして、欲求不満を感情的にぶつけていること。
(それは、赤ん坊かもしれない。それだけ純粋ということでもある。)

過ぎたるは及ばざるが如し。
理想を与えようとするあまり、
行き過ぎた努力は結局相手をダメにしてしまう。
愛を与え過ぎたら、結局ダメにしてしまう。
一歩退いたところから自分の感情は抜きにして、
第三者的な視点で物事、相手の性質・本質を理解しようとしていることが大事。
その上で、少しずつ理想に近づく努力、
物事、相手の現実と、自分の性格上の欠点と、
折り合いの付くところで、精一杯理想に近づくよう努力するのが、正しい努力。善意の努力。

相手の現実と、自分の現実と、
どちらのほうがより優れているかを、
決着を付けたがっていたんだ。
相手の理想と、自分の理想と、
どちらのほうがより高度な知恵であるかに、
優劣を付けたがって、競っていたんだ。

彼らにとっては、負けるわけにはいかない執着があったのだろう。
自分が自分で居るための手段として、
ああするしか方法がなかったのかもしれない。

ここまで見た
>19の続き

赤ん坊のように欲求不満をぶつけるという。

鍛えてくれてありがとうございます。
勉強になりました。
南無阿弥陀仏。

赤ん坊のように振舞うことでしか、
自我が保てなかった、彼らの性質を理解してあげよう。
自分が自分で居るための努力として、
彼らも必死だったんだよ。

命を限界まで張って、生き抜こうとしている人に、
追い詰めちゃいけなかったんだよ。
彼らは、頼れるものが内側に少ないから。
常にいっぱいいっぱい。

自分の理想と少しでもちがうことをされると、
すぐに彼らは自我を保つのが難しくなり、
それでも生き抜こうとするから
爆発するしか手段がなくなってしまうのだろう。

そして、かくなるうえは、自分が性格の欠点を改善していこうとする、
周りを見渡す余裕が彼らにはないから、
自分が変わろうとするのではなく、
現実のほうを否定しようとする行動に出てしまうのだろう。
恐怖から逃れたい一心で。

幼い時、学ぶべき時期に、学ぶべき両親の愛情を与えてもらえていなかったことが原因でしょう。
大人になってからでも、何かを学ぶということに、遅いということはありません。
コンプレックスを刺激されて、余裕をなくして、攻撃的に感情的に振舞ってしまう人がいたら、
一人一人がその方の親の役を買って出て引き受けて、その方に欠けている愛情を補給してあげる。
人類皆家族の地点で、そういう学び合いってのもよいのではないでしょうか。

ここまで見た
>20の続き


どんなに痛めつけられても、君がわかるまで教えてあげるよ。と。
君が行き先を見失ったら、こっちだよと言って、手を引いて導いてあげるようなつもりで。

他の人なら難なくこなせる要求も、彼らには無茶苦茶な要求として感じられてしまうこともあるのです。
頼るものが内側に少ないですから。
彼らの中には、みんなとちがうことで引け目を感じて、恐怖が煽られてしまうのでしょう。

彼らに与えるべきものは、偉大なる神の愛の内に包まれている安心と信頼を回復すること。
だから安心して進め。灯台は自分だよ。
失敗しても挽回できるよ。失敗しても愛されるよ。
無様な自分も認めてあげて。それも自分だよ。
成功した自分にも、失敗した自分にも、誇りと恥を持っていいんだよ。
みんなちがう人間なんだよ。嗜好は千差万別なんだよ。
みんなと同じでないことも許してあげて。
ちがいを認めてあげて。
誰もが、純粋な笑顔なら、可愛くなるんだよ。
笑うんだよ。ニッコニコ。
嘲って笑っちゃダメだよ。心に嘘をつく笑いはやらないほうがいいよ。
あったかく笑うんだよ。

ここまで見た
最も低いハードルは、最も高いハードルと重なる。

どんなにうぬぼれて高いハードルを目指しても、
あなたの人格に合ったハードルが用意される。

まずは最も低いハードルから乗り越えていこう。
やりたいことがあっても、ひとまずそれは捨てる。
(後でやれるときがくるからそのときまでおいておく。)

やりたいことを邪魔してくること、(面倒くさいこと)
その邪魔と真剣に向き合い、
真剣に取り組み、乗り越えていく。

その邪魔(面倒くさいこと)こそ、最も低いハードルでもあり、
最も高いハードルでもある。(理想的な)

自分はもっと高いレベルの仕事ができると自惚れている。
たとえそうだとしても、低いハードルのほうが合っている。
結局、高いハードルを目指して努力しても、
用意されるハードルは同じ高さのものでしかないのである。
小さな仕事をマルチにこなしていくのである。
存在しないレベルの高いハードルを探すより、
用意されている最も低いハードルから乗り越えていくほうが
近道なのである。(人格向上・夢に近づく)
身近にある最も低いハードルこそ同時に最も高いハードルでもある。
鍛えてくれるものとしては、これで充分に事足りることを知る。
遠くにあると思い込んでいるレベルの高いハードル。
理想が高いほどハードルも高いと思っている。
そんなハードルはこの世にはないということ。
高すぎる理想はすべて妄想。
妄想はコントロールして、自分の中だけで楽しめば良いのである。
妄想を現実に追い求めるのは悪徳である。
それは「ない物ねだり」。幼いことです。
自分の器を知るのです。
私がそうします。

ここまで見た
闇の制御不能に陥らないための祈り

頭を叩いて教え導くのは間違った悪い教育。
頭を撫でて教え導くのが正しい愛にあふれた教育。
頭を叩きながら教えていたのでは、ちゃんとやらないと怒られるという先入観を植え付けることになる。
これだと、ちゃんとやれる人はいいけど、ちゃんとやれない人は次第に自信が持てなくなる。
うまくやれないことは軌道修正の手ほどきをするけど、それまで努力した面は
ちゃんとやれなくても頭を撫でてほめてあげる。
結果にフォーカスを当てて、それがすべてというわけではなく、それまで下手なりに、
未熟なりに、頑張った部分、過程を、線を見てあげる。
よく頑張ったね。偉い。ここまではやれたね。勇気は尊敬に値します。
君は何かの分野ではチャンピオン。
自信を持てなくなった人は、自分のやられていたことと同じ事を人にもするようになる。
すなわち、うまくやらない人は頭を叩いて教え導こうという間違った悪い教育事を。
突然咆える人は、追い詰められて余裕をなくしているから、恐くて、自分を守ろうとして攻撃的になっている。
ちゃんとやらないと頭を叩かれる、怒られるという恐怖と葛藤をして。
ちゃんとできなくても、努力したのなら本人の頭を撫でてあげることの大切さ。努力をした過程、
線の部分を認めてあげることの大切さ。
全人類が、もっともっと、知っていくべき。
結果という点にばかりフォーカスを当てて評価してしまう私達の安易さ。
本当に問題があるのは現象ではなく、自らの未熟さを自らで省みる力がなくしかけていることを見抜けない、私達一人一人の心ではないか。
評価を求めているばかりで、与える評価、ほめる、認める、ということを忘れてしまっている私達のほうではないか。
トラウマからくる恐怖に、心に嘘をついてまで抗おうとする人は、救いの手を求めている人。
恐怖への正しい対処の仕方を教えてあげること。
攻撃に出なくても大丈夫。ぼくが来たから安心して
ぼくは君の頭を叩いたりはしないよ。それでも君がぼくを信じることができなくて、
攻撃に出るというのなら、いくらでも叩けばいい。ぼくはその痛みを受け入れるよ。鍛えてくれてありがとう。

ここまで見た
>23の続き


恐怖があるのなら、まずその感情を受けとめること。
 手放したい感情がある時は、その感情を否定しようとするのではなく、(無理に抗うのではなく)
 まずは一度容認すること。
放す、という作業をするためには、一旦つかむ、という作業が必要。
 心の両手で一旦キャッチ。恐怖という感情を否定すべきものととらえるのではなく、
大切に愛でながら育むものとしてとらえる。
そして、ゆっくりと握っていた掌を広げるように
 恐怖という感情に押し潰されそうになっていた自分も、
 恐怖という感情をコントロールできる自分がいることに気づくはず。
心の中から外へ追い出したいものはいっぱいあります。
不安、恐怖、痛み、良心の呵責、猜疑心、幼稚さ、醜さ、弱さ……。
 まずは容認すること。その次に自分の感情は自分の責任としてコントロールすること。
 人の心を自分の心に、相手の都合を考えないまま、強引に同調させるようなことはしてはいけない。それが争いの種。
相手の心と折り合うことの大切さ。おもいやり。人への敬いを忘れてはならない。
嫌だと思うものを敵にするのも味方にするのも自分しだい。
人間である以上、心の闇とおさらばすることは、生きているうちは不可能。
仲良くするしかない。
闇は消えない。 限りなく味方にして、限りなく弱めて、その場の状況に合わせて小さくしたり大きくしたりするコントロールする術を身につける。
闇の制御不能に陥らないための祈り。 正しい教育に目覚めるように。
世の中の親達、大人達が。人が。人の道をはずすことのないように。

