〓〓〓目白スレッド Part55〓〓〓 [machi](★0)
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- 686
- 2021/01/29(金) 13:22:49
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駅そばの居酒屋ビルのランチ
王将手前にあるカレー屋
王将奥にある交差点の蕎麦屋
その交差点を左折(馬場方向)してすぐの中華屋
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- 687
- 2021/01/29(金) 15:14:44
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ココイチ
ガスト
卯月もランチなら1000円以内で
食べられると思う。
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- 688
- 2021/01/29(金) 16:14:02
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ケンタッキー亡くなったら泣く
サンシャイン通りのとこが一番誰にも会わず行きやすかったけど
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- 689
- 2021/01/29(金) 17:58:27
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ケンタッキーは無くならないで欲しい
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- 690
- 2021/01/29(金) 18:23:35
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入ったことないけど駅から池袋の方へ歩いてすぐの線路沿いにあるタイラーメンの店が気になる
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- 691
- 2021/01/29(金) 19:08:51
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>>681
おお、ありがとうございます。 じゃ、何であそこに駅を作ったかといえば清戸道があったから、かな? 清戸道はそんなに立派な道とは思えないんだけど。
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- 692
- 2021/01/29(金) 19:36:23
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感染の少ない地域に移住とか考えてる?
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- 693
- 2021/01/29(金) 19:41:19
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セシウムじゃないからね〜
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- 694
- 2021/01/29(金) 20:14:34
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>>691
駅と道路の関係はよくわかりませんが
50〜40年ほど前までの目白駅は貨物の役割を担っていたと思います。
清戸道は練馬の野菜等を運ぶ役割を担ってたはずです。
江戸から明治初期はこの辺り全てを豊島郡(武蔵国)と言ってました。
明治11年(1878年)東京府の施行により清戸道(目白通り)を境に北豊島郡と南豊島郡に分かれます。
江戸の昔から清戸道(目白通り)は大きな存在です。
昭和7年の東京市の施行により北豊島郡はに豊島区となります、
南豊島郡は1897年(明治30年)に豊多摩郡となり昭和7年に淀橋区、昭和22年(1947年)新宿区となります。
昭和に入り、目白通りも歩道ができるほどに拡張された時期も昭和7〜8年だったと思います。
練馬駐屯地が昭和5年ですので市ヶ谷と結ぶためには目白通りの拡張は必要だったと思います。
同じく千登世橋の鉄筋コンクリート床鈑も竣工 昭和7年2月です。
昔、目白通りに戦車が走ったと言い伝えがあるそうです。
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- 695
- 2021/01/29(金) 20:16:07
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目白民御用達はピーコックとオーケーなの?サミットには遠征して来ないの?
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- 697
- 2021/01/29(金) 20:46:08
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>>690
結構おいしい。
グリーンカレーとカオマンガイが
おすすめ。
めん類は食べたことない。
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- 698
- 2021/01/29(金) 21:05:38
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ピーコックは生鮮食品やお惣菜はサミットやライフより値段は高いけど、その分、おいしいって聞いたけど
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- 699
- 2021/01/29(金) 21:07:59
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あと、サーヤがピーコックに買い物に来るって、聞いたことあるけど本当なのかな?