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幼さの神には、大人は勝ってはいけない。

なぜなら、相手の幼さに負けじと、こちらも幼さで対抗しようとすると、
相手より、もっと幼い事をやってしまいかねないから。
大人は幼さの神に勝ちを譲り、負けるのが義務。

人として最も恥ずかしい行為は、
大人が幼さの神に力ずくで勝ってしまうこと。

幼さの神を頭を叩いて屈服させようとしてはいけないのです。

幼さの神は自分より敬うべき存在として見るべき。
だからといって幼さの神は自分の幼さをそのままでよしとするのではなく、
自分の幼さとは謙虚に向き合い、反省していけるように、
大人が慈愛と寛容と忍耐で教え導く。
幼さの神は大人を鍛えてくれる有難い問題集。

だから、叩いていいはずはない。
相手の闇が伝染するとは、この事なのである。
幼さの神に本来理性的であるはずの大人が、
幼さで対抗してしまうこと。幼さの神に大人は勝ってはならぬ。
良い面を見つけて、おだててあげるのです。

ここまで見た
悪いわがまま 良いわがまま

良いわがままは、権力の主張をその場でコントロールできること。
且、好きな事、やりたい事のためなら忍耐、我慢ができること。

悪いわがままは、忍耐、我慢ができず、やりたい事、好きな事を
やらせてもらえないと、その場で爆発してしまう事。
権力の主張が屈折すること。

躾が本当に必要なのは、性格の欠点を治していくことができていない、
且、自分の闇を自分でコントロールして味方にすることができていない親のほう。

何も知らない子供は本当に可哀想。
元をたどれば、爆発してしまう人は、本人の気質もあるだろうけど、
本当のもう一つの原因は、
親の闇が伝染していることにもある。

子供にとって頼るべき存在は親しかいないわけですから、
その親の最初の教育が間違っていると、その影響を子供は
何も知りませんからまともに受けるわけです。
間違った教育方針、闇の理念の餌食です。子供は。
治すべきは子供の欠点である前に、まずは親の欠点から。
順序があるのです。この順序を掛け違うから可笑しな怪しい事になってくるのです。
親が治せていない自己の欠点を、子供に直せるわけがないのです。
自分の欠点を治すというのは、本人にしかできないことだからです。
親が本来自分で取り組むべき課題を、自己の欠点を見直し治していくということを、
子供にやらせようと押し付けるのがしつけと思っている幼い親の誤解を解いてあげなきゃなりません。
あなたの性格の欠点はあなたが治していくもの。他の誰かにどんなに押し付けようとしても、
代わってあげることはできないことなんですよ。と。
少しずつ、本人に納得してもらえるように、理知のある私達大人が
慈愛と寛容と忍耐で説明していかなければ。
子供の欠点は子供の欠点。
生まれながらに自分の欠点は自分が治していくという責任を一人一人が担っています。
そこにさらに、親の欠点まで治すという責任を子供に背負わせようとして
闇の理念、間違った教育方針を押し付けてばかりいると、
子供はいずれ爆発してしまうかもしれませんよ。
権力の主張を上手にコントロールできない、屈折した形で表現するようになってしまうかもしれませんよ。
自分の理想を押し付けることが躾ではない。
押し付けるのではなく、教えることでしょう。忍耐で。

ここまで見た
>26の続き

間違った親の教育は、
自分の理想通りの子供になるようにする、そうならないならしつけと表して酷く叩く。
こんなことを繰り返していては、子供の性格も歪んでしまうのも無理はないのではないでしょうか。
支配していいのは自分の心と体だけ。人の心と体まで思い通りになるように支配しようとしてはいけないのです。
自分の物のみならず、人の物をも支配できるほうが優位で偉い、なんていうのは、
闇の理念。間違いです。この間違った教育方針を子供に伝染させてはいけないのです。
子供がもしも、親よりも理知に長けているのなら、ダメなものはダメと、間違った理念を正しく否定して
訂正してあげるのも親孝行です。

自分以外の人の心と体を私物化してはいけない。
自分以外の人の心と体を支配しようとしてはいけない。

子供が親と同じ程度の理知で、親の教育方針とはちがう、正しい教育理念に一回も触れることができなかった場合、
且、子供に頼るべき存在が親しかいなかった場合、親の弱さ、幼さ、間違った教育理念をまともに影響を受けてしまうので、
子供は親から感染した闇を独自に発達させてしまうことになる。
こうして悪いわがままという親の悪徳をひきついだ子供が社会に出るようになれば、
いつ爆発するかもわからない人間がどこかにいるということになり、
屈折した形で権力を表現してしまう……。
何も知らないでそうなっている子供は本当に可哀想。
それを防ぐために私達に何ができるのか?
幼い親の闇の理念を治していくことを、私達理知ある大人が教え導いていくことです。親の闇を子供に感染させないように努力するのです。
子を治すにはまず親から。
幼い親が自らの誤りに気づき、自らの力で訂正していけるように。

子供には、今まで親から教わってきた教育理念には誤りがあることを知ってもらい、
正しい教育理念がそれとは別にあることを知ってもらうこと。
正しい向上心、正しい理念、正しい信念は、いろんな社会に触れることで自らの中から出てくるもの。と。
人をあてにしすぎない。親の間違った教育方針をあてにしすぎない。
完璧な親も居なければ、完璧な子供も居ないということを双方がわかること。

ここまで見た
>27の続き

完璧な理想を完璧な現象として追求するのは悪徳である。間違いである。コントロールできるのなら美徳である。
理想は頭の中にしかないからである。理想を何よりも優先させるべき、とすると、その理念は悪徳。
理想をコントロールして思い描くところでとどまるのなら美徳。
その度を越えて、現実にもあるべき物だ、と本気で思い込むようになると、元は美徳だったものが悪徳に変わってしまうのである。
理想に存在している物なんだから、現実にも存在していないと許せない!そして、理想通りにならない現実の物を八つ当たりで叩くという、
こう、本気で思い込んで自分をコントロールできないでいると、
物を叩くようになってしまうのです。人にもあたるようになってしまうのです。そういう間違った親の教育を子供は見て育つと闇の感染が起きてしまうのです。
過ちを懲らしめる力より、過ちを治していける力のほうがよっぽど大切なのである。
自分の過ちに気づくことです。
自分で自分の行動の過程を線で見て、俯瞰で見て、
自分で自分を咀嚼してみるのです。
そうすれば、自分のどこがまずいのか見えてくる。
人に与える前に、まずは自分で自分を毒味してみるのです。
自分に問題などない!と思うのは驕りです。
人は誰しも何かの欠点を持っている。そこに気づいて治していく努力が必要であり大切なのです。

親が子供に見せるべき姿勢は、人の過ち、自分の過ちを叩く姿勢ではなく、
過ちを冷静に分析し、欠点に気づき、治して行く力がある親の姿勢を見せることではないでしょうか。
そうすれば、悪徳ではなく、美徳を伝染させられるのではないでしょうか。
親からひきついだ悪徳をコントロールすれば、美徳になり、
悪いわがままも理知で欠点に気づき、コントロールしていけたら、良いわがままに変えていくこともできるのかもしれません。
親の教育が間違いだからと言って、批判的になってはいけません。非難してはいけません。
親である以上、人である以上、敬いを欠いた物言いになってはいけません。
正しく教え諭すのです。教えることになっても、心の内では、「教わっているのはいつも私のほう」、という謙虚な気持ちも忘れずに。

ここまで見た
相互補完する関係

感情と理性。
幼さと大人。
野生と文明。
動物と人。
自然と文明。
善と悪。
父と母。
一方を軽んじて、
一方を重んじるとは、
考えてみると残酷なこと。
本当はどちらも尊ぶもの。

絶対に良いもの
絶対に悪いもの
人間の知恵では
はかれない。

ねえ、
おっぱいが見えるよ

ねえ、
人は皆、特別に憧れてるね。

もっと、
痛みに感謝できるようにならなきゃいけないね。
それが、ぼくの犯した罪に、気づかせてくれるのだから。

ぼくは痛みを受け止める方。
ぼくはもう決して、人に痛みを与えない。
ひたすら自分の罪に気づく。
ぼくと同じ罪を犯している人を教え導く。
それが、ぼくが過去に蒔いたカルマへの償いだと思う。
この痛みは、ぼくが過去に蒔いたカルマの償い、
罪の痛みが、ぼくがかつて人に与えた痛みが
自分にかえってきている痛みなのだから。
ぼくは捨ててしまってはいけないものまで
捨ててしまっていたんだ。
それは、悪魔。悪徳。悪意。
自分があらゆる嫌悪するもの。
それを捨ててしまうことは、
自分の罪から逃げていたことだった。
本当はその嫌悪するものを
抱きしめて慈しむことが
罪の償いだったんだ。
痛みもひきうけて。
痛みを抱きしめて、痛みに感謝し、
罪を償おう。
痛みに抵抗するなかれ。

ここまで見た
>29の続き

嫌悪するものほど慈しむんだ。
本当はどちらも尊ぶもの、
相互補完する関係なのだから。
無駄な出来事は一つもない。
南無阿弥陀仏。
南無観世音菩薩。南無大勢至菩薩。

木を育むには、物質的栄養を与え続けること。
そしてもう一つ、霊的栄養も与え続けること。

人を育むのも、同じ。

物質的栄養だけで育った人に、躾は無理。
霊的栄養とは何であるのか、勉強することです。
物質的栄養と霊的栄養は相互補完している。
物質的栄養だけ与えれば体だけは育つでしょう。人も木も。
しかし、それだけでは挫折を乗り越える力が育まれないのです。
親が子供に与え続けるのは、霊的栄養も必要なのです。
霊的栄養を育むためには、真心と真心でぶつかり合うこと。
平和主義、優しさ主義、事なかれ主義という、
親の間違った理想を子供に感染させてはいけない。

愛と愛のケンカをすること。
霊的栄養とはどういう時に育まれるのか?
つまずいた時の痛みを自分で治癒できた時です。
つまり、人が何かを成そうとした時に起こる、つまずき、戦い、理念の対立、
そういう事の経験にこそ挫折を乗り越える力、霊的栄養につながる滋養がいっぱい詰まっているのです。
つまり、親が子供を戦いから避ける道ばかり選ばせていると、
また、親自身も可能性への挑戦を避けてばかりいると、
霊的栄養を育むチャンスをなくしていくことになる。
こうなると子供は、そして親も、
物質的栄養だけで育つことになり、
挫折を乗り越える力、霊的栄養の欠如した人になってしまうのです。
つまり、優しいばかりでは、お利口さんにしているばかりでは、
霊的栄養が育まれないのです。
一見、愚かに見える戦い、ケンカ、対立、つまずき、痛み、
それさえも魂にとっては栄養になるんです。
その痛みが治癒できた時、本物の自尊心が一層たくましくなるのです。
つまり、良い意味で上昇志向の意志を貫く強さを秘めることが大事。
好きは好きと言える権利。
嫌は嫌、ノーはノーと言える権利。
やりたい事はやりたいと言える権利。
世の中と折り合いを付けられる頑固。調和的頑固。
折り合いを付けられる調和できる意地っ張りになることが大事。正しい抵抗力。

ここまで見た
>30の続き

まずは親が、子供に躾を教えられるだけの、
霊的栄養がたりていないのだから、
親と子供が一緒に、霊的栄養の勉強をやり直すことではないでしょうか。

挑戦、失敗、反省です。時にはうまくいくこともあるのですから。
霊的栄養のたりてない親子はこのサイクルを避けてばかりいるのです。
保守的になってしまう人の弱さもわかります。
人の至らなさから自分の償うべきカルマを学ぶのです。

知らないことを知りたいとする努力を、
世の中と折り合いを採る形で、知ろうとすることができれば、
それが、人生を正しい方へ、明るい方へ切り開いて行く力と言えるのではないでしょうか。
無理矢理知ろうとしてはいけません。

使い古した理念で安寧したい気持ちもわかります。
変化を恐れる気持ちもわかります。
生き残り戦略としてできることは温故知新。
古い理念(考え)の中にある素晴らしい部分、正しい部分はそのまま残して、
誤りがあった部分は訂正、削り落として、
新しい理念をそこに採り入れる。
そうやって理念を時代と共に進化させていくことではないでしょうか。
柔らかい頑固。

何かを学ぶのに遅いという事はありません。
誰でも、初めて学ぶ事はあるのです。いくつになっても。
初めて学ぶ事なのに、もう遅いというのは、
始めからうまくできない、そんな自分と向き合うのが嫌、と、
言っていることになるのではないでしょうか。
うまくできなくても、その努力は認めてあげる必要があるのではないでしょうか。
うまくできない自分も許すことが必要なのではないでしょうか。

恥をかくのも学びです。
その恥を少しずつ、同じつまずきをしないようにしながら、
忍耐と努力で誇りに変わっていくようにすることが
霊的栄養を育んでいくための学びになるのです。
なのに、一人一人が元から備わっているのに使わないでいるから、守りに入ってしまうから、
霊的栄養が育んでいけなくしている、そこが、自分の性格の見直すべきところなのではないでしょうか。

ここまで見た
>31の続き

恥をかいている自分を、許すことができない。
始めからうまくやれない自分を許すことができない。
これは幼いプライド。
自分の美的センスは負けなしの不敗神話、全能、万能神話である、という具合に、
勝手に膨らませた妄想をプライドと思い込もうとしている、
遊びの世界にしがみつき続けているところからきているのだと思います。
しかし、遊びの世界で育まれる自己愛もあるので、
この心は神として尊ぶべきものでもある。

幼いプライドへのこだわりを、改めるべきところは改めて、少しずつ進化させていくことだと思います。
結局人間は、少しずつしか向上していけないことをわかることも、成長への鍵だと思います。
一歩進んだと思ったら、振り出しに戻っていた。
また進んだら今度は前より少しだけ良くなった面もあることに気づけた。という具合。
進んでは戻る。進んでは戻る。という。

ここまで見た
  • 33
  •  
  • 2016/04/10(日) 14:34:32.69
痛みには復讐ではなく愛で償いを

ストーカーが、元交際相手を「自分ばっかり幸せになってずるい」
といって、卑怯な暴挙に出るのは、
自分が筋違いの意見を言っていることに気づかなければならない。

フリージャーナリストが、悪の組織に拘束されて、
自分がこうなったのは、誰もお歳暮、お中元をくれなかったからだ、
というのは、お門違いの意見を言っている自分のことに気づかなければならない。

どちらも共通しているのは、
誰かがナニナニコレコレソレソレをしてくれなかったからだ、という意見。
それはお門違い。

主体は自分にあるのに、あたかも、自分には主体性がないから、
主体性は皆さんにあって、ぼくらはそれを甘受するだけ、だから、
あちらがナニナニコレコレソレソレをしてくれないのが悪い、と言っているよう。

自分の人生は、自分の努力で望む未来に変えていける。
自分の魂のオモムキが正しい方向へ向いていれば、
望む未来を作っていけるはず。

魂のオモムキが悪ければ、
(そういう魂には治療が必要だから)
薬の舞台、治療の舞台を自分で作っていくことになる。

各々の魂のオモムキが、それぞれの望んだ舞台、人生を作っていく。
つまり、こんなのは望んでいなかったと思うなら、
自分で軌道修正していかなければならないのです。

娼婦っぽいボディペイントした方が、
誰かの言う通りにやったら、自分の人生はめちゃくちゃになった、
と言うかのように、錯乱状態になっていたけど、人のせいにしていたのなら、
それも筋違い。

役所の前で、錯乱状態で、誰誰のせいでわしの人生はめちゃくちゃだ、と
おっしゃっていたおじいさんもいたけど、
それもお門違い。

自分ばっかり良い思いをしてずるいとか、
誰かの、ナニかのせいで、自分は悲惨になったとか、
これは幼くて卑怯な意見。
自立できていない意思(意志)。

ここまで見た
  • 34
  •  
  • 2016/04/10(日) 14:35:35.66
>33の続き

誰かにもたれかかろうとするばかりで、
その相手が自分の思った通りのことをやってくれなかったから、
ぼくちゃん怒っちゃったぞ。ぷんぷん。と、一方的に感情であたっている。
自分の闇をコントロールするのは、本人の責任でやること。