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- 700
- 2021/01/29(金) 22:06:19
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池袋寄りにすんでるサーヤに似てるナマポのおばさんかもしれん〜
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- 701
- 2021/01/29(金) 22:39:41
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>>691,694
清戸みちの旧道が一部、千登世橋の西側に残ってて、
目白通りの南側に並行する小道(以前、豊島区の出張所があった)がそのままの状態。
この周辺では一番の幹線道路だったはずの道が、あの幅しかなかったというのが、
ある意味驚きではあるね。
あの道で野菜を卸した帰りの大八車とはすれ違いたくないなぁ。
黄金ばんざい(笑)
ちなみに、千登世橋の坂は無名坂で元からあった坂の名前も不明。
2つの千登世(小)橋の間の階段あたりから、千登世橋中学の敷地に沿って坂道があった。
坂を下りきったところは、学習院下交差点よりも20mほど西に入ったところで、
中学校の敷地に沿った民有地との境になる。
高田中学校時代、登校時に千登世橋のところから石垣の上をショートカットしてるのいたなぁ。
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- 702
- 2021/01/29(金) 22:48:49
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>>701
> 清戸みちの旧道が一部、千登世橋の西側に残ってて、
> 目白通りの南側に並行する小道(以前、豊島区の出張所があった)がそのままの状態。
おお、ありがとうございます。 地図で場所が特定できました。 ここ自転車でよく通るから今度行ってみます。
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- 703
- 2021/01/29(金) 23:40:39
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山手線は本来は今の明治通りに近いルートで千登世橋辺りから巣鴨、駒込方向に抜ける予定だったが当時の技術では千登世橋辺り(鶉山?)が硬く難航しそうなため避けて低湿地の池袋方向に迂回したという話だったと思う
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- 704
- 2021/01/30(土) 01:33:29
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>>690
どこだ?わからん
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- 705
- 2021/01/30(土) 02:09:59
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>>703
それ、話を間違って覚えてる。
元々、品川〜赤羽間の路線があって(埼京線の原型)途中の目白駅もすでに開業していた。
そして、この既にある路線から山手線を引く事になって、
当初計画では目白駅から線路を分岐させ、次の駅は現在の丸の内線の新大塚駅付近に造る予定だった。
それが目白駅と付近の線路は切通しのため、駅も線路も拡張する事が難しいため、平地の池袋に分岐駅を建てることになり、
分岐が予定よりも北側になったため、次の駅も新大塚よりも北寄りの現在の大塚駅になった。
"難航しそうなため、池袋方向に迂回した"は本当だけど、目白駅付近の話で千歳橋付近の事じゃない。
ただ上記が一番有名な話だけど、他にも・・・
目白駅から新大塚駅方面へ分岐すると巣鴨監獄(現サンシャインがある場所)にあたってしまう。
省庁の管轄的に鉄道の建設を理由に監獄を移設する事が出来なかったため、監獄に被らないように線路を北寄りに変更した。
という理由も考えられると聞いたことがある。
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- 706
- 2021/01/30(土) 09:40:36
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>>701
そうなんですよね〜
あの道は細すぎますよね〜(笑)
私の中では清戸道のルートは確定してません。
江戸時代は清戸道であり明治からは高田大通りとなり大正になって目白通りとなったようです。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2009-12-13
目白坂が清戸道であるならあまりにも荷馬車とって急坂です。
神田上水(跡地は江戸川公園)の上に準街道筋の急坂の清戸道を整備するのも疑問です。
区界を大まかになぞれば目白駅二つ手前の信号を折れ学習院下通りから高田氷川神社を抜け
細川庭園そして江戸川橋のルートが荷馬車にとって楽なような気がします。
高田氷川神社辺りまで行けば神田川上水があるため
神田川を使い物流を運ぶことも可能だと思います。
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- 707
- 2021/01/30(土) 13:18:31
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>>705
当時は陸蒸気なため火災を怖れ人口の多かった雑司が谷の人達が反対した説があります。
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- 708
- 2021/01/30(土) 19:29:25
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>>704
山手線沿いのお店だと思います。
店名はそのまま「タイのラーメン」。
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- 709
- 2021/01/30(土) 21:29:55
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>>699
大分昔に何回かピーコックで見かけたことはあるな。
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- 710
- 2021/01/30(土) 23:27:33
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>>706