ぼくの欲求不満、闇を誰かが静めてくれないと、やだやだ、というのは、
生まれて4歳の子なら仕方ないけど、
ある程度生きてきた人がやるのは恥ずかしい。

理性で自分の心を見つめることを覚えなければなりません。

はっ、自分は今、妬みで悪魔的な感情に染まろうとしている、
これではいけないんじゃないか、と。
自分は今、子供っぽい感情、激情で、相手が自分の都合通り、思い通りにならなかったからといって、
自分の受けた屈辱と痛みとを、相手にも同じ屈辱と痛みを味合わせてやろうなどとしている、
これは筋違いじゃないか、と。

物質としての自分。
精神としての自分。
霊としての自分。
心としての自分。
細胞としての自分。
それぞれの自分に耳を澄ましてみるのです。
どの自分が理性的な意見を言っているだろう。
どの自分が感情的な意見を言っているだろう。
どんな要因が激情(嫉妬)にかりたてるのだろう?人との比較です。
心の闇のコントロールは自分の問題。
相手が、どうか、では、ないのです。
自分の聖域を侵した。本当にそうだろうか?
本当の聖域は本人のみが知っていることで、
何人も踏み込んでいけない領域が本当の聖域ではないでしょうか。
汚すも清めるも本人にしかできないところ。
そう、魂です。
傷つけられた痛みに恨みを持つようなら、自分で自分を汚すことになり、
傷つけられた痛みに感謝をするようなら、自分で自分を清くすることになるのです。

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  • 35
  •  
  • 2016/04/10(日) 14:43:29.76
>34の続き

痛み、罪を償うチャンスを、
感謝と懺悔で向き合うか、恨みと妬みで向き合うか、自分次第なのです。
自分の痛みを相手にわからせようとするのではなく、
自分が相手の痛み、都合を理解しようとする、そして、
相手にエールを送る。
それが、良くしてくれた相手への筋の通った本当の対応。
 さようなら おめでとう
別れと感謝。応援。
こちらが応援していれば、あちらもこちらを応援してくれているのがわかる。
痛みを感じているのはあちらも同じ。

愛していた存在が、自分から離れていくのが容認できないとは、
その、愛していた存在が自分の道具で、
私有物で、常に固着していたいという考えがあるからでしょう。
その闇は本当は母親から感染を受けている闇だろうと思います。
いつまでも自分の赤ちゃんは自分の私有物で、
いつまでも手元において、いつまでも世話をしていたい、というような。
この母親の闇が子供に感染して、子は大人になっても闇のコントロール不充分の
未成熟な自己愛のまま育ってしまった。
のでは、ないかと思っています。

物質としての自分と、精神としての自分が、分断されたような痛みを感じると、
その痛みをくれた相手のことが許せなくて、復讐の刃を向けるようになってしまった。
裏切られた、というのは、母親が大人になれていない幼い自己愛からくるものではないでしょうか。
それが子供にも感染してしまい、裏切られたという感情にいつまでも固着するようになってしまった。大切な物を守り過ぎるようになってしまった。

愛する存在は思い通りになる私有物ではないということを、
わかっていただくよう説得することが必要なのではないでしょうか。

母親からしたら、それが愛情、善意のつもりだから、
こちらは、幼い自己愛もあるけど、
それをさらに大きな自己愛で親よりも親らしい自己愛で包んであげる、
慈愛の視点は必要です。

愛する存在との分断されるような痛み、
それさえも恵み、神の愛と思えたら、
大人になった、ということです。

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  • 36
  •  
  • 2016/04/10(日) 14:45:26.64
>35の続き

復讐心が芽生えるようなら、まだ幼いということ。
復讐するのではなく、対象を愛し、許し、忍び、償うのです。
反発心のみに偏ってはいけない。
自分が悪かったことに気づくのです。

してあげる。
やってもらう。
させていただく。
まかせる。
その状況で今、自分が何を社会的に、家族的に、神仏的に求められているのか、
判断が足りなかったのではないでしょうか。
上の立場の者がこれだけしてやったのだから、
それに似合うごぼうびを下の立場の者がおれさまにおかえしをしてくれるのが当然だ、という、
傲慢な判断になっていたのではないでしょうか。

愛する存在に裏切られたからといって、
復讐する、などというのはお門違い。
償いをするのが本当の対応です。

母親は、子供は私有物で、自分が居なければこの子は何にもできない、自分は頼りにされている、必要とされている、この感覚に酔っていたいのではないでしょうか。
子供は、大切にし過ぎた私有物は自分の物だから、裏切りは許さない、
私有物に固着している自分に酔っていたい、ということではないでしょうか。

人生の軌道修正、誰かがやってくれなかったから自分はめちゃくちゃという筋違い。
主体性の喪失。やる前からできっこないという決め付け。
やろうと思えば自分でできる努力さえも人に任せようとする。
人への頼り方が信頼的であるというよりかは、
コントロール的、指図的な母親の闇の感染影響受けているのかも。
わかりきったことを何度もきく。
疑いようのないことを何度も疑う。
なんでもないことを異常に恐がる。
どれもこれも、あなたのためなのよ、と、危険から守り過ぎる。
こんなふうな魂のオモムキだから、
治療が必要だから、自分で治療の舞台を、そうなるように作ってしまっていることに、気づくこと。
本当の自信、本当の自己愛が身につくように、悩みぬくことが大切です。

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  • 37
  •  
  • 2016/04/10(日) 14:46:21.83
>36の続き

分断の痛みと正面から向き合い、
自分の幼さに気づかせてくれた、
感謝する痛みととらえ、
思い通りにならないからって、
ギャーピー言うのは、もう、卒業しなきゃな、と、
思うようにしなければならないのではないでしょうか。

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  • 38
  •  
  • 2016/04/23(土) 08:01:08.13
本当の信頼とは、愛する存在を野放しにすることではない。

 あなたは悪いこと、しないわね。信頼しているから
 放っておくのよ。

これは、未熟な自己愛を、共に育んでいこうとすることの放棄ではないでしょうか。

本当の信頼とは、信頼しないからこその営みと抵抗の中にこそあるのだと思います。
お互いの未熟さを受け入れ、
短所と長所を補い合うように、刺激しあうように、カードを見せ合うことではないでしょうか。

ケンカするほど仲がいい。
犬猿の仲といわれる関係ほど、本当は
お互いの足りない面を補い合うのに、
うってつけの関係なのではないでしょうか。

たとえば、一方は計算ができない。計算ができないからこそ、確認を怠らない性格で、
ある一方は、計算ができる。計算ができるからこそ、その自信が暴走して、
理性を見失いがちになる性格で、
お互いの足りない面を補完しあっている。

踏み込んで入ってはいけない境地に、
踏み込んでいきそうになる人を引き止める。青色。

引っ込み思案し過ぎるから、
平気だからと引っ張っていく。オレンジ色。

暴走を抑える。青色。
自信をつけさせる。オレンジ色。

アクセルの役割の人は、アクセルを踏む。自信。
ブレーキの役割の人は、ブレーキを踏む。確認。
ハンドルの役割の人は、ハンドルを握る。おか目八目。

各々の長所を生かし、
各々の短所は、他の人がフォローする。
一見、ケンカしているように見えて、
実は同じ目的地に向かって進んで行く。

これが本当の信頼。
未熟を認め合い、
訓練していること。

自分のルールと、
相手のルールと、
ケンカをすることで
見えてくる、適度なルールを、
導き出すこと。
これが本当の信頼。

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  • 39
  •  
  • 2016/04/23(土) 08:03:07.76
>38の続き

お互いの未熟さと向き合い、認め合い、わずかばかりでも進化していくことが大事。

信頼しているから、放っておく、ということは、
己の未熟さと向き合い学習することから、
逃れるための免罪にしていては、
進む方向の定まらない、
どこへ行ってしまうのかわからないことになってしまうのでは。

信頼し過ぎて、放っておいても良くない面もある。
信頼しなさ過ぎて、ケンカしっぱなしも良くない面もある。

抵抗すべきシーンと、抵抗すべきでないシーンを見極める。

たとえば、医者にかかるときは、
患者は無知なのだから、
医者に身をゆだねるしかない。

放っておいたら堕落することがわかっている相手がいるのなら、
抵抗する。努力すれば、改善可能なこと。

困った人が居る。
抵抗すべきシーンで何もせず、
抵抗すべきでないシーンで取り乱す。

だから、価値観をぶつけ合う必要性が出てくるのです。

より高い自己愛へ、
お互いが高めあうため。

ケンカする相手が、教えてくれているのです。自分のなすべきこと。
相手に注文や文句をつけたくなること、
それが、そのまま、自分のなすべきことなのです。
すなわち、心と行動を律すること。創造性でパイオニアになること。自律することと、自立すること。

相手よりも腰を低く。こちらが。

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  • 40
  •  
  • 2016/05/10(火) 13:28:38.51
問題人に瞑想

ダイヤモンドを張り倒してはいけない。
ダイヤモンドは人の親。

太陽をたたいてはいけない。
太陽は人の笑顔。

惑星が恒星のように振舞ってはいけない。
惑星が恒星を動かそうとしてはいけない。

敬え。

動くのは惑星。
回るのは惑星。

銀河の一員だよ。

人も。 ヒトも。
ヒトリも。 フタリも。

食べ物、飲み物、食べるとき、飲むとき、
厳かに、ゆっくり 食べてみよう。飲んでみよう。
宇宙への感謝が湧いてくる。

排泄するときも、厳かな敬いを。
うんちっちありがとう
うんちっちありがとう
しーしーありがとう
しーしーありがとう

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  • 41
  •  
  • 2016/06/02(木) 06:27:23.95
熊本地震、ボランティア 批判する人たちは……

闇を癒してあげましょう。
人の役にたちたいという正しい向上欲は、
誰もがあるもの。

彼らにも、本当は、そういう向上欲がある。
そういうふうに、自分達も人の役に、たつ、活躍をしたいのに、
自分に自信がないがゆえに、自分にはできないという決め付けがあり、
自分がやりたくても、できないことをやっている人達の姿、活躍を見て、
嫉妬をしているのです。

心の扱い方を間違ってしまっている。
そのエネルギーの使い方は、お門違いであることを、
彼らに気づかせてあげることが必要です。
彼らの闇は、その人の親の問題(闇)を現している、鏡であることを理解しましょう。

人の闇は、個人のみの問題で片付けられない面もあると、私は思います。
幼少のころに、正しく愛情、真善美をそそがれてこなかった、
心の闇の部分が、嫉妬心を刺激されることで、
あぶりだされてきてしまっている。

究極を言えば、カルマの解消は、たった一人、孤独で、自己責任で、引き受けることですけれど、
一人ひとりの営みを観察しておりますと、
そこまでカルマの法則を理解している人は、
ごくわずかなのが現状。

容認することです。
人は、自分だけが一番可愛いと思いたがる、幼い自己愛があり、それを手放せない人もいる、ということ。

達観することです。
そういう人が目の前に鏡として
現れてきてくれているのなら、
その人の振る舞いが、
そっくりそのまま、
前世(過去世で)のどこかでの
自分の振る舞いであったということ。自分もそれと同じことをやっていた時代があったということ。

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  • 42
  •  
  • 2016/06/02(木) 06:28:45.32
>41の続き

人の闇を癒すことは、
自分の闇を癒すことでもある。

無知な人の分も達観してあげて、
こうすると闇をコントロールできるんだよ、と、
(――そのカルマに関しては、)先輩としての知恵を教えてあげることです。その人が、自分の力ではできないと、めげているなら、
サポートしてあげることです。君にも人の役に立てることがあるはずだよ、
みんなで力を合わせれば、できないと思っていたことも、できるようになることもあるはずだよ、と。

すべては、自分の蒔いた種(カルマ)が、引き寄せていること。
自分の未熟さを教えてくれて、気づかせてくれて、鍛えてくれている、学習材料。
慈悲。忍耐。寛容。冷静。不動心。を、育んでくれている、学びの教材です。
すべての結果。経験。出会い。――

この現象(事象)は、私のどういう未熟さを改善せよ、と、教えてくれているのだろう?と、
自分で考えてみることです。
自分で答えを出していくのです。

人に「してくれ!してくれ!」と、言うばかりではなく、
自分から奉仕する人になりましょう。
自分から与える人になりましょう。
親切。愛情。優しさ。思いやり。笑顔。ポエジイ。真善美。笑いのセンス。知恵。――

人の人格のレベルによって学びの内容(レベル)も、ちがってくるのです。
たとえば、理不尽に暴力を受けてしまう人は、
自分の蒔いた種(カルマ)が、それを引き寄せている。(もちろん、暴力をふるう人が悪いのですが)
これは、卑屈になりすぎている自分を
改善しましょう、という学び。
自信を持ちましょうというメッセージ。
自信とは、どれだけ、無条件で相手のことを心から信頼できるか、ということ。
自信がなく、卑屈になりすぎているということは、
自分が信頼するために、相手に求める条件が
多過ぎませんか?ということ。

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  • 43
  •  
  • 2016/06/02(木) 06:29:57.97
>42の続き

それだけしてくれないと、安心できない、自信につながらないから、卑屈になっている。
相手に条件を求め過ぎている、
この未熟さに気づきましょう、という学びなのです。
自分から奉仕、優しさを与えようとせず、
「してくれ!してくれ!」という思いが、
偏っていたのかもしれません。求めてばかりの自己愛。

人が慌てる姿を見るなら、
物欲を手放しましょう、というメッセージ。

自分が慌てているなら、
依存心を手放しましょう、というメッセージ。

交通事故を見るのなら、
くれぐれも、地に足をつけて、足元を見て、一歩一歩着実に歩みましょう、
浮いたような意識にならないように、気をつけよう、というメッセージ。

熊本ボランティアを批判してしまう人が気になる人は、
あなたにも、嫉妬から人を批判してしまう未熟さがありませんか?というメッセージ。
気をつけましょう。

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  • 44
  •  
  • 2016/06/03(金) 15:07:49.00
アイドル刺傷事件の容疑者は……

愛を補給したいだけ。
無知が呼び起こした事件。

場合によっては、逃げるのが、危険回避行動になるけど、
場合によっては、受けてたつのが、最悪のことを免れる回避行動になることもあるのかもしれない。

この事件は、容疑者の親に適切な愛を注ぐ知恵がなかったことが由来でしょう。

負けてもゆらぐことのないのが、いや、ゆらいでもいい、
負けても、感謝で受け止められるのが、本当の自尊心。

本当のプライドは、負けた時、どう、ふるまうかが、
その人の自尊心がどこまで、清められているかが現れる。

プライドが傷つけられるという経験は、誰もが通る道。
その時、それを、怒り、憎しみの執着を手放し、未熟さを教えてくれた感謝の経験ととらえるか、
(――こう、なるなら、自尊心はその出来事がきっかけで、清められたということ)
存在しない名誉を取り戻そうとする、愚かな怒り、憎しみに執着するか、のちがい。
(――こう、なると、自尊心は汚れ汚れたまま、むしろ、その状態が続くことで、自分で自尊心の汚れを増殖させているといえる。おばかさん。可哀想。)

上下、優劣、比較よりも、大切なことがあります。
それは、優劣比較を超えた視点にたつこと。
みんな地球に存在してるだけで、尊い存在なんですよ。
あなたの人格を否定しているわけではないのですよ。
それぞれに抱えている事情がちがうだけ。
(――やってるスポーツがちがうだけ。スポーツもちがうから、ルールもちがってくる。ルールのちがうスポーツとスポーツでは、ゲームができないということ。)
地球と宇宙、万物は、みんなで一つで、
みんなで一つの価値。
という視点になりましょう。
あちらにはあちらの役目。
こちらにはこちらの役目。
無駄なものは一つもない。

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  • 45
  •  
  • 2016/06/03(金) 15:08:41.34
>44の続き

なんで、プライドが傷つけられるのかというと、
物質主義的価値観に縛られているから。
あちらと自分で、区別、比較をするから。
すべては、一体である、という視点にたちましょう。
各々が担っている役目がちがうだけ。
向上欲はみんな同じ方向を目指している。

天国という場所を目指して奮闘している、と。
誰もが幸せになりたいと願っているのだから。

やる前に立ち止まって、自分の思い、行動、言葉は、
正しいおこないか、考えてみてからやる、
そういう余裕もないくらい、
物質主義的価値観に縛られてしまった心は無鉄砲。幼い。