そのブログにある目白駅前後の南側の道は清戸みちではないよ。
鉄道の開通前、今の橋のところはごく普通の台地の末端で、
切り通しもなかったから、当然台地上の今とほぼ同じルートを通っていた。
こうした場合、わざわざ谷を降りるようなルートで道が自然発生的にできることはない。
鉄道が開通したことにより作られた取り付け道路と考えるのがごく自然。
>>701 の場所については、古い地図でルートが重なるので、ほぼ間違いない。
今は狭いけど、幹線から外れたことで、民有地に侵食された可能性も否定出来ないと思う。
目白坂については、あの程度の急坂はそれほど珍しいものではない。
たとえば、明治の改修前の九段坂や神楽坂がほぼ同じような感じで、
いずれも、一部分に階段が併設されていた。
確か目白坂も階段があったはず。
なお、神田「上水」がバリバリの現役時代に舟運はなかったはずだし、
あったとしても黄金を積むことなんて絶対に考えられない。
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- 711
- 2021/01/30(土) 23:36:49
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>目白坂については、あの程度の急坂はそれほど珍しいものではない。
あの坂に関しては、「押し屋」が坂下でたむろしてて、駄賃をもらって押してた、って話をネットで見たことがあります。
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- 712
- 2021/01/30(土) 23:44:49
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しかし、台地の農民が下町からウンコを金を払って買ってた、ってのはすごい話。
都市として極度に成熟してた、ともいえるよね。
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- 713
- 2021/01/31(日) 00:10:18
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>>706
あなたが紹介したホームページって、結局>>701の話を肯定した内容かつ、目白坂も清戸道だったという内容だよね。
このHPは、本来の清戸道は、駅の少し西から学習院の正門くらいまでは目白通りよりも、少し南側を通っていていて、
現目白署の前ぐらいで目白通りに重なるコースを通ったのではないか、と推察している。
これを目白通りと重なるのが、もう少し東側だったとすれば、>>701の話とつじつまが合う。
後、清戸道の方が神田上水よりも先に造られてる。
清戸道の再整備は江戸時代にされたけど、
原型になった道は室町時代後期にはあった。
太田道灌は道沿いに江戸城と、所沢に滝の城を築いている。
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- 714
- 2021/01/31(日) 00:13:23
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>>706
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2009-12-13
>清戸道は、練馬を経由して綾瀬の清戸(きよと)へと通じている道だから、
これ綾瀬じゃなくて清瀬じゃね?w
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- 715
- 2021/01/31(日) 01:05:53
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>>710
のぞき坂の方がよっぽど急だね
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- 716
- 2021/01/31(日) 01:29:45
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>>710
> そのブログにある目白駅前後の南側の道は清戸みちではないよ。
俺もこの意見に賛成。
ちょい北側を清戸道とすれば窪地を迂回出来るのだから。
このブログの人は歴史にすごく詳しいのになんでこんな単純なことがわかんないんだろ?
ただ、北側は徳川さまが押さえてて、清戸道は窪地を通らざるを得なかった、の可能性がちょいある。
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- 717
- 2021/01/31(日) 01:59:36
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しかし、>>706のブログの地図だと徳川ナンチャラが戸田邸ってなってますねw
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- 718
- 2021/01/31(日) 02:21:58
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あと、このブログの1907年(明治40)に作成された「逓信地図」を見ると、
今の目白通りに相当するのは、崖上の道と崖下の道があって、かなり盛り土して現在の太い目白通りになった、と想像できますね。
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- 719
- 2021/01/31(日) 17:24:13
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>>716,717
目白駅周辺だと、徳川家に関係するのは今の徳川ドーミトリー一帯の
旧感応寺周辺だけなはずだから、そういう制限はなかったはずだよ。
感応寺の創建には徳川家斉が関わってるけど、
廃寺になったあとは、雑司が谷の法明寺の寺社地になって、
あの一帯だけ、法明寺周辺と同じ雑司ケ谷旭出町だった。
徳川黎明会の敷地にある戸田邸の記念碑(?)がまた折られたらしく、
一層短くなって、わけわからなくなってたなぁ。
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- 720
- 2021/01/31(日) 18:12:14
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>>718
位置的にどちらも清戸みちの可能性があるとは思うけど、
南側の道も踏切が作れるほど掘り下げた場所ではないんじゃないかな。
そもそも、橋ができる前にあそこに踏切があったという確かな文献って存在するの?