誰かが、適切な方法で、
愛を補給してあげる必要があるのではないでしょうか。

話しかけられたら、
無視するのではなく、
お世辞でも、演技でもいいから、
相手をしてあげることも
愛を補給するのに役に立つことです。

この人、何か、おかしい?と思ったら、
「私にできることがあったら、何かお手伝いしますよ」
と、声をかけるなど、
あなたのこと、気にかけてますよ、と、
態度で示すだけでもいい。
心がその人に関心を向けるだけでもいい。
どんなに些細なことでも、善行は塵も積もれば山となる。(悪行もまた、然り、なので、悪行はどんなに小さなことでも積まないようにする)

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  • 46
  •  
  • 2016/06/03(金) 15:09:35.84
>45の続き

地球全人類ぐるみで、
わずかでも
変だなと思う人には、
愛をそそぐ。
そういう運動が一人一人に必要なのではないでしょうか。

異端者だから、関わらないようにするのではなく、
むしろ、異端者だから、優しくすることが、大切なのではないでしょうか。
その人は、愛のありかがわからなくなっている、
SOSを出している、
人なのですから。

人の愛し方がわからなくなっている、
人との適切な形での関わりあい方をわからなくなっている
と、いえましょうか。

ここまで見た
  • 47
  •  
  • 2016/06/08(水) 21:58:56.16
中学生が小学生に乱暴する動画が何を物語っているのか?

彼ら、からのSOSです。
わざわざ、そういうものを撮る、ということは、
見て欲しい、という思いがあるのではないでしょうか。
その思いが、自分達が、いかに苦しんでいるか知って欲しい、という思いが汲み取れます。
だから、彼らの本性の願いは、この苦しさを誰かに知って欲しい、ということなので、
乱暴をすること自体は、目的ではないと、推測できます。
なので、その乱暴の中には、どこかに手加減があるのではないかと思います。
被害者児童と、その親。
加害者生徒と、その親。
どちらもが、正しい愛の育み方がわからなくなっている。
苦しい、助けて、というSOSです。
全人類で、正しい教えを伝えていく必要があります。
偏った価値観、間違った思い込み、
自分の正義、文化を絶対視する、
一人一人の正義、文化にちがいがあることを尊重できないでいる、
自分だけの狭い世界を絶対視する、
自分の文化、正義とちがうことをするものを、
たたく、攻撃、するという、人、一人一人の自己愛の未成熟さが、
世界中で起こる、あらゆる争いごとの原因です。

ここまで見た
  • 48
  •  
  • 2016/06/08(水) 21:59:39.01
>47の続き

力でしつけようとすることが、
間違いであることに気づかなければなりません。
権力への間違った抵抗の仕方をしてしまっているのです。
適切な形で、権力への向き合い方を、まずは、親が身につけなければ、
子供の悪徳が直るのは、難しいのではないでしょうか。
権力への適切な向き合い方は、
愛を、善を、与え続けていくことです。

いろんな文化を吸収し、こういう学びもあるんだ、と、
知恵をつけていくことが大切です。
まずは、咀嚼。次に学んだことを与える。

自分が!自分が!という、こだわりを手放すのです。
自分なんて、こんなもんです、という、プラスの開き直りをするのです。至らなさは直す努力をしながら。

不足のほうに目を向け、不平不満を言うのではなく、
足りてるほう、恵まれてる面に、目を向け、深く感謝をしていきましょう。
ありがとう、南無阿弥陀仏。私達は、宇宙一体です。ありがとう、たくさんの恵みに。感謝します。
自分の知恵、体を、地球平和のための献身にささげます。
自分が心に翻弄されるのではなく、
自分が心をコントロールします。
弱いものを受け入れ、全人類が、一人一人、自分の闇を克復できるようになることを祈っています。

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  • 49
  •  
  • 2016/06/13(月) 01:28:18.18
父親と、母親の役目。

子供とよく、遊ぶことと、子供とよく、働くこと。

父親の役目、
子供と一緒に同じ目的に沿って働く。
子供と共に仕事への愛を育む、基礎能力は、ここで養う。

母親の役目、
子供と一緒に、自分だけの喜びではなく、自分も子供も喜びとなる遊びを、よく遊ぶ。
子供と共に遊びへの愛を育む、基礎能力は、ここで養う。

幼少のころ、子供と親が共に、よく働き、よく遊んだことがあると、
その子供は、大人になったとき、自尊心がのびのびと、高くなっていくと思う。

子供とよく遊び、よく働く親の役割を担っている人がいると、(親の代理でも良い)
犯罪の抑止になると思う。

幼少のころ、親と共に、仕事への愛、遊びへの愛を、よく育んでこなかった人は、
大人になると、自尊心が低いことになってしまう気がする。
そういう人は、大人になるとおかしな方法で愛を満たそうとしてしまう傾向があると思う。

子供が起こす、おかしなことは、(あるいは大人も)
その人の親が、
その人が幼少のころに満たして欲しかった欲望に、正しく愛を育めてこなかった、
親の知恵不足が起因してると思う。

その人の父親は、
子供と一緒に仕事への愛を育む、基礎能力が欠けていた。親だけが満足する仕事の仕方しかしてこなかった。
ゆえに子供は、働くことへの愛に欠けるようになってしまった。

その人の母親は、
子供と一緒に遊びへの愛を育む、基礎能力が欠けていた。親だけが満足する遊びの仕方しかしてこなかった。
ゆえに子供は、遊びへの愛に欠けるようになってしまった。

ここまで見た
  • 50
  •  
  • 2016/06/13(月) 01:30:10.46
>49の続き

そして、子供は子供なりに愛を見つけようとして、
歪んだ方法で、仕事をするようになり、
歪んだ方法で、遊びをするようになってしまった。

問題行動を起こす子供、大人は、
その人の親に、
わが子に適切な形で愛をそそぐ知恵にかけていた。
問題を起こす子供は、その親にも、問題がある。――正しい愛のそそぎ方の知識不足、知恵不足――

親が満足するような仕事しかしてこなかった。
親が満足するような遊びしかしてこなかった。

尊い学びは、
親も子供も満足する仕事を共にすること。
親も子供も満足する遊びを共にすること。

問題のある親も、反面教師としてなら、学びの教材になるけど。
この場合は、子供のほうが人格が高くなくてはいけない。
頼るものが親しかいない幼少のころに、それは、かなり難しいことだろう。

祈りましょう。
その人達が、自分の未熟さに気づけますように。改善できますように。

ここまで見た
  • 51
  •  
  • 2016/06/13(月) 01:31:10.70
>50の続き

完璧な親もいない。完璧な子供もいない。
お互いの不完全性と弱さを受け入れ、少しずつ直し、
恵まれてる面、感謝の面に幸せに気づきましょう。いくつあるかな?元気で居てくれてありがとう。学びあいをしてくれて、ありがとう。 ありがたい、ありがたい。

ここまで見た
  • 52
  •  
  • 2016/08/08(月) 16:32:42.14
とある施設で19人殺傷事件は何を教えてくれているのか。

愛情の不足です。
これは、私の推理ですが、
彼の言葉から察して、
「障害者なんて○○しちゃえばいい」
私は、こう、思います。

彼は幼少のころ、両親から、本当なら、自分にそそがれるはずの愛情が、
障がい者が居ることによって、
両親の愛情がそちらにそそがれてしまった。
彼の視点から見れば、
両親から本来なら自分にそそがれるはずの愛情を、
障がい者がいることで、そちらのほうへ流れていってしまった。横取りされてしまった。
というふうに、映ったのではないでしょうか。

彼の起こしたことは、満たされなかった幼少期の抑圧された欲求不満が
噴き出してしまったのではないでしょうか。

自分にそそがれるはずだった愛情を、
その妨げになっているであろうと感じるもの、障がい者を取り除くことで、自分にそそがれる本来の形に
戻そうとしたのかもしれません。
自分にそそがれてくる愛情を取り戻したかったのかもしれません。

彼のことを気の狂った恐ろしい人と言う目で捉えないでください。
彼の抱えているカルマを見つめてください。
彼もまた、障がいを抱えている一人である、と。
彼は、カルマの浄化の道を、
物質的に近道を選んだことで、
カルマの浄化には、実は、遠回りを加えてしまった。
物質的遠回りが、実は、カルマの浄化には近道であることを知らぬがゆえ。

もっと、彼が幼少のころ、(親が他の道に愛情をそそいでいたがゆえに)親の代わりになる人が、
無条件の父なる愛情、母なる愛情をそそいであげていればよかったのかもしれません。

ここまで見た
  • 53
  •  
  • 2016/08/08(月) 16:34:47.99
>52の続き

大人になる過程で、そういう人と出会えていることに、
本人が気づければよかった。
天使はいつでも、どこでも、
あなたの成長を願い、見守っているのですから。

また、あなたも誰かを救っているかもしれない、
天使である、ということにも、
気づいてほしかった。
天使は、そんなことしない、と、誓いを立てていればよかった。
私は二度と同じ過ちをしない、という強く誓う。

波長が低くなっているときというのは、
(あのような事件を起こしてしまいかねないような心境のときというのは、)
信念のバランスが、偏っているときです。

たとえば、
私は、自分が文化、文明のある人間だと思っています。
だから野生の力(知恵)は、野蛮で、文化人とは、相容れない、遠ざけるべき存在だと思っています。
だけど、本当はそうじゃないと、気づけました。
野生の力(知恵)と、文明、文化の力(知恵)は、相互に、
お互いの短所を、お互いの長所で、
補い合い、助け合い、支え合っている、関わり会っているものであると。陰陽道のマークのように。

これは、障がい者の力(知恵)、健常者の力(知恵)と、置き換えても良いことなのではないでしょうか。
大人の力(知恵)と、子供の力(知恵)とも。
男の力(知恵)と、女の力(知恵)とも。
文明だから、賢い、良い、快適、
野生だから、バカ、悪い、汚らしい、
という価値観はマガイモノである、と。
気づければよかった。
本当は、どちらも、必要なものなのです。

遠ざけようとするもの、忌み嫌うものは、
ぼくの足りないものを補おうとしてくれてるんだね、
ありがとう、と言うべき。

忌み嫌うものとは、一度、自分が、その色に染まってみるといいのです。
全身全霊で、その忌み嫌うものを、受け入れてみるのです。
そして、その人の過ちのカルマは、私が代わって浄化してあげようと思うのです。

ここまで見た
  • 54
  •  
  • 2016/08/08(月) 16:36:56.53
>53の続き

そうすれば、わかるはず。
お互いの短所を、お互いの長所で、支えあえる可能性のある関係であること。
たとえば、障がい者の短所は、健常者の長所が支え、
健常者の短所は、障がい者の長所が支えてくれているんだよ、と。

健常者が、障がい者を支えてる面ばかりにフォーカスを当てるけど、
実は、そんな健常者も、障がい者のいるおかげで、支えてもらっている面もあるんだよ、気づければよかった。

支えてる、というのは、一方通行ではなくて、
支えられている、ことでもあるんだよ。
自分が支えているシーンばかり記憶に残すのではなく、
自分も支えてもらっているシーンも記憶に残すようにすると良いんです。
南無阿弥陀仏。
自分は人に支えてもらった覚えはない、という人は、
内観が足りません。
想像力が足りません。
あなたがここまで大きく育ったことも、
誰かの、何かに支えられて大きくなった、
何よりの証拠ではないですか。
どんなことにも、感謝をしましょう。幸せ。幸せ。南無観世音菩薩。

今のあなただから、できるようになったこと、
たくさんあるでしょう。
支えられていたから、できるようになったんですよ。

自分が人に支えられてるシーン、
自分が人を支えてるシーン、
自覚のあるところばかり見ないで、
自覚のないところをも、見てください。
自覚のないところをどう見ろと?
想像力を働かせるのです。
南無妙法蓮華経。

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  • 55
  •  
  • 2016/08/08(月) 16:38:04.06
>54の続き

彼の価値観の偏りを、
代わりに浄化してあげあれる人が、身近にいればよかった。
障がい者だから、弱い、迷惑、邪魔、悪いもの、
健常者だから、強い、優れている、役立つ、良いもの、
ではなく、
どちらにも、短所があり、どちらにも長所があるんだよ。と。
迷惑を掛け合っているのは、お互い様なんだよ。
助け合って生きているのは、お互い様なんだよ。と。

○○だから悪い。
○○だから良い。
という価値観は、偏っている価値観だよ。と。
あなたに足りないものを補うために、バランスをとってくれているんだよ。と、
気づくクセをつけられると良い。

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  • 56
  •  
  • 2016/08/13(土) 00:51:21.73
見栄っ張りの続きは自分で作れる

見栄っ張りには、
真実に繋がるものと、
偽りに繋がるものがある。

前者は、良い見栄っ張り。
後者は、悪い見栄っ張り。

真実の見栄っ張りは、先に宣言してしまう。
その宣言に追いつくように自分が努力する。
最初は見栄っ張りで言っていたことだけど、
後々、努力を積み重ねることで、見栄っ張りを真実にしてしまうこと。
本当に言った通りにしてしまうこと。これは素晴らしい、はなまる。

偽りに繋がる見栄っ張りは、知ったかぶり。
けれど
知ったかぶりをしてしまう人の家庭事情を想像してみよう。
親の悪徳が感染していること。
その人も苦しんでいる。
その人の親も苦しんでいる。苦しんでいることにさえ気づけていない場合もある。

親は気づいているけど子が気づいていないパターン。
子は気づいているけど親が気づいていないパターン。
親も子も気づいていないパターン。

悪徳を直したくても、なかなか直せない、
人の弱さ。

正義の矛先を、人に向けている人は、
自分はどうなんだ、と、省みることも大切。

そういう人が目の前に居るということは、
自分にもそういう面があるということ。

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  • 57
  •  
  • 2016/08/13(土) 00:53:04.00
>56の続き

人の分のカルマをも、自分のカルマの浄化のお手伝いをしてくれていると思い、
代わって、引き受けよう、
人の分も、浄化しよう、と、
思うこと、実践していくことが、
自分が神と繋がっていく一つの方法でもあるのです。
南無阿弥陀仏。

言ってることが難しくてわからないって?
すべて起こっていることは、前世で自分の蒔いたカルマが引き寄せていること。
自分で選らんだ学びの教材であるということです。
自分の弱さを克服するため。
南無阿弥陀仏。

同じ見栄っ張りでも、
偽りになることより、
真実に繋がる見栄っ張りをしよう。
協調のない人が居られたら、
自分が、その人の分も協調しようとする。
南無阿弥陀仏。

人のせいにしない。
すべて感謝。
ありがとうございます。

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  • 58
  •  
  • 2016/09/06(火) 00:50:32.49
優位欲求からくる自尊心が偽物のプライドと言われる所以。

勝ち続けなきゃいけないことになる。

優越感に浸れていないと、
自尊心を保てないというのは、
本当はプライドが低いこと。
本当の意味でプライドが高いということは、
どんな自分にも自尊心(自律心・自立心・自己愛)を保っていられること。
自律していられる幅が広いということ。
自分の神と調和していられるポイントを外れることが少ないということ。

人間の人生が仮に95年だとして、その間、
勝ち続けることが可能だろうか?

どんな悪人にも、
慈悲の目は、どうしても必要です。

優越感にしか自尊心を保てないということは、
自律していられる自己愛の幅が、一点そこにしかないということ。
優越感から少しでも外れたら自律自己愛が崩壊するということ。
それは、自尊心プライドが低いから。
勝ち続けている自分しか許すことができない。
その幻想のアイデンティティにしがみつき続けている。
しかし、これはその人だけの問題ではない。
人類で解決していかなきゃならない問題です。
どんな人にも、愚かな振る舞いをしていた時代もあったのですから。
自分を愛することに、ショウガイがある人を、
正しく自分を愛する方法自己愛へ導いてあげたいのです。

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  • 59
  •  
  • 2016/09/06(火) 00:52:23.15
>58の続き

高い自尊心とは、
勝った自分にも、負けた自分にも、
悔しい自分にも、泣いた自分にも、
悲しい自分にも、笑った自分にも、
怒った自分にも、無の自分にも、葛藤の自分にも、痛い自分にも、
楽しい自分にも、どんな自分にも、許し愛し、認め、
自律と自己愛が保てること。

情けは人のためならず。

一人一人が正しい自分の愛し方を知らないまま
大人になってしまわないように
祈りましょう。

勝つことだけが価値という風潮は強迫観念になる。
勝っても勝たなくても、どちらも価値。
下積みする努力がすべて自己愛自尊心宝物。

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  • 60
  •  
  • 2016/10/05(水) 14:02:56.01
その学び、ありがとういただきます――それは、周りの人をどんな人でも天使に変える言葉