線路高さまで掘り下げるなんて、学習院側でそれを想像するのはかなり難しい。
目白橋の周辺がかさ上げされていることは確かだけど、
たかだか1mほどで、橋の東西の標高差もやはり1mくらいしかない。
(道の分岐点、東側150m地点:31.5m、西側200m地点:30.6m 地理院地図調べ)
東から西に向かう際、下りはじめが駅の東150mほどの場所(南側の道)か、
それとも、目白橋の上(目白通り)かの違いでしかなく、
南側の道がやや早めに低くなるも、ほぼ同じくらいの高さだったとも考えられる。
これならわざわざ谷を下りてるわけではなく、自然発生的にも道ができてもおかしくない。
このように考えると、南側の道が本来の清戸みちだった可能性が高くなる。
やはり踏切の存在の有無が鍵になるかな。
鉄道開業と同時に橋ができたっていうほうが状況的に見て説得力があると思う。
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- 721
- 2021/01/31(日) 18:23:50
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>南側の道も踏切が作れるほど掘り下げた場所ではないんじゃないかな。
ああ、本来の清戸道は「ちょっとの窪地」だったのを山手線設置の都合でさらに深くしたと。
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- 722
- 2021/01/31(日) 18:50:32
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この地図で不自然なのは、「清戸道が学習院で二手に別れ今のケンタッキーあたりで合流する」です。
で、
この不自然が生じた原因は、「山手線設置のために無理矢理溝を掘った」だと思う。
つまり、
本来はキレイな1本道だったのに、「山手線設置のために無理矢理溝を掘った」で起きる不都合を解消するために、もう1本道を作った
だと思う〜
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- 723
- 2021/01/31(日) 19:09:57
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で、このブログの人の「清瀬にも火祭りがあるんじゃね?」って想像は当たってます。
清瀬の中里の火祭りがあります。
https://www.city.kiyose.lg.jp/bunkasportskankou/rekishi/saijiki/1001175.html
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- 724
- 2021/01/31(日) 19:54:39
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>>721
いや、窪地ですらなかったと思うよ。高低差1mのただのゆるい坂道。
ちなみに、学習院の石垣は谷積み(大正年間の電車線増設に伴う北側の切通や南側の築堤に施された石垣も同じ)で、
それなりに古いもののようなので、もしかしたら当時のものなのかもしれないけど、
例の道があった場所は石垣が途切れている(土中の積み方が違う)ので、
なんとなく想像ができるところが面白い。
そういえば、一昨年なくなった2代目橋上駅の石段側面の石垣も同じ積み方だったな。
電車線増設 → 従来線を貨物線 → ホームを現在の電車線に移設して橋上駅化、という流れだから、
当たり前といっちゃ当たり前なんだけど。
南側の築堤の石垣も改修で埋められちゃったし、
個人的には古い石垣とかがなくなってしまうのはちょっと寂しいよ。
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- 725
- 2021/01/31(日) 19:57:36
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>>724
なるほど。
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- 726
- 2021/01/31(日) 20:15:15
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目白にてんやは来ないよな…
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- 727
- 2021/01/31(日) 20:24:57
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2本の清戸道について、説得力のある洞察を見つけた。
踏切があったという話も出てる。
鉄道が開通した際、初代目白駅の駅舎(と改札)は現在のホームと線路上の西側の一部にあたる場所の低い位置に建てられた。
(当時は単線だったため、ここに駅舎を建てるスペースがあった。)
この時、清戸道に線路を超える跨線橋をかけたが、
橋から直接駅に降りられる階段は作られなかった。
そのため、清戸道の南側に、駅を東西から挟むようにした、駅に降りるための坂道を別に作った。
そして、この道に踏切があった。
その後、駅舎を現在のような橋上に建て替えたため、駅に向かう坂道が不要になり、坂道と踏切が廃止になった。
という事らしい。
この説だと駅直近の南側の道は清戸道とは言えないな。
http://warpal.sakura.ne.jp/yamanote/12mejiro/frame-mejiro.html
http://warpal.sakura.ne.jp/yamanote/12mejiro/frame-mejiro.html
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- 728
- 2021/01/31(日) 21:25:35
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>>727
この記事は以前読んだことあるはずなんだけど内容違うなと思ったら、
去年大幅に書き加えられたんだな。
最初の印象通り、南側の道は駅への取り付け道路ということで良さげ。
考えてみれば、拡幅前の目白橋と前後の道が直線ではなく、ややうねっている点で、
こちらが古い本来の道と考えればすんだ話だったような…
で、石垣は学習院のも含めて全部大正末期のほぼ同じ時期ということみたいで、こちらも納得。
踏切もあったようだけど、駅利用者のためということで人が通れる程度の道だったのかな?
学習院側については切り通しにしたということだろうけど、
150mで標高差6m強だから、1/25(4%)勾配で、そこそこ急な坂になるな。
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- 729
- 2021/01/31(日) 22:06:44
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>>726
大昔、松屋の場所にてんやがあったのよ。
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- 731
- 2021/02/01(月) 00:04:35
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>>726
ありがとうございます
既にあったのなら、2度目は無いですね
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- 732
- 2021/02/01(月) 17:39:09
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万豚記復活希望
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- 733
- 2021/02/01(月) 17:42:07
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ベローチェ欲しい
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- 734
- 2021/02/01(月) 23:43:36
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本屋とは言わない、せめてブックオフ
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- 735
- 2021/02/01(月) 23:54:27
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>>734
マツキヨの場所にブックオフがありましたよ。
毎日のように寄ってたから
閉店した時はかなしかった。
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