どんなに腹を立てても、
こちらから言いたいことが何があっても、
相手の言い分を尊重する。

「ありがとう、いただきます」と言おう。
「カルマの浄化のお手伝い、ありがとう」と思おう。
なぜなら、
対立する意見は、かつて、自分が前世でやってきた振る舞いが
現世で自分に返ってきていることだから。

「ありがとう、いただきます、世の中いろんな意見があるね。」
なぜなら
対立する意見に自分の意見のほうが勝っているから相手を負かして
自分を通そうとすると、相手のことを敵に見ることになるから。
敵になってる以上相手を叩きのめさないと気がすまないという、
邪な心が顔をだすから。それを傲慢と言う。
傲慢は穢れ。
魂の目的は生かされてるうちに、どれだけ魂の純度を上げられたか。
どれだけ負のカルマを浄化し、善のカルマを積んでこられたか。
まずは、自分の傲慢さという欠点に気づき、
相手を変えようとする傲慢さから卒業しなければならない。
変わっていけるのは、いつだって自分のほう。

ひとつは、見方を変えること。
今までは、自分の主観で物事を感じ取っていた感情を、
相手の感情で感じ取ってみる。相手の主観に立ってみる。
自分の感情は一旦忘れて、
相手主観での物事のとらえ方を想像してみるのです。
そうすると、相手が癒して欲しい、わかって欲しい、ツボ、ポイントがわかってくる。
対立的戦いをしないですむようになる。
勝つことが目的の戦いではなく、

調和と理解が目的の、聖なる戦いをするようになってくる。
痛みが伴うのは、仕方ないこと。
傷ついた経験をするのも、仕方ないこと。
自分の受けた痛みと同じ痛みをお返しとか、
倍返しとか、やっていると、
負のカルマを浄化するどころか、
新たに積んでしまうことになるので気をつけましょう。
痛みには感謝と懺悔で向き合うのです。
感謝するのは、「あなたはここが魂の修行が不足しているから、補ったほうがいいですよ」と、
自分の欠点を教えてくれていることだから。
懺悔するのは、自分もかつてどこかの前世で許さないマシーンと化し、
人に痛みを与えていたわがままな振る舞いが自分に返ってきていることだから。

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  • 61
  •  
  • 2016/10/05(水) 14:03:59.75
>60の続き

その学び、「ありがとういただきます」謙虚に受け取る。
「奉仕させていただきます。ありがとう」
「善のカルマを積ませてくれて、ありがとうございます。」
「負のカルマの浄化のお手伝いしてくれて、ありがとう。」
どんなお役目でも、
「ありがとう、いただきます。」
「忍んで愛します。」
南無妙法蓮華経。
南無観世音菩薩。
南無阿弥陀仏。
南無大勢至菩薩。

花咲け未来。
向上欲のある魂が、霊界から現世での生き抜く人達を見ていれば、
転生してきたくても、
まだ待たされてる向上したくてたまらない魂からの視点にすれば、
もしかしたら、現世での苦しんで行動している人の
その感情、苦しみの最中の行動でさえも、うらやましいと思われてるかもしれない。

それくらい、人間として転生してこられたのは、
未熟な魂を向上させるチャンス、大きな恵みをいただいている、
稀有なことなんだと思えてくる。
あの魂はなんて恵まれてるんだろう。
魂を向上させられるチャンスに。
霊界の魂からすれば、
現世の魂が感じている苦難も、
恵みなんだろう、と思えてきます。

今まで苦しいと思っていただけの感情も行動も、
このように視点が変われば、見え方も感じ方も換わってくる。
だから、どんなことも、
「ありがとう、いただきます。」
「ありがとう、いただきます。」
苦難は魂の食べ物。
喜び、悲しみ、怒り、楽しさ、生きぬく過程全部
魂の食べ物。

そうすれば、相手と自分とで基準点がちがうことに気づくはず。
相手の基準点を尊重してあげるのです。
そうすれば、人の基準点は十人十色であると新たなる価値観で物事をとらえることができる。
そうすれば、一方的に自分の価値観のほうが勝っているという、押し付ける戦いごともなくなる。
この世で一番小さくもあり、一番大きくもあるもの、
それは愛。

ここまで見た
  • 62
  •  
  • 2016/10/05(水) 14:04:39.24
>61の続き

ぼくたちの背中には
天使の翼がある。
それは内緒。

ありがとう、いただきます。

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  • 63
  •  
  • 2016/11/05(土) 00:55:45.29
弱さは素直さ

弱さを否定することが本当の弱さ

困ったときに助けてくださいと言えるのは、
弱さだけど、恥だけど、素直さがある。

困ったときに助けてくださいと言えず、
心を暴走させるのは、
弱い自分を受け入れていないから。
自分の弱さを自分で否定することが
本当の弱さ、本当の恥じ。

心が暴走するのは、
過去や未来のことをあれこれ考えているから。
心を静めるために、心を空っぽにするのが良い。

恥を忍んで助けてくださいと言えるのは
弱さだけど素直さがある。
素直さがある弱さは、少しだけ強さです。愛です。

素直さのない弱さは可哀想です。闇です。

どうか素直に。
南無阿弥陀仏。

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  • 64
  •  
  • 2017/04/29(土) 11:53:29.96
わが子を屈折させないために母親に求められる性質

子供がやったことに対して、母親が無反応、無感動でいるのが一番良くない。
そういう接し方をしていると、(子供の)母親に認めてもらいたい。褒めてもらいたい
という欲求が育まれない。
小さな幸せにも感謝、感動する感受性と言い替えてもいい。

子供のやったことをけなすのも良くなーい。

親は、自分が認めてもらったことのないことに関しては子供にも認めることができない。
親が嫉妬しているのです。
親の未成熟な自己愛には、子供が成熟した愛を送るしかない。

母親がどんなにお節介をしてきても、
ありがとうと受け入れるのです。
「お母さんありがとう、おかげで助かりました。」

母親がどんなに認めてくれなく、褒めてくれなくても、
子供が母親を認め褒めるのです。
「お母さんは機転が利いて素晴らしい人です。」

もし、子供のほうにもそんな知恵がないというのなら、
何とかして母親が感動する心。小さな幸せに反応する感受性を培ってくださらないでしょうか。

子供のしたことに感動し反応してあげることはできないことなのでしょうか。

ここまで見た
  • 65
  •  
  • 2017/04/29(土) 11:54:41.08
>64の続き

小さな幸せに感動する感謝する感受性を子供と共に育んでいくことはできないことなのでしょうか。
感動を表現する。

もし、子供のやったことに無反応、無感動でいることを母親がしていたら、
子供が14歳になったときどんなことをしてしまうか。
どんなに努力しても頑張っても認めてくれないのか、褒めてもらえないのかと言って、
屈折した自己愛を表現してしまう。
もう、あんなできごと、起きて欲しくないですよね。
家族の問題は家族だけのことではなく、人類の問題です。
南無阿弥陀仏。

「お母さんはそんなに気張らなくてもよくやっています。いつもありがとう」
「私が代わりに気張ってお母さんの負担を軽くします。」
母親が感謝と感動を表現することを忘れたうちの家族は、
代わりに、嫉妬、欲求不満、怒りを表現してしまう。
「恐がらなくてもいいよ。恐がってもいいよ。私がその感情すべて受け止めてあげるから。」
南無阿弥陀仏。
ブルーゴールドの光。

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性格上の改めるべき癖は、10代、20代のうちに直したほうが良い。

30過ぎてから直すと苦労する。
努力すれば必ず直る。
40、50、60、直すのが遅くなるほど苦労するんじゃないかなあ。手遅れなんてことはない。

お金を稼ぐようになるまでに、
克服しなきゃならないコンプレックスがある。

恥ずかしがりや。
臆病。
マイナス思考。
傲慢なプライド。
少しずつでいい。
人間すぐに変われるものじゃない。
だけど、少しなら変われる。
それが努力であり、成長、進化です。

風の刃が、持ち続けていると良くない岩みたいなプライドを、削ってくれた。

大切なのは、変わる勇気に全力の努力を出すこと。
内側に神の光を感じること。
天使の羽が舞い降りたと感じたら、疑うことなくつかむこと。
なんども、はずれをひくけど、いつかは、あたりをひくときがくる。
自分が悪いことを認めること。
 自分は悪くない!
 自分は正しい!
という、驕りの正義感が、すべての悪意の源であると、わかること。
争いの種になる正義感なんて、明け渡してしまえ
いい風の流れは、
自分の努力で創造していけると、神や仏を信じること。

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